釈迦堂



比叡山延暦寺西塔釈迦堂(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 転法輪堂(てんぽうりんどう)は比叡山延暦寺西塔に位置(外部リンク)する西塔の中心的伽藍で、転法輪とは釈迦の講義の意で、すなわち西塔の講堂です。古来より転法輪堂の正式名称よりむしろ「釈迦堂」の名で知られています。現在の建造物は延暦寺に位置するものとしては最も古い建物で、もとは園城寺の金堂でした。


釈迦堂の建立と最澄弟子間の対立

 釈迦堂は西塔院の中心伽藍である。西塔院自体はその供養を承和3年(836)3月晦日に円澄(771〜836)が檀主となって実施された。呪願を空海(774〜835)が、導師を護命(750〜834)が務めるといったように、そうそうたる顔ぶれであった(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)

 ところが西塔院の中心伽藍であるはずの釈迦堂の沿革については判然としたことはわかっていない。その理由として、釈迦堂の開基について10世紀頃には円澄系と延秀系の間で確執があり、双方がそれぞれの祖たる円澄・延秀(生没年不明)に釈迦堂の創建を帰していたからである。

 円澄は武蔵国埼玉郡(現埼玉県)の人で、俗姓は壬生氏である(『元亨釈書』巻第2、慧解2之1、延暦寺円澄伝・『天台座主記』巻1、2世円澄和尚、前紀)。延暦17年(798)に比叡山の最澄のもとに至り、出家して弟子となった。最澄の「澄」字をとって円澄と号した。このとき円澄は27歳であった。延暦24年(805)春に詔があって紫宸殿にて五仏頂法を修し、得度した。その夏4月には泰信(?〜811頃)について具足戒を受戒した。同年6月、唐より帰朝した最澄は、朝廷の命により高雄寺(現、神護寺)において修円(771〜835)・勤操(754〜827)らすでに高名な高僧に潅頂を授けて受法弟子とし、桓武天皇のために毘盧遮那秘法を修したが、円澄もその中にいて、ともに潅頂三摩耶戒を受けた。これは日本における潅頂の最初であった。大同元年(806)11月には比叡山止観院にて円澄が上首となって、100余人と円頓菩薩大戒を受けた(『続日本後紀』巻2、天長10年10月条、円澄卒伝)。弘仁3年(812)5月8日には最澄の遺言において、最澄示寂後の後継者として泰範(778〜?)を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名した(『伝教大師消息』)。同年12月14日には高雄山寺(神護寺)にて空海より胎蔵潅頂を受けている(「高雄山寺潅頂歴名」山城神護寺文書〈平安遺文補247〉)

 延秀についてであるが、「信心ある仏子」と称された最澄の弟子数十人の中の一人として、円仁(794〜864)とともに名が挙げられている(『叡山大師伝』)。最澄が定めた十六院の一つ法花三昧院において「別当延秀」として見え(『叡岳要記』巻上、十六院)、また天長3年(826)に西塔法華堂を円澄と友に建立した人物でもある(『叡岳要記』巻上、法花堂)

 このように、円澄・延秀はともに最澄の弟子であったものの、彼らの門弟の時代には確執が表面化している。それは最澄在世中から水面下で弟子達の間で対立があったからである。

 最澄には多くの遺弟がいて、それぞれが弟子を有していたことが知られる。最澄が延暦4年(785)に比叡山に山房を構えていた頃は、彼の弟子は叡勝・光仁・経豊など人物がいた(『叡山大師伝』)。しかし彼ら第一世代の弟子はその後ほとんど姿を見せなくなり、代わって台頭したのが義真・円澄・泰範・仁忠といった第二世代の弟子達であった。最澄示寂後の天台宗を牽引したのは彼ら第二世代であった。その後は光定・徳円・円仁などが第三世代となるが、このうち光定は第二世代と年齢が近かったため、実際には第二世代の弟子達と行動することが多かった。



 上の系譜上では、あくまで法系上だけでのものであって、密教の法脈である潅頂血脈はこれとはかなり異なっていた。例えば、第4代天台座主の安恵は、最澄の弟子であるが、潅頂は円仁から受けており、そのことから円仁の弟子とみなされることが多い。最も複雑な法系をもつのが第6代天台座主の惟首であり、彼はこの系図のように最澄の弟子である徳円の弟子であったが、さらに師守は遍昭で、潅頂も遍昭から受けていた。さらに但馬講師法勢の弟子でもあったが、法勢は初代天台座主義真の弟子であった。また「入寺帳」によると、師主は安洪なる人物で、もとは恵亮の弟子でありながら、さらに西塔院主の常済阿闍梨の受法でもあったという(『天台座主記』巻1、6世惟首和尚、前紀)

 このように受法関係が複雑になった背景には、それぞれの師主の立場が相互に異なったことも要因にある。最澄示寂後、最澄の生前の指名により義真が天台座主に就任した。ところが最澄は後継者を生前に後継者を二度定めている。弘仁3年(812)には最澄示寂後の後継者として泰範を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名した(『伝教大師消息』)。しかし10年後の弘仁13年(822)に天台の法ならびに院内の惣事を義真に付属し(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)、さらに上座仁忠に院内の事を付属した(『叡山大師伝』)。最澄が後継者を選定し直したのは、泰範が最澄から訣別して空海の弟子となったことも一因であろうが、いずれにせよ、最澄の後継者として、泰範=円澄路線ははずされて義真=仁忠路線が突如として現われたのである。ところで、義真は生粋の最澄の弟子ではなかったらしく、入唐時に訳語僧(通訳)として最澄に随行したことから、天台山での仏教を直接学ぶ機会があり、入唐後の成果を王朝に誇示する必要があった最澄にとって、義真の後継は半ば必然となっていた。その中で、最澄示寂後に再度後継者の人事が一変することになる。

 後継者からはずされていた円澄には盟友がいた。大乗戒壇設立に奔走し、後に別当大師と尊称されることになる光定である。光定は仁忠に対して、上座を義真に任命するように迫ったのである(『伝述一心戒文』巻上、荷顕戒論達殿上文)。上座は最澄の指名により仁忠が任命されるはずであった。上座は官寺において、寺主・都維那の上に立つ三綱のトップであるが、比叡山が官寺である「延暦寺」となると、三綱を整備する必要に迫られた。光定は大乗戒壇設立に際して、官側と交渉したことから、「延暦寺」が官から支援を受けるための前提条件として、三綱を整備する必要があると考えたらしい。最澄後継指名の筆頭である義真は「天台の法ならびに院内の惣事」を付属されていたが、後日、最澄は院内の事を仁忠が司ることした。その結果、筆頭の義真は法、すなわち天台宗のことのみ関知するのみであって、寺院のことは関知出来なくなる可能性があった。光定はそこで後継指名の筆頭である義真を、寺院管領の首席である上座とするよう迫ったのであるが、さらに光定は次席の寺主に円澄を任命するよう迫ったのである。当然仁忠は光定の主張を拒絶したが、光定としては、以前に後継者指名された円澄こそが後継者となるべきであると考えていたのである。

 仁忠と円澄は、双方とも最澄の生粋の弟子であるが、仁忠は義真の戒和上となる時、「この師(義真)用いてはならない。雑の咎があるだろう」といって反対したことがあるように(『伝述一心戒文』巻中、大皇御筆書一乗戒牒文)、義真が最澄の生粋の弟子ではなく、仁忠のような生粋の弟子からみればよそ者にみえたからと考えられている(仲尾1993)。すなわち後継者指名された義真と仁忠の間には感情的なしこりがあり、そこを付け入るような形で、光定は義真=仁忠路線を、巧みに義真=円澄路線へと変更させようとしたのである。しかしながら仁忠存命中は達成されることなく、仁忠が天長年間(824〜34)に示寂してから、義真は天台宗と延暦寺双方を管領する「天台座主」に就任したのである。

 このように天台座主となった義真であったが、義真が座主であった時期は、天台宗の教勢を伸ばすことに失敗してしまう。それは天長年間(824〜34)に淳和天皇が勅によって六宗にそれぞれの宗の教理の概要を記させた天長勅撰六本宗書をみても明らかとなっている。

 この中で、法相宗の護命は天長7年(830)に『大乗法相研神章』全5巻を撰述したほか、天台宗の義真『天台法華宗義集』全1巻、律宗の豊安『戒律伝来宗旨問答』全3巻、三論宗の玄叡『大乗三論大義鈔』全4巻、華厳宗の普機『華厳一乗開心論』全6巻、真言宗の空海『秘密曼荼羅十住心論』全10巻、『秘蔵宝鑰』全1巻を撰述した。このなかでもとくに護命の『大乗法相研神章』全5巻と空海『秘密曼荼羅十住心論』全10巻は双璧とされており、空海の『秘密曼荼羅十住心論』は、現在においても日本宗教史における深遠・難解な著作として道元『正法眼蔵』と並び称されるほどのものであった。

 このように法相宗・真言宗では教義を大上段に振上げるほどの大著を撰上することができたのに対して、義真は『天台法華宗義集』全1巻という、天台宗教義の概略を示した小冊にとどまっていた。巻数が全1巻にすぎないのは天長勅撰六本宗書のなかでも『天台法華宗義集』にすぎないため、義真は新興にすぎない天台宗の概略をとりあえず提示するだけにとどめた可能性もあるが、さらに新興である真言宗は、空海が大著の『秘密曼荼羅十住心論』全10巻と、小著の『秘蔵宝鑰』全1巻の双方を撰述して、しかも両著に関連性を持たせており、一見入門的な『秘蔵宝鑰』は大著『秘密曼荼羅十住心論』のインデックス的役割を果たしていた。つまり相当の準備がこの著作に注ぎ込まれていたことが窺える。

 逆にいえば、天台宗側では準備に時間を割くことが出来なかった可能性もある。というのも天台宗は僧綱の支配下から独立状態にあったが、逆に国家が全国の僧尼を監督する僧綱の支配から抜け出ていたことは、国家仏教に関する情報が細微まで伝達されないことを意味しており、天長勅撰六本宗書の撰述が決定された時には、他宗派はすでに著述を完成させていたかとりかかっていたかの可能性があり、後手に回った天台宗は『天台法華宗義集』全1巻を提示することができたにすぎなかったのかもしれない。

 このような義真と天台宗の威信の失墜とともに、台頭してきた空海の真言に対する朝廷の関心を無視することはできなかったのか、天長8年(831)9月25日には円澄・徳円らは両部の潅頂受法を空海に求めている(『伝教大師消息』)。これは天台宗における年分度者二人のうち、止観業とともに構成される毘盧舎那業を完成させるためであり、以前、円澄が弘仁3年(812)に高雄山寺にて胎蔵潅頂を受けていたことと関連するものであった。これに対する空海の反応はわかっていない。

 天長10年(833)7月4日に義真が示寂した。義真は院内の雑務を弟子の円修(生没年不明)に授けており、円修は座主を私号した(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)。円澄とその盟友である光定は、義真示寂の場にいなかったため、円修に問いただしたものの、結局円修が座主となることに猛然と異議をとなえた(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)。その結果、勅使が比叡山に登り、円修の座主職を停止させて大和国室生寺に追放し(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)、承和元年(834)3月16日、円澄が第2世天台座主となったのである(『天台座主記』巻1、2世円澄和尚、承和元年3月16日条)


比叡山延暦寺西塔の釈迦堂(背後から)(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 西塔院や釈迦堂建立に関する円澄系・延秀系の主張は異なることは前述したが、実際の相違点を羅列してみると、

@最澄より西塔院建立の付属を受けたのは誰か
  円澄系=円澄
  延秀系=延秀

A西塔の地にまず何が建てられたのか
  円澄系=延秀の私房があったため、円澄が破却して釈迦堂を建立した
  延秀系=延秀が建物を建て仏像を安置した。後の政所である

B釈迦堂はどのように建立されたか
  円澄系=延秀の私房を破却して建立した
  延秀系=政所の北の地を均して小堂を造立し、南庭に仏像を移した

C延秀の私房はどこにあったのか
  円澄系=西塔中心地にあったため破却して東の地に移した。後の一心房である
  延秀系=夢中の告によって釈迦堂の東の地を選んで寄宿の草庵を建立した

 このようにみてみると、円澄系は、最初に西塔の地に建てられたのは延秀の私房であり、そのため最澄より西塔院建立の付属を受けた円澄が、私房を破壊したと主張したのに対し、延秀系は、最初に建てられたのは政所であって、そもそも円澄の付属と破壊の事実はなかったとした。

 また釈迦堂は、延秀の私房にせよ、政所にせよ、西塔において二番目に建立された建造物であるかのようにみえるが、西塔院供養が行なわれた承和3年(836)3月以降、記録に残る上で最も早いのは天長2年(825)に建立された法華堂であり、これも円澄と延秀が建立したものである(『叡岳要記』巻下、法花堂)。そのことについて光定は「西塔の院、三昧堂を建て、法華三昧を修念し、三部大乗を長講す」と讃えている(『伝述一心戒文』巻下、大法師円澄功能)

 釈迦堂の建立については、『阿娑縛抄』諸寺略記に「元は延寿、三間の板屋を建立す。後に大衆、五間東屋に改造す」とあるように(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔、釈迦堂)、延寿なる人物が板葺三間堂を建立したのを、大衆が桧皮葺五間堂に改造したことがみえる。この延寿については延秀のことで、大衆はそれを率いる円澄であるという意見があり、円澄系が主張する円澄による堂の破壊は、実際には改造をさしていたとみられる(清水2009)

 『阿娑縛抄』諸寺略記は、元慶年間(877〜89)に延最(生没年不明)が釈迦堂が狭いことを嘆き、大衆と釈迦堂の改造について相談したが、話題が屋根に葺く桧皮のことにおよぶと、光孝天皇が援助を申し出たという(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔、釈迦堂)。またこの援助は光孝天皇が即位以前のまだ親王であった時であったといい(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官符)、のちに釈迦堂が御願堂としての体裁を得る上で非常に重要な転機となった。

 仁和2年(886)7月27日には、延最(生没年不明)の奏上により釈迦堂に5僧を置き、昼に光孝天皇御願の大般若経を転読し、夜には釈迦仏眼真言100遍を唱えることとした。さらに5僧への鉢(支給額)は定心院に准ずることとした(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官符)。定心院は仁明天皇の御願寺となった比叡山の子院で、定心院の例は、延暦寺における堂宇・子院が官から多額の経営料を交付される際の前例となっていた。具体的に定心院へは僧10人に白米を毎日6斗4升。灯分として油を毎日2合を給付し、近江国に支弁させていた(『続日本後紀』巻16、承和13年12月丙申条)

 なお釈迦堂では正月悔過が行なわれており、その布施は三宝料として細屯綿12屯、5僧への料として絹10疋、綿50屯、調布15端が官から支給され、毎年12月20日以前に申請して運送させていた(『延喜式』大蔵省)。また釈迦堂には5僧への料として塩が給付されており、日ごとに7合5勺で、毎年日を数えて用意して官に申請し、正月30日以前に運送することとなっていた(『延喜式』大膳下)

 蓮坊(生没年不明)は延昌(880〜964)の弟子で、釈迦堂の供僧であった。法華経を日夜怠らず唱え、真言も両部の法を研鑚した。江文(京都市左京区大原付近)の頂上に登り、一夏籠って断食の行を行ない、塩を絶って法華経を唱えたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔蓮坊阿闍梨伝)。蓮坊の師延昌は江文付近の静原の地に補陀落寺を建立しており、その関係で江文に籠ったとみられるが、その後毎夜欠かさず釈迦堂に詣で、氷を破って闕伽(仏に備える水)を汲み寒さを忍んで法華経を唱えたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔蓮坊阿闍梨伝)。また春命(生没年不明)は西塔の住僧であるが、昼には住房で終日法華経を転読し、夜には釈迦堂で終夜法華経を唱えていたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔春命)

 このように釈迦堂は御願寺としての体裁を整えていったが、その後西塔の中心的伽藍となっていった。


比叡山延暦寺西塔の円澄墓(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

釈迦堂の尊像

 釈迦堂の本尊は釈迦如来像で、像高は3尺(91cm)あり、最澄の本願により造立されたものであるという。蓮華座・天蓋は綵色で、もとの蓮華座は破損のため延喜年間(901〜23)に改造されたものである。天蓋の中には直径1尺(30cm)の唐鏡があり、釈迦如来像の頭上に懸けられていた。天蓋は延喜年間に平録法師が造立したものである(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)

 ほかに仁和年間(885〜89)に明琳によって造立された金色の普賢・文殊菩薩像があり、延喜年間(901〜23)に仁意によって造立された像高5尺(150cm)の綵色の梵天・帝釈天や、天慶年間(938)に造立された木像の文殊菩薩像があった。ほかに延喜年間(901〜23)に貞頼親王(876〜922)の願により造立された像高7尺(210cm)の綵色の四天王があり、貞頼親王はこの四天王像のため、延喜12年(912)6月5日に近江国蒲生郡の津田荘を施入している(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)

 このように延喜年間(901〜23)までに釈迦堂の体裁が整えられていったが、同時に数々の法会の舞台にもなっている。承平2年(932)9月16日には釈迦堂にて醍醐天皇の周忌御斎会が行なわれ、尊意(866〜940)が講師となって御願の一切経を修している(『尊意贈僧正伝』)

 康保4年(967)6月30日、村上天皇の五七日(35日忌)のため、延暦寺西塔・釈迦堂・観空寺・醍醐寺・法性寺・上出雲寺・弥勒寺にて諷誦が行なわれた(『本朝世紀』第8、康保4年6月30日条)。また長元9年(1036)5月15日に一条天皇崩後四七日(28日忌日)の諷誦が7ヶ寺で実施されたが、その一つに釈迦堂が選ばれている(『類聚雑例』長元9年5月15日条)

 文治4年(1188)には釈迦堂の改造を行なっている(『山門堂舎記』西塔、講堂)。なお天台座主に就任した者は、青蓮院の者ならば代々、まず最初に無動寺に入堂していたが、西塔の者ならばまず釈迦堂に入堂していた(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建暦3年4月9日条)


比叡山延暦寺西塔釈迦堂(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

学生と堂衆の争乱

 建仁3年(1203)5月、西塔釈迦堂の学生(がくしょう)と堂衆(どうしゅ)が不和となり争乱が起こっている。学生は学問を修める僧侶のことで、当時は貴族の師弟からなり、堂衆は寺院の雑役をする下級僧侶であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、荘園所領の管理や経営を行なったことから、堂衆の地位はあがったかのようにみえたが、比叡山上においてはその身分格差は歴然としており、温室(風呂)に入る順番も学生がまず入浴し、堂衆はその後に替って入った。

 その温室であるが、同年3月に西塔南谷の湯治の際、堂衆がその制度を守らず、刻限が来たため先に入浴してしまい、それを学生が咎めると暴言を吐いて立ち去っていった。翌日、学生が入浴しようとすると、堂衆側は二人を差し向けて湯釜に砂礫を入れ、釈迦堂の庭に出してしまった(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)

 南谷の学生は憤懣に堪えず、南谷より退散し、彼らに同心するほかの谷の学生も退散してしまった。5月23日に西塔各谷の堂衆たちは協議して、それぞれの谷で湯屋を別に設けることとし、7月16日にはほかの西塔四谷(北谷・東谷・南尾谷・北尾谷)も温室を設けた(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)

 学生と堂衆の対立は、学生側が8月1日に大納言岡と南谷走井房に城郭を構えたことによりエスカレートし、堂衆を追い払った。追い払われた堂衆は同月6日に荘園の軍兵を率いて登山し、両城郭を攻撃したが、双方に多大な犠牲が出て、7日に堂衆は退却した。学生も19日には退去することを決定し、28日に京都に降り、長楽寺・祇園に退去した(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)
だ。

 10月4日には堂衆を除名して叡山から追放すべき旨の院宣がくだったが、13日には釈迦堂の堂衆に東塔の堂衆が力を貸し、八王子山に城郭を構えた。15日には官軍が差し向けられ、攻撃を行なったが、堂衆の必死の抵抗のため、攻め落とすことが出来ず、かえって堂衆が落とす矢や石で死傷者が多くなった。17日夜に堂衆はひそかに退去して散り散りとなったが、11月6日には八王子山の三宮神殿・彼岸所が焼失しており、堂衆が群居して穢れたための神火であるといわれた(『天台座主記』巻、67世僧正真正、建仁3年10月4日〜11月6日条)

 このような学生と堂衆の争乱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて比叡山上でたびたび発生しており、それらは荘園所領の経営や寺院の清掃などの実務に携わる堂衆の不満が噴出したためでもあった。学生と堂衆の争乱は合戦となることが多く、そのたびに多くの死傷者の発生、堂坊の焼失をまねいた。


比叡山延暦寺西塔釈迦堂(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)

中世における釈迦堂

 承久2年(1220)8月9日、西塔釈迦堂の仏像が突然倒れるという出来事があり、そのため17、18日に釈迦堂にて大般若経の転読と百座仁王講が修されている(『天台座主記』巻3、72世権僧正承円、承久2年8月9日〜17・18日両日条)。貞応2年(1223)12月10日には大仏師隆円に釈迦堂本尊の仏座を修復させ、26日には本尊を安置している(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、貞応2年(1223)12月10日・26日条)。貞応3年(1224)8月22日にもやはり隆円に釈迦堂の六天(梵天・帝釈天・四天王)の仏座を修理させているが、この時の修理料として、承久4年(1222)に比叡山修理料として用いるために大嘗会役より免除された但馬国の修理料を用いている(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、貞応3年8月22日条)

 この尊像修理に関連してか、元仁2年(1225)4月8日に阿闍梨3口を釈迦堂に加え(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、元仁2年4月8日条)、安貞2年(1228)12月24日にも阿闍梨3口を釈迦堂に加えている(『天台座主記』巻3、74世二品尊性親王、安貞2年12月24日)。その後弘長2年(1262)6月21日にも釈迦堂の本尊が顛倒して左手が破損している(『天台座主記』巻4、82世無品尊助親王、弘長2年6月21日条)

 弘長3年(1263)7月、横川の衆徒が横川中堂に閉篭しているが、これは堅田浦(琵琶湖の湖関)の検断権について、西塔と横川で相論となったことに起因する。天台座主の尊助(1217〜90)は西塔に有利な裁定を行なったため、横川の衆徒は閉篭を行ない、8月14日には聖真子の神輿を横川中堂に振上げ、裁許がなければ聖真子の神輿もろとも中堂を灰燼と化すと恫喝した。西塔も対抗して8月10日に釈迦堂に閉篭している。結局9月23日に院宣があり、尊助は天台座主を辞職。これによって西塔は堅田浦の検断権を諦め、横川に裁許されることとなった(『天台座主記』巻4、82世無品尊助親王、弘長3年8月14日条)。なお正和5年(1316)10月17日にも円成寺益信(827〜906)への諡号問題によって釈迦堂が閉篭している(『天台座主記』巻5、106世大僧正仁澄、正和5年10月17日条)

 嘉吉3年(1443)9月23日、日野有光(1387〜1443)が五性院宮(金蔵主)を擁立して根本中堂を皇居とし、数百人を率いて根本中堂および西塔釈迦堂に籠り、同夜に京都の禁裏を襲撃して三種の神器を奪取し、禁裏を焼き払ったが、後花園天皇の確保に失敗。同月25日には管領畠山持国(1398〜1455)は逆徒討伐の綸言によって比叡山に逆徒攻撃を命じ、比叡山側は根本中堂と釈迦堂の逆徒を攻撃して追い散らし、五性院宮を捕縛している。10月2日には日野有光を比叡山にて誅殺、その子資親をはじめとして60余人は六条河原で斬首された(『成唯識論本文抄』論第8巻本文抄34、増専識語)


解体工事で露出した釈迦堂の礎石(『重要文化財延暦寺轉法輪堂(釋迦堂)修理工事報告書』〈滋賀県教育委員会、1959年〉図版214より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。礎石上の沓石は貞享4年(1687)の柱根継である。

釈迦堂の復興

 釈迦堂は元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちによって他の堂坊もろとも焼失している。釈迦堂の再建に尽力したのは詮舜(1540〜1600)であるが、彼の事績については瑠璃堂のところで述べている。

 釈迦堂の再建は、宝幢院の大衆によって着手されようとしており、仮堂が建立されつつあったが、そのため本尊を新造する必要に迫られた。詮舜は夢で釈迦堂の本尊が近江国高島郡水尾村(現、滋賀県高島市)にあるという霊夢をみたため、天正13年(1585)12月28日に本尊を迎えに行っている(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、天正13年12月28日条)

 文禄4年(1595)、豊臣秀吉は突如、園城寺の闕所(財産没収と破却)を命じた。かつて秀吉の幕下にあった詮舜は転法輪堂(釈迦堂)の復興をめざしていたから、園城寺弥勒堂(本堂)を詮舜に賜い、それを転法輪堂とするよう願い出た。そのため転法輪堂は再建された。これが現在の釈迦堂である。さらにその余材で坂本生源寺の仏殿を建立した(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄4年条)

 釈迦堂に転用された園城寺弥勒堂は、園城寺の本堂であり、比叡山との戦闘で幾度も焼失している。園城寺は建武3年(1336)に後醍醐天皇側と足利尊氏の戦闘において足利尊氏方につき、そのため新田勢と宿敵比叡山の攻撃を受け、園城寺・如意寺は全焼してしまっている。その後尊氏の室町幕府の成立とともに、園城寺は尊氏の信認を大いに受け、貞和3年(1347)には園城寺の再建計画が立てられた。その時に金堂は32,139貫文の再建予算が計上されている(『三井寺続灯記』巻第8、修造用脚員数事)。弥勒堂はこの時のものであり、すなわち現在の釈迦堂の建立時期は貞和3年(1347)頃ということになる。

 釈迦堂に移転された弥勒堂は、桁行7間、梁間8間で単層入母屋造の建造物で、現状とおおむね同様である。ただし内陣は延暦寺の建造物にふさわしいよう改造されており、現在はすべて土間となっている内陣は、園城寺の現金堂の状態から、当時土間の周囲1間通りは床が張られていた可能性がある。また内陣入側の土壁を撤去し、土壁となっていた部分をすべて板壁に張り替え、さらに内内陣の柱2本を撤去している。また前身建物の焼損した礎石をそのまま転用している。釈迦堂は梁間の手前3間分を板敷の外陣、奥5間分を土間の内陣とした、典型的な天台本堂建築となっている。

 その後貞享2年(1685)に修理が行なわれており、柱根継・根継沓石の挿入、須弥壇・厨子の造り替え、屋根の葺替、小屋の補強と妻飾の大部分取替、高欄の造り替え、西側後寄の庇を撤去など、大規模なものであった(『貞享二乙丑年九月比叡山西塔諸堂御修復仕様御入用銀大積帳』〈滋賀県教育委員会1959所載〉)。元文5年(1740)にも修理が行なわれたらしいが(滋賀県教育委員会1959)、宝暦11年(1761)にも横川中堂・坂本東照宮本地堂(現大講堂)とともに修理を行なっている(『天台座主記』巻6、207世入道二品尭恭親王、宝暦11年条)。文化8年(1811)にも修理が行なわれ、4月19日に西塔釈迦堂の本尊の外遷座が行なわれ(『天台座主記』巻7、218世二品承真法親王、文化8年4月19日条)、同年7月28日に釈迦堂の修理が終了している(『天台座主記』巻7、218世二品承真法親王、文化8年7月28日条)

 明治24年(1891)・昭和30年(1955)にも解体修理工事が実施され、平成10年(1998)に台風によって屋根に倒木が直撃したため、修理が行なわれている。


[参考文献]
・『重要文化財延暦寺転法輪堂(釋迦堂)修理工事報告書』(滋賀県教育委員会、1959年)
・仲尾俊博『日本初期天台の研究』(永田文昌堂、1973年9月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・井上光貞・大曾根章介校注『日本思想大系7往生伝・法華験記』(岩波書店、1974年9月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年7月)

最終更新日:平成22年(2010)8月13日


比叡山延暦寺西堂釈迦堂の梁行断面図(『重要文化財延暦寺転法輪堂(釈迦堂)修理工事報告書』〈滋賀県教育委員会事務局社会教育課、1959年3月〉図面6より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



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