沖縄旅行(その1)

 仕事が忙しく、今日まで連続出勤日が20日ほどになり、日曜を含めた休みを一日もとっていませんでした。仕事が一段落ついたので、明日から4日間ほど休暇をもらって、ちと沖縄にでも行ってみました。

 私は世界で一番沖縄の青い海が似合わない人間であると自負(?)していますが、ある時、関口欣也『名宝日本の美術 第13巻 五山と禅院』(小学館、1983年4月)で琉球覚寺の写真をみてから、関心を抱くようになりました。

 円覚寺の仏殿は日本中世禅院建築のような特徴を残しつつ、無雑作と悠長さが調和した、いかにも南国らしい豪壮な建築となっています。『名宝日本の美術 第13巻 五山と禅院』によると、沖縄戦で焼失し、田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)の古写真より転載したとありました。

 その後琉球円覚寺に関心を抱いていたのですが、知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)に琉球の仏教史がまとめられており、その方法論を個別の寺院に充てては面白いのではないかと思い、『琉球国由来記』を中心に述べてみたのが、「琉球の官寺」です

※一般的に『琉球国由来記』は和文、『琉球国旧記』の方が漢文体であるため、『琉球国旧記』の方が理解が難しいとされていますが、『琉球国由来記』のなかで寺院について述べた「諸寺旧記」(巻10)、「密門諸寺縁起」(巻11)は漢文体となっています。この部分は下手くそな文飾が理解を妨げ、しかも回りくどい上に剰文が多いため、理解する上では簡略化された『琉球国旧記』の方が楽なのです。結局、史料的先後性は『琉球国由来記』の方が勝るのですが…。

 沖縄旅行は「琉球の官寺」取材のためであったので、あまり旅行らしいことはしていないのですが、前日風邪をひいてしまい、しかも当日関西国際空港発・那覇空港着の便であるにもかかわらず、風邪ひいて朦朧としていたこともあり、いつもの慣れで伊丹空港(実家の北海道には伊丹で帰っているので…)に行ってしまい、あわてて関空に戻るといった間抜けなことをしています。

 幸いにも便は20時のしかとれなかったので、間に合っただけではなく、キャンセル待ちしていると、16時発のに乗ることができました。空を飛ぶこと1時間40分、那覇につきました。気温は摂氏22度、2月の京都に比べると、とても暑いです…。(;´д`)ゞ


沖縄戦焼失以前の円覚寺仏殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉30頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている) 

 沖縄1日目は飛行機で夜に到着したため、居酒屋で一杯呑んだだけですが、2日目は日産レンタカーで自動車を借りて、そのまま北部方面へと出発しました。

 この旅行は「琉球の官寺」取材のためであるので、あまり旅行らしいことはしていない上、写真は「琉球の官寺」で使うのためだけで撮ったので、本コンテンツではいわば「落ち穂拾い」くらいの写真しかありません。そのため何のことだかわからないかと思われるので、「琉球の官寺」の当該頁をリンクしておきました。

 まず沖宮に向かいました。公園のど真ん中にあるのですが、公園の入口がイマイチわからず、何度も周囲をぐるぐる廻っていました。

 沖宮は臨海寺の別当寺なので行ってみました。かつては沖宮と臨海寺は隣接していたのですが、移転に次ぐ移転のため、現在は全く別のところにあります。


沖宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 次に行ったのが繁多川公民館ですが、目的は公民館そのものではなく、その手前にある石垣です。これはかつての神応寺の跡地で、沖縄戦で廃寺となっています。識名宮が隣接しており、沖縄戦以後に再建されたものです。識名宮の戦前の建物は特色ある優れたものですが、現在の拝殿も沖縄らしい個性があります。写真は当該頁で使ったので、ありません。

 すぐ近くに世界遺産識名園があるのですが、時間が押していたため、次の目的地末吉宮に向かいました。




末吉宮入口(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 末吉宮の別当寺が遍照寺であったため、末吉宮に行ってみたのですが、現在末吉宮は末吉公園内に位置しており、車を駐車場に泊めるとかなり歩かなくてはならず、時間のロスになるので、末吉宮の背後(東側)に車を泊めて、末吉宮入口から行きました。

 途中、亀甲墓や拝所がありました。


末吉宮付近にある亀甲墓(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



末吉宮付近の拝所(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



末吉宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 末吉宮の石垣は見事でした。戦前には拝殿はありませんでしが、現在は拝殿があります。そのためイマイチ本殿が見えづらくなっています。


末吉宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 次に臨海寺に行きましたが、写真を当該頁で使ってしまったので、ここでは掲載しません。

 その次に天久宮とその別当寺であった聖現寺に行きました。聖現寺は写真を当該頁で使ってしまったので、掲載しません。

 天久宮は非常に変わった構造をしており、写真下の鳥居があり、その駐車場の真下に本殿と拝殿があります。本殿と拝殿は鳥居左側の階段から行くのですが、本殿と拝殿の地下には御嶽があり、黄泉の世界であるかのように地下に潜っていくのです。もとからこのような構造であったのではなく、戦前は泊高校に鎮座していたのですが、沖縄戦後に泊高校が建設されたため、やむを得ずこのような構造になったようです。


天久宮鳥居(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 次に那覇市から浦添市に向かいました。目的地は浦添中学校で、ここのグラウンドにかつて龍福寺があったからなのですが、時節柄怪しい人に思われないよう、細心の注意(?)を払って見ていました。

 ここから浦添ようどれに向かったのですが、カーナビ君が誤誘導を連発したので、いつまでたっても到着せず、結局道路標識に従うはめになりました。

 浦添ようどれの前庭も龍福寺の前身の極楽寺があったとされています。


浦添ようどれ(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



浦添ようどれ(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



浦添ようどれ東室(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影) 

 浦添ようどれは陵墓なのですが、お城のようにみえます。


浦添ようどれ(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 その後車で宜野湾市に移動しました。宜野湾市といってもピンとこないかもしれませんが、ようは普天間に行ったのです。

 目的地は普天間の神宮寺と普天満宮です。神宮寺はお葬式なのか留守でしたが、普天満宮には奥宮に入れて貰いました。奥宮で撮影したものを掲載する場合は許可を取って欲しいといわれたので、後日構えて電話したところ、極めてあっさりした返答が帰ってきました。

 また普天満宮では、戦前の様相について、宮司さんから貴重な話を伺いました。


普天満宮奥宮入口(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影) 

 今回の旅行では、なるべく多くの寺院および関連施設をめぐるため、余計な観光地はすべて除外したスケジュールを立てていたのですが、唯一といってもいい例外が勝連グスクでした。

 伊波普猷の『古琉球』に勝連の阿麻和利について述べられており、伊波普猷は阿麻和利の汚名を雪ぐべく熱の籠った筆致で彼を弁護しています。

 その阿麻和利が本拠地としたのが勝連グスクで、『おもろさうし』に「一勝連の阿麻和利 玉御柄杓 有りよな 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま 肝高の阿麻和利 島知りの御袖の按司 国知りの御袖按司 首里 おわる てだこす 玉御柄杓 有りよわれ(勝連の阿麻和利、肝高の阿麻和利は、神酒を注ぐ玉御柄杓を持っているよ。大和の京、鎌倉にまで、これをぞいい囃して鳴り轟かそう。島を、国を支配し治める高貴な按司様、首里にまします国王様こそ、神酒を注ぐ玉御柄杓を持ち給うのだ。)」(『おもろさうし』第16、第1134番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、213頁より一部転載〉)とあるように、当時は優れた領主として讃えられていましたが、賊軍の汚名を着せられて滅亡しました。

 私も古城を訪れた吟遊詩人のように(→いいすぎ)、阿麻和利への思いに耽っていました。


勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 勝連グスクが城壁が空中にそびえる様は、まるでマチュピチュのようです。勝手に「沖縄のマチュピチュ」と命名してみましょう。


勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 次に金武町に向かいました。金武町の海岸は曇っていて、鈍色をしています。私にとって沖縄の海のイメージは冬の日本海と同じになってしまいましたが、払拭される日は果たして来るのでしょうか?


金武町の海岸(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 金武町の観音寺と金武宮に行きました。観音寺は戦前の段階で焼失していましたが、やがて再建されました。沖縄戦の戦火に遭わず、唯一の残存した寺院建築として知られています。

 といっても、焼失前の建物は神応寺式であったらしく、中央を仏壇とし、その他の空間は客殿にした内部構成を持ち、縁側と鴨居上の欄干部分の外側はすべて竪板を張り、強い風雨に備えた寄棟造の建物でした。現在の観音寺の建物を沖縄の宗教的伝統を伝える数少ない建物とみなされることがありますが、いうまでもなく、神応寺式であった建物と、現在の建物は全く違うのものなので、評価することが難しいものであるかもしれません。


金武観音寺拝殿(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 金武宮は洞窟祭祀なのですが、内部はお酒の貯蔵庫となっています。宗教的施設がお酒の貯蔵庫であるのは、かなり不思議な感じがするのですが、酒は神に供えるものなので、それはそれでありなのかもしれません。


金武宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 金武町から那覇に戻る途中、高速道路を安里付近で降り、安里のテラにいってみました。

 テラとは霊石を祀る信仰であるビジュル(賓頭盧)を祀る石祠で、子授け、航海安全などの個人的願いを対象としています。

 沖縄の伝統的宗教建造物は、御嶽・神あしあげ・火の神・土帝君・テラ・殿・根屋・拝所といったように、かなり細分化することでき、しかも地域ごとに呼称が異なっています。これらについては『沖縄県の信仰に関する建造物(近世社寺建築緊急調査報告書)』(沖縄県教育委員会、1991年3月)に記載されていますが、各県ごとに実施された近世社寺建築緊急調査の報告書のうち、沖縄本島の戦前の社寺建築はすべて(観音寺を除く)焼失しているため、他の祭祀施設に充てられています。そのため、かなり個性が強烈に出ており、はじめて読んだ時は仰天しました。


安里のテラ(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 この日は沖縄名物ヤギの刺身を食べてみました。すごい臭いだけど、とてもおいしいです。

 ちなみに沖縄らしい食べ物をと、ガイドブックでみたいろいろな店に行きましたが、意外と公設市場の食堂がかなりいけたので、最初からここで食べれば…、とかなり悔やみました。


沖縄名物ヤギの肉(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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