阿育王寺



阿育王寺天王殿と放生池(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

 阿育王寺は中華人民共和国浙江省寧波市に位置する禅寺です。具名は阿育王山広利禅寺といいます。4世紀に阿育王塔の出現にはじまり、唐代には律寺、北宋代には禅寺となり、南宋時代には五山十刹の禅宗五山の第5位に列せられました。舎利信仰の場として知られるのみならず、有数の大禅刹であり、多くの日本人が舎利や禅の修行に訪れました。


舎利信仰の発生

 阿育王寺は中国五山の中でも、有数の歴史を持ち、古来より舎利信仰の場として有名であった。

 舎利とは普通、仏教の開祖たる釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の遺骨のことをいう。釈迦涅槃後、遺弟達は舎利をストゥーパに納めて八族に分割した。南伝パーリ語仏典の『大パリニッバーナ経』(中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波書店、1980年6月)によると、釈迦の舎利を巡って八族の間で争いがあったため、バラモンの裁定によって均等に八つにわけられ、それぞれがストゥーパ(仏塔)を建てて祭ったという。

 上記のような伝承が、実際に釈迦と舎利に関する史実を伝えているか否かはさておき、釈迦の遺骨たる舎利が8基の塔に祭られたということはその後の舎利信仰における基礎的な前提となる。すなわちこれらストゥーパに分けて祭られたことは、釈迦の遺骨としての舎利が、分割可能であるという一つの前提をなすことになる。それがさらに拡散することによって舎利信仰が発生するのである。

 8塔の一つとされるピプラーワー塔は1898年にペッペ W.C.Peppe の手によって銘文をもつ滑石製舎利容器が発掘された。この銘文は、「このサキヤ(シャーキャ族)の仏陀・世尊の舎利の容器は、スキティ(スキールティ)兄弟たちの、彼らの姉妹達、息子たち、そして妻たちと一緒の(寄進)」と読む説と、「これはスキールティ兄弟たちの、即ち、仏陀・世尊の親族たちの、彼らの姉妹達、子供たち及び妻たちと共なる遺骨の容器である」と読む説があり、後者の説に従えば仏陀の親族の家族数人の舎利ということになり、前者に従えば仏陀の舎利であるということになる(山田1990)。この内部にあった舎利はタイに寄贈され、一部が日本に請来されて現在日泰寺に安置される。ところが1972年の再発掘の結果、1898年発掘場所よりも下層から二つの煉瓦瓦造りの小室が発見され、各室の内部には炭化した骨を容れた滑石製小舎利壺が発掘されており、この壺が紀元前5〜4世紀の物とみて、この骨こそが釈迦涅槃後に釈迦族が入手して埋葬したものであり、ペッペが発掘した舎利は紀元前3世紀のアショーカ王時代に再埋納したものとみられている。

 舎利信仰の転機となったのが、古代インド・マウリア朝第3代のアショーカ王(紀元前268年頃〜前232年頃)の時代である。宗教文献を多く残しながらも歴史的文献に関心を払わなかった古代インドの例に漏れず、アショーカ王の事績の多くは宗教文献に依らざるを得ないが、アショーカ王が建てさせた法勅碑文は古代インドにおける仏教の実態の解明に欠かすことはできないものとなっている。

 アショーカ王に関する史料は法勅碑文の他には宗教文献が主たるものであるが、とくにアショーカ王が仏教を庇護したことから仏教側所伝に著わされた。南伝系(上座部仏教)のものには、パーリ語によるスリランカの年代記『島史(ディーパワンサ)』『大史(マハーワンサ)』(高楠順次郎監修『南伝大蔵経60 島王統史・大王統史』大蔵出版、1940年5月)があり、北伝系(大乗仏教)では、サンスクリット語で編纂されたアショーカ王の伝記がある。北伝の伝記は漢訳され、『阿育王伝』(大正蔵2042)『阿育王経』(大正蔵2043)が代表的なものとなっている。いうまでもなく「阿育王」とは「アショーカ王」の音訳である。

 アショーカ王が仏教を信奉する契機となったのが、磨崖法勅にみえるカリンガ国征服であり、この際、15万人がその地から移送され、10万人が殺害され、その数倍の人間が死亡したという。この征服事業にアショーカ王は大いに後悔し、ダルマ(法)による政治を行なうようになった。

 アショーカ王の仏教改宗以後あらわれる説話には、仏跡巡礼・伝道師派遣・法勅碑文の建立など多岐にわたるが、これらと並んで重要なものに仏塔建立がある。北伝の『阿育王伝』によると、アショーカ王は王舎城(ラージャグリハ)の阿闍世(アジャータシャトル)王が埋納した舎利を取り出して、この地に大塔を造立し、第二・第三から第七まで埋納された舎利をすべて取り出した。また羅摩聚落(ラーマグラーマ)に赴いて舎利を取り出そうとしたが、龍王(ナーガラージャ)の願いによってこの舎利は取り出さなかった。王は都に帰還すると八万四千の宝篋をつくり、金銀琉璃で荘厳・装飾した。一つの宝篋の中には一つの舎利があり、また八万四千の宝甕・宝蓋・綵で荘厳した。舎利を夜叉の力によって全土に仏塔を建てることとし、鶏頭摩寺の上座夜舎(ヤシャス)に相談したところ、夜舎が日を手で遮ると瞬時に全土に八万四千の塔が建立された。天下はみな王を「正法王」と呼ぶようになったという(『阿育王伝』巻1、阿育王本縁伝之1)

 一方の南伝の『島史』にも同様の説話があり、アショーカ王は釈迦が八万四千の法蘊を説いたことを知ると、一つの園(仏教最初期の出家者の一時的定住地。アーラーマ。教団の園を意味するサンガ・アーラーマ〈僧伽藍摩〉は伽藍の語原)ごとに一つの法蘊を供養し、合計八万四千の園を建立することとした。96倶胝(コーティ。9億6千万)の財を費やして、即日園の建立を命じた。3年で全精舎が完成し、園の工事が完了した時、7日間供養を行なったという(『島史』6章95-99節)

 これら北伝・南伝が伝える「八万四千」の数は、実数ではなく、莫大な数というくらいの意味にすぎない。また南伝の説話が「仏塔」ではなく、「園」の建立を伝えていることは、八万四千の建立は仏塔ではなかった可能性もあることから、実際に舎利がアショーカ王によって再分配されたとする説話自体に疑問をはさむ意見がある。ただし南伝においても舎利分配説話は存在し、『大史』には釈迦自身が八分割し、うちラーマ村のコーリア人に分けられた一つはスリランカに渡来することを預言し、さらに摩訶迦葉もアショーカ王によって分配されることを預言して、阿闍世(アジャータシャトル)王に王舎城(ラージャグリハ)付近へ安置させたとする(『大史』31章17-22節)。いずれにせよ、北伝(大乗仏教)においてアショーカ王が8塔からの舎利再分配を行なったとする説話が形成されたことは、その後の舎利信仰の基礎となっている。

 舎利は必ずしも仏陀の遺骨に限ったものではなく、また仏塔もまた必ずしも仏舎利を納めたものとは限らなかった。舎利塔を建てることは仏陀の生前より行なわれており、十大弟子の筆頭に数えられる舎利弗は仏陀在世中に病没したため、舎利は給孤独長者が自宅で供養していたが、多くの者が礼拝を望んだため、後に仏陀と相談して舎利塔を建立したといい(『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第18〈大正蔵292〉)、サーンチー第三塔やサトダーラ第二塔からは仏陀の弟子の舎利弗・目連の名を刻んだ舎利壺が発見されている(山崎1979)。また北伝(大乗仏教)の経典においても仏舎利と仏塔信仰は讃揚されるが、経典は仏陀が生前に説いたものであるという前提があるため、そこに現われる説話は仏陀の舎利・仏塔そのものではなく、過去仏のものである場合が多い。たとえば『法華経』見宝塔品には、過去仏である多宝如来の塔が涌出して空中にそびえたとする。


阿育王寺山門(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

魏晋南北朝時代における舎利信仰と阿育王塔

 舎利と阿育王信仰は魏晋南北朝時代に中国に伝播した。中国における最初の舎利伝来記事は説話的であるものの、慧皎(497〜554)撰「梁高僧伝」に、中央アジアの康居(サマルカンド)出身の康僧会(?〜280)が、呉の大帝(孫権、位229〜52)に舎利の霊験と阿育王塔の由来と仏法興隆の所以を説き、孫権の命によって舎利を感応したため、江南最初の寺院である建初寺を建立したという(『高僧伝』巻第1、訳経上、康僧会伝)

 西晋の光熙元年(306)には安法欽(生没年不明)によって『阿育王伝』が訳出されており(『歴代三宝紀』巻第6、訳経西晋)、アショーカ王の事績と八万四千仏塔建立説話が知られるようになる。これによって中国において阿育王の舎利塔が出現するという霊験が報告されるようになる。無論、インドのマガタ国の王であるアショーカ王(以下、阿育王とする)が実際にわざわざ中国にまで仏塔を建立したわけではないが、『阿育王伝』などの北方系(大乗仏教)の経典に、阿育王が「閻浮提」中に鬼神の力を借りて仏塔を建立したとあり(『阿育王伝』巻1、阿育王本縁伝之1)、本来は全インドを意味する「閻浮提」が、中国では全世界の意味に観念づけられたため、阿育王塔と舎利が中国で出土したとしても、是とされたのである。

 阿育王の舎利信仰に決定的な影響を与えたのは竺慧達(生没年不明)である。竺慧達は俗姓を劉氏といい、もとの名を薩河といった。并州西河離石の出身であるが(『高僧伝』巻第13、興福篇、晋并州竺慧達伝)、胡人(中国北西部の異民族)であったともいう(『梁書』巻54、列伝第48、諸夷、海南諸国、扶南国)。若くして狩猟好きであった。三十一歳の時、突如としてしばらく仮死状態となり、何日か経ってから息を吹き返したが、地獄における苦の報いをつぶさに目にした。そこで見かけた一人の沙門が、自分は前世の師匠であると言い、彼に説法し訓戒して出家させ、丹陽、会稽、呉郡に出かけて阿育王の塔像を捜し求め、礼拝し罪過を反省して過去世の罪を懺悔させた。意識が回復すると、ただちに出家して仏道を学び、慧達と名を改め、福徳の事業に一途に励んでひたすら礼拝懺悔を第一に心がけた(『高僧伝』巻第13、興福篇第8、晋并州竺慧達伝。慧皎著/吉川忠夫・船山徹訳『高僧伝(四)』〈岩波文庫、2010年9月〉257頁より一部転載)。このように竺慧達は仮死状態となって地獄に行き、そこで阿育王塔による悔過の功徳を知って、阿育王塔に対する信仰を広めていった。

 時はあたかも東晋の成和年間(326〜34)、丹陽尹の高カイ(りっしんべん+里。UNI609D。&M010678;)は張侯橋の岸辺から一つの金銅像を掘り当てた。光背と台座は欠けていたが、精巧な作りで、正面に梵字で阿育王の第四女が造ったものであると書きつけられていたという。その後、像は牛車に載せて移送したところ、長干寺で止まったため、そこに安置した。臨海県の漁民が台座を引き上げ、勅命によって金銅像とあわせたところ一致したという。さらに西域の五僧がかつて天竺で入手した阿育王像を戦乱のため隠したものがその像であると述べて礼拝した。咸安元年(371)には交州合浦県の真珠採りが海底から円光を引き上げ、東晋の簡文帝の勅命によって像と併せられた(『高僧伝』巻第13、興福第8、釈慧達伝)

 像が安置された長干寺は、都建康(現南京)の南に位置していた。建康では魏晋南北朝時代には仏寺の建立が盛んで、とくに梁の武帝(位502〜49)が仏教を深く信仰したことから、梁代には建康のみで寺院が700もあったが(『弁正論』巻第3、十代奉仏上篇第3、陳高祖武皇帝)、それにもかかわらず長干寺は同泰寺・光宅寺・小荘厳寺とならんで重んじられていた。長干寺の建立年は不明であるが、東晋の咸和4年(329)には金色の像を安置したと伝えられる(『仏祖統紀』巻第36、法運通塞志巻第17之3、晋、成帝、咸和4年条)。この「長干」の寺号は地名によるもので、建業の南5里の地に丘陵があり、その平地には民衆が雑居していた。長干の地は越城を境に「大長干」「小長干」に分かれ、大長干は越城(紀元前472年に越国が南京市の中華門外長干橋西南に築いた周囲942mの城塞)の東、小長干は越城の西にあったといい、地に長短があるから大・小の区別があった。韓詩に「考盤在干」とあり、地を降りて黄色を「干」ということからこの名がついたという(『文選』巻第5、賦篇、京都下、呉都賦、劉淵林注)。さらに東晋の簡文帝(位371〜72)が三層の塔を建立しており、のちに慧達によってその西にさらに1基、塔が建立されている。また太元16年(391)には塔は三層に改造された(『高僧伝』巻第13、興福第8、釈慧達伝)

 簡文帝が長干寺に建立した塔は夜ごとに光を放つとされ、慧達は寧康年間(373〜75)に塔の柱の下を掘って、三つの石碑を発掘した。中央の碑の覆いの中に一つの鉄函、その中に銀函、その中に金函があり、金函の中に三粒の舎利と爪と一本の髪の毛があった。これが阿育王によって造立された八万四千塔の中の一つとされ、阿育王信仰の契機となったのである(『高僧伝』巻第13、興福第8、釈慧達伝)

 慧皎(497〜554)撰「梁高僧伝」によると、その後慧達は通玄寺の石像に礼拝し、逗留すること3年に及んだが、会稽に赴き、その後ボウ(貿+おおざと。UNI912E。&M039651;)県の仏塔を礼拝したという(『高僧伝』巻第13、興福篇第8、晋并州竺慧達伝)。この「梁高僧伝」こそが本コンテンツの主題とする寧波の阿育王寺の最初の史料となる。「梁高僧伝」をみてみると、「この塔もやはり阿育王が造ったものであり、長い歳月の間に荒廃はしていたが、基礎はありありと残っていた。慧達が心をたかぶらせて想念を集中していると、なんと不思議な光が炎のように発するのが見え、それで龕と石畳を修理した。鳥たちもそこに塒を作ろうとはせず、寺の近辺のあらゆる狩人や漁民たちはまったく獲物が得られず、出家在家は感応を言い伝えて仏教に改宗しない者はいなかった。その後、郡の太守の孟ギ(豈+頁。UNI9857。&M043614;)がさらに規模を広げた。」(『高僧伝』巻第13、興福篇、晋并州竺慧達伝。慧皎著/吉川忠夫・船山徹訳『高僧伝(四)』〈岩波文庫、2010年9月〉267頁より一部転載)とあり、ボウ県の仏塔は阿育王が建立した仏塔が基になったものであり、荒廃していたが、慧達が整備し、後に孟ギが拡張したことが知られる。

 すなわち寧波の阿育王寺の基となったボウ県の仏塔は明確な建立年は不明であったものの、晋代にはすでに仏塔として扱われていたことが知られる。


阿育王寺の東塔(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。近代に新造されたもの。

阿育王寺の形成

 さらなる舎利信仰の発展は梁代にもたらされた。天監11年(512)6月に『阿育王経』が僧伽婆羅(460〜524)によって訳出されているが(『阿育王経』巻第1、識語)、この僧伽婆羅は扶南国の出身であった(『続高僧伝』巻第1、訳経篇初、梁揚都正観寺扶南沙門僧伽婆羅伝)

 扶南国は現在のカンボジアからヴェトナム南部にかけて位置した古代国家で、1〜6世紀頃まで存在した。オケオ遺跡(ヴェトナム南部キエンザン省)から知られるように、インドと中国の中間貿易によって発展した国家であり、両者、とくにインドの文化的影響が大きく受けた。シヴァ神やヴィシュヌ神といったインドの神々への信仰のみならず、5・6世紀の段階では小乗仏教(上座部仏教)の存在が確認されている(セデス1969)。僧伽婆羅もまた扶南国出身であり、阿毘曇論(アビダルマ)を専門として海南に広く名前を知られ、阿毘曇論を極めた後は律部を修学したという(『続高僧伝』巻第1、訳経篇初、梁揚都正観寺扶南沙門僧伽婆羅伝)。また天監2年(503)に扶南王の闍邪跋摩(?〜514)が南朝梁に使者を派遣して珊瑚の仏像を武帝に献じており、また大同5年(539)に扶南王留陀跋摩(生没年不明)が派遣した遣梁使が、扶南には長さ1丈2尺(3m60cm)の仏髮があったことを伝えている(『梁書』巻54、列伝第48、諸夷、海南諸国、扶南国)

 むしろこの当時、阿育王寺として有名であったのは、梁の都建康(現南京)の南に位置していた長干寺であった。長干寺は阿育王塔が安置された寺院の一つとなり、梁代の歴史を記した正史『梁書』には、「慧達が夢の中で、「僧侶となって、洛下・斉城・丹陽・会稽にはいずれも阿育王塔があり、礼拝すべきである。もし命が終わっても地獄に堕ちることはない」といわれたため、出家後、まず丹陽に行ってみるものの、塔の場所がわからなかったため、城に登って周辺を眺めてみると、長干の里に異色があるのをみたから、礼拝してみると、はたしてそこが阿育王塔の場所であった。」(『梁書』巻54、列伝第48、諸夷、海南諸国、扶南国)とあるように、長干寺は阿育王塔の地の一つとされ、大同3年(537)8月に、梁の武帝は「阿育王寺」に行幸しているが(『梁書』巻3、本紀第3、武帝下、天監3年8月甲申条)、 ここにみえる「阿育王寺」とは長干寺のことで、武帝は同寺の阿育王塔の改修にともなって仏舎利・仏の爪髪を獲得している(『梁書』巻54、列伝第48、諸夷、海南諸国、扶南国)。このように梁代において「阿育王寺」は、現在の寧波の阿育王寺をさすのではなく、建康(南京)の長干寺を指していた。

 一方現在の阿育王寺は、当時は「ボウ(貿+おおざと。UNI921E。&M039651;)県阿育王塔」と呼称されていた。かなり後代の史料であるが、唐代の道宣(596〜667)が麟徳元年(664)に撰述した『集神州三宝感通録』には、慧達の事跡を太康2年(432)に系年し、ボウ県塔の奇瑞と再興を続けて記載しているが(『集神州三宝感通録』巻上、西晋会稽ボウ塔)、同書によったか南宋の志磐(生没年不明)が咸淳5年(1269)に撰述した『仏祖統紀』には、現在の阿育王寺の建立年代を太康2年(432)とし、慧達の事績についても述べており(『仏祖統紀』第36、法運通塞志巻第17之3、晋、太康2年条)、これをうけて阿育王寺の寺誌も太康2年建立説を踏襲するが(『明州阿育王山志』第2巻、舎利縁起、劉慧達求塔縁起)、当時の時代に近い史料(例えば前述した「梁高僧伝」)には建立年代はみられず、不明というべきであろう。

 現在の阿育王寺、すなわちボウ県阿育王塔の動向が確認できるのは、大同2年(536)にボウ県阿育王塔は改造されて塔の舎利は取り出され、梁の武帝が光宅寺の僧敬脱ら4僧と舎人孫照を遣わして宮中に迎えさせたことが最初である。武帝は礼拝し終わると、返還して再度塔に納めており、この塔も劉薩何(慧達)が得たものであるとみなされていた(『梁書』巻54、列伝第48、諸夷、海南諸国、扶南国)。また梁の道士陶弘景(456〜536)は、夢に仏が菩提記を授け、勝力菩薩と名付けるのをみたため、ボウ県阿育王塔にて自誓し、五大戒を受けているが(『梁書』巻51、列伝第四十五、処士、陶弘景伝)、道士が自誓自戒していることから、当時のボウ県阿育王塔は寺院としての体裁は整っていなかったとみるべきである。南宋の志磐(生没年不明)が咸淳5年(1269)に撰述した『仏祖統紀』には普通3年(522)に詔があってボウ県の阿育王寺が修復されたといい(『仏祖統紀』巻第37、法運通塞志第17之4、梁、武帝、普通3年条)、大同2年(536)にも重修されたというが(『仏祖統紀』巻第37、法運通塞志第17之4、梁、武帝、大同2年条)、必ずしも史実を反映したものではないらしい。

 その後、大同7年(541)に華林園の重雲殿で行なわれた般若経三慧品の講義に参加した僧法顕は、会稽ボウ県阿育王寺の僧であったというから(『広弘明集』巻第19、義篇第4之2、謝御講波若竟啓梁皇太子)、阿育王寺が寺院としての体裁を徐々に整っていたことが窺える。

 後世になるとさらに説話や位置づけが拡大していき、中国における阿育王塔の霊地の数は増大し、説話も系統づけられ、序列化することになる。例えば道宣の『集神州三宝感通録』では、阿育王塔について、会稽ボウ県塔・金陵長干塔・青州東城塔・河東蒲阪塔・岐州岐山南塔・瓜州城東古塔・沙州城内大乗寺塔・洛州故都西塔・涼州姑臧故塔・甘州刪丹県故塔・晋州霍山南塔・代州城東古塔・益州福感寺塔・益州晋源県塔・鄭州超化寺塔・懐州妙楽寺塔・并州浄明寺塔・并州楡社県塔・魏州臨黄県塔の19例と、他に幾つかの塔を含んで記載しているが、序列は会稽ボウ県塔(寧波阿育王寺)・金陵長干塔(長干寺)の順であり、「梁高僧伝」で著わされた金陵長干塔・会稽ボウ県塔の順ではなかった。

 このことは阿育王寺が阿育王塔の筆頭格としてみなされることになり、同時に舎利信仰の頂点に立ったことを意味する。舎利信仰の拠点は、王朝ごとの国家政策によって異なり、そのたびに国家仏教によって序列の定義は変わったが、会稽ボウ県塔、すなわち阿育王寺が筆頭と考えられたことは、王朝交替に際しても舎利信仰においては不動の地位を保つことになる


阿育王寺天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

阿育王寺における南山律宗の展開

 唐代、仏教は律令制度下に置かれ、得度・授戒制度によって官僚の統制を受けた。また国家のための奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称されるが、国家的庇護を受け、儀式が華麗になっていくにつれ、僧侶の間で戒律の弛緩がみられ、さらに僧侶は課税の対象より除外されたため、民間の者は競って私度僧となり、彼らの破戒行動は世の批判を集めた。

 そのようななかで、道宣(596〜667)は長安西明寺において『四分律刪繁補闕行事鈔』を著述して、小乗律とみられていた『四分律』を大乗的に宣揚したから、一世を風靡して南山律宗が現出した。道宣は南山律宗の祖であるとともに、仏教史家としても知られ、『続高僧伝』『広弘明集』『大唐内典録』といった僧伝・経録を著している。

 道宣の著作に『集神州三宝感通録』があるが、これは道宣の阿育王信仰に対する深い関心によるものであり、この著作により阿育王信仰は集大成をみる。さらに総章元年(668)に撰述された『法苑珠林』における阿育王信仰に関する記述にも関与した。このような道宣の阿育王塔に対する関心は、後世の南山律宗の僧に受け継がれていく。

 道宣の弟子に道岸(653〜717)がおり、その弟子が日本に渡航した鑑真(688〜763)である。鑑真は天宝2載(743)、暴風雨のため日本渡航に失敗して明州に漂着し、明州刺史は鑑真一行を阿育王寺に安置させた。翌天宝3載(744)には越州龍興寺の僧たちの招きにより同寺で授戒を行ない、杭州・湖州・宣州にても授戒・講義を行なった後阿育王寺に戻った(『唐大和上東征伝』)

 なお大中3年(849)正月には四明(寧波)の道俗(僧侶と俗人)8,000人が阿育王寺にて舎利塔の供養を行なっている。この時天から雪のような色の粉が降ってきて、手に触れると溶けたが、夜になると五色の光明を放ったという。集まった者はこの奇瑞に大いに喜んだ。翌年には新羅僧が夜に舎利塔に忍び込み、舎利を盗み出して逃走を図ったものの、ただ亭(小屋)をぐるぐる廻っていただけであったから、盗みが発覚した事件というがおこっている(『仏祖統紀』巻第42、法運通塞志17之9、唐、末帝、貞明2年条)

 その後の阿育王寺における南山律宗の展開について不明な点が多いものの、南山律宗の地方への伝播により、江南の地にも南山律宗の影響が広まっていた。例えば道恒(生没年不明)は周律師の門弟で、道宣の法孫にあたるが、蘇州開元寺にて南山律宗を宣揚した人物で(『律宗瓊鑑章』・『宋高僧伝』巻第15、明律篇第4之2、唐揚州慧照寺省躬伝)、江南における南山律宗の第一人者であった。省躬(生没年不明)は睦州桐廬の出身であったが(『宋高僧伝』巻第15、明律篇第4之2、唐揚州慧照寺省躬伝)、これは浙江省金華市にあたり、長じて蘇州開元寺の道恒に師事しており、江南の地に南山律宗が根付きつつあったことが窺える。省躬の門弟の慧正(生没年不明)は逆に長安西明寺に出世し、その門弟に玄暢(797〜875)が出た。玄暢は会昌の廃仏に際して毅然としたため、廃仏が終わると朝廷より重んじられた(『宋高僧伝』巻第17、護法篇第5、唐京兆福寿寺玄暢伝)

 唐代を通じて長安西明寺を拠点とした南山律宗であるが、広明元年(881)の黄巣の乱によって、遂に本拠地を放棄して江南の地へと逃れることになる。玄暢の門弟の慧則(835〜908)は俗姓を糜氏といい、呉郡崑山(江蘇省)の人であった。大中7年(853)に西明寺にて出家して、同9年(855)に得度した。さらに大中14年(860)には玄暢に師事し、咸通3年(862)に崇聖寺にて倶舎論・喪服儀出三界図を講義し、咸通7年(866)には西明寺にて玄暢の代理として講義するほどになった(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、梁京兆西明寺慧則伝)

 広明元年(881)に黄巣反乱軍が都長安を陥落させ、関中が争乱状態となると、慧則は一旦華州(陝西省渭南県)に逃れたが、さらに中和2年(882)に淮南に長駆し、同地の節度使高駢(821〜87)の招きにより法雲寺にて講義した(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、梁京兆西明寺慧則伝)。その後高駢はクーデターにより殺害され、この時客人達は垣根を越えて逃れる有様であったというが(『旧唐書』巻182、列伝第132、高駢伝)、慧則もその中にいたかどうかは定かではない。その後楊行密(852〜905)によるカウンタークーデターが発生し、彼から留まるよう慰撫されたものの、斥けて天台山国清寺に赴いた(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、梁京兆西明寺慧則伝)

 乾寧元年(894)慧則は阿育王寺に到り、『塔記』1巻、『出集要記』12巻を撰述している(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、梁京兆西明寺慧則伝)。阿育王寺は銭鏐(852〜932)の支配下にあり、いうなれば楊行密の敵対勢力にあたるが、慧則は以後示寂するまでの14年間、阿育王寺に留まっていた。その間、銭鏐の命により越州にて臨時の壇を築いて授戒を行なっている。開平2年(908)8月8日に示寂したが、「ボウ(貿+おおざと。UNI921E。&M039651;)山の岡」に葬られたというから(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、梁京兆西明寺慧則伝)、阿育王寺付近に葬られたらしい。

 その後阿育王寺において南山律宗を宣揚したのが慧則の門弟希覚(生没年不明)であった。希覚は俗姓を商氏といい、儒者の家に生まれたが、唐末の戦乱のために家は没落・貧窮し、希覚も羅隠(829頃〜908)の家に書生として雇われていた(『宋高僧伝』巻第17、護法篇第5、漢銭塘千仏寺希覚伝)。羅隠は詩名によって天下に名を轟かせたが、戦乱によって故郷に帰り、銭塘の節度使銭鏐に仕えて名声を馳せていた(『旧五代史』巻24、梁書24、列伝14、羅隠伝)。いわば戦乱によって片方は没落・貧窮し、片方は名声を保ち続けたのであるが、ある日、羅隠が希覚に出自を聞かれたため答えると、羅隠は「毘陵の商家の子がどうしてこんなところにいるのか」といい、再三歎息すると、多額の援助を希覚に与え、直ちに故郷に帰し学問させた。ところが25歳になると、「たとえ高官になったとしても、一生の間だけのことにすぎない。」と言って歎息し、文徳元年(888)温州の開元寺にて出家した(『宋高僧伝』巻第17、護法篇第5、漢銭塘千仏寺希覚伝)

 希覚は龍紀年間(889)に受戒し、続けて律部を学んだ。慧則が天台山にいた時に弟子となった。師の示寂後、永嘉(浙江省永嘉県)にて講義を行なっていたが、後に杭州の大銭寺が呉越の文穆王(位932〜41)によって建立されると寺主となり、文光大師の尊号を得た(『宋高僧伝』巻第17、護法篇第5、漢銭塘千仏寺希覚伝)。この間、希覚は阿育王寺で講義を行なっており、皓端(891〜961)・法眼文益(885〜958)といった後の仏教界を担う僧が薫陶を受けている(『宋高僧伝』巻第7、義解篇第2之4、宋秀州霊光寺皓端伝。および『宋高僧伝』巻第13、習禅篇第3之6、周金陵清涼文益伝)。希覚は阿育王寺において律宗の主要カリキュラムである戒律のみならず、儒学や文章も講義していた(『宋高僧伝』巻第13、習禅篇第3之6、周金陵清涼文益伝)


1920年代の阿育王寺天王殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉108頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

禅宗の進出

 阿育王寺の唐末の様相は不明であるが、顕徳年間(954〜59)に阿育王寺は焼失したといい、再建は宋代になってからのことであったという(『明州阿育王山志』巻第3、塔廟規製、阿育王山舍利宝塔記)。また中国天台十六祖に数えられる義通(927〜88)が講義のため阿育王寺を訪れ、そのまま客死した際、阿育王寺の西北の隅に葬られたというから(『仏祖統紀』巻第8、興道下、八祖紀第4、十六祖宝雲尊者義通伝)、少なくともこの頃までは教寺として保っていたようである。

 五代十国時代に四明(寧波)を含む浙江省一帯を支配したのは呉越である。その国王である銭氏は代々仏教に深く信仰し、彼らの手によって阿育王寺舎利信仰は新たな展開をみせる。開平2年(908)呉越国王の銭鏐(位907〜32)は弟と僧清外を四明阿育王寺の舎利塔に派遣し、舎利を羅漢寺に迎え、自ら拝礼している(『仏祖統紀』巻第42、法運通塞志17之9、五代梁、太祖、開平2年条)

 さらに顕徳3年(965)春に呉越王銭俶(位948〜78)は阿育王の造塔事業を慕い、八万四千の塔を鋳造し、内部に宝篋印心呪経を納めた。これがいわゆる宝篋印塔で、「宝篋印経記」によると、日本へは天暦年間(947〜57)に日延(生没年不明)によって請来された(『扶桑略記』第26、応和元年11月20日庚辰条、所引、宝篋印経記)。この宝篋印塔は舎利塔の形状の規定にそって鋳造されている。舎利塔の形状は律部経典に規定されるところであるが、その形状には二説存在する。一つ目の説は、基礎を甎(レンガ)を積んで二重とし、安塔をつくり、その上に覆鉢を安置する。さらにその上に平頭を置き、中央に輪竿を立てて相輪をつけるものである(『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第18)。もう一つの説によると、基礎は四方形に作り、四方に牙のような突出部を設けるものであった(『摩訶僧祇律』巻第33、明雑誦跋渠法之11)。すなわち銭俶の宝篋印塔は後者の説によったものであるが、現在日本でみる宝篋印塔はここに原型がなされた。現在、阿育王寺の舎利殿に安置される舎利塔もまた、同様の形状である(写真下)。

 呉越はやがて宋に帰順し、国を奉還しているが、太平興国3年(978)に銭俶は賛寧(919〜1001)とともに阿育王寺の舎利塔を宋へ運び、滋福殿に安置した(『仏祖統紀』巻第43、法運通塞志第17之10、宋、太宗、太平興国3年条)

 南山律宗の拠点であった阿育王寺がいつ頃から禅宗寺院となったかわかっていない。後代の説であるが、大中祥符元年(1008)に「広利」の寺号を賜っており(『宝慶四明志』巻第13、ギン県志第2、寺院、禅院22、阿育王山広利寺)、その際に十方住持寺院となって宣密□素(生没年不明)なる人物がはじめて禅寺としたという(『宋学士文集』巻第43、芝園集巻第3、四明阿育王山広利禅寺碑銘)

 阿育王寺第2世住持として名があげられているのが、初禅師(生没年不明)である(『扶桑五山記』第1冊、阿育王住持位次)。詳細はわかっていないが、俗姓は劉氏で、天禧5年(1021)に阿育王寺住持となり、阿育王寺を南向に変更したという(『明州阿育王山続志』巻第16、先覚攷、補遺、守初禅師)

 第3世となったのが常坦(生没年不明)である。王安石(1021〜86)の詩文「奉使の道中、育王山長老常坦に寄す」によると、常坦は海商であり、時には難破して九死に一生を得ることもあったこともあったというが、母が死ぬと妻子を捨てて岩山に隠れて出家したという(『延祐四明志』奉使道中寄育王山長老常坦)。常坦はある僧の「如何がこれ有中の有」の問いかけに対して「金河峰の上」といい、また「如何がこれ無中の無」の問いかけには「般若堂の前」と返答したという(『五燈会元』巻第15、青原下九世、福昌善禅師法嗣、育王常坦禅師伝)。また嘉定7年(1214)に薛叶(生没年不明)によって撰述された「育王上塔碑記」によると、慶暦6年(1046)に阿育王寺住持の常坦禅師(生没年不明)によって阿育王寺の上塔の修造をはじめて碑文に記したという(『明州阿育王山志』巻第3、塔廟規製、育王上塔碑記)。常坦には法嗣が二人おり、阿育王寺の澄逸禅師と湖山の沢賢禅師である(『明州阿育王山志』第9上巻、提唱宗乗)。このうち澄逸禅師は阿育王寺第5世住持となった「逸禅師」(『扶桑五山記』第1冊、阿育王住持位次)と同一人物とみられる。

 阿育王寺が禅寺として躍進したのは大覚懐l(1011〜93)が阿育王寺第6世住持に就任したことによる。懐lは廬山の僧であったが、皇祐年間(1049〜54)に仁宗(位1022〜63)の詔によって都の十方浄因禅院の住持となり、さらに仁宗に召され、化成殿にて仏法の大意を返答したところ、意にかなったため、大覚禅師の勅賜号を受けた(「宸奎閣碑」および『宝慶四明志』巻第13、ギン県志第2、寺院、禅院22、阿育王山広利寺)。懐lは仁宗より17篇の詩篇を贈られるほど信認されたため、至和年間(1054〜56)に上書して引退を願い出たが許可されなかった(「宸奎閣碑」)。英宗(位1063〜67)の代になって治平3年(1066)に再度引退を願い出たところ、ようやく許され、阿育王寺に住持として居住することになった。熙寧3年(1070)四明(寧波)の人は懐lのために仁宗より賜った詩篇を納める建物「宸奎閣」を建立した(「宸奎閣碑」および『宝慶四明志』巻第13、ギン県志第2、寺院、禅院22、阿育王山広利寺)。その後、都に宝文閣を建立することとなったため、詔により詩篇の副本を作成して納められ、さらに毎年一人の年分度者を賜った。懐lは阿育王寺住持となって23年後に83歳で示寂した。その後、蘇軾(1036〜1101)が杭州太守に赴任した際、懐lの門弟が宸奎閣に碑銘がないため、懐lと旧知であった蘇軾に撰文を依頼し、元祐6年(1091)正月3日、撰文・揮毫した(「宸奎閣碑」)

 蘇軾が旧法党に属したことから、宸奎閣碑は北宋末の弾圧によって破壊された。現在は万暦13年(1585)に天一閣蔵の元統2年(1334)翦装本から重刻した碑文が建てられているが、原拓は中国に残存していない。一方、日本へは円爾(1202〜80)が原拓を請来して東福寺が所蔵していたが、京都西町奉行の浅野長祚(1816〜80)の懇望により彼の手に渡り、長祚の没後、政府に買い上げられ、現在は宮内庁書陵部が所蔵する(神田・西川1972内、伏見冲敬氏執筆分)


阿育王寺舎利塔(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

南宋初期の阿育王寺

 靖康元年(1126)、宋(北宋)は金軍の南下により、華北一帯を占領されて滅亡した。翌年華南の高宗(位1126〜62)が即位し、南宋が成立して金と対峙するが、高宗が根拠地としたのが杭州であった。杭州はかつて呉越の首都であり、呉越が仏教を庇護したことから、きわめて仏教が盛んな地となっていた。阿育王寺が位置する明州(寧波)もまたかつて呉越の領域にあり、非常に仏教が盛んであった。

 紹興元年(1131)には将軍兀朮(?〜1148)が率いる金軍が明州(寧波)に侵攻しているが、この時のこととして、兀朮が阿育王寺に入山して塔を奪おうとしたが、僧が隠したため、怒って寺に火を放とうとした。するとたちまち壁間より瑞像が光を放ち、輪蔵から水が出てきて動かしていないのにもかかわらず勝手に転がった。兀朮は恐れて再拝して去ったという説話がある(『明州阿育王山続志』巻第11、上壑翁相国啓)

 やがて南宋と金は和議を結び、明州は南宋に帰属した。杭州が南宋の首都(行在)となり、明州もまた南宋の重要な都市となると、そこに位置する阿育王寺は天童寺とならぶ同地の大寺として南宋を代表する寺院として認識されるようになる。

 紹興6年(1136)7月に阿育王寺の住持の公帖を受けた真歇清了(1088〜1151)が住持に就任した。しかしその時、阿育王寺は荒廃しており、負債は20万にも及んでいたという。真歇清了は10月に阿育王寺に入るや、真歇清了が阿育王寺に入ったということを聞きつけて多くの人々が集まり、彼らの寄進によって負債の8・9割を返済することができたという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 宋代より阿育王寺は隆盛し、南宋代には雲水1,000人を号するほどであったが、一部には誇張を含んだらしい。陸游(1125〜1210)が記すところによると、四明(寧波)には天童寺・阿育王寺・雪竇寺が名刹として知られており、ある日新任の太守が天童寺の宏智正覚(1091〜1157)に「寺に何人の僧がいるか」と聞くと「千五百」と答え、同じ質問を阿育王寺の無示介ジン(ごんべん+甚。UNI8AF6。&M035739;)(生没年不明)に聞くと「千僧」と答えていた。最後に雪竇寺の行持(生没年不明)に聞くと手をこまねいて「120」と答えた。太守は「三刹の名声はともに等しいのに、僧がこのように同じではないのか」と聞くと、行持は再度手をこまねいて「私の寺は実数ですので」と答え、太守は手を叩いて大笑いしたという(『老学庵筆記』巻3、僧行持)

 紹興26年(1156)阿育王寺の住持が欠員となった。天童寺住持の宏智正覚は大慧宗杲(1089〜1163)を推薦して勧進文をつくり、大慧宗杲が阿育王寺住持となることになった(『天童寺志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。大慧宗杲の入寺によって阿育王寺には僧1,200人が集まったという。しばらくもしないうちに大慧宗杲は径山寺に移ったが、その法嗣である大円遵璞(生没年不明)が阿育王寺の住持となった。大円遵璞は堤防を築いて田畑とし、収穫物は般若会を催してそこで使用した。不足分は師の大慧宗杲が補っていた(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、上塔般若会碑)

 3年後、大円遵璞が示寂すると、法嗣の妙智従廓(1119〜80)が住持となった。妙智従廓が住持の時に湯思退(1117〜64)らの支援もあって荘園を設けて般若荘と名付けた。これは紹興28年(1158)から乾道3年(1167)の間のことであった(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、上塔般若会碑)。また妙智従廓は淳熙年間(1174〜89)に舎利殿を建立している(『明州阿育王山続志』巻第11、上壑翁相国啓)

 舎利殿の建立については、妙智従廓の塔銘(伝記)の「育王山妙智禅師塔銘」によると、日本国王が妙智従廓の偈語をみて自ら悟り得るところがあり、位を退いて出家すると、妙智従廓に帰依して良材を送って舎利殿を建てたという(『攻キ集』巻110、塔銘、育王山妙智禅師塔銘)。実際に舎利殿建立に際して材木を送ったのは重源(1121〜1206)で、周防国の材木を送っており、舎利殿の柱四本・虹梁一本となった。そのため舎利殿には重源の木像と画像が安置されたという(『南無阿弥陀仏作善集』)


阿育王寺仏殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

拙庵徳光と阿育王寺の発展

 阿育王寺は大慧宗杲の法嗣である拙庵徳光(1121〜1203)の時代に大いに発展を見る。

 拙庵徳光は臨江軍新喩県(江西省樟樹市)の人で、俗姓を彭氏といった。祖父は尭訓、父は術といい、家は仏教を信じ、郷里の貧しい人々に金銭を与える慈悲深い家柄であった。拙庵徳光が生まれる前、母の袁氏は異僧が入室してくる夢を見ており、その後拙庵徳光を妊娠したという伝えがある。袁州木平山の妙応大師伯華なる者が人相見をよくしたが、拙庵徳光を見ると「この子はいつか禅宗の棟梁となるだろう」と預言したという。父母が相継いで没すると、伯父に引き取られて養われた。ある日、父母の供養のため僧を招いたところ、拙庵徳光は仏書に触れた(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)

 紹興11年(1141)大慧宗杲が世俗の権力闘争に巻き込まれ、還俗の上流罪となったが、流罪の途中で拙庵徳光は大慧宗杲が村を通過するのを目撃したらしい。この時拙庵徳光は21歳であり、「この人は古仏だ。どうやったらこの人に仕えることができるだろうか」と思い、この時から出家したいと思うようになった。その2年後、光化禅院にて足庵普吉(生没年不明)のもとで得度し、宗旨を研究し、日々精進した。足庵普吉はビン(もんがまえ+虫。UNI95A9。&M041315;)(福建省)に戻った時、拙庵徳光は共に赴いたが、足庵普吉は月庵善果(1079〜1152)に師事するよう命じたから、3年間参じており、また妙湛思慧(1071〜1145)・仏心本才(生没年不明)らや、江西の百丈道震・宝峰択明の室に入り、ある時には応庵曇華(1103〜63)にも参じたが、これら諸師に参じても疑問は解決することなく、「これ真に臨済の種か」と憤ったという。そこで月庵善果のもとに戻ったが、まもなく示寂してしまったため、江西に帰って雲巌寺にて典牛天遊(生没年不明)、円通寺にては卍庵道顔(1094〜1164)に参じたが、結局以前に参じた応庵曇華のもとに戻り、廬山の東林寺に移るに従った(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)。後に拙庵徳光自身が語ったところによると、50人以上の禅知識に参じたという(『古尊宿語録』巻第48、仏照禅師奏対録)


 紹興26年(1156)大慧宗杲が四明(浙江省寧波市)阿育王寺の住持となったことを聞いて、拙庵徳光は喜んで「縁法ここにあり」と言ったという。ここに大慧宗杲のもとに参じ、その法を嗣いだ。大慧宗杲が径山寺に移るとそれに従って明月堂に入った。大慧宗杲が隆興元年(1163)に示寂すると、仰山に分座した。乾道3年(1167)に鴻福寺住持となり、5年後に天寧寺住持となった。その後郡城が大火となり、寺もまた全焼してしまったから、拙庵徳光は再建の資金集めのため泉州まで航海して、寄進を集め、それによって寺院を再建した(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)

 淳熙3年(1176)春、孝宗(位1162〜89)の詔により臨安(浙江省杭州市)霊隠寺住持となった(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)。同年11月3日、孝宗に召されて対便殿にて謁見した。謁見は5日間におよび、皇帝が仏法の大旨に対する問いに答えた。この謁見によって拙庵徳光は孝宗の意にかない、淳熙4年(1177)正月24日には仏照禅師の特賜禅師号を賜った。淳熙5年(1178)10月2日にも再度召されて便殿にて謁見した(『古尊宿語録』巻第48、仏照禅師奏対録)

 淳熙7年(1180)4月29日、拙庵徳光は老いた身をもって阿育王寺に帰ることを奏上して願い出た。5月30日に便殿にて再度孝宗の謁見を受け、淳熙9年(1182)10月11日にも召されて謁見を受けた。さらに紹熙元年(1190)11月8日、譲位した孝宗の再度の召しによって謁見を受けた(『古尊宿語録』巻第48、仏照禅師奏対録)。紹熙4年(1193)径山寺の住持の請を受けたが、力を尽くして辞退したにもかかわらず、同寺の住持となった(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)。この頃、道元の師である長翁如浄(1163〜1228)が拙庵徳光に参じており、如浄は拙庵徳光について、雲水が修行する僧堂について全く関知せず、さらに雲水らに指導せず、ただ官客とのみ会っているとして、後に批判している(『正法眼蔵』第16、行持下)。紹熙4年(1193)2月19日に再度孝宗の召しにより謁見を受けた。その後謁見の記録は「奏対録」として刊行された(『古尊宿語録』巻第48、仏照禅師奏対録)

 慶元元年(1195)に阿育王寺に戻り、東庵に住んだ。また拙庵徳光へは数万緡の銭の寄進があり、阿育王寺は毎年5,000石増穀されて常住費の助けとなっていた。また水陸堂を阿育王寺の東に設けている(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)

 嘉泰3年(1203)2月、拙庵徳光は突然「われまさに行かんとす」といい、3月17日には遺表・貽書を書写し、20日朝に大衆を集めて別れを告げ、偈を説いて示寂した。3日後に棺に入れたが、容貌は生きているかのようであった。遺体を阿育王寺の東庵の後に葬った。朝廷より普慧宗覚大禅師の特賜号と、圜鑑塔の塔名を賜った。83歳。阿育王寺に住山すること23年に及んだ(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)

 拙庵徳光の事績の中で、日本三宝寺の大日能忍(?〜1195頃)に印可を与えたことは注目される。能忍は文治5年(1189)夏に使を宋に遣わし、法を拙庵徳光に請い、印可を得たという(『聖光上人伝』)。さらに拙庵徳光より「朱衣達磨像」と「拙庵徳光頂相」を得ており、そのうち「朱衣達磨像」は現在神戸市の古美術商が所有しており、「拙庵徳光頂相」も大正5年(1916)に下条正雄(1843〜1920)の売立が東京美術倶楽部で実施された際、鷲尾順敬(1868〜1941)と辻善之助(1877〜1955)が賛文を記録している。それらによると、日本国の能忍が弟子の練中・勝弁を遣わして達磨祖師遺像を求めたといい(「朱衣達磨像」)、また山(阿育王寺)に到って道を問い、さらに拙庵徳光の肖像を描いて賛文を求めたため、「この僧無面目、天関を撥転して地軸を掀翻す。忍師、脱体見得して親し外道天魔ともに竄伏す」と賛したとある(「拙庵徳光頂相」)。いずれも淳熙16年(1189)6月3日に阿育王寺にて拙庵徳光が書いた旨の紀年名がある。

 能忍が弟子を派遣した理由について、江戸時代に卍元師蛮(1627〜1710)が撰述した『本朝高僧伝』には、能忍が大悟したことを認める師がいないと批判されたからであるとしているが(『本朝高僧伝』巻第19、摂州三宝寺沙門能忍伝)、当時能忍が嗣法の問題で批判された形跡はなく、栄西が能忍と達磨宗を批判した際、嗣法ではなく無行無修と戒律を用いないことを批判していた(『興禅護国論』巻中、世人決疑門)

 禅宗において嗣法して印可を受けるには、本来ならば師の面前に参じて偈を呈する必要があるが、能忍は弟子を代理として派遣して印可を得ている。このような嗣法はほとんど例がなく、極めて特異な例であった。拙庵徳光が能忍に印可を与えた理由は「仏在世の生主法寿の例」によったからとも(「伝衣付属状」広福寺文書)、「異域の信種を憐れんだ」からともされる(『元亨釈書』巻第2、伝智1之2、建仁寺栄西伝)。それでも印可を与えた拙庵徳光は大慧宗杲の法嗣であり、かつ孝宗のあつい帰依を受け、大寺・阿育王寺の住持といった南宋を代表する高僧であったため、達磨宗は急速に勢力を拡大した。

 二人の弟子は文治5年(1189)8月15日に帰国したらしく、達磨宗ではこの日をもって禅がはじめて日本に渡った日とみなしている(『成等正覚論』)。また能忍がその後宋に渡って拙庵徳光より六代の祖師の舎利と大慧宗杲の袈裟を付属されたという説話が後代にあらわれたが(「摂州中島三宝寺六祖舎利大慧袈裟伝来記」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸14〉)、能忍が渡宋したということに関しては、嗣法問題が他宗の批判を浴びて以降につくられた説話とみられている。ただし六代の祖師の舎利と大慧宗杲の袈裟とするものはその後正法寺に渡って現存しており、大慧宗杲の袈裟とされてきたものは、実際には拙庵徳光の袈裟と考えられている(京都国立博物館2010)


伝拙庵徳光筆、達磨画賛(『稲葉子爵家平岡家御蔵品入札』〈東京美術倶楽部、1918年3月〉1頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。正法寺所蔵のものとは異なり、真筆とはいいがたいが参考までに掲載する。なお大徳寺の春浦宗熙(1409〜96)の点字外題、および大徳寺の春沢宗晃(1613〜94)・一渓宗什(1614〜80)・祥山宗端(1619〜93)による外題が付属したという。現在の所蔵者は不明。

日本における阿育王舎利信仰と阿育王寺

 仏舎利は光を放ち、火に入れても燃えず、槌で叩いても砕けないという特徴を有するものとされた。そのため仏舎利が金剛石(ダイヤモンド)にて代用されたことがあったらしい。なお婆羅門僧が仏舎利を得た際に、傅奕(555〜639)が「金剛石はただ羚羊の角のみが破壊することが出来る」といい、子に試させたところ、砕けたという(『資治通鑑』巻第195、唐紀11、太宗文武大聖大広孝皇帝中之上、貞観13年是歳条)

 阿育王信仰と日本の関係において次の記事が初出としてよく用いられる。隋の大業年間(605〜17)に倭国の官人会丞が留学に来ており、内外(仏教以外の学問と仏教)にひろく通じた。貞観5年(631)に本国の道俗7人とともに倭国に帰国の際に、都の僧侶が倭国の仏法について尋ねたが、その時に阿育王の八万四千塔が全世界に及んだというが、倭国にも阿育王塔があるかと質問すると、「我が国の文献に記載はないが、土地を開発するたびに往々として古塔の霊盤が出ており、それが光を放って多くの奇瑞があるから、あるのだろう」と答えている(『法苑珠林』巻第38、敬塔篇第35之2、故塔部第6)

 彼が「古塔の霊盤(『集神州三宝感通録』では露盤)」と言ったのが一体何であるのか不明であるが、弘仁12年(821)5月11日に播磨国で高3尺8寸(114cm)の銅鐸が発掘されているが、これを僧侶が「阿育王塔の鐸である」と述べたといい(『日本紀略』弘仁12年5月丙午条)、また貞観2年(860)8月14日に参河国渥美郡村の松山の中で出土した高さ3尺4寸(102cm)の銅鐸が献上されているが、これも阿育王の宝鐸とされたという(『日本三代実録』巻4、貞観2年8月14日辛卯条)、このような銅鐸発掘の例は古くから記録があり、崇福寺建立に際して銅鐸が発掘されているように(『扶桑略記』第5、天智7年正月17日条)、寺院建立に際して銅鐸の発掘が奇瑞とされた例として、他には石山寺があるが(『石山寺流記』)、阿育王との関連がなされたのは平安時代前紀からのことであり、その発端は奈良時代後期にあった。

 日本において本格的な阿育王舎利信仰の契機となったのが、天平勝宝6年(754)の鑑真の日本である。彼の請来した物の中に如来肉舎利が三千粒、阿育王塔様の金銅の塔一基があるが(『唐大和上東征伝』)、前述したように鑑真は阿育王寺に逗留しており、これが阿育王塔様の塔請来に繋がったとみられる。なお天平3年(731)8月10日に阿育王経五巻の写経が行なわれているが(「写経目録」正倉院文書続々修十二帙三〈大日本古文書編年7〉)、膨大な写経事業の一環とみるべきで、必ずしも阿育王舎利信仰との関連が見出せるものではない。また称徳天皇による神護景雲4年(770)の百万塔陀羅尼造立事業も阿育王八万四千塔との関連が指摘される。

 阿育王寺を最初に訪れた日本人が誰であったのか不明である。中世の説話であるが、寂照(962頃〜1034)は阿育王寺を巡礼して池の前に至ると、寺僧から日本の近江国蒲生郡の塔が池に光明とともに浮かんでくると言われ、そのことを寂照は書き記し、箱に入れて海に浮かべた。三年後に熊野山那智浦に着岸し、これを源信(942〜1017)が開けたという(『渓嵐拾葉集』石塔寺再興事記)。実際に咸平6年(1003)に、日本国の僧寂照が源信の「天台教門致相違問目二十七条」を延慶寺知礼(960〜1028)のもとに遣わしており(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、咸平6年条)、延慶寺と近かった阿育王寺のもとに赴いた可能性があるが、この説話をもって寂照が阿育王寺に巡礼した証拠とするのは、いささか無理がある。

 前述したように、阿育王寺を能忍の弟子が訪れているが、その後日本における阿育王寺信仰に重大な役割を果たしたのが重源(1121〜1206)である。重源は入宋して阿育王寺を訪れており、帰朝後の寿永2年(1183)正月24日に九条兼実(1149〜1207)に阿育王寺の様相と現地の信仰について述べており(『玉葉』寿永2年正月24日条)、また周防国の材木を送って阿育王寺舎利殿再建の材としている(『南無阿弥陀仏作善集』)

 白河法皇が得た仏舎利2,000粒のうち、1,000粒は阿育王寺から得たものであり、以後祇園女御(生没年不明)、平清盛(1118〜81)らに伝承されたという(「仏舎利相承図」胡宮神社)。また平重盛(1138〜79)は阿育王寺の拙庵徳光に金1,000両を寄進したといい(『平家物語』巻第3、金渡)、建保4年(1216)6月15日に源実朝(1192〜1219)と面会した陳和卿(生没年不明)が、実朝の前世を阿育王寺の長老(住持)であったと述べている(『吾妻鏡』建保4年6月15日条)

 道元(1200〜53)は嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)夏に阿育王寺に行ったが、西廊の壁間に西天東地三十三祖の変相が描かれているのを見ている(『正法眼蔵』仏性)。無本覚心(1207〜98)も淳祐10年(1250)阿育王山に赴いて2年間滞在しており(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐10年庚戌条)、以後中国に渡った禅僧は阿育王寺に滞在する者が多かった。


阿育王寺舎利殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

五山十刹制度下の阿育王寺

 紹定元年(1228)に無準師範(1177〜1249)が阿育王寺の住持となり、3年間住持を務めた(『無準師範禅師語録』附、径山無準禅師行状)。物初大観(1201〜68)は嘉定年間(1208〜24)のこととしており、年代があわないが、無準師範が史弥遠(1164〜1233)の援助のもと東西両閣を建立したと述べている(『明州阿育王山続志』巻第11、上壑翁相国啓)

 無準師範が阿育王寺の住持であった時、史弥遠から寺院造営の才を見出されて、荒廃していた径山寺の住持に任命されることになったが(『無準師範禅師語録』附、径山無準禅師行状)、その見出される契機となったのが前述の阿育王寺における造営であったようである。五山十刹制度は南宋代に宰相史弥遠の奏上により始めて江南に五山十刹の制度が定められたといい(『宋文憲公護法録』巻第1之上、天界善世禅寺第四代覚原禅師遺衣塔銘)、その序列は径山寺を筆頭として霊隠寺・天童寺・浄慈寺・阿育王寺の順に列せられていたと一般的に認識されているが(『扶桑五山記』第1冊、大唐禅刹位次)、浄慈寺と天童寺の序列が入れ替わる説(『西湖遊覧志余』巻14、方外玄蹤)、径山寺・阿育王寺・天童寺・霊隠寺・浄慈寺の順とする説がある(『禅林象器箋』巻1、区界類、五山)

 淳祐3年(1243)に笑翁妙堪(1177〜1248)が浄慈寺から移って阿育王寺の住持となった。法堂の破損が甚大であったため、修理を行なった。修理費は莫大なものであったが、孝宗が内帑金を賜い、荊湖制帥の孟キョウ(王へん+共。UNI73D9。&M020945;)(1195〜1246)が銭数万緡を援助したため、旧来のものを解体して新たに新造した(『明州阿育王山続志』巻第11、笑翁禅師行状)。またこの時に舎利殿の回廊を建立している(『明州阿育王山続志』巻第11、上壑翁相国啓)

 このように南宋代には経営手腕に優れた僧が住持となって多くの建物の建立・再建を行なっているが、その一人に物初大観(1201〜68)がいる。物初大観は俗姓を陸氏といい、幼くして両親を失い、叔父に養育された。生業に就いたものの道場山の北海悟心(生没年不明)のもとで得度・受戒した。はじめ阿育王寺の無準師範のもとにいたが、書記に任命されるも就かず、そこを去って浄慈寺の石田法薫(1171〜1245)のもとに参じた。夏安居が終わるとそこを退き、北澗居簡(1164〜1246)のもとに参じて大悟した。その後は北澗居簡に従って道場山・浄慈寺の第一座(前堂首座)となり、杭州の法相寺の住持となったのをはじめとして大慈寺・阿育王寺の住持となった(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、ボウ峰西庵塔銘)。大慈寺住持であった時には海を干拓して田畑数万畝をつくるなど経営に才を示した(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、ボウ峰西庵塔銘)。大慈寺住持時代に無学祖元(1226〜86)が物初大観のもとに参じているが、宝祐2年(1254)に大慈寺の浄頭(じょうとう。廁(東司)を掃除し洗浄水などを汲んで管理する役職)に無学祖元を任命している(『仏光国師語録』巻第9、告香普説首座請益)

 物初大観が阿育王寺の住持であった時には建物を多く建造している(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、ボウ峰西庵塔銘)。彼自身の述べるところによると、檀越の援助によって外山門・シャ(貝へん+余。UNI8CD6。&M036786;)庫堂の大権菩薩閣を建立したといい、さらに新宸奎閣・淳熙閣・等慈堂を建立して、舎利殿の翻蓋を取替えたいと述べている。また舎利殿の修理を行ないたかったらしいが、財力が不足しており、宰相に援助を求めている(『明州阿育王山続志』巻第11、上壑翁相国啓)

 咸淳4年(1268)夏に病に罹り、6月15日の示衆では別衆の語に似ていたため僧衆は驚いた。翌日左右の者に「わが日は迫れり」といい、死期が近いことを悟って紙に高麗国王からの書簡や檀越・諸山からの書簡数十幅を写して、遺物はすべて処分した。物初大観は「私の臂はこんなに健やかだが、人は私が死ぬと信じているのだろうか?」と言い、衣をとって坐った。しばらくしてみてみるとすでに示寂していた。門徒の清泰らは遺体を阿育王寺の西隅の塔の後方に葬った。ここは拙庵徳光の塔所と上下して互いに望む場所であり、物初大観の遺命であった(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、ボウ峰西庵塔銘)


 南宋が元に滅ぼされると、元の世祖(フビライ)は阿育王寺から舎利の宝塔を迎えて、内苑の万歳山、上都の龍光華厳寺、大都の大聖寿万安寺(現北京の妙応寺)といった寺院に安置した。世祖がみずから拝礼していたが、大聖寿万安寺では多くの光明が壇よりおこって高く寺塔を貫き、はるかに遠い宮中まで届いたという。世祖は大いに喜び、舎利の宝塔を護送して阿育王寺に戻し、名香や金幣を賜った。勅して殿宇を増築したが、それも過去の事になると寺は衰えていった(『明州阿育王山志』巻第4、王臣崇事、阿育王山広利禅寺承恩閣碑記)

 このように衰えた阿育王寺の再建に携わったのが雪窓悟光(1292〜1357)である。

 雪窓悟光は字を公寔、俗姓を楊氏といい、新都県(現四川省成都市新都区)の出身である。代々文章に優れた人物を輩出した一族の出であった。母は張氏といい、子が無かったため観音に祈ったところ、珠を授かる夢を見て、これによって妊娠したといい、風雨や景色に異変があったという。幼くして父母が相継いで没したが、哀悼や服喪は成人が行なう礼のようであったという。叔父の楊賢が天王寺にて仏教を学ぶのに従って、日々読経を行なった。楊賢が僧了冲によって得度すると、同学の者と遊学した(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)

 15歳の時に大慈寺の講席を聞いて、「名義を宗とすることによって、滞らせてはならない」といい、四川より出て方々の大禅寺を遍歴した。杭州にて東嶼徳海(1257〜1327)の名声を聞いて参じた。東嶼徳海は雪窓悟光を法器(大悟する人物)とみて、「三乗十二分教、すなわち問わず、如何がこれ最初の一句」と問いかけた。雪窓悟光は答えようとしたが、したたかに杖で打たれて追い出された。そこで固く堂中に坐したが、夜半に蛾が飛んで燈火に入るのを見て悟り、朝になるや方丈の東嶼徳海のもとに赴いた。そこでの問答はまるで響きのように通じ合い、多くの疑いがにわかに晴れた。雪窓悟光は「もし速やかに行脚して善知識(名僧)に会い、この事を究明していたならば、幾ばくかの義解に対する困難などなかったであろうに」と嘆いた。これ以後はますます内典(仏典)・外典(仏典以外の書籍)に精通し、浄慈寺の書記に任命された。東嶼徳海が霊隠寺住持となると、雪窓悟光も従って霊隠寺の侍者となった(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)

 数年後の至順元年(1330)に平江の白馬寺の住持となり、元統元年(1333)には広教都総管府の要請によって開元寺の住持に任命された(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)。広教総管府は天暦2年(1329)2月に僧尼を統制するため全国16箇所に設けられた官であり(『元史』巻35、本紀第35、文宗4、天暦2年2月戊申条)、元はこれによって仏教を国家の統制下に置いた。住持任命権も有しており、雪窓悟光が開元寺の住持に任命された時に就任を拒否したものの、郡守や士・民が強いたため、結局住持となっている(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)

 元統2年(1334)正月には広教総管府16箇所が統合されて、杭州に行宣政院が設置された(『元史』巻92、志第41下、百官8、行宣政院)。行宣政院は江南の仏教を政治主導のもと統制することを意図として設置されたもので、もとは至元28年(1291)に設置されていたが、度々廃止されており、この設置は3度目の設置であった。至正2年(1342)行宣政院使の納麟(1281〜1359)が寺院に巣くう弊害をすべて改めようと考えていた。この頃、僧が訴訟をおこすことが多かったが、これは寺院の大半が経営崩壊しており、食糧を継続して入手できなかったことによった。納麟は改革の手始めとして雪窓悟光を阿育王寺住持に任じた(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)。雪窓悟光が阿育王寺の住持に晋山したのは至正2年(1342)7月のことであった(『明州阿育王山志』巻第4、王臣崇事、阿育王山広利禅寺承恩閣碑記)

 雪窓悟光は3ヶ月の間に荒れ果てていた寺院の墾田を回復し、殿堂・廡下を修造し、祖堂・蒙堂・承恩閣を再建し、四天王像を山門に置いた(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)。再建した建物の中でも最も重要なのが承恩閣である。費用として白金200両を費やしてつくられ、規模は桁行7間、列楹(柱数)36本、高さ49尺(15m)に及んだ。この建物の機能は不明であるが、「上に像を設け坐して、即ちその下は伝宗の堂となし、後は方丈の堂となす」とあることから、法堂であったようである。至正10年(1350)2月に完成した(『明州阿育王山志』巻第4、王臣崇事、阿育王山広利禅寺承恩閣碑記)。朝廷は阿育王寺が舎利を所蔵しているから、毎年金幣を頒布し、雪窓悟光は皇帝より「仏日円明普済禅師」の禅師号を賜った。夏安居には阿育王寺に千人の雲水が集まるほどの盛況ぶりであった(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)

 至正17年(1357)、天童寺の住持職が空席となったため、行宣政院は雪窓悟光を住持に任命したが、雪窓悟光は五日分の説法を行なっただけで病となり、倚子に坐して紙筆をもとめて書を数十通つくり、遺偈を弟子に付して示寂した。至正17年(1357)6月1日のことであった。66歳(『明州阿育王山志』巻第8下、高僧伝法、有元阿育王山広利禅寺住持兼住天童景徳寺仏日円明普済禅師光公塔銘)


1920年代の阿育王寺全景(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉107頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



阿育王寺舎利単。背後にみえるのは先覚殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

阿育王寺の荘園

 寺院や教団をめぐる一般的理解として、清貧であり、金品に対して貪欲ではない者を是とし、そうでないものは批判の対象となっていた。とくに僧侶に対するイメージとして、金銭的に貪欲である者は、性的に墮落した者と同様の非難を受けることになる。

 これら批判を受ける対象者は、彼らの祖たる祖師などと対比され、墮落の象徴としてみなされる。いわば祖師のおこした事業は、弟子らの手によって発展をとげるが、彼ら墮落者があらわれ、やがて衰退する、いわば時代区分論のフィルターを無意識のうちに当該者に当てはめ、草創→発展→墮落→衰退のプロセスを経るうちの、まさに衰退への道の体現者とみなされるのである。草創期の祖師は理想化され、その像にはかなりの粉飾があって実像が隠されているとしても、非難の眼はより同時代へと向けられる。

 金銭的に貪欲である者への非難と同様に、寺院や教団において貯蓄を行なう者へも対象となる。「豊かな寺院」「豊かな教団」という語自体が、一定の皮肉と墮落のニュアンスを含んでいるといってよい。ところが寺院・教団では修行者に対する最低限度の生活の保障を行なう必要に迫られる。さらに大寺院ともなると最低限度の生活の保障といっても、その額は莫大なものとなる。例えば阿育王寺の僧数は公称千人を称したから、12世紀の段階で国家より寺領荘園が国家経済を阻害するほど莫大であるとして問題視されていたにもかかわらず、20万もの負債をかかえていた。

 これら大寺院の経営状態の悪化は、修行者達の最低限度の生活を保障できなくなる恐れがあり、それは修行の妨げのみならず、金銭など世間的事柄へ眼をむけさせることとなり、さらにいうならば墮落させる可能性があった。これらは在家信者の寄進・布施供養によってまぬがれるべきものであり、在家信者はこれを福田として菩提の功徳を得る因とした。在家信者にとって、日常と切り離される出家修行と異なり、福田は在家のままで行なうことができる功徳であり、同時に出家修行者はこれによって修行に専念することができるようになる。ただし福田の増加は寺院経営を複雑なものにするから、そこで大寺院においては、経営に熟達した人物を必要としており、経営の安定は修行者達の修行持続には必須事項であった。すなわち「豊かな寺院」「豊かな教団」は墮落→衰退のプロセスを意味するものではなく、大寺院存続の上で不可欠条件なのである。

 阿育王寺では経営安定のため、多くの荘園開発を行なっており、史料上では唐代より荘園開発の実態をみることができる。唐代の土地制度は、建中元年(780)に両税法に替わられるまで、均田法を主軸として展開していた。これは国家が民に対して土地を給付、それぞれの土地で得られた産物を国家に納め、その後国家に土地を返却するものであった。ところがこの均田法はすべての国民、すべての土地に適応されるものではなく、一部では皇族・貴族・寺院によって荘園の経営が行なわれた。

 阿育王寺もまた荘園を有しており、それについては、万斉融(生没年不明)が撰した「阿育王寺常住田碑」に子細が述べられている。万斉融は越州の人で、崑山(現江蘇省崑山市)の令(県知事)を勤めた。神龍年間(705〜07)には賀知章・賀朝・張若虚らとともに文才を以て知られた(『旧唐書』巻190中、列伝第140中、文苑中、賀知章伝)。最澄 (767〜822)が請来した典籍の一つとして、「天台山智者大師墳前左碑」1巻があり、これは「会稽上皇山の人、万斉融述す(五紙)」とある。天台山の智者大師の墳には馬碓撰の「裏碑一巻」と龍泉寺崙法師撰の「右碑一巻」があり(『伝教大師将来台州録』)、大中8年(854)2月9日に智者大師の墳を訪れた円珍(814〜91)が、「右柱の碑文」を見ており、これは貞元年間(785〜805)に書写・請来されたもので相違がなかったといい(『行歴抄』大中8年2月9日条)、円珍が見た碑文が「右碑一巻」の方であり、万斉融の碑文はこの時存在していなかったらしい。会昌の廃仏の影響で破壊された可能性がある。いずれにせよ万斉融は浙江周辺において知られた文人であり、多くの碑文をなしているが、他に大明寺厳峻(692〜771)の友人の一人として数えられており(『宋高僧伝』巻第14、明律篇第4之1、唐洪州大明寺厳峻伝)、天宝15載(756)に玄儼(671〜738)の頌徳碑を作成しており(『宋高僧伝』巻第14、明律篇第4之1、唐越州法華山寺玄儼伝)、また法持(625〜706)の塔を門人の慧遠が建立した際、碑銘を撰述している(『宋高僧伝』巻第8、習禅第3之1、唐金陵延祚寺法持伝)

 この「阿育王寺常住田碑」は、のちに「寇盗」に破壊されたという。その後再建されなかったが、恵印なる僧がこの碑文を記録して所蔵していたため、太和7年(833)阿育王寺の老宿の僧である明秀・志詮や、三綱の志仁・棲雲・巨嵩が建議して再建されることになった。この時、范的なる隠者が揮毫して、後記を明州刺史の于季友(生没年不明)が撰述したという(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、育王寺碑後記)

 「阿育王寺常住田碑」によると、阿育王寺の荘園は、南朝宋の元嘉2年(425)に阿育王寺から東に15里の場所にある田地を文帝(位424〜53)より賜ったのをはじめとする。さらに梁の武帝(位502〜49)は勅してその賦役を免除した。普通年間(520〜27)には僧綬なる人物が、草木の伐採などの開発を行って、田地を阿育王寺の常住田として拡張した。その後、僧済なる人物が私財をなげうって堤防や畦をつくったが、成果を得ることはできなかった。陳・隋末の戦乱のため、阿育王寺の常住田は荒廃し、田地はまるで雑草を養っているような有様であったという(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王寺常住田碑)

 唐代になると、湖の左右にあった田地を整理して、荒れ地を開墾した。湖の西の地は他に譲渡し、湖の東の10頃(58アール)を割き、賜地を復旧した。これらの再開発は前寺主の簡・皎が行なったが、再度荒廃してしまったという(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王寺常住田碑)。このように阿育王寺の前寺主が開発を行なっているのは、開元10年(722)に寺観の常住田は僧尼・道士・女冠を退いた者に許されたことによるもので、さらに寺僧が100人以上の場合であっても10頃を超えることは許されていなかった。50人以上はさらに少なく7頃、50人以下は5頃が限度であった(『唐会要』巻59、尚書省諸司下、祠部員外郎条)

 恵炬は今後に備えて米穀などの備蓄を行なうなどしたが、阿育王寺の常住田の発展は法言によるところが大きかった。法言は常住田を司ること10年近くに及んでおり、その間段差や窪のある地を埋めて耕作地の面積を拡充し、畦を掘削。さらに稗(ひえ)などが生い茂っていた地を改良し、竹垣を石垣に替え、潅漑を行なって水害を防いだ(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王寺常住田碑)

 阿育王寺の荘園は宋代になると飛躍的拡大を遂げる。紹興元年(1131)に高宗(位1127〜62)が会稽に行幸した際に、仏頂光明の塔の文字を揮毫した阿育王寺に賜るとともに、詔書によって寺衆増加のため田畑を購入することを許可した(『渭南文集』巻18、明州育王山買田記)。紹興28年(1158)から乾道3年(1167)にかけて大円遵璞は堤防を築いて田畑とし、収穫物は般若会を催してそこで使用しており、さらに妙智従廓は荘園を設けて般若荘と名付けている(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、上塔般若会碑)

 前述の高宗の田畑購入が実現するのは50年をへた淳熙16年(1189)のことで、拙庵徳光が霊隠寺住持時代に孝宗の帰依を得て賜った金銭や、大臣・富商・故事からの供え物によって田畑を購入している。この田畑は毎年5,000石の歳入を得たという(『渭南文集』巻18、明州育王山買田記)

 南宋の宝慶年間(1225〜27)時点での寺領荘園は常住田が3,284畝、所有する山林が19,950畝におよんだが(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)、南宋初頭には径山寺と阿育王寺の寺領荘園が、国家経済を阻害するほど莫大なものであるとして、問題視されていた(『建炎以来朝野雑記』巻16甲集、財賦3、僧寺常住田)

 阿育王寺の荘園拡張は元代になっても継続された。東生徳明(1243〜1326)が住持の時に、碧海克ェ・石山惟分・氷房希檗らによって銭3万緡を獲得し、これによって岸を堤防として潮を防ぎ、大徳8年(1304年)12月に荘園が完成し、毎年1,000穀の収穫を得たという(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、広利荘記)。雪窓悟光の法嗣である象先元輿(生没年不明)は岳林寺の住持であるが、もとは開元寺で出家し、阿育王寺に移って要職を歴任し、寺の西塔を改造するなど、造作で功績を挙げた(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王山広利禅寺報本荘塗田記)。彼はとくに黄賢塘という堤防を築いて田2,000畝の荘園を新たになし、「報本荘」と名付けられた。また他に1,000畝で「中義荘」が形成されたが、これらはいずれも妙智従廓の般若荘に隣接していた(『明州阿育王山志』巻第4下、王臣崇事、阿育王山広利碑銘并序)。象先元輿はこれらの功績もあり、陞座して明覚寺の住持となって再興し、後に岳林寺住持となった後、阿育王寺住持に晋山した(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王山広利禅寺報本荘塗田記)。いわば、これら造作に優れた者は寺院の住持となって経営手腕を期待されたのであり、またこれらの功績は晋山に優位に働いたことが見て取れる。

 しかし象先元輿の荘園は至正25年(1365)の台風によって破壊され、さらに明代に入って洪武元年(1368)には再度の台風来襲によって壊滅的打撃を受けた。荘園が崩壊したからといっても、賦役が発生するため、檀越の応氏・林氏は約之崇裕(1297〜1378以降)に復興支援を要請した。約之崇裕はこれに答えて、まず自身の衣を資金とし、堤防を再構築し、その長さは4,000尺(1,2km)、幅は50尺(150cm)で高さはその三分の二ほどであった。洪武6年(1373)12月24日に着工し、洪武8年(1375)9月10日に完成した。工費は60,000に及んだ。約之崇裕は郷老との間に荘園は郷と阿育王寺の共有であることを確認し、役人を呼んで荘園を立券した(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王山広利禅寺報本荘塗田記)

 これ以降の阿育王寺の寺荘の経営実態について、詳細なことはわからない。


阿育王寺舎利殿前の重刻された阿育王寺常住田碑および宸奎閣碑(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

明・清代の阿育王寺

 洪武15年(1382)阿育王寺は禅宗五山の第5位に再班され、住持の崇裕は寺塔や荘園を修復した(『明州阿育王山続志』巻第14、新纂ギン県誌)。永楽14年(1416)に仏殿が焼失したが(『重修寧波府志』巻18、ギン県、寺、育王禅寺)、同年住持宗正が再建しており、弘治年間(1488〜1505)には住持広福によって玉几松堂が再建された。広福は正徳12年(1517)にも上塔の修復を行なっている(『明州阿育王山続志』巻第14、新纂ギン県誌)

 嘉靖4年(1525)正月に山門が焼失したため、やはり広福らが再建を行なっており、この年冬からはじまった再建工事は嘉靖8年(1529)正月に完了した(『明州阿育王山志』巻第3、塔廟規製、阿育王寺重建山門記)。また嘉靖年間(1522〜66)に倭寇対策のため胡宗憲(?〜1565)の軍が寧波に駐屯したが、その軍が金鍾と舎利を持ち去ったため、後に住持の無漏伝瓶(1566〜1614)が真珠と金で舎利を偽造して補填したという(『黄梨洲文集』巻2、記類、阿育王寺舎利記)

 万暦年間(1573〜1620)には住持の無漏伝瓶が仏殿を再建しており(『明州阿育王山続志』巻第14、新纂ギン県誌)、この時の再建は山門・廊廡・僧室・禅堂などにも及んだという(『明州阿育王山志』巻第2、舎利縁起、重建塔殿縁起)

 伝瓶示寂後は弟子の正理が住持となった(『明州阿育王山志』巻第2、舎利縁起、重建塔殿縁起)。正理は崇禎年間(1628〜44)に舎利殿の修復を行なっている。清代になって順治5年(1648)、住持行雪待が舎利殿を移して西向きとしたが、康熙元年(1662)に阿育王寺は焼失し(『明州阿育王山続志』巻第16、先覚攷補遺、重建鐘楼記)、康熙18年(1679)に住持海覚によって再建された(『明州阿育王山続志』巻第14、新纂ギン県誌)。これ以降は記録が少なく、詳しいことはわかっていない。

 また万暦年間(1573〜1620)には郭子章(1543〜1618)によって『明州阿育王山志』が編纂された。これは『普陀山志』の例に倣って条項として十門をたて、門ごとに一巻としたものである。その内容は地輿融結・舎利縁起・塔廟規製・王臣崇事・神明郊例・瑞応難思・福田常住・高僧伝法・提唱宗乗・玉几社詠からなり、地輿融結は阿育王寺付近の地勢を概論し、舎利縁起は釈迦の舎利の由来を、塔廟規製は阿育王塔建造について、王臣崇事は帝王や文臣などが阿育王寺に賦した文章を、神明郊例は霊験について、瑞応難思は霊異譚の類を、福田常住は寄進された寺領や荘園について、高僧伝法は住持した僧の中でも重要人物の伝や塔銘を、提唱宗乗はその他の住持の略伝を、玉几社詠は阿育王寺について書かれた詩文を記した。のちに『阿育王山続志』も編纂され、乾隆22年(1757)に正続あわせて16巻として版行された。

 現在の阿育王寺の主要建築の大半は咸豊年間(1851〜61)のものとみられており、記録が少ないため不明であるが、太平天国の乱で被災した可能性がある。阿育王寺は文化大革命で仏像はすべて破壊され、寺も荒廃した。伽藍は海軍の兵舎となり、天王殿は工場となって自動織機が稼働する有様であった。そのため長い間公開されていなかったという。現在は天童寺と並んで寧波の名所として多くの観光客を集める。


阿育王寺伽藍配置概念図(関口欣也「中国江南の大禅院と南宋五山」〈『仏教芸術』144、1982年9月〉所載の図をもとに、現地調査記録ノートとあわせて概念化した。管理人作成)

[参考文献]
・常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』(法蔵館、1939年10月)
・高楠順次郎監修『南伝大蔵経60 島王統史・大王統史』(大蔵出版、1940年5月)
・周藤吉之『唐宋社会経済史研究』(東京大学出版会、1965年3月)
・横山秀哉『禅の建築』(彰国社、1967年3月)
・セデス/辛島昇・内田晶子・桜井由躬雄訳『インドシナ文明史』(みすず書房、1969年12月)
・神田喜一郎・西川寧監修『書跡名品叢刊171 宋・蘇東坡・宸奎閣碑』(二玄社、1972年1月)
・石井修道「仏照徳光と日本達磨宗-金沢文庫保管「成等正覚論」をてがかりとして-下」(『金沢文庫研究』20(12)、1974年12月)
・村田治郎「中国の阿育王塔1」(『仏教芸術』114、1977年8月)
・今村与志雄訳注『酉陽雑俎』第4巻(平凡社東洋文庫、1981年9月)
・山崎元一『アショーカ王伝説の研究』(春秋社、1979年2月)
・関口欣也「中国江南の大禅院と南宋五山」(『仏教芸術』144、1982年9月)
・横山秀哉「宋代天童寺伽藍の規模について」(『禅研究所紀要』11、愛知学院大学、1982年)
・佐藤達玄『中国仏教における戒律の研究』(木耳社、1986年)
・平川彰『初期大乗仏教の研究T(平川彰著作集 第3巻)』(春秋社、1989年11月)
・平川彰『初期大乗仏教の研究U(平川彰著作集 第4巻)』(春秋社、1990年2月)
・山田明爾「インドおよび周辺の舎利容器」(『仏教芸術』188、1990年2月)
・諏訪義純『中国南朝仏教史の研究』(法蔵館、1997年5月)
・グレゴリー・ショペン著/小谷信千代訳『大乗仏教興起時代インドの僧院生活』(春秋社、2000年7月)
・『特別展 仏舎利と宝珠-釈迦を慕う心-』(奈良国立博物館、2001年7月)
・藤善眞澄『道宣伝の研究』(京都大学学術出版会、2002年5月)
・野口善敬『元代禅宗史研究』(禅文化研究所、2005年7月)
・『特別展 聖地寧波【ニンポー】』(奈良国立博物館、2009年7月)
・『特別展覧会 高僧と袈裟-ころもを伝えこころを繋ぐ-』(京都国立博物館、2010年10月)
・追塩千尋『日本中世の説話と仏教』(和泉書院、1999年)
・沖本克己他編『新アジア仏教史08 中国V 宋元明清』(佼成出版社、2010年9月)
・慧皎著/吉川忠夫・船山徹訳『高僧伝(四)』(岩波文庫、2010年9月)
・奈良康明・下田正弘他編『新アジア仏教史02 インドU 仏教の形成と展開』(佼成出版社、2010年10月)


【追記】
阿育王寺は具名を阿育王山広利禅寺といいます。俗称を育王山(いおうさん)といい、日本では伊王山・医王山と呼ばれましたが、勅額を賜って育王山広利寺・育王山広利禅寺と称され、清代には育王寺・育王禅寺と称されました。ガイドブックなどでは「阿育王寺(あしょかおうじ)」というルビがついているのですが、歴史的には「あいおうじ」が正しいのです。

更新日:平成23年(2011)7月18日


阿育王寺鼓楼(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)



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