真如寺



真如寺薬医門前(平成20年(2008)2月18日、管理人撮影)

 真如寺(しんにょじ)は京都市北区等持院北町に位置する臨済宗相国寺派の禅宗寺院です。山号は万年山で、隣接する等持院や本寺の相国寺と同じ山号です。真如寺の前身は無学祖元の塔所正脈庵で、開基は無外如大尼です。正脈庵は暦応3年(1340)に高師直によって寺院化され、無学祖元を勧請開山とし、かつては京都十刹第3位の寺格を誇っていました。


開山仏光禅師無学祖元@ 〜誕生から祖国滅亡まで〜

 無学祖元(1226〜86)は、諱は祖元で、字は子元といい、無学は号である。無学祖元の伝記は没後いくつか編纂されており、主なものだけでも、@中国杭州(浙江省)浄慈寺の霊石如芝(りんしいにょし。13世紀)が撰した「無学禅師行状」、A大徳2年(1298)11月に中国慶元道(浙江省)の用潜覚明(生没年不明)が撰した「無学和尚行状」、B無学祖元の法孫天岸慧広(1273〜1335)が入元して翰林学士掲ケイ(にんべん+奚。UNI5092。&M000959;)斯に撰文を要請し、それをさらに資政大夫全岳柱が篆額した塔銘、C無象静照(1234〜1306)が撰した「仏光禅師行状」、D日本の禅僧虎関師錬(1278〜1346)が撰述した僧伝である『元亨釈書』巻第8に所載される「宋国祖元伝」、E漢建長寺住持の東陵永ヨ(王へん+與。UNI74B5。&M021297;)(?〜1365。無学祖元の俗姪孫)撰の「大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘」、F建長寺の中山法穎(?〜1363)が塔銘(B)の各節ごとに霊石如芝「無学禅師行状」(@)や用潜覚明の「無学和尚行状」(A)、『元亨釈書』などを典拠として挿入した「仏光禅師塔銘」がある。これらのうち、@〜C・Eは『仏光円満常照国師語録』を再編した『仏光国師語録』の巻9に、Fは同じく『仏光国師語録』の巻10に収められており、『仏光国師語録』は『大正新修大蔵経』第80巻(大正蔵2549)および『大日本仏教全書』第95冊に翻刻されている。またEは独立して『続群書類従』第9輯上(巻227)に収録されている。いずれも書き下し、現代語訳はいまだ存在していないが、Dのみは『国訳一切経 和漢撰述部 史伝部19』に書き下しがある。なお『国訳禅宗叢書 第2輯第2巻』には「国訳仏光円満常照国師語録」が収録され、書き下しがなされているが、これは江戸時代に版行された4巻本をもとにしたものであり、無学祖元の諸伝が掲載されている10巻本系統ではない。

 無学祖元は中国の南宋の宝慶2年(1227)3月18日に生まれた(『元亨釈書』巻第8、浄禅3之3、宋国祖元伝)。無学祖元の母国南宋は、もとは中国大陸を統一した王朝であったが、靖康元年(1126)北方の新興国金によって首都を攻め滅ぼされた。華北を金に奪われたものの、翌年皇帝の弟(高宗)を中心とする残存勢力は江南の地を根拠として国を再興。北方の金と対峙した。
 無学祖元の出身地は慶元府(浙江省)ギン(勤の左+おおざと。UNI5807。&M039607;)県出身で(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)、同県の翔鳳郷出身であるという(『仏光国師語録』巻第9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)。俗姓は許といった。父の名は伯済で、高官の末裔であった。母の陳氏はかつて夢に、ある僧から襁褓(むつき)の嬰児を授けられた夢をみたが、懐妊していた。母はすでに子が多かったから喜ばなかったが、夜、午刻にある白衣の女子が寝床に登って母の腹を指さして、「この児は佳い男子である。善く保育して棄ててはならない。」といった。誕生する時、白い光が部屋を輝かし、部屋にいた者はみな驚きあやしんだ(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)

  1歳になる頃、書物や玩具を並べて嗜好を試してみたところ、無学祖元は笑って仏典1巻を手にとって離さなかった。7歳の時、儒教を教える塾で読みを習ったが、その応対は周囲に抜きんでていた(『仏光国師語録』巻第9、無学禅師行状)。また普段は姉妹と一緒にいたとしても必ず席を異にし、酒や肉をみれば悪臭にあったようであったという(『仏光国師語録』巻第10、仏光禅師塔銘)。12歳の時、父にしたがって山寺で遊んだが、僧が竹影にて階段を掃いているにもかかわらず埃が動かず、また月が波の底を穿っているにもかかわらず水の痕がないのをみて、ことさらに警省を感じた。13歳の時に父を失い、出家した(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)。兄はこれより先に出家していたが、名を懐徳といい、仲挙和尚と号し、昌国延福禅寺に住み、退いて天童寺に帰って示寂した人物であった。彼もまた仏教界に名声を得た人物であった(『仏光国師語録』巻9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)。7月に兄にしたがって臨安府の浄慈寺(じんずじ)にて出家し、はやくも10月には住持の北澗居簡(1164〜1246)禅師に礼して祝髮(剃髪)し、この年中に具足戒を受けた(『仏光国師語録』巻第9、永ヨ撰、仏光禅師行状)。浄慈寺は五代十国の時代、杭州を支配していた呉越によって建立され(975年)、南宋による杭州への遷都後には霊隠寺と並ぶ大寺であり、中国五山の第4位に列せられるほど高い寺格を誇った。

 その後無学祖元は北澗居簡のもとを去って径山万寿寺に登り、無準師範(1178〜1249)にまみえた。無準師範(1177〜1249)は、明州の清涼山・育王山などを歴住し、中国五山第1位の径山万寿寺の住持となった。画僧牧渓や入宋僧円爾など多く門弟を輩出した。無準師範に参じた時期について、出家・受戒した翌年の14歳説(『仏光国師語録』巻第9、用潜叟覚明状、無学和尚行状。および『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状。および『元亨釈書』巻第8、浄禅3之3、宋国祖元伝)と17歳説(『仏光国師語録』巻第9、静照撰、仏光禅師行状)があるが、無学祖元自身の談によると14歳の時であったらしい。

 無準師範は無学祖元に「狗子無仏性の話」を示し参禅させた(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)。「狗子無仏性の話」とは、趙州従シン(ごんべん+念。UNI8AD7。&M035660;)(778〜897)がある僧に「犬にも仏性がありますか。」と問われ、「ない。」と答え、その僧はさらに「上は諸仏から下はありに至るまで、すべて仏性があります。犬にはなぜないのですか。」と問いかけると趙州従シンは「彼に業識性があるからだ。」と答えたというものである(『趙州録』上)。大乗仏教ではすべての人間や存在は仏性、すなわち仏になる可能性を具えていると説いているが、ここでは有無を分別による二元論ではなく、それを超越した「無」であるとされ、この「狗子無仏性の話」は参禅者を論理以前の世界に導く公案としてたびたび用いられた。無学祖元もこの公案には相当苦労したようで、この間の事情について、以下のように述べている。
 「老僧(無学祖元のこと)は14歳の時に径山に登り、17歳の時に発心して。「狗子無仏性の話」に参じた。自ら一年を期して、了当(不備のないようにする)を要したが、とうとうわからなかった。また一年を要したが、それでもまだわからない。さらに3年たったがまた悟りを得られなかった。5・6年目に到っても悟りを得られなかったが、この「無」字だけを見続けた。夢にも見、天や地もただこの「無」字だけ。中間にもこれだけということを老僧は自ら教えられた。」(『仏光国師語録』巻9、告香普説首座請益)

 無学祖元は無準師範の意をうけて志を刻んで参究した。禅堂を出ないこと5年目のある夜の四更(午前2時頃)、僧侶達を起床させるために首座寮でたたく版の音を聞くと、口をついて偈を説いて、「一槌撃砕す精霊の窟、突出す那咤鉄面皮。両耳聾のごとく口は唖のごとし、等閑(なおざり)触著(ふれ)て火星飛ぶ。」といい、これを無準師範に頌を呈したが、無準師範はよいとも、よくないともいわず、ただ地上にこの頌を放り投げるだけであった。無学祖元は一旦この頌を僧堂に持って帰ったが、無準師範の意図することを理解できなかった。数日すぎて再度無準師範のもとに上ると、無準師範は「お前は香厳悟道の頌を見たか」と聞いてきた。「香厳悟道の頌」とは、唐代の禅僧香厳智閑がほうきで庵のまわりの掃除をし、石が飛んで竹に当った時に悟りを得て、イ(さんずい+爲。UNI6F59。&M018238;)山禅師に捧呈した頌のことである。無学祖元は「かつて老和尚さま(無準師範のこと)が私に教えて下さったことを覚えています」といい、その前頭の二句を述べて、「こうなっていますが、ありのまま現れており、どうして参尋(公案)に用いるのですか」というと、無準師範は「動容古路に揚げ、哨然の機に堕せず」と無学祖元が述べた二句の後句を述べ、「どうだ」と問いかけた。無学祖元は説くことが出来ず、無準師範は竹箆を手にもって無学祖元をぶちのめして追い出してしまった(『仏光国師語録』巻第9、告香普説首座請益)

 しばらくもしないうちに、無準師範は示寂してしまったため、霊隠寺(りんにんじ)の石渓心月(?〜1254)のもとに参禅した(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)。霊隠寺は浄慈寺と同じ杭州に位置しており、東晋の咸和元年(326)に建立されたともいわれ、唐代には名僧を輩出した。やがて禅寺となり、中国五山第2位の寺格を誇った。現在でも新年になると成田山新勝寺のように極めて多くの参詣者で賑わう。
 無学祖元が石渓心月のもとに参禅した翌年、偃溪広聞(1189〜1263)が育王山から浄慈寺に移ってきて、無学祖元に記室を司らせ書記にしようとしたが、無学祖元は辞退した。ある日、松源崇岳(1132〜1202)の『松源和尚語録』の普説に掲載されている「打牛車の話」をみて、また心に感じ入るものがあった。石渓心月は無学祖元を蔵主としたが、無学祖元は職を辞して霊隠寺の霊鷲庵に身を寄せた。その時、虚堂智愚(1185〜1269)は住していた育王山を去って浄慈寺の松源祖塔(松源崇岳塔所)にやって来てとどまったが、無学祖元は虚堂智愚のもとに参禅した(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)。すぐれた僧達が波のようにやってきては弁じたてたが、集りとどまることは優しいことでなかった。

 淳祐12年(1252)無学祖元27歳の時、再度霊隠寺に戻って住し、鷲峰庵の虚堂智愚のもとに参禅した。しかし無学祖元は虚堂智愚の法話をまったく理解することができなかった。そのため虚堂智愚は無学祖元にむかって「お前は将来、説禅長老(禅の講釈師)程度しかなれないだろう」といわれてしまったが、無学祖元は心の中では「禅を正しく理解しようとしているのだから、どうして私が説禅長老になるのを嫌であるというのだろうか」と反発していた。それでも無学祖元は一夏に20回も虚堂智愚のもとに参禅し、虚堂智愚も古今様々な例を引用して懇切丁寧に無学祖元を指導した。それでも無学祖元は虚堂智愚の話を理解できなかったのだが、虚堂智愚はただ微笑するだけだった。ある日、石林行鞏・氷谷□衍・横川如キョウ(王へん+共。UNI73D9。&M020945;)が天台山国清寺に行くことになり、虚堂智愚は送別の詩を無学祖元に見せた。無学祖元は「内容に全く禅がありません」といったため、虚堂智愚は「お前はそれでも五山の蔵主だというのか」といって無学祖元の顔面を送別の詩の紙で打ちすえた(『仏光国師語録』巻第9、告香普説首座請益)

 秋に天童寺に戻ったが、大慈寺の物初大観(1201〜68)に参禅した。宝祐2年(1254)には大慈寺の浄頭(じょうとう。廁(東司)を掃除し洗浄水などを汲んで管理する役職)となっている。ある日、井楼にて水を汲むためロクロを動かしていると、百千の三昧がみなロクロを動かす手頭にあるように思え、かつて師無準師範より提示された香厳撃竹の話がまるで別室に入ったかのように解けたのであった。無準師範が世を去って7年、その顔が無学祖元の心に想い出された(『仏光国師語録』巻第9、告香普説首座請益)

 翌年、里人の萍郷(江西省宜春県。宋代は袁州に属した)の宰である羅季勉が東湖白雲庵に無学祖元を招いた。物初大観は無学祖元に「元首座住羅庵に送る」の語二首を贈った。無学祖元は蒲を編んで居住とした。7年後に母が没したため再度霊隠寺に戻った。

 景定4年(1263)冬、退耕徳寧(?〜1269)が蘇州万寿寺から霊隠寺に遷ってきた。無学祖元は退耕徳寧にしたがい、第二座となって説法した(『仏光国師語録』巻第9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)

 咸淳5年(1269)10月2日、無学祖元のいた臨安府霊隠寺の首座寮のもとに、宋の朝廷の尚書省からの箚(とう。通達書)による招きがあり、無学祖元を真如禅寺の住持とすることが達せられた。これは南宋の宰相である賈似道(1213〜75)が無学祖元の名声を聞いて真如寺住持の箚が授けられたのであった(『元亨釈書』巻第8、浄禅3之3、宋国祖元伝)。この月20日に入院(じゅえん。新任の住持が初めて寺に入って住すること)した。この年44歳。しかしこの頃南宋は風前の灯火であった。北方の大国元による怒濤の攻撃をうけ、無学祖元が霊隠寺住持となった前年の咸淳4年(1268)には最重要拠点襄陽の包囲戦が開始されていた。

 徳祐元年(1275)になると元軍は首都臨安近郊まで迫り、兵馬は台州・温州に侵入していた。無学祖元は4年前から横川に入寺していたが、温州雁山(雁蕩山)の能仁普済寺に避難することになった(『仏光国師語録』巻第9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)。翌徳祐2年(1276)元兵はついに能仁普済寺に到った。寺衆はみな匿れたが、無学祖元は一人榻(いす)にじっとすわっていた。元の兵卒が無学祖元の頚に刃をあてたが、無学祖元の顔色は変ることなく、偈を説いて、
   乾坤無地卓孤キョウ(たけかんむりの下にこうへん+卩。UNI7247。&M059830;。)
   喜得人空法亦空。
   珍重大元三尺劍。
   電光影裏斬春風。

   乾坤孤キョウを卓(た)つるに地なし
   喜び得たり人空法もまた空なることを
   珍重す大元三尺の剣
   電光影裏に春風を斬る
 この頌を聞いた兵卒は悔い、無学祖元に謝り去っていった(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)。この年、首都臨安が陥落し、ついに南宋は事実上滅亡した。一部の残存勢力は元に対して絶望的な抗戦を続けることになる。

 この「臨剣の頌」には後日譚がある。大徳2年(1298)、日本の雪村友梅(1290〜1347)は悪化した日元関係を受けてスパイとみなされて捕えられ、獄に入れられた。雪村友梅は中国語に巧みであったため、雪村友梅が参禅した叔平□隆禅師は、雪村友梅を中国人であると言い張って死刑を免れさせようとしたが、かえって誣告する者があり、叔平□隆禅師も連坐して捕えられ、獄死した。雪村友梅は処刑されることとなり、刑吏が白刃を加えようとした時、雪村友梅は突然無学祖元の「乾坤無地卓孤キョウ」の頌を想い出し、これを唱えて免れることができた。これによって雪村友梅はその名を天下に知られることになる。この時皇慶2年(1313)2月7日、雪村友梅24歳の時であった(『勅諡宝覚真空禅師前住大唐京兆翠微寺後住日本京城東山建仁禅寺雪村大和尚行道記』・『岷峨集』下)。後日、泰定2年(1325)、中巌円月(1300〜75)が元に渡って本覚寺の霊石如芝に参じた時、霊石如芝は「今年日本人は何人が浙江にやって来たのか」と問い、中巌円月は「20余人です」と答えた。霊石如芝は「容易なことではない。千郷万里を超え、道のために身体を忘れるというべきであろう。往年、雪村友梅という者が元朝にやって来て、官軍が刃を頚にあてたが、恐れることなく「乾坤無地卓孤キョウ」といったから、兵は敢えて害することなく、悔謝して去ったそうだ」といった。中巌円月は「この頌は子元和尚(無学祖元)の作で、雪村の作ではありません」というと、霊石如芝は怒鳴って「お前は郷人の名誉をなることを欲しないのか。世間の人はみんな雪村の作ったものだといっているのに、お前はそうではないという。お前だけではない、私はお前の国の者をみてきたが、人ごとにこれをそのようにいう。思うにお前の国の者は人の成功をよろこばないのだ」といった(『藤陰瑣細集』)。このように「臨剣の頌」は元では無学祖元の作ではなく、雪村友梅の作とされていた。中巌円月に「臨剣の頌」が無学祖元の作であると指摘された霊石如芝であるが、後日「無学禅師行状」を撰した時、その誤りをただしている(円覚寺1964)


霊隠寺志図七(杜潔祥主編『中国仏寺史志彙刊23武林霊隠寺志』〈明文書局、1980年1月〉29頁より一部転載)。清の孫治撰『霊隠寺志』(1663)の付図。清代の図であるが、霊隠寺の前近代における雰囲気がうかがえる。

開山仏光禅師無学祖元A 〜日本へ〜

 無学祖元は至元14年(1277)天童山に戻った。この時天童山の住持であったのが、環渓惟一(?〜1281)であった。環渓惟一は無準師範の法嗣であり、無学祖元とかつての同門であることから、しばらくもしないうちに請いによって彼の第一座となった。そのため衆をあげてよろこんだという(『仏光国師語録』巻9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)

 至元16年(1279)夏、日本の船が中国江南の港に来着した。これは北条時宗の使の船であり、鎌倉建長寺の住持職が空席となったため、それに相応しい人物を中国に求めたためであった(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)。時宗は徳詮蔵主・宗英典座の二人を遣わして、宋(当時すでに元の支配下にあったが)の名僧の誰かを招聘しようとした(「北条時宗書状」円覚寺文書4)。徳詮蔵主・宗英典座の二人は当初環渓惟一を招聘する予定であったが、環渓惟一が齢80歳であったため、天童寺の第一首座であった無学祖元が代わりに日本に行くことになり、環渓惟一は鏡堂覚円を侍者としてつけたという(『臥雲日件録抜尤』長禄元年5月21日条)。無学祖元自身が後に語ったところによると、「老僧は大唐(宋)にいた時、日本の兄弟(ひんでい)で同住する者が多かったとはいえ、かつて互いに交流することなく、ただ仏法が盛んな国であることは知っていたが、また子細を問うこともなかった。15・6年前(1264〜65頃)、古澗□泉が日本から帰ってきて開寿寺で会った。古澗□泉は“最明寺殿(北条時頼)は世の栄えを棄捨し、身に法服をつけ、後に入寂の時に臨んで、坐禅の姿のまま示寂した。”といい、また“大将軍(北条時宗)は私と再会するのを待っている。”といった。私は“かのところの王臣が仏法を崇重するのがそのようであるのならば、どうして再び日本へ去らないのか。”といった。その時、深夜で大雪が降っていたが、私はそのためもあって戯れに“あなたがもし日本へ去るのならば、私も同行しよう。”といった。」と述べているように(『仏光国師語録』巻6、普説、太守元帥請為最明寺殿忌辰普説)、宋地に日本人が多くいて、日本で仏法が盛んであることを知ってはいたものの関心はなく、古澗□泉との会話ではじめて日本に関心をもったことが知られる。
 無学祖元は「鼻祖(達磨大師)は海を越え砂漠を越え、中国にとどまり大法を流通させた。私はその末葉を忝くしているが、あえて武をおい響きを継ぐということしないだろうか」といって自身が日本へ行くことを希望しているが(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)、環渓惟一は無準師範から受けた表信・法会を無学祖元に転付し、無学祖元はこれを受けて陞座(しんぞ。住持などが説法を行う建物である法堂の須弥壇に上って説法すること)を行なった。同年6月22日に江南を出航し、8月20日に鎌倉に到着した。建長寺にて開堂演法し、北条時宗は弟子の礼をとった(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)

 ある夜、無及徳詮が無学祖元のもとにやってきて北条時宗の言葉を伝えた。これより以前、北条時宗は蘭溪道隆(1213〜78)・兀庵普寧(1197〜1276)・大休正念(1215〜90)といった渡来僧に参禅し、とくに大休正念からは公案を与えられており、日々問究していた。しかし公案を解くことができず無学祖元に相談したらしく、無学祖元は公案を捨て去ってしまうよう指示したのである。ところが、時宗は公案を捨て去ってしまうと心のよりどころをなくしてしまい、無及徳詮を無学祖元のもとにむかわせて「世間の雑念がおこった時、どうやって截断し、どうやって対治するか」ということを問いかけたのである。これに回答することによって無学祖元は北条時宗の禅の心境をますます進ませることになった(『仏光国師語録』巻第7、法語、答太守問道法語)。さらに大晦日の夜、北条時宗は無学祖元と問答を行なっている。無学祖元は日本語ができなかったらしく、この問答は通訳を通じて行なっている。無学祖元は「“一撃所知亡(な)く、さらに修治を仮らず”について、悟りの言葉をいいなさい」というと、時宗は「紅炉一片の雪」と答える。無学祖元はさらに「“動容古路に揚げ、悄然の機に堕ちず”はどうだ?」というと、時宗は「一字公門に入り、九牛の車を出でず」と答えた。無学祖元は「太守(時宗)の語はよろしい。”紅炉一片の雪”について解説しなさい」といった。時宗は拳を上にあげた。本来禅の問答の場合、師は弟子の語がよくない場合に棒などで弟子を打ちすえるのであるが、無学祖元は執権を打ちすえるべきではないと思ったらしく、通訳を打ちすえて、「間違っている。名言をいいなさい」といった(『仏光国師語録』巻第9、拾遺雑録、法語、示光福長老)。このように無学祖元と北条時宗は禅によって親しい関係を築いたが、そればかりではなく、この当時元寇によって北条時宗は心中を悩ませており、無学祖元の来日の5年前には文永の役(1274年)がおこっている。また無学祖元も祖国南宋を元に滅ぼされ、自身も元兵に斬られそうになるという体験をしており、そのことが両者を肝胆相照らす仲とした。

 弘安4年(1281)春正月、北条時宗が無学祖元のもとに来謁してきた。無学祖元は筆をもって書を北条時宗に示した。「莫煩悩(煩い悩むなかれ)」 時宗は「“莫煩悩”とは何事ですか」といった。無学祖元は「春夏の間、博多は擾騒しますが、一風わずかに起って万艦が掃蕩されるでしょう。願わくは公(時宗)よ、苦慮しないことです。」といった。はたして九州におしよせた軍勢(元寇)は突然の風波のため一瞬にして破没した(『元亨釈書』巻第8、浄禅3之3、宋国祖元伝)

 鎌倉円覚寺は無学祖元を開山として建立された。弘安5年(1282)12月8日に開堂が行なわれたが、この開堂の日、鹿が群をなして法会にやってきた。無学祖元は「瑞鹿」を円覚寺の山号にした。この時無学祖元57歳(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)。弘安6年(1283)7月16日には、北条時宗の請いによって円覚寺は将軍家(惟康親王)祈祷所となっている(「関東下知状」円覚寺文書8)

 弘安7年(1284)4月4日、無学祖元を招聘した執権北条時宗が没した。無学祖元は「老いて残る人生を公(時宗)に託そうと思っていたのに、思いがけず私よりも先に去ってしまった」と嘆いている(『仏光国師語録』巻第4、小仏事、法光寺殿下火)。さらに「君(時宗)を追って私も行きたい。君(時宗)が孤独で助ける人もいないのが心配だから」と述べ(『仏光国師語録』巻第8、偈頌、悼法光寺殿六)、時宗を失った悲しみを吐露している。無学祖元は円覚寺を辞して建長寺へ帰ろうとしたが、緇素(しそ。僧侶も俗人も)が道を遮って、固く留めて建長寺に帰ることはできなかった(『仏光国師語録』巻第9、如芝状、無学禅師行状)

 弘安8年(1285)夏、日照りとなったため6月24日に新執権北条貞時(1271〜1311)が無学祖元に祈雨を求めてきた。無学祖元はあらかじめ雨具を持参して鎌倉に入府した。貞時は画龍一軸を持ってきて賛を請うた。無学祖元が揮毫すると庭前の桂や橘がたちまち枯れた。無学祖元は「私はまさに逝くだろう」といった。9月3日、手書を諸方にわけ、夕方にいたると偈をあげおわり、端坐して逝った。3日後、その骨を建長寺の後山に葬った。年61歳。僧臈49(『仏光国師語録』巻9、永ヨ撰、仏光禅師行状)

 仏光禅師という敕諡号を受けたほか、光厳天皇より円満常照国師の号を重賜された。禅師号よりその末葉は「仏光派」と呼ばれている。法嗣はすこぶる多いが、とくに一翁院豪(1210〜81)・高峰顕日(1241〜1316)・規庵祖円(1261〜1313)が有名で、高峰顕日門下より夢窓疎石が出たことで、仏光派は隆盛した。


鎌倉円覚寺正続院舎利殿遠景(平成17年(2005)1月17日、B氏撮影)。正続院は無学祖元の塔所。

開基如大尼の正脈庵と真如寺建立

 真如寺は無学祖元生前に建立されたものではなく、示寂後如大尼によって建立された無学祖元の塔所正脈庵が暦応3年(1340)に高師直によって寺院化される時、夢窓疎石らの法脈上の理由によって法脈上の祖にあたる無学祖元を勧請開山としたものである。

 如大尼は無学祖元に参じた尼僧として近世には著名であったが、別人との混同されて実態の把握が困難である。例えば江戸時代の臨済宗妙心寺派の僧、卍元師蛮(1627〜1710)が撰述した禅僧伝記集である『延宝伝灯録』によると、無外如大(如大尼)は、別号を無著、初名は千代野といい、安達泰盛(1231〜85)の娘で、金沢顕時(1248〜1301)に嫁いだが夫に先立たれて出家したという。無学祖元に参禅して印可を得て、上杉氏・二階堂氏の後援によって京都に景愛寺を建立して第一世となり、さらに無学祖元の骨髪を納めるため正脈庵を建立。永仁6年(1298)11月28日に76歳で示寂したという(『延宝伝灯録』巻第19、京兆景愛尼無外如大禅師)。ところがこれにしたがうと、如大尼の生年は貞応2年(1223)となり、父安達泰盛よりも6歳上、夫金沢顕時よりも25歳上になるという指摘がある。

 弘安8年(1285)、山城国景愛寺の尼である如大は、号を無外といい、禅に作得・工夫していたが、それを証可する人がいなかった。如大は得るところを書して、無学祖元に呈した。無学祖元は「黄龍三関」を示した。無外が三転の語を呈すると、無学祖元はこれをよしとし、法衣を付して「今長老は法を得た。真実衣は表信である」といった(『仏光国師語録』巻9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)

 無学祖元は如大尼に遺訓を遺している。「汝、わが衣法を受け、道風大行にして、老いて歓喜を懐け。骨髪少許、分け留めて汝に与う。汝、安奉せんが為に、別に一小禅刹に置き、わが分化に代えよ。すべからくまさに力をつくすべし。われの志に違うことを得ざれ」(『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』康永元年条)。如大は無学祖元の遺訓にしたがって、一禅刹を建てて正脈院となづけた。無学祖元の爪・髪をたてまつって塔に納め、比丘慧眼・慧密を請じて、相継いで住持とし、田を若干畝置いた。無学祖元の法嗣である高峰顕日も自身の資財をもって整備に助力し、規庵祖円像を塔に安置した。慧密は院事を海翁妙振に付した。海翁妙振は高峰顕日の法嗣で、彼は高峰顕日の遺像を安置した(『仏光国師語録』巻9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)

 元徳4年(1332)、海翁妙振の親族である前中納言室町公春(1292〜1340)が先祖の追薦のため、丹波国西保荘を割いて正脈院に喜捨して食事の資財とした。建武元年(1334)足利直義(1306〜52)は伊豆国安久荘を施入して仏光禅師(無学祖元)を追崇し、これをもって師資の礼を表わした。建武4年(1337)には比丘尼霊宗が近江国岩根・浅国両荘を寄進し、ながく仏国禅師(高峰顕日)供養の用に充てた(『仏光国師語録』巻9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)。また同年4月28日、加賀国大野荘内藤江・松村両村を足利尊氏は正脈庵に寺領として寄進している(『臨川寺重書案文』乾〈『大日本史料』6編4冊219頁〉)

 真如寺建立において、足利直義・高師直・夢窓疎石の3人の名が挙げられている。史料によって主体性が異なるため、誰が主体的に動いたのかよくわからない。
 「正脈塔院碑銘」によると、「暦応3年(1340)、足利直義は高師直(?〜1351)に委ねて一禅苑(禅寺)をつくらせた。師直は夢窓疎石(1275〜1351)に謀ったところ、夢窓疎石は「正脈院を東の隅に移し、その跡地に寺を建てましょう」といった。師直はこれにしたがって寺を完成させ、「真如」を寺額とし、「万年」を山名(山号)とした。仏光禅師(無学祖元)を開山初祖とした。これは真如寺における規庵祖円・夢窓礎石2師の功を忘れぬよう、両者共通の祖である無学祖元を祖父とするという意であった」(『仏光国師語録』巻9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)とある。

 一方で『夢窓国師年譜』によると、「康永元年(1342)4月15日、高師直は夢窓疎石を請じて真如寺を兼管させた。これより先、高師直は一寺院を建て、夢窓疎石を請じて開山にしようとしていた。夢窓疎石は高師直に「仁和寺の東北の山辺に正脈庵があります。これは仏光祖師(無学祖元)の塔所です。その境内はひろく、大伽藍を建てるのにもってこいでしょう。願わくは仏光(無学祖元)を追請して開山とし、私に住持の事を領知せしめてください」といった。師直は甚だ喜んだ。日をへずして完成し、寺号を真如、山(山号)を万年と称した。正脈庵は尼如大が仏光(無学祖元)のために建てた。仏光(無学祖元)と如大長老の手書や手染の牌・額など諸大字(を書いた墨跡)は本庵に納められている。」(『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』康永元年条)とある。夢窓疎石は真如寺の建造のことに深く関わったらしく、真如寺の梁に銘を記している(『山州名跡志』巻之7、真如寺所引、真如寺梁銘)

 このように真如寺は夢窓疎石によって開山を無学祖元と位置づけられた。実際に真如寺は開山塔で無学祖元を祀る正脈院のほかに、同じく無学祖元を祖とする仏光派の根拠地としての常照院、その東には高峰顕日を祖とする仏国派の塔頭普済院、常照院の西には夢窓疎石の塔所である心宗院が建てられており、そのほかに檀那塔の帰元庵や、高峰顕日の法嗣で丹波安国寺開山の天庵妙受(1267〜1345)の宝光庵、中国元の禅僧中峰明本(1263-1323)の法嗣で幻住派の明叟斉哲(?〜1347)の塔所聖果院、中寮コウ(さんずい+黄。UNI6F62。&M018251;)衍(生没年不明)の釣深軒があったが(『扶桑五山記』巻2、日本諸寺位次、十刹位次、真如寺)、このように無学祖元の仏光派、高峰顕日の仏国派を中心とした塔頭が真如寺の軒を連ねていた。

 真如寺の山号は万年山であるが、義堂周信(1325〜88)は中国の径山万年正続、つまり無学祖元の師無準師範の塔名であるのを採用したといい、また真如寺の寺号は無学祖元が住持をつとめた中国の真如禅寺からその名をとったとみなしている(『空華日用工夫略集』永徳2年5月4日条)

 真如寺は高師直の尽力もあって規模を拡大することができた。真如寺には現在等持院東庭となっている庭園が作庭されたのであるが、この作庭には高師直や夢窓疎石の関与が考えられている(重森1971)。高師直は真如寺に檀那塔として帰元庵を建立し、康永3年(1344)10月18日に高師直の弟重茂(?〜1368)は、父の追善料として河内国内の所領を帰元庵に寄進しており、このことから真如寺には足利将軍家執事である高氏の菩提所という面があり、足利将軍家とも深く関わったとみられている(山家1993より『旧武家手鑑』〈史料編纂所架蔵写真帖〉)。しかし高氏は観応の擾乱で重茂をのぞいて族滅されており、このことはその後の真如寺経営の根幹に関わったらしい。真如寺の西隣の等持院庭園は、「百万にして隣を買い、今悪からず」と歌われたように(『雪樵独唱集』)、真如寺庭園を購入・合併したらしい。現在の等持院の庭は江戸時代に作庭された西庭と、南北朝時代に作庭された東庭に分かれるのであるが、そのうち東庭は真如寺庭園の旧跡である。


等持院東庭園(平成21年(2009)2月15日、管理人撮影) 。等持院東庭園はもとは真如寺の庭園であり、江戸時代に作庭された等持院西庭園とあわせて一つの庭園となった。等持院東庭園は現状では池庭の地割と、中島などの配置がのこされており、南北朝時代の庭園の様相がうかがえる。

中世における真如寺

 以上のように、真如寺は開創事情が尼僧に関連したものであったものの、尼寺としてでなく、僧寺として運営された。また夢窓疎石が真如寺の開山を無学祖元としたことは、真如寺を中世における室町幕府管轄による五山制度下に組み込むこととなる。

 暦応4年(1341)8月23日に評定され、翌5年(1342)4月23日の重沙汰にて定められた十刹次第では、真如寺は十刹第8位となっている(『扶桑五山記』2、十刹次第)。永和5年(1361)正月21日には真如寺は火災によって全焼しているが、この時点では十刹第1位に列せられていた(『愚管記』永和5年正月21日条)。しかし康暦2年(1380)の足利義満による十刹制度の改変においては、真如寺は十刹第7位となっている(『扶桑五山記』2、十刹)。さらに至徳3年(1386)の京十刹制定においては、十刹第2位となった(『竜宝山大徳禅寺志』第1冊、編年略記、至徳3年丙寅条)

 官寺の住持の任期は概ね3年、のちに五山・十刹の住持の任期は2夏3年(満2年)に定められており、また真如寺は十方住持制(住持を多くの宗派からもとめる)をとっていたから、名僧が多く住持となっている。このため現在からみると真如寺の住持職は極めて短期間に入れ替わるものであった。

 さらに幕府管掌下にある禅宗官寺の住持任免権は、幕府が掌握しており、住持任命の辞令は幕府が発給した。これが「公帖(こうじょう)」であり、「台帖」「公文」「鈞帖」ともよばれた。公帖は、同門の先輩・所属する門派の本庵塔主の推挙によって僧録に提出され、蔭凉軒主が希望者の名を列記した書立(かきたて)を作成して将軍に披露される。将軍から蔭凉軒・鹿苑僧録に戻され、それを幕府奉行人が公帖を作成・清書し、将軍が花押して発給されるというシステムになっていた。公帖の発給にあたっては新住持からは厖大な金銭が幕府に納められた。逆に金銭を納めさせて、実際には入寺せずに名目上の住持を任命するなど、住持職は形骸化した。このことを坐公文(ざくもん)とか居成公文(いなりくもん)という。室町時代末期になると、室町幕府の財政悪化を受けて公帖を乱発したから、五山制度下の五山以外の寺院ともなると、歴代住持の正確な人数・代数を知ることは困難であり、真如寺もまた例外ではない。

 真如寺では足利将軍のうち、初代尊氏(1305〜58)・第2代義詮(1330〜67)の葬儀が行なわれている。延文3年(1358)5月2日、前月29日に没した足利尊氏の葬儀が真如寺にて行なわれ、葬儀一切は禅宗で執り行った(『愚管記』延文3年5月2日条)。また貞治6年(1367)12月8日、前日7日夜に没した足利義詮の葬列は、「平生の儀」によって仁和寺・真如寺を通過した(『後愚昧記』貞治6年12月8日条)。同月12日には義詮の遺体を真如寺にて荼毘に付した。義詮の葬儀の一切を禅僧が執り行った(『後愚昧記』貞治6年12月12日条)

 真如寺は禅宗関係の典籍を多く出版している。南北朝・室町時代にかけて五山を中心とした禅宗寺院では、中国宋元時代の禅籍出版の影響から、盛んに書籍が開版された。これを五山版という。真如寺ではその趨勢からいくつかの刊本を出版した。文和4年(1355)4月に『勅修百丈清規』2巻2冊を古鏡明千(?〜1360)が開版している。これは元版の覆刻したもので、法橋永尊が本書を雕版している(文和丙申版『勅修百丈清規』巻末陰刻刊語。川瀬1970)。嘉慶2年(1388)には『無学和尚語録(仏光国師語録)』を月舟周勲(生没年不明)が刊行している。この『無学和尚語録』は無学祖元が本国の台州真如禅寺初住語録に年譜・塩銘などを添えて刊行したもので、台州真如禅寺と真如寺の由縁により出版したものと考えられている。版下筆者は慶観で、「昌賢」・「賢」・「吉」といった刻工の名が版心下に付刻されている(川瀬1970)

 真如寺ではいくつかの荘園所領を有して寺院経営に充てていた。尾張国海東中荘(愛知県稲沢市)・美作国豊田荘(岡山県奈義町)・美作国豊田西荘(岡山県奈義町)・山城国富家荘(京都府宇治市)といったものが代表的である。これら荘園所領のうち、最も早期に史料上にあらわれるのが尾張国海東中荘である。海東中荘は海東荘を構成する上・中・下の三荘のひとつで、うち中荘が真如寺領であった時期があった。永和元年(1375)5月2日、幕府は尾張守護である土岐頼康(1318〜88)に、真如寺領尾張国海東中荘十三ヶ里・松野里・桧田里の内田畑数十町を須網右衛門尉が押領するを停めさせ、下地は寺家進止とした(「室町将軍足利義満家御教書案」〈國學院大學所蔵久我家文書118「海東中荘文書案」うち〉)。永享3年(1431)6月24日、幕府は真如寺に対し、美作国豊田荘を勘定の間は真如寺寺領但馬国高田荘の年貢を催促することを停めさせている(『御前落居奉書』〈『室町幕府引付史料集成』上巻68頁〉)。真如寺のみならず、真如寺の開山塔である正脈院にも荘園所領として近江国岩根荘(滋賀県湖南市)があった。岩根荘は建武4年(1337)には比丘尼霊宗が近江国岩根・浅国両荘を正脈庵に寄進して、ながく仏国禅師(高峰顕日)供養の用に充てたものであり(『仏光国師語録』巻9、大日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無学禅師正脈塔院碑銘)、正脈庵が真如寺の開山塔正脈院となった後も、真如寺の荘園ではなく正脈院の荘園に位置づけられていたようである。寛正元年(1460)4月27日に正脈院領近江国岩根郷代官建松彦兵衛が正脈院主崇セキ(「夾」字の「人」字を「百」に代えた字。UNI596D。&M006002;。)西堂の訴状によって捕縛されている(『蔭涼軒日録』寛正元年4月27日条)。という事件がおこっているが、同荘は真如寺ではなく、あくまで正脈院が掌握していたことが知られるのである。

 真如寺は五山制度下の十刹の一禅刹として活動していたから、特筆すべき事件に多く見舞われたわけではないが、いくつかの事件がおこっている。永享9年(1437)5月9日、僧衆の諷誦が命じられたが、等楷侍者と真如寺の僧一人が諷誦を行なわなかったため、院より追い出されるという事件があった(『蔭凉軒日録』永享9年5月9日条)。また寛正2年(1461)3月5日には真如寺が焼失している(『蔭凉軒日録』寛正2年3月16日条)


真如寺法堂(はっとう)(平成21年(2009)2月15日、管理人撮影)

近世の再建

 真如寺は応仁の乱以降、荒廃を極めていた。寛永4年(1627)11月28日には開基如大尼の像が修理されているが(『鹿苑日録』寛永4年11月28日条)、開基の尊像ですら修理が必要な有様であった。

 明暦2年(1656)になって後水尾院による復興事業が行なわれた。この復興事業は後水尾院第5皇女の理昌女王(1631〜56)の墓所とするために造営されたとされる。明暦2年(1656)8月14日、需西堂は真如寺法堂の柱立のため、前日より真如寺に赴いている(『隔メイ記』明暦2年8月14日条)。翌9月13日には真如寺にて仏光(無学祖元)の遠忌の斎(おとき。昼食)のため、鹿苑寺(金閣寺)住持の鳳林承章(1593〜1668)は早朝より真如寺に赴いている。この時法堂の新造普請を見物している(『隔メイ記』明暦2年9月13日条)。3ヶ月後の12月4日に真如寺法堂の工事が完了したらしく、仙洞(後水尾院)から建立のため、供養が行なわれた。この日、真如寺開山仏光(無学祖元)像が方丈から法堂に遷座した(『隔メイ記』明暦2年12月4日条)。6年後の寛文2年(1662)7月2日には仙洞から真如寺に釈迦・迦葉・阿難三尊の本尊が寄進されている。そのため真如寺輪住の光岳伝西堂は仙洞に祗候して本尊を受け取っている(『隔メイ記』寛文2年7月2日条)。現存する本堂は明暦2年(1656)の建立で、元文3年(1738)に修理が行なわれている。桁行5間、梁間5間の単層入母屋造の桟瓦葺となっており、内部は須弥壇を中2階風に構える。

 真如寺は近世を通じて相国寺の末寺であり、再建の経緯が尼僧に関連することであったが、中世の創建時と同様、尼寺とはならずに僧寺となっている。ただし百々御所こと宝鏡寺を管理下に置いており、寺領のほかに百々御所からの下賜品で境内修復などを行なっていたことがあったらしい(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)。石高は高9斛9斗1升8合7夕6方で、境内が御除地、塔頭は6宇あった(『寺院本末帳61禅宗3(禅宗済家五山相国寺本末帳)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中1837頁〉)

 再建まもない真如寺を黒川道祐(?〜1691)が延宝9年(1681)に訪れており、次のように述べている。「この寺は相国寺の末寺で、寺中は真如寺の西堂がこの寺を支配している。当年は篆西堂が当住である。仏殿には宝冠の釈尊を安置する。後堂に仏光国師無学祖元の肖像がある。傍らにヨ(王へん+與。UNI74B5。&M021297;)東陵(東陵永ヨ)の作の碑銘がある。左に仏国(高峰顕日)の像、無著(如大尼)の像がある。これがすなわち世に言うところの千代野である。東の方角に宝鏡寺尼公の像がある。これ後水尾院の姫宮で、宝鏡寺一代の住職である。遷化の時この寺に葬った。右の方角に初祖の像ならびに夢窓国師の像がある。この寺は尊氏公の寵臣高武蔵守師直が創建した。夢窓国師の手跡の棟札一双が今も残存している」(『近畿歴覧記』東西歴覧記、延宝9年条)

 安永10年(1781)9月27日に真如寺では新開地がデコボコであったため、地ならしのため60貫文にて久次郎に普請を申し付けている。この際、新開地は薮とする予定であるが、西の方は薮にはなりにくい場所であるため、団栗(どんぐり)を植えることとした。さらに堂の北にあった枯れた松木6本を久次郎に5貫500文で下げ渡し、堂の北に植えるための松苗400本を隣接する等持院に申請している。観音堂の西に生えている薮木の根を掘り起こし、そこに竹を植えることとしている(『真如寺記録』安永10年9月27日条)

 真如寺の堂宇の規模は寛政2年(1790)2月の記録によると、薬医門・平地門があり、桁行7間半、梁間6間半の客殿、2間4尺4寸四方で宝形造の円通殿、桁行5間4尺、梁間5間5尺で入母屋造の法堂、1間半四方で宝形造の開山堂、柱間1間半の鐘楼堂があった。さらに塔頭はかつて6ヶ院あったが、この段階では桁行5間半、梁間2間の真光庵しか残存しておらず、他の正脈院・帰元院・宝光院・聖果院・釣深軒は度重なる焼失のため絵図すら残っていない有様であった。また一間社長押造(流造のことか)の鎮守が鎮座している(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)。このように、真如寺の多数あった塔頭は、江戸時代中・後期にはわずかに真光庵しか残存して折らず、開山塔正脈院ですら廃絶していることがうかがえる。さらに時代をへた明治16年(1883)の段階では、塔頭は一つたりとも残存していない。


真如寺庫裏(平成21年(2009)2月15日、管理人撮影)

真如寺門前の人々の生活

 真如寺には門前町があり、真如寺が支配していた。これを真如寺門前という。この真如寺門前がいつ頃形成されたか不明であるが、少なくとも慶長20年(1615)3月12日には、京都所司代のもとに、真如寺に隣接する等持院より、真如寺に門前をとられて迷惑しているとの訴えがあるため(『本光国師日記』慶長20年3月12日条)、近世初期にはすでに形成されていたことが知られる。

 安永9年(1780)の門前境内人数改によると、寺内の人数は僧1人、俗人2人であり、境内の人数は合計63人。内訳は男性32人と女性26人で宗派は浄土宗である。残る僧1人、尼4人も同じく浄土宗であった(『真如寺記録』安永9年8月27日条)。さらに36年後の文化13年(1816)の門前境内人数改によると、寺内の人数は僧3人、俗人2人の合計5人、境内人数は合計53人で、内訳は宗派が禅宗である男性8人と女性3人、宗派が浄土宗である男性26人と女性16人であり、その調査内容は真如寺の本寺である相国寺に報告された(『真如寺記録』文化13年8月23日条)

 真如寺門前の代表者は「年寄」「組頭」と呼ばれており、年寄は一人の者が何年も務めるということが恒例化していたようである。天明7年(1787)頃には久右衛門が年寄を長年務め、近年その息子与市が年寄になったにもかかわらず、その実態は久右衛門が年寄であり、彼が数代居住の者であるため種種のわがまま・権柄ずくを行なっており、下作の者どもが難儀していることが問題視された。そこで天明7年(1787)冬、貧富にかかわらず、毎年、年寄役・五人組を交替することになり、老若分かたず烏帽子席順にて毎年正月5日に交替することとなった。その年はその通りに執行されたが、翌年には再度与市が年寄に就任する事態が発生したため、寛政元年(1789)正月30日には年寄を交替するよう願い出されている(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)

 文化6年(1809)2月、真如寺門前の百姓達が真如寺に対して用水の池を掘る費用の借用を願い出ている。彼らの口上書によると、百姓久右衛門の鍵田という字の田地において、用水の池を掘っており、先年には銀子3貫500目を真如寺より拝借しているが、さらに500目、合計4貫の拝借を希望している。用水池が完成すれば、旱損・水損からのがれることができ、不作ということさえなければ、上納が滞ることなく納めることができると説いている(『真如寺記録』文化6年2月条)。このように被支配層である真如寺門前は、支配層である真如寺に対して、年貢の恒常的な納入のために真如寺のさらなる出費を促しており、両者の相互利害関係を知ることができる。

 また文化6年(1809)9月に真如寺門前の人々の代表である庄屋与八と年寄五右衛門は真如寺に対して、神輿拝殿修復のための桧材寄進を要請している。それは神輿拝殿(おそらく現在の六請神社)が5年前から破損しており、時節柄、修理が難しく、徐々に破壊の度合いが進行していた。難しい時節柄のため、町中が談合してこの年より2・3年は神輿拝殿のため、町内の雑費をなるべく削減して修理することとなった。そこで真如寺の林に生えている桧3本を神輿拝殿のために寄進して欲しいと申し出たのである(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)。このように真如寺門前の祭祀継続のため、神輿拝殿修復における真如寺の負担を願い出ているが、このように支配層の真如寺は被支配層の真如寺門前に対して、生活・祭祀継続の債務の一旦を担っていた。

 真如寺門前は明治5年(1872)に真如寺領から切り離され、等持院門前と合併して等持院村となった。さらに明治22年(1889)には衣笠村に、大正7年(1918)に上京区に編入され、昭和31年(1956)の北区新設により現在にいたっている。


『元禄十四年実測大絵図』(大塚隆編『慶長昭和京都地図集成』〈柏書房、1994年6月〉10-Eより一部転載)。元禄14年(1701)の絵図に真如寺と真如寺門前の様子が描かれている。

近代の真如寺

 明治新政府は明治4年(1871)寺院などの土地を境内地・墓地のみに限って認めるものとし、境内地・墓地以外は上知(収公)した。真如寺の場合は、明治5年(1872)に真如寺門前や所有する山林を真如寺から切り離されて、境内は北64間(128m)、東96間(192m)、西122間5尺(245.5m)に限定され、南は変則的な形となった(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「葛野郡寺院明細帳」86)。このうち南側の西側は六請神社の社地となり、真如寺の門地がその間隙を縫うようにして位置することとなった。

 明治16年(1883)の段階で真如寺の境内建物は、本堂(法堂)・庫裏・土蔵・納屋(小屋)・門・観音堂・地蔵堂があるにすぎず(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「葛野郡寺院明細帳」86)、観音堂・地蔵堂はのちに鎮守半僧坊大権現・豊川稲荷大明神と名称を改めている。

 真如寺はもともと百々御所を除いて檀家がなく、そのため真如寺門前・山林を収公されることによって収入の道が閉ざされることになった。明治14年(1879)9月に建物の修復を京都府に願い出ているが、それによると収入がないため明治12年(1879)9月に住職八巻徹応が私費で修理を行なったものの、雨漏りがとどまることがなかったという(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)。翌年には境内が若干増加したが(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」1号50葉)、修理が許可されたかどうかは不明である。

 大正4年(1915)6月15日には京都府から真如寺に対して、座敷・茶席新築の許可が出ているが(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」14号22葉)、真如寺への参詣者を増やすのが目的だったらしい。昭和6年(1931)12月には真如寺の鎮守半僧坊大権現および豊川稲荷大明神に参詣者が増加したため、茶所の設置を京都府に願い出ており(真如寺文書。『史料京都の歴史第6巻 北区』所引)、翌年1月13日に許可がおりている(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」24号6葉)

 現在真如寺は、鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)とともに相国寺の山外塔頭という位置づけになっている。現状では拝観することができないが、十刹寺院の名刹である真如寺を参詣できるようになることが望ましいだろう。


[参考文献]
・玉村竹二「仏光国師無学祖元」(『日本歴史』44、1952年1月)
・玉村竹二『夢窓国師』(平楽寺書店、1958年10月)
・鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市、1959年)
・『群書解題』第2巻(続群書類従完成会、1961年11月)
・円覚寺編/玉村竹二・井上禪定執筆『円覚寺史』(春秋社、1964年12月)
・川瀬一馬『五山版の研究』上(1970年3月)
・今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)
・重森三玲・重森完途『日本庭園史大系3 鎌倉の庭(1)』(思想社、1971年10月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・中村元/増谷文雄『名僧物語3 傑僧列伝』(鈴木出版、1986年)
・網野善彦他編『講座日本荘園5 東北・関東・東海地方の荘園』(吉川弘文館、1990年5月)
・『史料京都の歴史第6巻 北区』(平凡社、1993年1月)
・山家浩樹「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53、1993年9月)
・山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301、1998年9月)
・山家浩樹「如大縁由の寺院と室町幕府」(『禅文化研究所紀要』26、2002年6月)
・西山美香「尼僧の〈聖地〉としての真如寺」(堤邦彦編『寺社縁起の文化学』(森話社、2005年11月)
----------------------------------------

☆平成21年(2009)11月4日訂正とお詫び☆


 真如寺さまからのご指摘により、2箇所訂正。

@京都市「上京区」等持院北町→京都市「区」
A写真「真如寺堂」キャプション→「真如寺堂(はっとう)」。

 ご指摘の文に加えて、「また正式には「佛殿 兼 法堂」ですが、通常は「法堂」と呼んでいます。」「真如寺の「法堂」には「大雄殿」(「だいおうでん」と読む)の扁額が掛かっております。中国の禅寺でも「大雄宝殿」と「佛殿」にはよく扁額が掛けられておりますが、それと同じです。」というご説明をいただいています。


真如寺茶所(平成21年(2009)2月15日、管理人撮影)



「京都十刹」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る