定心院跡



比叡山延暦寺書院(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 定心院はかつて比叡山東塔南谷に位置した子院です。現在はその跡地に書院が位置(外部リンク)しています。開山は円仁とされ、仁明天皇の御願によって承和13年(846)に建立されました。そのため東塔の一子院でありながら仁明天皇の御願寺としての位置づけをもっており、近江国(現滋賀県)の正税のうち7.5パーセントが定心院のために出費とされました。信長の比叡山焼き討ち以降、再建されることなく現在に至っています。


定心院の建立と仁明天皇の御願

 最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院山王・惣持院・四王院戒壇院・八部院・西塔院・浄土院とともに定心院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば九院のうち、最澄生前に建立されたとみられるのは、わずかに止観院・八部院・山王院だけであった。

 このように、最澄生前には未着手であった九院も、その示寂後に門弟らによって建立されるようになっていった。ここで述べる定心院は仁明天皇の御願によって建立された。

 定心院は仁明天皇の御願によって比叡山上に建立された子院である。承和13年(846)8月17日、仁明天皇は勅を下したが、これはそれより以前に定心院を建立していたため、この日に勅が下されたものであった。この文飾の多い勅の中で仁明天皇は、「美しい玉で飾った宮殿や、帝王の都は、いまだ紙くずかごから出ることはない。紫府丹台は神仙の洞窟であり、ついには自宅を壊してそこに住む。」と神仙思想に想いをはせており、定心院の建立地については「しずかで爽やかであり、仏道を求めるのに適している。高い峰が東に聳えており、耆闍山の形勝はことさらではない。道は西に通じており、王舎城の風煙と接している。これは天台の上界で、銀地の道場なのだ。松や柏は数歩隔たって生えており、雲や霞は一色にして建物に連なっている」と、仏教の勝地であることを強調している(『続日本後紀』巻16、承和13年8月丙戌条)

 さらに同年12月29日、仁明天皇は勅して、延暦寺定心院の三宝および梵王・帝釈の供養料として、白米を毎日1斗5升5合を給付し、僧10人に白米を毎日6斗4升。灯分として油を毎日2合を給付することとし、これを近江国に支弁させることとした。その料は正税3万束を割いて出挙(1年契約の利息付き貸借)し、その利息分を充てることとした。もし未納する者がいた場合、正税の収益で充当することとした。毎年日を数えて舂(つ)いて運ぶ支度をし、その功賃は例に准じてまたこれを充当する。灯分の油は米で交易した利潤を用い、年が終ればすべて発送する。用途や残高を細かく記録して、長官(近江守)自ら担当することとし、長官が不在ならば、次官(近江介)が同様に事務を行なう。毎年延暦寺側の受領書を取らせ官に報告すること。もし違怠するならば、節会の参加を禁止することとし、これより以後は恒式とすることとするなど、細かく規定された(『続日本後紀』巻16、承和13年12月丙申条)

 近江国正税は400,000束であるが、このうち7.5パーセントの30,000束を定心院料に充てるいうのは、巨額の出費であり、例えば近江国においてこれよりも多かったのは俘囚料105,000束、国分寺料60,000束、救急料51,700束。修理国府料40,000束、池溝料40,000束にすぎず(『延喜式』巻26、主税上、諸国本稲、近江国正税)、御願とはいえ比叡山の一子院にすぎない定心院料が、近江国国衙の中心的事業と並ぶような巨額なものであったことは驚くべきことである。例えばあまり適切ではないが、近江国が位置した現在の滋賀県にあてはめるとすると、滋賀県の平成18年の財政規模は2798億9600万円であるから、7.5パーセントは209億9220万円となる。この小さな堂宇にはあまりにもそぐわないものであった。それだけに定心院建立事業は仁明天皇のイニシアチブが強力に働いていたことが知られる。定心院が御願寺として官から正税の出挙を受けたことは延暦寺側にも大きな影響を残した。嘉祥3年(850)9月16日には総持院の供料のうち、十四僧の供料に冠しては定心院十禅師の法に准ずることが定められているほか(三千院本『慈覚大師伝』)、仁和2年(886)には延最が延暦寺西塔院釈迦堂に5僧を置くべき事を奏上しているが、その中で鉢(料)については定心院に准ずるよう願い出ており(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官苻)、定心院の例は、延暦寺における堂宇・子院が官から多額の経営料を交付される際の前例となったのである。なお出挙のみならず、定心院料として塩が給付されており、日ごとに1升5合、毎年日を数えて用意して官に申請し、正月30日以前に運送することとなっていた(『延喜式』大膳下)

 さらに翌承和14年(847)2月には、智行の者を選んで延暦寺において始めて定心院十禅師を設置した。勅には、「僧ら毎日それぞれ大般若経2巻を転読し、一部の転読が終われば再度また開始する。六時また如法修行する。それに従事する者は宮中最勝会や臨時の公請に預かる。十禅師にもし欠員が出た場合、才行がともに備わっている者を選び、大勢が推薦する者を官に申して補充する。」とある(『続日本後紀』巻17、承和14年2月庚申条)

 この時定心院十禅寺に選ばれた僧の中に、後に第4世天台座主となる安恵(805〜68)や(尊経閣文庫蔵『類聚国史』抄出)、第5世天台座主となる円珍(814〜91)がいる(『円珍和尚伝(東寺観智院蔵本)』)。また中世の比叡山の寺誌『九院仏閣抄』に引用される太政官が延暦寺に発給した牒によると、この時定心院十禅寺となったのは伝灯大法師位の徳善・興勝・安恵・円珍、伝灯満位僧の南寂・恵亮・円真・叡均・慈叡・承雲であるという(『九院仏閣抄』定心院、太政官牒)。延暦寺定心院十禅師と釈迦堂五僧料の炭は、近江國に30丁焼き備えさせており、毎年11月1日から翌年の2月30日まで日を計算して人ごとに1斗を充当した。10月20日以前はすべて寺家(延暦寺)に送付した(『延喜式』巻23、民部下)。ちなみに定心院十禅師は宮中最勝会や臨時の公請に預かることになっていたが、実際の例としては嘉祥3年(850)2月15日に仁寿殿における文殊八字法修法において、円仁と定心院十禅師が屈請されたくらいしか例がない(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月甲子条)

 また定心院では正月一七箇日修法という修法が行なわれていたが、その修法料として白米9斗2升、糯米1斛7升、大小豆各7斗7升。胡麻子3斗8升5合を近江国の年料から割かれることとなっていた(『延喜式』巻23、民部下)。修法料とは別個に定心院正月悔過の布施料として綿44屯であり、これらは三宝ならびに脇侍菩薩・梵釈・四王合せて11座(1座ごとに4屯)に給付された。また十禅師の布施は、絹20疋、綿100屯、布30端(一人あたり絹2疋、綿10屯、布3端)であった。これらは毎年12月20日以前に送付された(『延喜式』巻30、大蔵省、悔過料)

 また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、威儀師・従儀師・次第がそれぞれ一人屈請されることとなっており、東大寺・興福寺・延暦寺といった別格の大寺は別としても、元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺・東寺・西寺と同等で、かつ次第が一人多い点では四天王寺・仁和寺・醍醐寺・法勝寺よりも優遇されていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)

 定心院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられているが(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、一子院の経営という範疇を超えた、巨大な財政力を背景とした天皇の御願寺であった。



比叡山延暦寺書院から見た正面の文殊楼(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

定心院十禅師の活動

 定心院は仁明天皇の御願によって建立されたものであるが、承和5年(838)から同13年(846)のにかけて慈覚大師こと円仁が建立したという(『叡岳要記』巻上、定心院)。定心院供養は承和14年(847)8月10日に実施され、東寺の実恵をはじめとした僧綱の面々が供養に参加したという(『山門堂舎記』定心院供養)

 元慶2年(878)7月10日に『弥勒上生経宗要』の書写が円敏によって定心院政所で行なわれているが(『弥勒上生経宗要』奥書)、この政所の大炊屋には大黒天神像1体が安置されており、光定が政所本尊を満山(比叡山すべて)の守護とするために安置したという。また一説には根本中堂の本尊と同じ材料の木で造られたものであり、最澄の自作であったという(『叡岳要記』巻上、政所大炊屋)

 定心院十禅師となった者は、宮中最勝会や臨時の公請に預かることになっていたが、必ずしも臨時の公請に預かった者がいたわけではないが、延暦寺の寺史において重要な役割を果たす者が何人かいた。

 無動寺を建立した相応(831〜918)は、当初鎮操に従って叡山に登り、のちに円仁にしたがって朝廷において重きをなすほどの人物となったが、最初の師鎮操は法花堂の僧のままで、一階の業も果たすことがなかった。貞観3年(861)鎮操は定心院の供僧への推薦を希望した。相応は深く心に刻んで西三条女御(?〜858)のもとに赴いて頼み込み、西三条女御は父の右大臣藤原良相(813〜67)に告げた。藤原良相は「一階も果たしていない者を諸院の供僧に任命することは難しい。ましてや定心院にいたっては、天台の最重のところである。私の力は及びがたい。(だから私に頼らず、自身で)奏上すべきである」と答えた。女御は弟の右大将藤原常行(836〜75)を通じて内裏に奏上させた。これより先、寺家(延暦寺)から推薦した僧を定心院十禅師の欠に任命して欲しいとの言上があったが、公家では要請によって任命する正式な官符を作成していなかった。その時に女御の奏上があったから、寺家の解文を抑留して、すぐさま鎮操を定心院十禅師に補任してしまった。このことは頼み込んだ相応自身が驚いてしまい、延暦寺の僧侶はみな希有のことだと言い合った(『天台南山無動寺建立和尚伝』)。このように定心院十禅師の僧は、延暦寺側が推薦することができたものの、任命権は朝廷が把握しており、しかも太政官ではなく、天皇や女御といった内廷の者の意志が最優先されたことがうかがえる。

 天慶2年(939)3月、尊意(866〜940)の弟子の阿闍梨定心院十禅師の引行が、師に先立って示寂してしまった。尊意は弟子達にむかって、「釈迦如来は在世の時、舎利弗・目連大師が釈尊が涅槃される前に入滅してしまった。まさに今、耆老の平仁に去年山で死に、まだ壮年の阿闍梨が今年の春に死んでしまった。私の歳は80歳、命の残りは久しくはない。ああ悲しいかな。師資の契りは会うのは難しく、別れることはやさしい。無常の理(ことわり)の前後は知ることが難しい」と嘆いている(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)

 十禅師の中には、浄土信仰と関連して、平安時代に流行した往生伝に登場する人物が複数いる。その中には平安時代の代表的説話集『今昔物語集』でも引用されて広く知られる成意・春素がいる。

 延暦寺定心院十禅師の成意は、もとより潔白でこだわりがなく、持斎(正午を過ぎて食事を取らない節食規定)を好まず、朝と夕に食事した。弟子は「山上の名徳の多くは斎食(昼食)を摂ります。師はなぜ一人このことをゆるがせにするのでしょうか」といった。成意は「私はもとから清貧で、日供のほかは得るはない。ただあるがままに供米を食べているだけなのだ。ある経典には“心は菩提をさまたげ、食は菩提をさまたげず”というではないか」と答えた。数年後、弟子の僧に命じて、「今日の食事は常の量よりも倍にして、いつもより早くしなさい」といった。弟子達は早朝に炊いて供進した。成意は鉢の中の飯に匙を二つ入れ、弟子たちに分けて、「お前たちが私の食を食べるのは、ただ今日だけだ」といった。食が終わると弟子に「お前は無動寺の相応和尚の御房に行って、成意はただ今極楽に詣でます。かのところでお会いしましょうと言いなさい。また千光院の増命和尚の御房に言って、先ほどのように言いなさい」と命じた。弟子は「この発言は妄言みたいですよ」といった。成意は「私がもし今日死ななければ、私の狂言となるだろう。お前が何の恥じることがあろうか」といった。そこで弟子達は両所に赴いたが、帰ってくる前に成意は西を向いて入滅していた(『日本往生極楽記』延暦寺定心院十禅師成意)

 延暦寺定心院十禅師の春素は、一生『摩訶止観』を読み、また常に阿弥陀仏を念じていた。74歳のときの11月、弟子僧の温蓮に語って、「阿弥陀如来が私を迎接しようとしている。その使は禅僧一人、童子一人、ともに白衣を来ている。衣の上に絵が描いていて、花びらが重なっているようだ。来年の3・4月がその時期だ。いまから飲食を断って、ただ茶を飲むだけだ」といった。明年4月、また温蓮に命じて、「目の前に使がまた来ている。私の眼前にいる。閻浮(この世)を去るのだ」といった。日中に到って遷化した(『日本往生極楽記』延暦寺定心院十禅師春素)


比叡山延暦寺書院(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

赤袴の騒動

 定心院は仁安2年(1167)に「赤袴の騒動」によって焼失している。「赤袴の騒動」とは、比叡山上で、東塔と西塔の対立によって起こった紛争である。紛争の背景に座主の地位の争いや、大衆の地位の上昇もあり、それらが複雑に絡まっている。

 長寛2年(1164)4月26日、後白河上皇は比叡山に登り、七仏薬師法を修し、七日間滞在し、五月三日に還御した(『天台座主記』巻2、52世権僧正快修、長寛2年4月26日条)。同年10月5日、天台座主快修(1100〜72)は、根本中堂衆を禁獄したことにより大衆に追放され、寺務は停止された(『天台座主記』巻2、52世権僧正快修、長寛2年10月5日条)。閏10月13日、俊円(1107〜66)が天台座主に就任した(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、長寛2年閏10月13日条)。だが、永万元年(1165)8月10日、天台座主俊円が病により座主職の競望が行われ(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、永万元年8月10日条)、翌仁安元年(1166)8月28日、入滅した(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、仁安元年8月28日条)

 同じく仁安元年(1166)9月1日、快修は再び天台座主に就任し(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年9月1日条)、同月10日に追放されたことを許すという表明をし(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年9月10日条)、10月21日には比叡山に登ったが(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年10月21日条)、12月17日には大衆による襲撃を受けている(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月17日条)。同月21日、東塔南谷の定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が放火によって焼失した(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)

 それと前後して法眼宗延を領袖とする西塔・横川の「赤袴の党」と称される衆徒は座主の罷免を求めているという風聞がおこったため、東堂の衆徒は五仏院政所・小谷岡本に城郭を築いた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条)。仁安2年(1167)正月1日、赤袴の党のうち、西塔の衆徒は東塔に進撃し、東塔の衆徒と東塔西谷の千光院にて遭遇し、合戦となった。7日に八王子・客人・十禅師の神輿を根本中堂に振上げた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条正月1日条)。16日には、赤袴の党は東塔の衆徒の築いた城郭2ヶ所を同時に襲撃したが、ほどなく両所とも撃退され、赤袴の党は戦死29人、捕虜9人を出し、赤袴の党は敗走して西塔に城郭を築いた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年正月16日条)

 この間、後白河上皇は一連の騒動に対して裁決を行おうとしていたが、2月3日、天台座主快修は院壇所に逐電した(『百練抄』仁安2年2月3日条)。10日、東堂の衆徒は西塔の赤袴の党の城郭を攻撃し、これを陥落させた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年2月10日条)。同月15日に明雲が天台座主に就任した(『天台座主記』巻2、55世法印明雲、仁安2年2月15日条)。明雲は就任当日、ただちに赤袴の党の張本人である宗延を追放し、常陸国に配流された(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年2月15日条)。しかし、6月23日に、延暦寺所司三綱・日吉社司らが上皇の御所に群参して、前座主快修が山上の寺を焼き払ったことを訴えるなど(『百練抄』仁安2年6月23日条)、対立の構図は解消しなかった。


定心院の焼失

 万寿2年(1025)10月17日、定心院は焼失しており(『天台座主記』巻、26世僧正法印院源、万寿2年10月17日条)、仁安元年(1166)12月21日にも赤袴の騒動によって放火されて焼失した(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)

 中世の定心院の様相は中世の延暦寺の寺誌『山門堂舎記』に記録されている。それよると、桧皮葺の7間堂が1棟あり、懸魚は金銀鏤や絵画によって荘厳されていた。丈六(5m)の釈迦如来像1体、1丈(3m)の十一面観音立像1体、1丈(3m)の金剛蔵菩薩立像1体があり、壇下には梵天帝釈四天王像1体あり、文殊聖僧像1体は別に壇下の座の方床に安置された(『山門堂舎記』定心院)

 このように定心院の堂宇の規模は極めて大きく(現在の大講堂と同規模)、安置されている尊像も大きなものばかりであるが、定心院の本尊釈迦如来像の印相は、普通の釈迦の印相とは異なっており、智吉祥印とも、釈迦鉢印であるともいわれており、いずれも誤った説であるともされるが、鎮護国家の秘印であったという(『九院仏閣抄』定心院)

 さらに桧皮葺の3間の軒廊が東西それぞれ1棟あり、食堂の北には2間の鐘堂が1棟、鐘堂の北には5間の夏堂が1棟、夏堂の北には3間の経蔵が1棟、15間の僧房が1棟あり、夏堂の北には方丈宝蔵が1棟あり、道の北には5間廊が1棟、7間大衆屋が1棟があった(『山門堂舎記』定心院)

 永仁6年(1298)9月19日亥刻(午後9〜11時)に延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、大講堂・戒壇院・文殊楼・四王院・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまった。定心院もまた焼失し、定心院だけではなくその鎮守も罹災した(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』)

 その後定心院に関する記録らしい記録はないため再建の様相は不明である。延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、定心院もまた焼失した。その後再建されることなく、現在まで到っている。

 定心院には鎮守として山王社が鎮座し、大宮権現が祀られている。この山王社は比叡山焼き討ち後に日増院珍海が慶安2年(1649)に再興したもので(『東塔五谷堂舎并各坊世譜』定心院)、現存する。定心院の旧跡は現在の書院の付近である。


[参考文献]
・飯田瑞穂「尊経閣文庫蔵『類聚国史』抄出紙片について」(『高橋隆三先生喜寿記念論集 古記録の研究』続群書類従完成会、1970年6月)
・西口順子「平安時代初期寺院の考察-御願寺を中心に-」(『史窓』28、1970年。のち『平安時代の寺院と民衆』〈法藏館、2004年9月〉所収)
・大江篤「天暦期の御願寺-『新儀式』の記載の持つ意味-」(『人文論究』35-4、1986年。のち『日本古代の神と霊』〈臨川書店、2007年3月〉所収)
・佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、1989年11月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)


比叡山延暦寺書院の山王社(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



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