浄福寺



浄福寺本堂礼堂(外陣)(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。享保18年(1733)の建立で、梁間規制にともなう複合型本堂建築の代表例。

 浄福寺(じょうふくじ)は京都市上京区笹屋町に位置(外部リンク)する浄土宗寺院です。班子女王(853〜900)の御願寺として山城国葛野郡(京都市右京区)に建立され、中世には禅寺として三条坊門(御池通)に位置していましたが、応仁の乱で全焼。文明14年(1482)に住持となった宗清(1468〜1540)により一条村雲の地に中興して「天台浄土宗」を称しましたが、元亀2年(1571)から天正4年(1576)までの時期に浄土宗寺院となり、天正15年(1587)に相国寺の南に移転、元和元年(1615)に現在地に移転し、「京都門中十九箇寺」の一つに数えられました。


浄福寺の開創 〜伝承と史実の間〜

 浄福寺の開創年代について、はっきりとはわかっていない。開創時期については完全に不明というわけではないが、同時代の史料と、後世の伝承では全くの食違いをみせている。

 浄福寺の寺伝を記したものとしては、天正12年(1584)10月に浄福寺住持の崇林が京都所司代の前田玄以(1539〜1602)に提出した『村雲戻橋浄福寺由緒』がある。これは浄福寺が開創した平安時代より、天正10年(1582)までの浄福寺の事績を記したもので、さらに後世に編纂された浄福寺の寺誌『恵照山歴代編年略記』の祖本となったものである。

 この『村雲戻橋浄福寺由緒』について、湯本文彦(1843〜1921)は「杜撰妄謬ノ事少カラス採ルヘキモノ甚少シ」と酷評した上で、「然レ共本寺ノ沿革ニ付テハ考証ニ資スヘキ事亦少カラス」と、浄福寺の沿革について一定の考証の余地があると述べている(湯本文彦『京都府寺誌稿』25)

 湯本文彦がこのように述べたのには、同時代の史料によって確実に『村雲戻橋浄福寺由緒』の述べることの誤りを指摘することができるにもかかわらず、しかしながら同時代の史料の内容は極めて断片的であり、浄福寺の歴史を再現する上ではあまりにも不足しているからである。

 例えば、鎌倉時代前期に成立した『伊呂波字類抄』(十巻本)には、「諸寺」という項目があり、当時の代表的寺院が列挙され、簡略な縁起が掲載されている。浄福寺も『伊呂波字類抄』の「志(し)」の諸寺の項に以下の記事がある。

 浄福寺 格に云わく、当寺の僧を以て、三会の聴衆ならびに二会の輪転立義(りゅうぎ)一人を請ずること、安祥寺の例に准ずべきの状、官符の下知先に畢んぬと云云。
 円城寺の下にあり。東院皇后宮の御願を下して、これに定額僧四口を置く。弘仁格に云わく、山城国葛野郡に道場を建立す。勅ありて額を賜いて浄福寺という。国司に下知して定額に列し、尊像を安置すと云々。

 この記事からは、浄福寺が東院皇后(班子女王)の御願によって定額僧4口(人)が置かれたこと、弘仁格の引用文によって山城国葛野郡(京都市西部)に道場を建立し、浄福寺の勅額を賜ったこと、この寺院が定額寺となったことなどが知られる。しかし弘仁格は現在逸しており、その構文の抄目である『弘仁格抄』には浄福寺に言及した格文があると推定することは不可能であり、かつ『類聚三代格』にもととなった格文〈寛平8年(896)3月2日官符〉がみられることから、延喜格引用の誤りである(中井1994)

 『村雲戻橋浄福寺由緒』によると、延暦12年(793)に賢憬(714〜93)が勅によって新都(平安京)の地相を見るため山城国愛宕郡・葛野郡を視察していた際、釈迦如来像を拝見し、桓武天皇に報告すると、天皇は歓喜し、遷都の後に堂舎を建立して浄福寺としたという。開山は一誓で、南都(奈良)興福寺の僧で、仁寿2年(852)4月7日に示寂し、その後、福業・法忍・愍流と住持が4代続いたとする(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 このような『村雲戻橋浄福寺由緒』の縁起は、いずれも同時代の史料にはみられないものである。例えば賢憬が新都の地相を視察したことは、鎌倉時代の僧伝『元亨釈書』にみえるものの(『元亨釈書』巻第12、忍行5、興福寺賢憬伝)、平安時代における他の史料にはみえない。

 賢憬は尾張国(愛知県西部)人で、俗姓を荒田氏といった(興福寺本『僧綱補任』宝亀5年条、賢憬尻付)。興福寺の宣教に師事して法相宗を学び(『元亨釈書』巻第12、忍行5、興福寺賢憬伝)、天平16年(744)に道融が『六巻抄』を講じた際、賢mと永教は複師となっている(『東大寺要録』巻第6、諸宗章第6、華厳宗、東大寺華厳別供縁起)

 天平勝宝6載(754)2月3日に唐より到着した鑑真(688〜763)を河内国庁に迎えている(『東大寺要録』巻第4、諸院章第4、戒壇院、大和尚伝云)。天平勝宝7年(755)に鑑真の三師七証による受戒に反対し、『占察経』を引用してそれまでの自誓受戒の正統性を主張したが、思託(生没年不明)に『瑜伽論』決択分第53巻をもとに論破され、鑑真の三師七証による受戒を受けることとなった(『日本高僧伝要文抄』第3、高僧沙門釈普照伝)。天平宝字2年(758)8月に鑑真による招提寺(唐招提寺)建立に際して大蔵経5048巻を書写して奉納した(『元亨釈書』巻第22、資治表3、天平宝字2年8月条)。天応年間(781〜82)には大安寺戒明(生没年不明)が唐より請来した『釈摩訶衍論』を検勘して偽論と判定している(『守護国界章』巻上之中、弾麁食者謬破四教位章第6)

 宝亀年間(770〜81)に東宮(後の桓武天皇)が不預(病気)の際、宀一山(後の室生寺)にて浄行の僧5人を屈請し、山中で延寿法を修させたところ、恢復したため、賢mが山寺の建立を開始したという(『宀一山年分度者奏状』)。これにより皇太子であった後の桓武天皇との知己を得たとみられ、以後、宝亀5年(774)2月24日に律師となり(『続日本紀』巻33、宝亀5年2月癸巳条)、延暦3年(784)6月9日には大僧正となるなど(『続日本紀』巻38、延暦3年6月戊申条)、僧綱内での地位を増していく。延暦4年(785)4月6日には最澄授戒の僧綱牒に名を連ねている(「僧綱牒」来迎院文書〈平安遺文4284〉)。延暦12年(793)正月1日に延暦寺文殊堂供養の講師を務め(『叡岳要記』巻上、文殊堂供養)、延暦10年(791)に延暦寺虚空尾本願堂の供養に屈請された(『叡岳要記』巻上、本願堂)。延暦12年(793)正月、藤原小黒麻呂(733〜94)・紀古佐美(733〜97)・賢mに新都選定のため視察を命じている(『元亨釈書』巻第23、資治表4、延暦12年正月条)。この年10月7日に示寂した(興福寺本『僧綱補任』延暦12年条、大僧都賢憬尻付)

 賢憬の経歴は上記の程度しか確認できず、そのため『村雲戻橋浄福寺由緒』において、賢憬が新都視察の際に釈迦如来像を得たするのは、釈迦如来像請来縁起に付随させた牽強付会とみられる。さらに開山一誓以下、福業・法忍・愍流らいずれも同時代の史料において確認することができず、『村雲戻橋浄福寺由緒』が述べる浄福寺の開創縁起は、ほとんど史実とは認めがたい。


室生寺五重塔(平成22年(2012)6月24日、管理人撮影)。室生寺は賢憬が建立した山寺である。

浄福寺の年分度者

 より浄福寺の確実な建立年代として、9世紀後半が考えられている。延喜7年(907)5月2日の官符に、「それ浄福寺は、東院皇后(班子女王)の御廟にして、定額僧(じょうがくそう)四口、聴衆・立義(りゅうぎ)おのおの一人を置く」(『類聚三代格』巻第2、延喜7年5月2日官符)とあるように、班子女王(853〜900)の御願として建立されたことが知られる。

 班子女王は、仲野親王(792〜867)の王女であり、桓武天皇の孫にあたる(『日本三代実録』巻14、貞観9年正月17日戊午条)。母は当宗氏である(『大鏡裏書』皇太后宮班子女王御事)。仁明天皇の第3皇子時康親王の夫人となっていた(『日本三代実録』巻14、貞観9年正月17日戊午条)。時康親王は仁明天皇の皇子ではあったものの、文徳天皇・清和天皇・陽成天皇と即位するに及んでは皇位継承の望みは薄かったものの、位は一品、食封は6,000戸にのぼり、最有力の皇族であった。陽成天皇が藤原基経によって廃位されると、皇位を継承(光孝天皇)した。

 これにともなって元慶8年(884)2月26日に班子女王は従四位下から従三位に昇り(『日本三代実録』巻45、元慶8年2月26日丁巳条)、元慶8年(884)4月1日には女御となった(『日本三代実録』巻45、元慶8年4月辛卯朔条)。さらに仁和3年(887)正月8日には従二位となった(『日本三代実録』巻50、仁和3年正月8日壬午条)

 光孝天皇は皇位継承の可能性が低かったにもかかわらず天皇となったため、即位以前の不遇説話が生み出された。自ら炊事して薪で煤けた部屋を黒戸として保存したといい(『徒然草』第176段)、また町の人より多くの物を借用しており、即位すると町の人が参内して返却するよう責め立てたため、宮中納殿の物で返却したという(『古事談』巻第1、王道后宮、第6節)。また陽成天皇退位して、次帝を選定していた藤原基経が時康親王(光孝天皇)の邸宅に赴くと、邸宅の御簾は破れており、時康親王はへり破れた畳に座っていたという(『古事談』巻第1、王道后宮、第5節)。班子女王もまた市に出て物を買っていたため、光孝天皇が即位した後も一日に一度は「物が買いたい」といって市巡りをしていたという(『世継物語』第52段、陽成院退位し小松天皇位につき給ふ時の事)

 光孝天皇が崩御すると、班子女王の子でもある宇多天皇が即位した。即位を実施した仁和3年(887)11月17日には班子女王は皇大夫人となり(『日本紀略』前篇、仁和3年11月17日丙戌条)、仁和4年(888)8月27日には光孝天皇のために法華経を読誦している(『日本紀略』前篇、仁和4年8月27日条)。醍醐天皇の即位にともなって、寛平9年(897)7月26日には皇太后となった(『日本紀略』後篇、寛平9年7月26日条)。なお後年、藤原穏子(885〜954)が藤原師輔(909〜60)に語ったところによると、醍醐天皇へは班子女王の娘である為子内親王(?〜899)が妃となり、醍醐天皇が元服した夜、班子女王とともに参内していた。藤原基経の娘穏子も入内予定であったが、宇多上皇は母班子女王の命を受け、穏子の入内を停止させた。その後為子内親王が産褥のため薨去すると、班子女王は、穏子の母が怨霊となって取り憑いたという噂を信じ、さらに穏子の入内を停止させたという(『御産部類記』2、所引、九条殿記、天暦4年6月15日条逸文)。班子女王は昌泰3年(900)4月1日に崩じた(『日本紀略』後篇、昌泰3年4月1日戊午条)。同月4日に葛野郡頭陀寺の付近に葬られた(『日本紀略』後篇、昌泰3年4月4日辛酉条)

 浄福寺を建立したのは班子女王であることは間違いないのであるが、建立年・建立場所などの詳細はわかっていない。最初に浄福寺が歴史上に登場するのは寛平8年(896)3月2日の太政官符においてである。

 それによると、浄福寺は班子女王の発願によって山城国葛野郡(京都市西域)に道場を建立し、勅額を賜わり浄福寺と号した。国家より山城国司に下知があり、浄福寺は定額寺に列せられた。浄福寺では尊像を安置し、経典を収蔵し、燈分・僧供・修理等の料が施捨されており、老いも若きも多くの僧が住み、学業は師資相伝され、顕密が修学されていた(『類聚三代格』巻第2、寛平8年3月2日官符)。そのため、浄福寺を建立した班子女王は、中宮職を通じて、朝廷より浄福寺に対して毎年2人を得度させるよう、申請していた。

 古代の仏教は国家のために奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称される。そのため律令制下の仏教は国家の統制を受けて国家のために祈祷する存在であった。寺院や僧は官僚の統制を受けたが、出家・得度自体も非常に強い国家の管制下にあった。

 そもそも得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥(しゃみ)になることをいうのであるが、それは国家よりみれば租税徴収対象が減員するだけであり、出家者は極力減らす必要があり、また一元管理する必要があり、そのため得度者の人数には制限が加えられた。換言するならば得度というものは、官僚からみれば戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に彼らは国家の厳重な管理下に置かれた。そして僧尼の刑罰は一般民衆に適応される刑法典「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められており、重科の場合のみ僧籍を剥奪されて民部省の戸籍に復帰し、その後「律」で裁かれた。

 得度者(度者)の人数には制限が加えられたことは前述したが、得度者は毎年一定数のみ許可されていた。そのことを年分度者という。奈良時代では最大10名が許可された。延暦17年(798)9月に年齢制限を加え、試験制度(年分度試制)が導入されている。延暦22年(803)正月には法相・三論両宗から5名づつと変り、延暦25年(806)正月には最澄の上表によって、宗派・寺院ごと合計12人の定員が設けられた。それ以降、寺院ごとに年分度者設置の申請があり、年分度者数はうなぎ登りに増加した。

 班子女王の浄福寺もまた年分度者を申請していた。その時模範としていたのが、五条皇后(文徳天皇母)こと藤原順子(809〜71)が発願した安祥寺であった(『類聚三代格』巻第2、寛平8年3月2日官符)

 安祥寺は貞観元年(859)4月18日に年分度者3人を得ているが、この度者は六年の修行の後、試業・複試・立義に相当する業を行うこととしていた(『類聚三代格』巻第2、貞観元年4月18日官符)。これこそ「階業」であり、安祥寺以降の御願寺の多くが階業を採用することになり、浄福寺も同様に採用を目指していた。


浄福寺東門(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。天正15年(1587)建立とされるが、19世紀に大規模な改造を受けている。

浄福寺と階業

 階業とは諸国講読師任用のための、一種の任用基準である。諸国講読師とは、中央より地方に派遣された講師(こうじ)・読師(とくし)のことであり、うち講師は講経をもって仏法興隆に努める僧のことで、国分寺に置かれていた。かつては国師と称し、講経のみならず国内寺院僧尼を監督をも行っていたが、延暦14年(795)に講師に改称され、講経のみの終身役職となり、延暦24年(805)には任期が6年となった。読師もまた、講師・国司と共に国分寺・国内諸寺の仏事や監察を行うもので、延暦14年(795)に設置され、後に6年の任期制となった。

 諸国講読師に任ぜられることは、僧綱位への近道であったが、既得権益となってしまい、素質に問題のある者が任用されることもあったらしい。そのため斉衡2年(855)8月23日には、講師は五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)、読師は三階(試業・複・維摩立義)の「階業」を経なければ任用できないこととなった(『類聚三代格』巻第3、斉衡2年8月23日官符)

 浄福寺では年分度者が二人設置されており、一人は天台宗、もう一人は法相宗であった。天台宗は法花経一部・金光明経一部・摩訶止観一部を読むことが規定されており、法相宗では法花経一部・最勝王経一部・瑜伽師地論一部を読むこととなっていた(『類聚三代格』巻第2、寛平8年3月2日官符)。これらの年分度者への読誦規定経典は、すなわち課試されることとなっており、浄福寺では判例となっていた安祥寺の例にならって、これを試業としていた。

 複試についてはただ「複以下の業、寺家においてこれを果す」とするのみで(『類聚三代格』巻第2、寛平8年3月2日官符)、例とした安祥寺でも「ただし複以下の業、本寺例に拠りて課試す」とするのみであるから(『類聚三代格』巻第2、貞観元年4月18日官符)、その実態は不明である。また安祥寺の例にならって維摩会・最勝会において立義(設問者)となることになっている(『類聚三代格』巻第2、貞観元年4月18日官符)。維摩会・最勝会での立義者は伝燈満位に叙せられることとなっており(『延喜式』巻第21、玄蕃寮、竪義)、貞観7年(865)4月15日には伝燈満位以上の僧を諸国講読師に擬補(候補者)することが定められているから(『類聚三代格』巻第3、貞観7年4月15日官符)、これらの課試をへた者は諸国講読師に任用への道が開けたのである。これによって浄福寺は読師三階(試業・複・維摩立義)を獲得することができた。

 さらに昌泰2年(899)10月3日には、皇太后宮職は安祥寺の先例のうち、浄福寺が申請していなかった分として、三会(さんね)の聴衆があったことから、浄福寺の僧から三会の聴衆を毎年請用することを申請している(『類聚三代格』巻第2、昌泰2年10月3日官符)。三会とは興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会のことで、聴衆は問者(質疑を発しその義を課試する者)を兼任するが、本来、問者は三会の講師を歴任した已講(いこう)がなるものであり、聴衆は已講と同様の権威を有していたが、已講が貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、貞観3年(861)に安祥寺より維摩・最勝両会の聴衆・立義が出るようになって以来(『類聚三代格』巻第2、貞観3年4月13日官符)、各寺より聴衆・立義の申請が相継いだため、貞観18年( 876)に聴衆から選ばれていた立義者を聴衆から分離させ、新たに聴衆を諸寺の智者・名僧から選ぶことになった(『類聚三代格』巻第3、貞観18年9月23日官符)。講師や他の読師・呪願・法用などとは異なって、聴衆は多く請用されており、例えば宮中御斎会では講師・読師・呪願がそれぞれ1人、法用は4人であったのに対して、25人が請用されていた(『延喜式』巻第21、玄蕃寮、御斎会)

 この三会の聴衆に浄福寺の僧を毎年請用することは認可されたものの、維摩会・最勝会の立義者については、輪転請用とされ、その班位は円成寺の次とされた(『類聚三代格』巻第2、昌泰2年10月3日官符)。延喜3年(903)3月5日には最勝会の立義者の浄福寺僧からの請用は毎年に変更されたが(『類聚三代格』巻第2、延喜3年3月5日官符)、延喜7年(907)5月2日には仁和寺の申請により、三会の聴衆、維摩会・最勝会の立義者は、円成寺・浄福寺・仁和寺の3寺からの輪転請用に変更された。


浄福寺南門(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。明暦3年(1657)の建立。

平安時代における浄福寺の運営実態

 古代における浄福寺の位置であるが、詳細はわかっていない。浄福寺の寺誌『村雲戻橋浄福寺由緒』によると、延喜19年(919)に類焼のため焼失し、速やかに再建の沙汰が下ったものの、天徳4年(960)9月の内裏炎上に際して類焼し、旧名のみ残る有様であった。そこを比叡山の良源が西坂(雲母坂)の下に移転し、伝教大師最澄自作の地蔵尊像を安置した地蔵堂を本堂とし、そのほかの諸堂舎を造営したという(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 この延喜19年(919)の類焼は、『恵照山歴代編年略記』に延喜14年(914)のこととするから、『日本紀略』に同年5月2日未刻に、「東京一・二両条、大焼失あり。舎宅617烟、入道三宮・小野宮・東洞院宮(故班子女王)等なり」(『日本紀略』前篇、延喜14年5月2日戊戌)とあることによって、浄福寺は左京の一二条にあったとみなす見解がある(中井1994)

 ところで左京一二条は現在の京都市中京区清水町に相当しており、ここは愛宕郡となる。班子女王が建立した浄福寺は山城国葛野郡(京都市西域)に位置したというからには(『類聚三代格』巻第2、寛平8年3月2日官符)、葛野郡のいずれかの場所を推定する必要があろう。

 浄福寺は「東院皇后(班子女王)の御廟にして」(『類聚三代格』巻第2、延喜7年5月2日官符)とあるように、班子女王の廟所として位置付けられていた。班子女王の陵所は不明であるが、昌泰3年(900)の崩御にあたって、葛野郡頭陀寺の付近に葬られている(『日本紀略』後篇、昌泰3年4月4日辛酉条)。『延喜式』諸陵寮に班子女王の陵墓の記載がないことから、当時隆盛していた薄葬を遺命したのかもしれない。この頭陀寺について詳細は不明で、東大寺はこの頭陀寺について「頭陀寺 山城国高野(葛野)郡にあり」として末寺扱いしていたが(『東大寺要録』巻第9、末寺章第9、頭陀寺)、もっとも東大寺は仁和寺・醍醐寺・勧修寺・金剛峰寺ですら末寺とみなしていたから、実態性のあるものではなかったらしい。

 京都市右京区宇多野福王子町(旧鳴滝村)に位置する福王子神社の祭神は班子女王で、このことから近世の京都の地誌では、頭陀寺は鳴滝村に位置したとみている(『山城名勝志』巻之8、葛野郡部2、頭陀寺)。ただし福王寺神社は寛永年間(1624〜44)に移転するまで、現在地よりも西側に位置していたといい(『本寺堂院記』)、現在の福王子の場所には恵命院、およびやや北側に皆明寺が位置していた(上村2004)。いずれにせよ、頭陀寺と福王子神社の関係性は不明というしかなく、頭陀寺の位置についてはわかっていない。鳴滝村に「御坊内」という字(あざ)があり、これが頭陀寺の跡であるといい(『山城名勝巡行志』第4、葛野郡、頭陀寺)、また村上天皇陵などがある鳴滝村の御廟山に班子女王の陵があったともいう(『山城名勝巡行志』第4、葛野郡、皇太后班子陵)

 「廟所」としての浄福寺と、「葬所」としての頭陀寺は、詣り墓と埋め墓といった、いわゆる両墓制の観点から見て、完全に別物としてみるべきかもしれないが、一方で、頭陀寺が班子女王に関連する全く別個の寺院であった可能性もある。班子女王の父仲野親王は、娘班子女王の子(宇多天皇)が即位すると、一品太政大臣を追贈されており(『日本三代実録』巻14、貞観9年正月17日戊午条、仲野親王薨伝)、その墓所は「高畠墓」といい、山城国葛野郡に位置したが、『延喜式』では「近墓」とされ、墓戸1烟が置かれていた(『延喜式』巻第21、諸陵寮、高畠墓)。現在は京都市右京区太秦垂箕山町に位置する前方後円墳が治定されているが、この古墳は仲野親王の時代よりもはるかに古いものであって、本来的には仲野親王墓とは関係がない。仲野親王の「高畠墓」の位置は不明であるが、班子女王が頭陀寺付近に葬られたのは、頭陀寺が仲野親王の「氏寺」的なものであり、仲野親王高畠墓の墓寺的存在であった可能性がある。すなわち仲野親王の娘班子女王が頭陀寺付近に葬られたのは、「氏寺」として頭陀寺が位置していたからで、浄福寺もまた班子女王の陵寺として、頭陀寺付近に位置していたのかもしれない。

 延喜元年(901)10月22日、宇多法皇は亡母班子女王のために、浄福寺において一切経を供養している(『日本紀略』後篇第1、延喜元年10月22日条)。この法会中に宇多法皇は増命(843〜927)に対して三礼しており、公卿を驚かせた(『扶桑略記』第23、延喜元年10月23日条)。増命は天台宗の僧で、智証大師円珍(814〜91)の門弟であった。浄福寺は天台宗業の年分度者を獲得しているが、智証門下の影響力が強かったらしく、増命のみならず、浄福寺の「四禅師」として、智証門下の京意(859〜?)がいた(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)

 京意は円珍の弟子で、比叡山山王院の経蔵の専当であり、後に釈迦堂五僧に補任され、内供阿闍梨に就任した。延長3年(925)には兄弟子の増命より三部大法職位を受けている(『寺門伝記補録』第15、僧伝部巳、非職高僧略伝巻上、京意伝)。浄福寺四禅師に就任した年月日は不明であり、延喜2年(902)11月の時点で見任(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)という以外は不明である。浄福寺四禅師の実態も不明であるが、宝亀3年(772)に設置された十禅師は、後に内供奉十禅師となり、禅行に優れ、持戒などの清浄な修行により呪力優れたとされる僧が任じられるようになっていた。内供奉十禅寺以外にも、禅師職は多く設置され、例えば天台宗では総持院十四禅師・定心院十四禅師が設置され、国家仏教を形成するシステムの一部として、鎮護国家・玉体安穏などを専らに祈祷していた。班子女王の御願として建立された浄福寺もまた、班子女王の生前は、発願者たる班子女王自身、あるいは子の宇多天皇の護持を行ない、班子女王の崩後は追善を行うため、四禅師が設置・選定されたとみられる。

 延長4年(926)12月19日、宇多法皇の六十算に際して、宝寿を増すための修法料として、浄福寺に絹50疋が施入されている。この時浄福寺は東寺・西寺・延暦寺・東塔(延暦寺)・仁和寺・円成寺とともに「京辺の七箇寺」に数えられており、南都七大寺よりも派遣される使者の叙位、供物の料は多かった(『扶桑略記』第24、延長4年12月19日壬寅条、醍醐天皇宸記逸文)

 このように平安京における大寺の地位を確立した浄福寺には、「浄福寺料」として、近江国(滋賀県)の正税、および備前国(岡山県東南部他)の正税がそれぞれ7,000束が計上されており、延長5年(927)撰上の『延喜式』において規定されることとなった(『延喜式』巻第26、主税上、諸国本稲、近江国正税。および『延喜式』巻第26、主税上、諸国本稲、備前国正税)。正税は律令制下における諸国の官稲で、穎稲(えいとう)と稲穀からなっていた。うち稲穀は賑給など緊急・特殊用途以外の使用が禁止されていたから、ここでみる正税は穎稲のことである。穎稲は出挙によって運営されていた。出挙は、穎稲(モミがついたままの稲穂)を強制的に貸し付けし、収穫時期に5割(後に3割)にものぼる高い利息とともに回収する制度であった。すなわち浄福寺の場合は、近江・備前両国あわせて14,000束を収穫期に利息(3割)とともに回収すると21,000束となり、利息分(利稲)の7,000束を浄福寺の運営費として用い、残り14,000束(近江・備前両国合計しているから一国あたり7,000束)は翌年の出挙のための穎稲(本稲)として回収し、もし出挙に不足が出た場合は、公廨から補填された。

 ところが律令制度は時代が進むにつれ、民の疲弊、弛緩が目立ち、例えば備前国の隣国備中国の邇磨郷(岡山県倉敷市真備町)では、天平神護年間(765〜67)の課丁は1,900余人、貞観年間(859〜77)初頭には70余人、寛平3年(891)には9人、延喜11年には無人となっていた(『本朝文粋』巻第2、意見封事、意見十二箇条)。また出挙も水害・旱魃などの災害に対して脆弱であり、利息のみならず、貸し付けした本稲自体すら回収できなくなることもあり、率稲制(本稲を回収せずに利稲のみを回収する方式)への移行を促進した。

 出挙の回収が出来なくなると、式文に規定される正税の減額が国司より申請される事態に陥った。これを減省というが、減省は一年間のみ特例として認められたものであり、その国は用残(正税の利稲の残余)を増額出挙(加挙)して貸し付けした本稲を補填することとしていた(『類聚三代格』巻第14、延喜5年12月25日官符)。浄福寺料もまた、『延喜式』撰上以前の延長2年(924)8月10日には近江・備前国の浄福寺仏聖・僧供・燈分・修理料米の減省が実施されているが(『北山抄』官奏事、続文例、減省雑物事)、この時中央は右大弁藤原朝臣邦基(875〜932)を通じて、近江・備前両国に対して、浄福寺仏聖僧供・ならびに燈分・修理等の料米の減省を申請しないのであれば、加挙解文を返却し、申請を取り下げるように申し渡しており、これが寛弘元年(1004)の段階においても減省解文言上の先例として取り上げられている(『朝野群載』巻第26、諸国公文中、減省国解文、土佐国申減省解文)。またたびたび浄福寺料は減省になることが多かったらしく、応徳3年(1086)12月29日に備前国は浄福寺利米81斛8斗4升(約14立方メートル)を加挙しているが(『朝野群載』巻第27、諸国公文下、惣返抄四通、主計寮雑米惣返抄)、これは浄福寺分が減省となったことを指しており、加挙によって不足分の補填を試みたものである。

 永祚2年(990)8月4日に積善寺の伝法潅頂阿闍梨に浄福寺別当の玄寿(933〜?)が補任されている。玄寿は承観阿闍梨(生没年不明)の弟子で、三部大法を受習していた(「太政官牒」京都大学所蔵平松文書)。この玄寿について詳細は不明であるが、永延元年(989)5月4日に延暦寺東塔で実施された藤原実資(957〜1046)の亡室の周忌法会の散花を務めており(『小右記』永延元年5月4日条)、比叡山の僧侶であったらしい。師の承観もまた天元5年(982)3月27日に阿闍梨に補任されたこと以外はわかっていないが(『小右記』天元5年3月27日条)、天台僧であることは間違いなさそうである。

 寛弘元年(1004)3月7日、春季御読経において僧綱の数が多いため、安祥寺・浄福寺の出仕が停止されており(『御堂関白記』寛弘元年3月7日条)、永長元年(1096)8月27日に郁芳門院(1076〜96)の三七日法事において、醍醐寺・極楽寺・清水寺・勧修寺・広隆寺・常住寺とともに、浄福寺が諷誦に預かっている(『中右記』永長元年8月27日条)

 その後の浄福寺については何もわかっていない。寺伝によると、兵火のために諸堂はすべて焼失したため、本尊・什物などは法勝寺に安置していたという。さらに北条政子(1157〜1225)の御願によって承久元年(1219)に将軍頼経(1218〜56)が鎌倉に下向した際に、本尊も鎌倉に移座したという。本尊は北条家代々、持仏堂に安置したという。その後浄福寺は建治2年(1276)に村雲の地に再建され、当国和尚を開山とし、かつてのように定額に預かり、勅願寺に定められたというが(『村雲戻橋浄福寺由緒』)、開山・再建場所ともに後述の通り史実ではない。


福王子神社(京都市右京区宇多野福王子町)と御廟山(左奥)(平成24年(2012)8月5日、管理人撮影)。福王子神社は班子女王を祭神とし、御廟山には班子女王の陵があったという。

仏燈国師約翁徳倹 〜その@〜

 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、浄福寺は禅寺となっていた。その詳細な時期について不明であるが、この頃の史料として浄福寺文書中に康永3年(1344)3月9日付の「足利直義祈願状」がのこされている。

 これは浄福寺住持の月窓元暁(?〜1362)が、浄福寺を足利直義(1306〜52)の祈願所とするよう申請していたことに対する認可であり、この認可には真如寺住持の月翁元規(?〜1342)の吹挙(推薦)が大きな力を預かっていた。月窓元暁の申状によると、浄福寺は「仏燈国師門徒相紹(相承)の寺院」であり、「住持三・四代の証跡、すでに連綿」であったという(「足利直義祈願状」浄福寺文書〈『大日本史料』六編八〉)。浄福寺は仏燈国師、すなわち約翁徳倹(1245〜1320)の法嗣ら(仏燈派)のみが住持となる度弟院(つちえん。特定の法脈の禅僧のみが住持となる寺院)であり、すでに住持は3・4代続いていたことが知られる。

 当時住持であった月窓元暁は約翁徳倹の法嗣であることはいうまでもないが、吹挙した月翁元規もまた約翁徳倹の法嗣であり、暦応年間(1338〜42)初頭に上野国の長楽寺の住持となり、その後真如寺住持となっていた。月翁元規は康永元年(1342)11月5日に示寂しているから(『延宝伝燈録』巻第16、京兆真如月翁元規禅師伝)、吹挙から認可まで2年以上経過したことになる。浄福寺が仏燈派の度弟院寺院であったということは、すなわち浄福寺が禅寺となるにあたって、約翁徳倹が中興開山となったことを意味している。

 約翁徳倹は鎌倉の人である。道端の捨て子であったが、ある人が拾って連れ帰って義子として養なった。幼い頃から他の子どもとは異なっており、僧を見ると必ず敬い、仏像を見ると必ず礼拝した。13歳の時、義父に連れられて建長寺を通り過ぎると、建長寺開山の蘭渓道隆(1213〜78)の眼に止まり、蘭渓道隆が義父に告げたことによって、童行(ずんなん。幼年で寺に入った未得度者)となって蘭渓門下に入った(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 約翁徳倹は16歳で出家落飾し、東大寺にて具足戒を受戒した。この頃蘭渓道隆が京都建仁寺の住持となると、再度蘭渓のもとに参じた。蘭渓が約翁に「雪千山を覆う、なんとして孤峰白からざる(雪は山々を覆っている時、一つの山が白くない)」について問いかけると、約翁は「毒龍行くところ草生えず」と答え、蘭渓はこれをよしとした。蘭渓はある人に「倹(約翁徳倹)はまだ19歳だが、さらに30年たてば、天下を覆う者となろう」と述べたという(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。蘭渓は渡来僧であり、彼の渡来以前、日本の禅宗は密教と兼学する兼修禅が主流であった。蘭渓の登場により、一挙に純禅化へと向かうが、それだけに敵対視する勢力も多く、蘭渓の建仁寺住持も3年ほどで退任せざるを得なくなる。

 蘭渓が鎌倉建長寺に再住すると、約翁もこれに従ったが、数年後さらに極めに究明しようと宋に渡航した(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。蘭渓は建長寺に戻って間もなく、流言によって甲斐国(山梨県)に配流となっている(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、宋国道隆伝)。約翁の渡宋は、蘭渓の流刑によって師とする者を失ったことにあるらしい。約翁は宋に到着するや天台山に行き、その後まず四明(寧波)阿育王寺の寂窓有照(生没年不明)に参じ、ある時は天童寺の石帆惟衍(生没年不明)、杭州浄慈寺の東叟仲頴(生没年不明)、霊隠寺の虚舟普度(1199〜1280)、径山寺の蔵叟善珍に参じた。さらに他にも簡翁居敬(生没年不明)・覚庵夢真(生没年不明)に参じており、彼らからその器重を評された。また当時名声を馳せた晦機元熙(1238〜1319)・一山了万(?〜1312)・末宗□本(生没年不明)・寂庵□相(生没年不明)と交友があった。在宋すること8年、時代は南宋末期にあたり、戦乱の余波が禅林にもおよんで紛糾するにいたり、帰国を決意した(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 帰国した頃には蘭渓道隆は流刑を赦され、建長寺に戻っていた。約翁徳倹は蘭渓のもとに戻った。蘭渓は「お前はついに戻ってきたか」と大喜びしたという。蘭渓が寿福寺住持になると、約翁は焼香侍者となり、その後蔵主となった(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。弘安元年(1278)4月に蘭渓は建長寺住持に復帰し(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、宋国道隆伝)、約翁もまた蘭渓とともに建長寺に戻り、蔵主をつとめた(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。この年7月24日に蘭渓は示寂し(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、宋国道隆伝)、師を失った約翁は建長寺と円覚寺を往来し、大休正念(1215〜90)・無学祖元(1226〜86)に参じてあつく称讃された(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。その無学祖元の書記をつとめていた時期もあり、弘安6年(1283)3月に無学が東漸寺の明窓宗鑑に招かれた際に随行しており(「東漸寺詩板」)、また約翁のつくった梅の詩に無学が戯れて唱和している(『仏光国師語録』巻第9、拾遺雑録、偈頌、戯和約翁梅詩)

 その後約翁徳倹は建長寺の首座となっていたが、永仁4年(1296)に鎌倉に新たに建立された長勝寺の開山に招ぜられた(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。同年3月27日、建長寺の看座寮にて要請を受けた。同29日に建長寺西来庵を出て、建長寺の法堂に赴き、建長寺住持の葦航道然(1219〜1301)が座を引き、その場で約翁は陞座を行なった。その後、長勝寺の山門に入って仏殿に行き、法堂で蘭渓道隆に拈香して、自身が蘭渓の法嗣であることを表明した(『仏燈国師語録』巻上、仏燈国師約翁和尚開山相州長勝禅寺語録)


鎌倉建長寺仏殿(平成17年(2005)1月17日、B氏撮影)  

仏燈国師約翁徳倹 〜そのA〜

 約翁徳倹はその後、東勝寺・浄妙寺の住持となり(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)、徳治元年(1306)12月30日に建仁寺住持となり、入山した(『仏燈国師語録』巻上、平安城東山建仁禅寺語録)。約翁が建仁寺に入寺すると、後宇多太上天皇が彼を慕い、詔して京都西郊にあった御所に招き、禅に関する質問を行っている。そのため藤原良教(二条教良)の旧宅を約翁の寿塔とした。これが牧護庵である(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 後宇多上皇は、大覚寺を中興するなど、真言密教に帰依したのみならず、その担い手でもあったが、嘉元・徳治年間頃は禅宗にも興味関心を持っていた。嘉元3年(1305)に南浦紹明(1235〜1308)は後宇多上皇の詔を奉って入京し、上皇と問答した。これによって上皇は南浦紹明に帰依し、南浦紹明を万寿寺の住持とした。また後宇多上皇は東山の地に嘉元寺を造営し、南浦紹明を開山としている(『円通大応国師塔銘』)。この嘉元寺について他に知られることはないが、応永27年(1420)12月付の根外宗利の消息(書簡)によると、後宇多天皇は南浦紹明を祖として嘉元寺を造営したが、南浦紹明は幾ばくもしないうちに建長寺の住持となって去り、翌年に示寂してしまった(『正法山誌』第4巻、詩偈、根外跋)。約翁徳倹が後宇多上皇の関心を惹いたのはこの頃とみられる。しかし後述するが間もなく京都を去り、後宇多上皇の建立した嘉元寺は、はからずして台徒(延暦寺の僧)によって破却され、元亨4年(1334)に通翁鏡円(1267〜1334)と宗峰妙超(1282〜1337)が延暦寺・園城寺・東寺・南都諸宗が論戦を行なうことによって日本で禅宗が確立されて以降も再建されなかったという(『正法山誌』第4巻、詩偈、根外跋)。また康永4年(1345)付の山門申状によると、叡山は、禅寺造営について叡山末寺とすることを主張した上で、「さからうと創建は不可能であり、嘉元寺はその事例である」と恫喝している(『後鑑』巻13上、貞和元年7月3日条)。このように嘉元寺は南浦紹明が去った後に叡山によって破却されてしまっている。これ以後、後宇多上皇が以前のような関心を禅宗にむけることなく、真言密教へと回帰することになる。

 延慶2年(1309)8月、約翁徳倹は建仁寺住持を辞して、関東に戻った(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)。延慶3年(1310)正月23日、建長寺再住の要請を西来庵で受け、同年2月8日に同寺に入寺した(『仏燈国師語録』巻中、相州巨福山建長興国禅寺語録)。約翁はかつて夢に建長寺を通りかかると、大きな龍が寺の門に横たわっており、にわかに男の子に化けると、「弟子はあなたのために檀越となろう」といい、隠れた。2月8日に建長寺に入寺したが、たまたま龍神の誕生日であったため、人は前の夢を予兆とみなし、そこで約翁の退去寮は「龍峰」と扁された。建長寺は約翁にとって受法の地であったため、学究の地とすべく、盛んに討論や経典研究を行った。ゆえに世人は蘭渓の宗風を受け継ぎつつも、出藍の誉れがあると称した(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 正和4年(1315)7月、建長寺が焼失し、約翁徳倹は再建に尽力したが、11月に建長寺住持を辞した。文保2年(1318)春に後醍醐天皇の即位にともなって後宇多法皇の院政が再開したが、南禅寺住持が空席となっていたため、約翁を住持に招いたが、約翁は固辞した。結局、鎌倉の幕府のもとに詔を発したため、ついに関東を出て、六条有房の迎えのもと、12月3日に後宇多法皇は南禅寺に行幸し、約翁上堂の際に臨御した。元応元年(1319)10月26日にも法皇は南禅寺に御幸し、大衆に交じって入室参請した。玉座は約翁の坐の左に設け、侍臣に対して「この叢林の盛んなるや、朕深く敬悦せん」と述べている。約翁はこの年12月に病となった(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 元応2年(1320)正月、上表して、南禅寺住持を辞して、東に戻って退隠することを願ったが、法皇は慰撫して留め、さらに六条有忠の私邸に御幸し、ここに約翁を招いた。約翁が南禅寺に帰ると、法皇も追って南禅寺に入ったから、大衆は法皇の約翁に対する念に感歎した。4月、約翁の病はさらに進行し、法皇は自ら南禅寺に御幸して約翁を見舞うと、約翁は惜別の語を法皇に述べた。法皇は嘆いて国医に診断させようとしたが、約翁は薬をしりぞけてしまった。4月28日、法皇は約翁に「仏燈大光国師」の特賜号を賜った。約翁は「仏燈」の語は受け、「大光」の語に関しては難色を示したものの、法皇の意志を知って固辞することができなくなり、結局受けた(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)

 5月17日、病は更に進み、髪を洗って衣を替え、大衆を集めて訣別の垂語を行った。「末後の一句、始めて牢関に到る。なんじら諸人、おのおの転語を下せ」と述べると、首座以下はみな話をたてまつったが、約翁は可否を言うことはなかった。翌日、法皇への遺表を書し、弟子を集めて後事を託した。19日、大衆は方丈の周囲を取り巻いていた。約翁は「私は午刻(午前11時)に逝こう」といい、時間が近づくと衣を収めて結跏趺坐し、示寂した。法皇は約翁の示寂を聞くと、「朕は重くこの国の宝を失えり。世にあにまたかくの人を得んや」と述べて嘆きはやまなかった。その翌日、牧護庵にて火葬とし、門弟は分骨して鎌倉の龍峰庵にも葬られた。法皇は自ら葬儀を行ない、「特賜仏燈国師無相之塔」の10字を大書し、御製の賛を66字にわたって揮毫した。また牧護庵には讃岐国垂水荘(丸亀市)を寄進した(『大日本国特賜仏燈国師約翁和尚無相之塔銘』)


南禅寺牧護庵(平成24年(2012)8月6日、管理人撮影)。約翁徳倹の塔所。

禅寺としての浄福寺

 前述した康永3年(1344)3月9日付の「足利直義祈願状」(浄福寺文書)によると、浄福寺住持の月窓元暁(?〜1362)は、浄福寺を足利直義(1306〜52)の祈願所とするよう申請していた。

 月窓元暁は紀州国(和歌山県)の人で、約翁徳倹の法嗣であり(『扶桑五山記』第2冊、山城州東山建仁禅寺、住持位次)、博多聖福寺の第23世住持となり(『禅刹住持籍』山城、筑前扶桑最初禅窟安國山聖福禅寺歴代住持)、延文4年(1359)には建仁寺第40世住持となった(『建仁寺住持位次簿』)。貞治元年(1362)10月2日に示寂して、建仁寺給孤庵を塔所(墓所)とした。円光禅師の勅諡号を賜った(『扶桑五山記』第2冊、山城州東山建仁禅寺、住持位次)。六浦(横浜市金沢区)に嶺松寺を建立したほか(『新編鎌倉志』巻第8、六浦、嶺松寺)、八万四千の小塔を建立していた(『翠竹真如集』第1冊、諸謝、給孤東堂大和尚)

 浄福寺は月窓のような仏燈派の度弟院寺院であり、祈願所認可には真如寺住持の月翁元規(?〜1342)の吹挙(推薦)が大きな力を預かっていた。裁許が月翁示寂後の2年後に行われていることから、少なくとも月翁の吹挙から2年以上が経過したことになるのだが、それでも吹挙が有効であったのは、月翁元規が約翁徳倹の法嗣であることに他ならず、仏燈派の拠点たる鎌倉建長寺、京都牧護庵とともに、仏燈派にとっての重要拠点を構築する上で、仏燈派の組織性と影響力が朝廷・幕府に浸透しつつあったことが窺える。

 仏燈派の代表的人物に寂室元光(1290〜1367)がいるが、浄福寺はおろか京都とはほとんど関わりがなかったらしく、月窓の道号偈こそ詠んでいるものの(『永源寂室和尚語録』上之一、偈頌、月窓)、仏燈派の他の門弟らとは完全な没交渉にあり、孤高を保っていた。

 浄福寺の寺誌『村雲戻橋浄福寺由緒』によると、月窓の後、浄福寺の住持は約翁の法嗣方涯元圭の弟子である通伝が住持となり、通伝が示寂すると、元暁の弟子の徳錬が住持になったという。その後、外雲・道玄が住持となるも、応仁元年(1467)5月26日に兵火のために諸堂が焼失したというが(『村雲戻橋浄福寺由緒』)、住持に挙げられている者の内、月窓以外の者については同時代の史料上に確認できず、全く伝承の域を出ないといってよい。また浄福寺の寺誌『村雲戻橋浄福寺由緒』によると、浄福寺は建治2年(1276)に村雲の地に再建され(『村雲戻橋浄福寺由緒』)、以後近世まで同地に位置していたかのような印象を受けるが、禅寺であった浄福寺は村雲の地にはなく、全く別の地に位置していた。

 公家の万里小路時房(1395〜1457)は応永元年(1394)12月27日に産まれ、毎月の誕生日に祈祷する当時の人々同様、彼もまた春日社への御幣、浄蓮華院の仁王経を毎月誕生日の祈祷としているが、この祈祷の中に浄福寺より毎月誕生日に大般若経札・配帙がある。その初見は嘉吉3年(1443)6月27日のことであり、この時は大般若経難信解品であった(『建内記』嘉吉3年6月27日条)

 禅寺にて誕生日を大般若経によって祈祷する例として、伊勢貞宗(1444〜1509)が文明9年(1477)5月4日の正誕生日に際して、丹波蟠根寺(南丹市園部町)において大般若経祈祷を行っているものがあり(『親元日記』文明9年5月5日条)、中世では一般的なものであった。とくに万里小路時房は春日社の御幣、浄蓮華院の仁王経祈祷とともに、浄福寺での大般若経祈祷を欠かすことなく毎月実施させていた(『建内記』嘉吉元年2月27日条)

 この時の浄福寺であるが、万里小路時房の日記『建内記』の正長元年(1428)5月27日条に「□条坊門」にあったというから、三条坊門、すなわち現在の御池通付近に位置していた(『建内記』正長元年5月27日条)。また同書文安元年(1444)5月27日条によると、同日に大般若経全部札が浄福寺より送られており、「奕首座」なる人物が送っていたという(『建内記』文安元年5月27日条)。この浄福寺での大般若経祈祷は、少なくとも文安4年(1447)まで継続されており(『建内記』文安4年11月27日条)、以後も時房の薨去付近までは実施されていたようである。


浄福寺庫裏(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。享保19年(1734)の建立。

浄福寺釈迦如来像説話

 浄福寺の釈迦堂に安置される釈迦如来像は、清凉寺式釈迦如来像である。日本における清凉寺式釈迦如来像の祖形は清凉寺釈迦堂本尊の釈迦如来像で、チョウ(大+周。UNI595D。&M005944;)然(938〜1016)が請来したものである。

 この清凉寺釈迦堂の釈迦如来像は、トウ(りっしんべん+刀。UNI5FC9。&M010305;)利天に去った釈迦を悼んだ優填王が、釈迦の生前の像を写して造立し、後に中国に渡ったとされる釈迦如来像を模刻したもので(「チョウ然入瑞像五臓記」清凉寺釈迦堂本尊胎内文書〈平安遺文4561〉)、雍熙2年(985)8月に台州で張延皎・延襲兄弟によって造立された(「チョウ然入瑞像五臓記」清凉寺釈迦堂本尊胎内文書〈平安遺文4569〉)

 清凉寺釈迦堂の釈迦如来像は、これ自体が模刻であり、そのもととなったのは宋開宝の宮中啓聖院に安置されていた。この像は「優填王旃檀瑞像」と称され、唐代までには有名となっていた像であった。ところが後の「釈迦堂縁起絵巻」(清凉寺蔵)などでは、チョウ然が請来する直前に真像と模刻像が入れ替わり、実際に請来したのは真像であったとする伝承が付け加えられた。

 浄福寺の寺伝を記したものとしては、天正12年(1584)10月に浄福寺住持の崇林が前田玄以に提出した『村雲戻橋浄福寺由緒』がある。これは浄福寺が開創した平安時代より、天正10年(1582)までの浄福寺の事績を記したもので、さらに後世に編纂された浄福寺の寺誌『恵照山歴代編年略記』の祖本となったものである。

 この『村雲戻橋浄福寺由緒』について、湯本文彦(1843〜1921)は「杜撰妄謬ノ事少カラス採ルヘキモノ甚少シ」と酷評しているが、その理由の最たるものとして釈迦如来像の伝来をあげており、これについては「其妄亦甚シトス」としている(湯本文彦『京都府寺誌稿』25)

 確かに浄福寺の釈迦如来像説話は、そのまま史実と受け止めがたい荒唐無稽なものであるが、中世末期の仏教史感や、国際感が垣間見えて興味深いものがある。

 説話によると、釈迦如来像は鳩摩羅炎が亀茲国より移し、その後の乱世のため中国に渡ったという。唐に渡った道昭は長楽道場でこの像を礼拝し、高宗皇帝に日本に請来したい希望を述べたものの、高宗皇帝は深く惜んで渡さなかった(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 天智2年(663)百済国の兵乱により日本に援軍要請があり、阿曇比羅夫・阿部比羅夫らの軍勢を遣わして百済を救援させた。日本軍は強く、唐を攻めると劉徳高を日本に遣わして、しきりに和睦を請うた。天智天皇はこれを許し、坂合部石積らを百済に遣わし、阿曇比羅夫・阿部比羅夫の両将を高宗にまみえさせた。高宗は勅して長楽道場の釈迦如来像を両使に附して日本に引き渡した。両将は出航して程なく着岸しようとする頃、両将の霊夢に釈迦如来像が登場し、「我は末世の衆生を化益するために東土に渡ってきた。帝都の西に当り、山城国の中央に我を安置せよ。この地は後世皇居となる因縁がある。その地にあって王法を守護し、末代の衆生に化益せん」といった。両将はこのことを速やかに上奏しようと思ったものの、近臣の妨げのため、勅答がでない可能性があったため、夢のままに山城国葛野郡の林中に隠した。その桓武天皇が都をこの地に移すと、賢憬がこの像を発見したという(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 以上の説話は「釈迦堂縁起絵巻」の前半部に、『日本書紀』の百済救援の記事を援用して、釈迦如来像請来説話を組み合わせたものとなっている。日本の攻撃によって唐を屈服させて釈迦如来像を得たとするものは、宗教説話にみる他国感が変化をみることができる。中世初期の『八幡愚童訓』では他国の攻撃に遭う日本を神威が救うものとなっているのに対し、中世末期にかけて成立した本説話では日本が他国を攻撃して屈服させて霊像を獲得するものとなっている。この説話にいたるまで、倭寇が中国・朝鮮半島の海岸を襲撃して、他国に対する軍事的優越感が醸成される中、釈迦如来像請来譚が軍事征服によるものとなったとみられる。

 浄福寺において釈迦如来像が著名であったことは、康永3年(1344)3月9日付の「足利直義祈願状」(浄福寺文書)においても、「当寺は釈迦如来安置の霊場にして」とあることによっても知られる。現在釈迦如来像は釈迦堂に安置されている。釈迦堂は宝暦6年(1756)に落成した(『浄福寺事蹟』宝暦6年条)


浄福寺釈迦堂(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。宝暦6年(1756)建立。

「天台浄土宗」と円頓戒

 浄福寺の寺誌『村雲戻橋浄福寺由緒』によると、浄福寺は応仁元年(1467)5月26日に兵火のために焼失し、宝蔵のみ残り、文明12年(1480)に足利義政の命により一色義遠が再建を行ったという(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。浄福寺の寺誌では、浄福寺は鎌倉時代より村雲の地に位置したことを主張するが、応仁・文明の乱までは三条坊門に位置しており、応仁元年(1467)にはじまった応仁・文明の乱は、京都中を戦火に巻き込み、三条坊門に位置した浄福寺は事実上廃絶となったとみられる。

 その後浄福寺は村雲の地に再建されることになり、以後、浄福寺の趨勢を決定づけることになる人物が浄福寺の住持となる。これが宗清(1468〜1540)である。

 宗清は弘蓮社深誉上人真阿ともいい、俗姓は佐々木氏で、近江国滋賀郡の人とも(『村雲戻橋浄福寺由緒』)、甲賀郡の人ともいう(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)。幼くして比叡山にて出家・受戒し(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)、21歳の時に竹生島に参詣して、弁才天の霊告によって、浄土門に帰依したという(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。文明14年(1482)に浄福寺に住し、その後関東に下向して(『村雲戻橋浄福寺由緒』)、増上寺第4世の隆誉(?〜1492)に師事し、浄福寺に再住した(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)

 大永5年(1525)、宗清は浄福寺に三昧堂の建立を構想しており、そのことを聞いた後柏原天皇は三昧堂建立の綸旨を下賜した(「後柏原天皇綸旨」浄福寺文書1〈『京都浄土宗寺院文書』より。浄土宗文書は以下同書による〉)。三昧堂とは、いわゆる念仏三昧堂であり、専修念仏の道場として建立されるものであった。また帰依者が院内に墳墓を築くことを願っており、将軍足利義晴に墓地を申請したという。宗清は浄土宗の影響を受けながらも、自身は比叡山で得度・受戒したことから、その母体はあくまで天台宗とみなしていたようであり、「天台浄土宗」を称して比叡山の反感を買い、念仏堂(三昧堂)を破壊しようとする企てがあったという(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 大永6年(1526)4月7日に後柏原天皇が崩御に際して、宗清は諷経を務めたが、享禄2年(1529)には隠遁して、浄福寺内の長徳庵に閑居した。天文9年(1540)に示寂した。83歳(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 宗清の隠遁により、弟子の真澄(?〜1571)が浄福寺住持となる。真澄は朝廷・幕府の信任を背景として、宗清以上に積極的な活動を展開する。享禄3年(1530)に詔により宮中にて阿弥陀経講談を行ない、さらに紫宸殿に席を設け、中央に阿弥陀仏を、左右には浄土曼荼羅・十王図を安置し、7日間にわたって講談を行った。後奈良天皇は安置していた阿弥陀像・浄土曼荼羅・十王図10幅などを賜った(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 この「浄土曼荼羅」とは、現在も浄福寺所蔵される「聖衆来迎図」(双幅、128.2×67)である。来迎図の諸本の多くは、来迎する諸尊が往生社の屋形に向かって降りていく構図で、すべて構図上に収まるのが通例であるのに対して、浄福寺本・小童寺本・京都国立博物館本は往生者の屋形を描かず、双幅ともまさに絵を見る者へと来迎せんとするように描かれている。浄福寺本は鎌倉時代(14世紀)に描かれ、右幅に9躯の奏楽、供養菩薩、左幅に山を廻ってくる14躯の奏楽、供養菩薩を描いている。中幅の阿弥陀三尊を欠くが、彫像とする見方もある(奈良国立博物館1983)

 「十王図」(10幅、97.0×42.1)は冥界の閻魔王を描くものであるが、日本では閻魔王と、地獄から救済する地蔵菩薩が同一のものとみなされて、中世の浄土教団が流布につとめた。浄福寺蔵の「十王図」は第1幅から第7幅までは延徳元年(1489)12月23日に逆修のため開眼供養が行われ、書写者は土佐光信(?〜1525)であることが二尊院の善空(1412〜92)によって書かれた墨書銘の貼紙があり、第8幅以下は延徳2年(1490)5月14日という年号のみの墨書銘の貼紙がある。この十王図は漸次描かれたものらしく、第1幅「秦江王図」は長享3年(1489)8月に初七日の1幅として描かれ(『実隆公記』長享3年8月21日条)、第2幅「初江王図」は延徳元年(1489)9月に三条西実隆(1455〜1537)による銘文が書かれている(『実隆公記』延徳元年9月18日条)。墨跡銘を書した善空は後土御門天皇の帰依あつく、長享3年(1489)5月に宮中の黒戸に懸けられていた土佐行光(?〜1390頃)筆の十王図(『実隆公記』長享3年5月7日条)との関連から、二尊院蔵の十王図を行光筆のものとみて、浄福寺本はこれを書写したものとみられている(梅津1958)。浄福寺に納められた後、文政5年(1822)5月に浄福寺住持音澂(1767〜1833)によって修復された(『考古画譜』巻第6、志部、十王図)


 ある時真澄は天皇のもとに召され、天皇の宸筆による「念仏堂」「南無阿弥陀仏」を賜っており、さらに享禄3年(1530)11月に仏名会を修した(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 天文5年(1536)7月、天文法華の乱により、天台宗側とみられた浄福寺に対して日蓮宗側が放火しており、宝蔵が焼失し、文書・什物を失った。釈迦如来像の脇士も焼失し、胴体部分のみ寺中の薮にあるのが発見された(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。翌天文6年(1537)5月20日には細川晴元管領代の飯尾元運より、軍勢の乱暴・狼藉、寄宿や寺内の殺生、竹木の伐採を禁じる禁制が出されている(「細川晴元管領代飯尾元運禁制」浄福寺文書3)

 真澄は再建事業を促進し、阿弥陀座像、善導・法然二祖像、宗清像を造立した(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。天文9年(1540)10月5日には焼失以前に出された三昧堂建立の綸旨を確認を幕府より追認されている(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書6)。この追認の背景には、「天台浄土宗」を自称して、天台宗より離脱の動きをみせる浄福寺への掣肘をはかる比叡山が、浄福寺による三昧堂建立を警戒してたびたび武力による破壊を目指していたことに、浄福寺が幕府に働きかけて対抗したものであった。

 天文19年(1550)5月4日に足利義晴が薨去し、同21日に慈照寺(銀閣寺)で行われた葬儀に浄福寺僧も参加しており、弘治3年(1557)9月5日の後奈良天皇が崩御すると、その葬儀に際して諷経を務めた(『村雲戻橋浄福寺由緒』)

 永禄6年(1563)5月13日には幕府より浄福寺造営を促されており(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書15)、翌永禄7年(1564)5月30日にも浄福寺内において法度に背く者は、浄福寺のみならず京都も追放されることになった(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書17)

 永禄6年(1563)3月18日に、浄福寺真澄が法勝寺にて円頓戒を実施・講読したことについて、幕府は追認するとともに、寺内の寮舎以下の破壊を禁止している(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書14)。法勝寺は平安時代後期に京都岡崎に建立された六勝寺の筆頭大寺であるが、度重なる焼失によって衰退しており、この頃には有名無実と化していた。また法勝寺は円観(1281〜1356)入寺以来、円頓戒の重要拠点となっていた。

 このように真澄が法勝寺での円頓戒法を実施することによって、浄福寺は円頓戒の拠点と化したが、もう一方の円頓戒の道場であった西教寺の抗議を受けることになる。この抗議によって浄福寺の本寺であった比叡山帝釈寺は、永禄8年(1565)3月23日に法勝寺と西教寺両寺に問い合わせしたところ、西教寺より円頓戒を延期するよう申し入れがあったことを確認している(「飯室谷執行代書状」浄福寺文書22)。この抗議は、円頓戒法を浄福寺で行ったことを西教寺が問題視したことによるものであり(「浄福寺役者書状案」浄福寺文書26)、帝釈寺は飯室谷への確認し(「帝釈寺兼経書状」浄福寺文書24)、法勝寺も西教寺に確認を行っている(「法勝寺年行事連署書状」浄福寺文書25)

 最終的には西教寺の抗議は撤解され、浄福寺と西教寺は和解することになるが(「浄福寺役者書状案」浄福寺文書26)、西教寺が抗議を撤解した背景には、何らかの圧力があったと考えられている(色井1989)

 永禄8年(1565)5月19日、将軍足利義輝は、三好氏らの攻撃によって弑逆された。義輝自ら刀を振るって多数の敵を討ち取ったが、多勢に及ばず自害し、母の慶寿院(1514〜68)も殿中にて自害した(「山崎吉家・朝倉景連連署書状」歴代古案)。この時義輝自身が刀を多く立てて、たびたび取替えては斬り伏せ、義輝の強敵ぶりに敵方も近寄るのを恐れ、戸の脇に隠れて義輝の脚を薙払い、上から障子を被せて槍で突き伏せたという。義輝側の手勢は31人に過ぎなかったが、敵方の損害は200余に及んだという(『足利季世記』)。この変後、浄福寺では義輝側の遺体を回収し、法勝寺にて関連の円頓戒の講説を行っている(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書28)。6月9日の等持院の葬儀においても真澄は諷経に参加している(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。そのため永禄11年(1568)義輝の弟義昭が将軍となると、同年12月27日に遺体回収と法勝寺での円頓戒講説を報賞された(「室町幕府奉行人連署奉書」浄福寺文書28)


浄福寺弁天堂(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。浄福寺中興の宗清が大永5年(1525)に建立し、現在の建物は享保18年(1733)の再建。

浄土宗への転派

 元亀2年(1571)6月29日、真澄が示寂すると、真澄の弟子崇林が浄福寺住持となった。その年9月に織田信長による比叡山焼討ちがあり、これまで「天台浄土宗」を称して天台宗との繋がりを保ち続けていた浄福寺も方向転換を迫られることになる。比叡山の末寺とみなされた京都の寺院は信長勢の攻撃を受け、廬山寺も比叡山と本末関係にないことを正親町天皇の女房奉書を発給で保証されることにより、辛うじて攻撃を免れたほどであった。

 崇林の時代に、浄福寺は浄土宗に転宗し、知恩院の末寺となったが、元亀2年(1571)から天正4年(1576)までの時期に転宗したらしい。天正4年(1576)8月15日に西林坊蓮休より聖衆来迎図を寄進されており、そこに知恩院浩誉の添状があったといい、また天正5年(1577)に足利義輝十三回忌に織田信長の寄進により石塔婆を築いている。同年、信長より法然自筆の六字名号と佐藤継信・忠信の両旗が寄進されるほか、また同年5月24日にはやはり信長の吹挙(推薦)により宗清に上人号と、同25日には真澄に阿闍梨号の綸旨を賜っている(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。これらは天台宗系から転宗した寺院への信長による優遇政策の一環である可能性が高く、浄福寺がこの優遇政策により多くの寄進・吹挙を受けたものとみられる。

 天正6年(1578)には信長より浄福寺再興に関する下知を受け、天正10年(1582)に諸堂の造営・修復が完成した(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。この年に信長が本能寺の変で横死すると、秀吉の寺院政策の間に揺れ動くことになる。

 天正12年(1584)10月に浄福寺の由緒・釈迦如来像の由来について、京都奉行前田玄以より問い合わせがあったため、浄福寺住持の崇林は『村雲戻橋浄福寺由緒』を書上げて提出している(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。天正13年(1585)5月13日には前田玄以より浄福寺において軍勢の寄宿・竹などの伐採を禁じる禁制が出されている(「京都奉行前田玄以折紙」浄福寺文書31)。同年11月21日には秀吉が浄福寺に参詣し、諸記録・宝物をみており、浄福寺を祈願所とし、寺領100意志の寄進を申し出たが、崇林は辞退した。後に崇林は城に召され、永楽銭500貫文と山城国一乗寺内に寺領として3石のみ朱印状を受けた(『村雲戻橋浄福寺由緒』識語)

 天正15年(1587)12月23日、聚楽第造営に伴う寺院移転政策によって、村雲の一条戻橋の地から、相国寺南の石橋の巽の地への移転が命じられ(「京都奉行前田玄以折紙」浄福寺文書32)、翌天正16年(1588)9月9日には浄福寺にて造営にあたる鍛冶・番匠・大鋸引・畳指・瓦師などが紛争をおこしたため、これまで任用してきた諸座を解任し、新たに寺院側が選んだ諸座を任用するよう、京都奉行前田玄以より指示があった(「京都奉行前田玄以折紙」浄福寺文書33)

 天正16年(1588)冬に浄福寺の諸堂は落成した。浄福寺には塔頭として、宗清の隠遁所としての長徳庵、崇林の常照庵(覚林開基)、雲松庵(成久開基)、松林庵(周覚開基)、霊椿庵(清徳開基)、浄土庵(雲悦開基)があった(『浄福寺事蹟』天正16年条)

 浄福寺4世住持の泰童(超蓮社勝誉)の時代となり、天正17年(1589)9月に後奈良天皇三十三回忌の法要を行った(『浄福寺事蹟』天正17年条)

 天正18年(1590)4月13日には、西教寺住持の真智(?〜1593)より法勝寺の伝戒血脈を西教寺に引き渡すよう申し出があった。この時、西教寺側は法勝寺が断絶し、西教寺が相続するよう綸旨が下されるとの話があったとしている(「西教寺真智書状」浄福寺文書34)。浄福寺が天台浄土宗を称していた時、円頓戒をめぐって西教寺と紛争となり、この時は西教寺が抗議を撤解して両者が和解したが、浄福寺が浄土宗に転宗し、かつ法勝寺が事実上有名無実となると、西教寺側は天台宗の戒儀は浄福寺には不要とみて、西教寺が法勝寺に関する事物の回収に乗りだし、西教寺が法勝寺を兼摂して法勝寺の由緒を取り込もうとしたものである。西教寺が実際に法勝寺兼摂の綸旨を賜ったのが同年8月22日のことであり(「後陽成天皇綸旨」西教寺文書)、浄福寺への申し出はそれに先だったものであった。

 泰童の時代、浄福寺の塔頭として長泰庵(宗雲開基)・松声庵(教伝開基)が建立されている。また泰童は天正19年(1591)に浄福寺境内の西に庵室を建てて閑居した。これは後に別院となり、大超寺(京都市左京区岩倉)となった。泰童は瞽者(目の見えない人)のために施物し、また聴法を行ったから、毎日瞽者は数人やって来て、その居場所を尋ねたという(『浄福寺事蹟』天正19年条)

 文禄2年(1593)盛麟(1545〜1617)が浄福寺住持となった(『黒谷光明寺誌要』第二十六世琴誉盛林上人)。盛麟は伊勢国(三重県)の人で、俗姓は松田氏である。幼くして金戒光明寺に入り、天正年間(1573〜92)初頭に関東に遊学し、伊勢山田に戻って浄閑寺天機院を創建した。文禄2年(1593)に徳川家康の命によって京に出て、浄福寺住持となった(『黒谷光明寺誌要』第二十六世琴誉盛林上人)

 天正20年(1592)島津歳久(1537〜92)が秀吉の追討を受け、家臣24人とともに討死すると、首級は一条戻橋に晒された。宝林庵の住持宗覚は島津家由緒の者であったため、浄福寺住持の盛麟らと師弟4人とともに深夜に守兵の眠っている隙に歳久と家臣24人の首級を奪い、3人は大きな布で首級を包んで相国寺に走って浄福寺に戻り、盛麟は一人一条室町に追跡者を欺いて「あなた達が追跡している者は女性で、手に包みを持ってこの街を南に向かって走っていきました。遠くに逃してはいけません。すぐに追えば間に合うでしょう」といい、しばらくしてから浄福寺に戻って穴を掘り、秘かに首級を埋めた。その後ほとぼりがさめると廟塔を築き、丁重に供養した。これより毎年島津家より供養料を贈られることになった(『浄福寺事蹟』文禄元年条)

 慶長3年(1598)8月19日、豊臣秀吉が薨去し、盛麟は諷経を務めた。この年、徳川家康は盛麟を召し出し、浄福寺の由緒と天下安全の祈願寺の由来について問い合わせたという(『浄福寺事蹟』慶長3年条)。その後盛麟は隠棲していたらしく、浄福寺の住持は城誉が継いだ。なお盛麟は慶長15年(1610)6月に金戒光明寺第26世住持となり、同寺にはじめて紫衣をもたらした(『黒谷光明寺誌要』第二十六世琴誉盛林上人)

 城誉法雲(?〜1626)は三河国岡崎(愛知県岡崎市)の出身で、俗姓は今川氏であった。徳川家康が幼年時代、三河法蔵寺の手習の友であった。武蔵国天嶽寺の中興第4世住持となる。家康の命によって浄福寺住持となった(『浄福寺事蹟』慶長3年条)。浄福寺住持となること20年に及んだが、その間、家康が上洛するたびに召し出され、思い出話をしていたという(「浄福寺城誉由緒写」浄福寺文書35)

 元和元年(1615)浄福寺は相国寺の南から現在地に移転した。この時の記録がないため、詳細は不明であるが、元和4年(1618)に京都の諸檀越より寄附を募り、元和10年(1624)本堂・庫裏が完成した。これより先、元和元年(1615)大坂城が落城すると家康は再度城誉を召して、思い出話をしていた。この時家康は寺領300石の寄進を申し出たが、城誉は崇林と秀吉の故事により、固辞した。家康は同年薨去したが、元和6年(1620)、徳川秀忠が父家康の遺命により、城誉を知恩院に昇住させ、知恩院第30世住持となった(『浄福寺事蹟』元和元年条)。城誉の時代より、知恩院の住持は青蓮院門跡の令旨任命ではなく、将軍の台命による任命となった(薮内1937)


浄福寺伽藍(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)

京都門中十九箇寺

 「京都門中十九箇寺」とは、京都における浄土宗寺院の格付である。近世における浄土宗寺院は、四箇本山(知恩院・知恩寺・金戒光明寺・清浄華院)、関東の檀林寺院や、越前西福寺・近江浄厳坊・三河大樹寺といった地方の有力寺院、その他群小寺院に分かれた。

 そのような中で、京都の浄土宗寺院において「十九箇寺」という寺格が発生する。その寺院は、報土寺・浄福寺・報恩寺・上善寺・西園寺・正定院・常林寺・専念寺・西方寺・専称寺・信行寺・天性寺・大雲院・浄教寺・勝円寺・法然寺・永養寺・本覚寺・上徳寺である。

 その式法としては、
@本山知恩院での元日の嘉儀は青銅100疋の折紙を持参する。
A正月4日に知恩院より方丈の名代が十九箇寺に回礼する。
B五節供の際に本山知恩院で嘉儀を勤める。
C知恩院方丈が入院の時、十九箇寺に回礼する。
D十九箇寺の住持が出世綸旨を受けた場合、入院の前に参内する。
E一般寺院の住持が出世綸旨を受けた場合、参内に代わって十九箇寺に回礼する。
となっており(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)、十九箇寺が浄土宗僧侶が知恩院住持となるにあたって何らかの形で関与し、かつ知恩院住持は入院の際に回礼するなど、他の知恩院末寺とは別格の地位を有していた。

 このような地位を有するようになった由来として、本山知恩院が御忌法要を中絶せざるを得なくなった時期であったといい(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)、また知恩院住持が応仁・文明の乱の騒動を避けて近江国伊香立に移って御忌法要の断絶の危機に陥った際ともいうが(『浄福寺事蹟』慶長16年条)、十九箇寺の住僧が、祖師法然の報恩のために粉骨砕身し、そのため御忌法要を毎年執行することができたという。そのため満誉(1562〜1620)が知恩院住持であったとき、十九箇寺の功績が格別であることから、満誉が十九箇寺で回礼するとともに、それぞれの寺の住持分となる仮儀を行い、これを「入院寺」と称し、そのため知恩院代々の住持が入院の時に十九箇寺を回礼する習慣ができたという(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)。実際には十九箇寺の大半が応仁の乱の頃、浄土宗寺院として存在していなかったことが立証されており、そのため知恩院が他の本山級の寺院を抑えて浄土一宗の総本寺の地位を確立するのに際して、出世綸旨の執奏権を京都の有力寺院がもつ地方末寺との関係を介して行使し、また十九箇寺回礼によって本末関係の緊密さを誇示する目的があった(中井1994)

 また元和元年(1615)より知恩院では、京門中より役者6人を選び、山内の役者とともに役所を組織し、一切の事務を処理するようになった。これを「六役者」といい。そのなかで浄福寺もまたたびたび六役者に選ばれており、また京都門中十九箇寺の寺格を相俟って、知恩院方丈の名代として江戸に下向し、仏事を取り仕切ることもしばしばであった。

 本寺知恩院の事務を取り仕切り、末寺支配に関する諸権限を行使したため、浄土宗内に強い影響力を保ったが、そのためかえって山内の役者と対立を引き起こし、知恩院方丈・寺社奉行を巻き込んだ騒動となった。正徳4年(1714)7月21日、六役者の西園寺・浄福寺・清光寺・報恩寺・専称寺・天性寺は、山内役者の九ァ院・光照院・先求院・崇泰院との争論から、連署して辞意を表明した。両者の対立の内、とくに顕著であったのが西園寺と九ァ院の対立であり、方丈(住持)の前で大声で激しく非難しあうまでに陥り、九ァ院は役者を罷免されて閉門となった(『知恩院役者日鑑』正徳4年7月21日条)

 山内役者と六役者との対立において、六役者に有利な裁決となったのは、九ァ院が山内で方丈(住持)を補佐する立場にありながら、方丈の前で大声を出したことが無礼とみなされたことも理由であるが、それ以上に知恩院の一塔頭にすぎない山内役者と、京都において四箇本山に次ぐ格式を有する十九箇寺を含む六役者とでは格式が違ったことも理由である。正徳2年(1712)11月9日に将軍家宣の葬儀に、知恩院方丈の名代として報恩寺(十九箇寺)と光照院(山内)が選ばれたが、方丈による門出の祝いとして報恩寺には白銀10枚、報恩寺伴僧には銀1枚を下されたが、光照院には下されなかった(『知恩院役者日鑑』正徳2年11月9日条)。このように十九箇寺と山内においては明確な格式の差異があり、翌年の一周忌法会には浄福寺の信誉潮音が名代となっているが、やはり浄福寺には白銀10枚が下されている(『知恩院役者日鑑』正徳3年9月16日条)

 元和元年(1615)に浄福寺の諸堂は落成している。庫裏は柳原殿楊林院尼の建立であった(『浄福寺事蹟』寛永甲子条)。寛永5年(1628)3月、新たに鐘を鋳造し、同年、方3間の鐘楼を建造した。また曽谷宗喝を施主として妙心寺浴室を模した桁行5間、梁間2間半の浴室を建立した。これら鐘楼・浴室と南門は笹屋町大火・西陣大火・天明の大火の災禍をいずれも免れた(『浄福寺事蹟』寛永5年条)

 元禄3年(1690)12月10日、浄福寺弟子の空音が前日自害したため、知恩院に届け出があった(『知恩院役者日鑑』元禄3年12月10日条)。元禄14年(1701)4月7日には浄福寺の庫裏建立のため、公儀へ届け出があった(『知恩院役者日鑑』元禄14年4月7日条)

 寛永6年(1629)桁行7間、梁間6間の方丈が建立された。これは九条輔実の邸宅を寄進されたものである(『浄福寺事蹟』寛永6年条)。寛永11年(1634)に本堂を瓦葺に改めており(『浄福寺事蹟』寛永11年条)、寛文11年(1671)に地蔵堂を再建(『浄福寺事蹟』寛文11年条)、天和3年(1683)に小方丈を造営した(『浄福寺事蹟』天和3年条)

 享保4年(1719)2月19日夜、笹屋町より出火し、浄福寺の西側の通りを類焼して、大方丈・小方丈・庫裏・居間・土蔵・塔頭五ヶ院のほか、宝物・什器・書類を焼失した。10月に大方丈の普請を開始し、九条家より寄進があった(『浄福寺事蹟』享保4年条)。享保6年(1721)正月16日には客殿の手斧始めを行ない、5月20日に棟上した(『浄福寺事蹟』享保6年条)。なお浄福寺方丈は九条家邸宅を寄進されたものであったが、寛文8年(1669)の梁間規制に対して、規制緩和を求めたものの、老中の裁可によって許可されず、3間梁に四方1間半の錣庇(しころひさし。大屋根より一段の区切りをつけてすぐその下から軒までを葺く方法)をつけることとなった(「寺社方造作之覚」中井家文書〈京都府教育委員会1983〉)

 梁間規制とは、建物の梁行の間数を法的に規制することをさす。寛永20年(1643)に武家屋敷を対象に梁間規制が発布されたが、その後寛文8年(1668)2月に寺院建築に対するものが発布された。その内容として、
 @梁間は京間で3間まで(桁行は自由)
 A仏壇用のつのやは京間3間四方まで
 B四方の錣庇は京間1間半まで
 C屋根は小棟作とする
 D肘木より上の結構は造らない
 E堂舎・客殿・方丈・庫裏ほかでも、この規定よりも広く造ってはならず、もし必要ならば寺社奉行へ申請する(『御触書寛保集成』第21冊、寺社之部、第1177号)
となっている。この規定の目的として、近世初頭期を経過して本末関係が固まるにつれ、多数の中小寺院が、本山級の寺院よりも小規模で意匠的に簡素なものにする点にあった(光井2001)。このような規制への寺院側の回答の典型となったのが、次にあげる浄福寺本堂である。

 享保15年(1730)6月20日、西陣大火によって浄福寺の本堂・方丈・仮台所・行者宅を類焼した(『浄福寺事蹟』享保15年条)。この時の大火のため、檀家すらも焼失した浄福寺は、同じく焼失した大超寺・瑞雲院・親縁寺・報恩寺・護念寺は連署して知恩院に借銀を願い出ている(『知恩院役者日鑑』享保15年6月23日条)。享保18年(1733)9月に本堂が落成した(『浄福寺事蹟』享保18年条)

 本堂は礼堂(外陣)と仏殿(内陣)を両下造屋根で繋ぐ「複合型」の建物である。正面の礼堂は、桁行を5間としており、梁間規制の通りに錣葺とはせず、周囲1間に庇をめぐらせた入母屋造となっており、見た目の正面を7間とすることで、正面に重厚感を持たせ、同時に内部に必要な空間を確保した。奥に位置する仏殿は礼堂よりも小規模で、4間四方の寄棟造の建物である。本尊を火災から守るため、外部を漆喰で塗り込めている。このような複合型の建物となったのは、梁間規制を遵守しながらも、寺院として必要な内部空間を確保する必要があったからであり、前述した通り、浄福寺は方丈再建の際に梁間規制緩和を申請して却下されていた。

 浄福寺本堂はこのような複合型本堂建築において、最も完成度の高いものであるが、それ以前の複合型本堂建築として京都市では満願寺本堂(1704)、広隆寺上宮王院(1720)が現存しており、いずれも建造にあたって梁間規制を意識した建造物となっている。

 享保19年(1734)12月には庫裏が再建し、地蔵堂の修理も完成した(『浄福寺事蹟』享保19年条)。宝暦6年(1756)には釈迦堂の造営が落成し(『浄福寺事蹟』宝暦6年条)、明和元年(1764)に方丈(『浄福寺事蹟』明和元年条)、安永2年(1773)8月に居間の造営が落成した(『浄福寺事蹟』安永2年条)。なお浄福寺の方丈は、他の現存する京都市における浄土宗寺院の方丈と同様に、大まかには禅宗の方丈建築に似たものであるが、上段を設け、床・棚・付書院・頂戴構えを供えている(京都府教育委員会1983)。方丈は浄福寺住持であった忍誉音澂(1767〜1833)の時代に修復されており(『略伝集』音澂上人伝)、方丈の襖絵は岸駒(1756〜1839)が音澂の依頼によって寛政年間(1789〜96)に描いたものである(「浄福寺方丈襖絵款記。岩佐2005所引)


浄福寺本堂仏殿(内陣)背面(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。享保18年(1733)の建造の本堂の一部。梁間規制に対応するため、本堂礼堂(外陣)と両下造屋根でつなぐ複合型となっている。

浄福寺の塔頭・末寺

 浄福寺には近世期には最大で13箇院の塔頭があった(『京都御役所向大概覚書』5、山城国中御朱印寺院之事、浄福寺)。しかしながら近代まで残存したのは5院にすぎず、残りの塔頭はその名称すら判然としない場合がある。

 浄福寺において最初に建立された塔頭は、長徳院である。浄福寺の中興開山たる宗清の隠遁所として建立されたもので、宗清は享禄2年(1529)に隠遁して、長徳庵に閑居した(『村雲戻橋浄福寺由緒』)。後に庵から院号に改められた。享保5年(1720)に焼失し、享保18年(1733)に再建された(『上京区寺院明細帳』32、長徳院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。昭和15年(1940)4月30日に本寺浄福寺に合併した(「社寺明細帳附録」32号45葉〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。なお境内の薬師堂は多田満仲の念珠仏であったという伝承がある(『上京区寺院明細帳』132、長徳院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)

 常照院は崇林の時代に建立されたもので(『浄福寺事蹟』天正16年条)、天正6年(1578)に父五条為康(1501〜63)の菩提を弔うために建立したといい、開基は覚林西堂であった。享保15年(1730)に焼失したが、享保18年(1733)再建した(『上京区寺院明細帳』128、常照院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。愛知県碧海郡高浜町に移転を申請し、大正14年(1925)12月24日に許可を得て(「社寺明細帳附録」17号138葉〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)、大正15年(1926)2月26日に移転を完了した(『上京区寺院明細帳』128、常照院、欄外注記)

 同じく崇林の時代に建立された塔頭に雲松院がある。もとは雲松庵と称され、成久が開基であった(『浄福寺事蹟』天正16年条)。明治期までには大破していたため、明治13年(1880)9月10日に廃院となった(『上京区寺院明細帳』131、雲松院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)

 松声院の創建年は未詳であるが、泰童が住持の時代に教伝を開基として建立されたとも(『浄福寺事蹟』天正19年条)、庄田家が建立したともいう。享保15年(1730)に焼失したが、文政5年(1822)音澂によって再建された(『上京区寺院明細帳』130、松声院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。明治32年(1899)に門が倒壊した(「社寺明細帳附録」6号222葉〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)

 また玉林院も創建年が不明である。宝永5年(1708)7月22日、玉林院の長諾の師である伝長の家来仁兵衛が自害したが(『知恩院役者日鑑』宝永5年7月23日条)、長諾は検死・詮議を首尾よくすませた(『知恩院役者日鑑』宝永5年7月24日条)。明治36年(1903)9月に愛知県に移転した(『上京区寺院明細帳』129、玉林院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)

 以上5院が近代までに残存した塔頭であるが、残る8院についての詳細はわかっていない。崇林の時代に雲悦を開基として浄土庵が創建された(『浄福寺事蹟』天正16年条)。後に庵号から院号に改められている。享保18年(1733)4月29日に浄土院の檀家である寺島宅右衛門の子新之丞が死罪の判決を受け、親類より死体引き取りの依頼があった浄福寺は、知恩院役者を通じて公儀に死体引き取りを打診している(『知恩院役者日鑑』享保18年4月29日条)

 他に崇林の時代には塔頭として、周覚が開基の松林庵、清徳が開基の霊椿庵が建立され(『浄福寺事蹟』天正16年条)、泰童の時代には宗雲を開基として長泰庵が建立されている(『浄福寺事蹟』天正19年条)。また泰童は天正19年(1591)に浄福寺境内の西に庵室を建てて閑居した。これは後に別院となり、大超寺(京都市左京区岩倉)となった。大超寺は浄福寺の移転とともに西隣に移転し、門外に東西に通じる小道があり、浄福寺と大超寺は往来ができた。この道は「泰堂道」と称され、俗謡に「此処何処(ここどこ)泰堂の道」と謡われた(『京都坊目誌』上京第11学区之部、泰堂町)

 大超寺はもとは浄福寺住持の隠居所が母体になっているという経緯から、浄福寺は隣接する大超寺を極めて意識しており、宝永3年(1706)3月20日には大超寺の万日回向に際して、知恩院住持応誉円理(1637〜1725)が大超寺に立ち寄る予定であったため、隣接する浄福寺にも立ち寄るよう求めたが、却下されている(『知恩院役者日鑑』宝永3年3月20日条)。これを受けてか、浄福寺もまた宝永5年(1708)5月8日に万日回向を企画し、応誉円理を招くとともに、方丈で雑煮を振る舞っている(『知恩院役者日鑑』宝永5年5月8日条)

 天明8年(1788)正月、天明の大火によって浄福寺の塔頭9ヶ院、行者宅、門番所が類焼して焼失した(『浄福寺事蹟』天明8年条)。以後さらに淘汰され、明治初期には5院まで減少した。

 このように塔頭の実態はほとんどさだかではないが、庵号・院号を得る以前の寮舎として、塔頭の原型ともいえる子院のようなものがあったらしい。例えば元禄17年(1704)5月20日に浄福寺中の長貞が知恩院に対して、自分の寺を修復したいとの希望を公儀に願い出たとの申し出があり(『知恩院役者日鑑』元禄17年5月20日条)、元禄14年(1701)6月5日には浄福寺中の全随より、自分の檀那の表具屋長左衛門は切支丹(近世京都では切支丹の子孫は数代まで切支丹に指定され、監視下に置かれた)で死亡したため、遺体を引き取りたいとの希望を述べている(『知恩院役者日鑑』元禄14年6月5日条)。このように浄福寺「中」の僧は、自身の建物と檀家を持っており、さらに塔頭の新造は公儀によって抑制されていたから、これが塔頭の形成未満の寮舎という形で形成されていた。浄福寺では「浄福寺納豆」が名物となっていたが(『京町鑑』縦町之分、浄福寺通)、これも寮舎のつくったものであったのかもしれない。

 末寺として知られているのは、丹波国船井郡(南丹市園部町)の浄欣寺である。山号を樹宝山といい、寛永元年(1624)清誉浄欣を開山として建立された(『寺社類集』巻之6、丹波国船井郡田原庄、浄欣寺)。この開山は浄福寺第10世住持の清誉達応と同一人物とみられる。浄欣寺の本堂は桁行4間、梁間4間半、庫裏は正徳4年(1714)に建立され、鐘楼は延宝3年(1675)に建立された(『寺社類集』巻之6、丹波国船井郡田原庄、浄欣寺)


浄福寺伽藍(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。塔頭は浄福寺境内の東側に集中して位置する。

明誉古澗と忍誉音澂

 近世の浄福寺には対照的な二人の名僧がいた。一人は画僧の古澗であり、もう一人は学僧として知られた音澂である。

 明誉古澗(1653〜1717)は浄福寺の住持ではないが、浄福寺に長く住み、浄福寺と同じく「京都門中十九箇寺」の報恩寺住持となっている。虚舟と号し、浄土宗の僧侶であった(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。はじめ大和国郡山の西岩寺の住持となったという(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。絵を好み、海北友雪に師事し、後に狩野洞雪の弟子となっている(『扶桑名工図譜』古間和尚伝)

 絵画を好み、前軌を踏襲することなく、その筆運びは凡人を超越し、大幅を描くことを得意とした(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。また浄福寺住持ともされるが(『近世逸人画史』古澗和尚伝)、浄福寺の歴代住持には数えられていない。大黒を多く描いた(『扶桑名工図譜』古間和尚伝)。また東大寺大仏殿に奉納するため大涅槃図を描いたが、差し障りがあったため、泉涌寺に納めた。古澗に絵を学んだ人物に高田敬輔がいる。しかし古澗は専門の絵師ではなく、色彩を苦手としていたため、狩野家に敬輔を門人に推薦した(『続本朝畸人伝』巻之5、高田敬輔伝)

 忍誉音澂(1767〜1833)は三河国の生まれで、遍照院穏冏を師とした。寛政元年(1789)京都に登り、知恩院山内の既成院に住した。同年洛西池上の西光庵に移り、寛政2年(1790)大乗義章・唯識述記の講義を行った。寛政3年(1791)勝円寺に移住し、金毛院で典寿とともに大蔵経対校録を校正した。寛政4年(1792)2月に大衆の請によって倶舎論を勝円寺にて講義した(『略伝集』音澂上人伝)

 寛政5年(1793)9月に浄福寺住持に任じられ、倶舎論の講義は続行した。以後、音澂の講義は多岐にわたった。享和3年(1803)に三河浄久寺にて受戒し、大乗起信論を講義した。同年11月、知恩院六役者に任じられ、文化9年(1812)三河浄久寺・遍照院、尾張阿弥陀院にて授戒し、さらに文化10年(1813)・同11年(1814)に浄福寺にて五重授戒した。文化12年(1815)には大坂代官所塩谷大四郎役宅にて主従30余人のために授戒した。文政元年(1818)には観経疏伝通記15巻を上梓した。文政5年(1822)5月に京都門中二臘職に昇進し、文政13年(1830)に松声院を再建した。同年、宝蔵を建立し、大蔵経5000巻、外典3000余巻を納めた(『略伝集』音澂上人伝)

 文政13年(1830)浄福寺住持を退き、住持職は弟子の覚誉に譲り、松声院に隠遁した。音澂の名声は宮中にも達し、宮中にて阿弥陀経を講義し、老体の故、殿中執杖を勅許された。その杖は浄福寺に蔵された。音澂は浄福寺の修復につとめ、本堂・方丈・庫裏・釈迦堂を修復したほか、境内に敷石をならべ、土塀で囲んだ。天保4年(1833)10月13日、死期をさとり、丹後久美浜本願寺に住した弟子の鑑誉を招いて臨終の善知識とし、しばしば十念を請受し、端座合掌して示寂した(『略伝集』音澂上人伝)



[参考文献]
・湯本文彦『京都府寺誌稿25 浄福寺・仏陀寺・西寺』(著作年未詳、京都府立総合資料館蔵)
・薮内彦瑞『知恩院史』(知恩院、1937年2月)
・梅津次郎「二組の十王図-行光と光信の画跡-」(『仏教芸術』36、1958年)
・熊原政男「嶺松寺址について調査報告」(『金沢文庫研究』113、1965年6月)
・『群書解題』4下(続群書類従完成会、1967年6月)
・熊原政男「六浦嶺松寺をめぐつて」(『金沢文庫研究』7、1970年3月)
・堀池春峰『南都仏教史の研究 下〈諸寺篇〉』(法蔵館、1972年4月)
・村井康彦『古代国家解体過程の研究』(岩波書店、1976年)
・水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、1980年7月)
・吉田友之『日本美術絵画全集第五巻 土佐光信』(集英社、1981年11月)
・『浄土曼荼羅-極楽浄土と来迎のロマン-』(奈良国立博物館、1983年4月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・「(建内記)解題」(東京大学史料編纂所編『大日本古記録 建内記10』岩波書店、1986年1月)
・色井秀譲『戒潅頂の入門的研究』(東方出版、1989年7月)
・文化庁歴史的建造物調査研究会編『建物の見方・しらべ方 江戸時代の寺院と神社』(ぎょうせい、1994年7月)
・中井真孝『法然伝と浄土宗史の研究』(思文閣出版、1994年12月)
・光井渉『近世寺社境内とその建築』(中央公論美術出版、2001年11月)
・前田慶一「諸国講読師制度の成立と展開」(『南都仏教』84、2004年11月)
・上村和直「御室地域の成立と展開」(『仁和寺研究』4、2004年)
・岩佐伸一「岸駒筆浄福寺方丈襖絵と寛政期の岸駒について」(笠井昌昭編『文化史学の挑戦』思文閣出版、2005年3月)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(一)画僧明譽古澗(1653〜1717)の概要」(『美術フォーラム21』20、2009年)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(二)画僧明譽古澗(1653〜1717)の作風」(『美術フォーラム21』21、2010年)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(三)画僧明譽古澗(1653〜1717)の研究課題」(『美術フォーラム21』22、2010年)
・細川武稔『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館、2010年3月)


[参考サイト]
・「浄土宗 京都 浄福寺」(浄福寺公式ウェブサイト)
http://www015.upp.so-net.ne.jp/johukuji/

更新日:平成24年(2012)8月14日


浄福寺経堂(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)。文政5年(1822)に音澂によって建立され、大蔵経5000巻、外典3000余巻を納めた。



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