遍照寺



遍照寺跡付近(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 遍照寺(へんじょうじ)はかつて沖縄県那覇市首里末吉町に位置(外部リンク)した寺院で、山号は大慶山のち金剛山。開山は鶴翁和尚で、景泰年間(1450〜57)に建立されました。もとの寺号は万寿寺(まんじゅじ)といい、臨済宗寺院でしたが、康熙11年(1672)真言宗寺院に改められ、さらに薩摩の命令によって遍照寺と改名しました。また別名を末吉寺(しいしーぬてぃら)と呼ばれていました。遍照寺は付近の末吉宮の別当寺で、末吉宮は、「末吉権現」「末吉山熊野三所大権現」とも称されていました。遍照寺・末吉宮は沖縄戦で焼失しましたが、遍照寺は寺地を沖縄県沖縄市久保田1丁目に移転・再建され、末吉宮は昭和47年(1972)に再建されました。


末吉宮

 尚泰久王(位1454〜60)治世下の景泰年間(1450〜57)、天界寺前住職の鶴翁和尚が壮年の頃、日本で修行していた時、熊野の方に向って、「我が学行がもし成就するのなら、帰国した後に参詣しよう」と誓った。学行が成就して帰国して、住持職となったため、国王に暇を請い、誓いを果たそうとしたが、国王は許さなかった。幾度も暇を請うたが、ある時夢に人がやって来て「師(鶴翁)の志をとげたいなら、ここから北山に向って大声で呼びなさい。応じたところに験があるでしょう。その所が居所である。我れは熊野権現である」と告げた。夢から目覚めて希有の思いがして、ある峰にいたって声をあげると、前の山に響きがあった。そのところをたずねてみると、奇岩がそびえ立っており、あたかも霊地のようであった。人跡のおよぶところではなかった。ここに一つの鬼面があり、験があると思い拝んだ。このことを国王に奏上すると、国王もまた霊夢を見ており、これが虚言ではないとして、その地に大社を建てた。ここで古鏡を見つけて拾った。鶴翁は貴んで内陣に蔵めた(『琉球神道記』巻第5、末吉権現事)

 鶴翁は、円覚寺仙岩和尚(?〜1524)の弟子で、京都に遊学していたらしく、京都建仁寺の月舟寿桂(?〜1533)のもとを訪れている(『幻雲文集』鶴翁字銘并序)。末吉宮は、鶴翁が日本へ留学中に熊野での所願によって琉球に熊野社を勧請したものである。本地仏は阿弥陀・薬師・正観音とされていた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、大慶山権現縁起、上棟文)

 このように末吉宮は景泰年間(1450〜57)に勧請されているが、別当寺の万寿寺(遍照寺の前称)の建立年代については「霊社と同時に建立されたか」(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、大慶山権現縁起)とあるのみで、建立年代については漠然と景泰年間(1450〜57)に比定されていたことが知られる。

 他方で、察度王(位1350〜95)の肖像画が万暦年間(1573〜1620)に火災で失われるまで万寿寺に伝わっていたという。また察度王・武寧王(位1396〜1405)・思紹王(位1406〜21)・尚巴志王(位1421〜39)の神主(位牌)が18世紀の段階で万寿寺に留められていたという。そのため万寿寺は察度王統の察度王・武寧王が建立したもので、その後第一尚氏王統の思紹王・尚巴志王が続けて万寿寺を用いたと推測されていた(『中山世譜』巻6、紀、尚円王11年条)。実際、末吉宮は「社壇」と称されており(『中山伝信録』巻7、寺院附、亀山)、王廟としての扱いではないものの、王府から一定の尊崇があったとみられる。

 万寿寺には天順元年(1457)銘の鐘が掛けられていた。この鐘はすでに失われていて、銘文を直接見ることはできないが、拓本によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)の万寿禅寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国安潜は銘をつくった」(「万寿禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が万寿寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、万寿寺住持の霊峰が後記を記したものである。

 万寿寺は万暦38年(1610)に破壊されたといい(『中山伝信録』巻7、寺院附、亀山)、また察度王の肖像画が万暦年間(1573〜1620)に焼失したというから(『中山世譜』巻6、紀、尚円王11年条)、万暦37年(1609)の薩摩の琉球侵攻によって焼失したとみられる。


沖縄戦焼失以前の末吉宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉20頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



沖縄戦焼失以前の末吉宮本殿と石階(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉20頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



末吉宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)。撮影時にお祈りをするおばぁと家族が拝殿にいた。

万寿寺と遍照寺への改名

 万寿寺は当初禅寺であったが、護国寺住持の頼昌法印が住持であった時、王府に奏上し、康熙10年(1671)大乗三密(真言宗)の寺院となった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、万寿寺)。万寿寺の本尊は正観世音菩薩で、垂跡は賓頭盧は社宮の右脇の洞窟の中にあったという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、万寿寺)

 前述の通り、万寿寺の開山は鶴翁であり、鐘銘によると霊峰なる僧が住持であったらしいが、以後、住持は悦山・龍岩と継承された。龍岩の後に住持となった松屋は、天界寺崇元寺慈眼院・照太寺の住持をつとめた人物であり、万寿寺の住持として記録される泉渓・雪叟・久山・霊室・文淵のうち、泉渓は龍福寺、久山は天界寺・崇元寺・慈眼院、霊室は天王寺・崇元寺、文淵は円覚寺法堂の住持を務めた。その後頼昌の奏上により万寿寺は真言宗寺院となった。頼長を真言宗開山とし、それ以後の住持は頼真・頼全・快忠・盛満であると記録されている(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、住持次第)

 万寿寺には菜園地として畑5歩があり、検地名に「万寿寺今帰仁屋敷、五歩」とあったという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、大慶寺万寿寺、菜園地)。乾隆元年(1736)に、黄衣僧で、万寿寺・慈眼院・円覚寺法堂・崇元寺・神応寺神徳寺元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付することとした。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。また万寿寺の知行石は、康煕58年(1719)の段階で毎年米8石を支給されていた。これは4名の僧を養うことができた(『中山伝信録』巻5、僧禄)。さらに乾隆元年(1736)の段階で12石となっていた(『寺社座御規模』)

 乾隆28年(1763)3月、薩州大乗院知事松樹院は、万寿姫の名を諱避するため、万寿寺を改めて遍照寺とする。よって護国寺に知らせ、護国寺は国王に奏上して万寿寺の改称を要請した。国王はこれを許した(『遺老説伝』巻3、尚穆王12年3月条)

 嘉慶8年(1803)、末吉宮が大破したため、修築した(『球陽』巻之19、尚成王元年条)



末吉宮基壇(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

大名高地の戦闘と末吉宮の焼失

 琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時遍照寺は給与総額は583円44銭、うち国債証券額は550円で、護国寺臨海寺を除いた他の真言宗官寺と同額であり、国債証券の利子は年5分利で、給与総額の中50円未満は現金で支払われ、証券の利子によって運営されることになった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、遍照寺と末吉宮は分離、末吉宮は境内地は161坪、国債証券額が450円とされた(島尻1980)。末吉宮は昭和11年(1936)国宝に指定された。

 遍照寺や末吉宮の位置するする大名高地は、昭和20年(1945)の沖縄戦において日本軍第62師団の歩兵第64旅団と、アメリカ海兵隊第1師団の間で激烈な戦闘が繰り広げられた。大名高地は南下する米軍にとって、日本軍の司令部(第32軍)がある首里への通過地点であり、ここの攻防は沖縄戦の命運を決する上で非常に重要な拠点であったからである。

 大名高地は末吉宮が位置する西側と、東側(一一〇高地)、現在の市立那覇病院・市立松島中学校付近に位置した丘陵(五五高地)が連携して強力な防衛戦を築き上げていた。末吉宮が位置する西側は歩兵第64旅団麾下の独立歩兵第22大隊が守備しており、アメリカ海兵隊第1師団の第7海兵連隊のち第1海兵連隊と、5月14日から21日にかけて激しい戦闘が繰り広げられた。その一環で末吉宮は砲撃などによって焼失したようである。

 昭和20年(1945)5月14日午前7時30分、沢岻高地を陥落させた米軍は、沢岻高地南側の大名高地を北西から攻撃し、その一部は大名高地中腹まで進出して来たが、日本軍は逆襲を加えて夕刻には撃退している。17日には第1海兵師団麾下の第7海兵連隊は大名高地の台上を一旦確保したものの、稜線に到着するとともに三方から日本軍の攻撃を受けて撃退された。この攻撃を撃退した独立歩兵第22大隊第2中隊長の松田克巳中尉の戦後の証言によると、大名高地の戦いで日本軍は、陣地を第一線陣地と第二線陣地にわけられており、第一線陣地は後ろ向きに設備した。敵軍が第一線陣地の頭上を通過させて背後の低地に降りるのを待ってから、第二線陣地は正面から、第一線陣地は背後から攻撃した。この陣地配置に米軍は多大な犠牲を払うこととなる。

 18日にも第7海兵連隊は大名高地の攻撃を再開した。午前中には支援砲撃を行ない、午後に攻撃を開始したが、大名高地を守備する独立歩兵第22大隊第2中隊は巧みな陣地配備で米軍を陣内に誘致し、急襲して撃退した。19日にも第7海兵連隊は大名高地を攻撃したが撃退され、消耗した第7海兵連隊は第1海兵連隊と交代、大名高地の攻撃は第1海兵連隊が受け持つこととなる。

 20日、大名高地は火焔放射戦車の近接支援を受けた第1海兵連隊の攻撃を受け、一部は米軍に占領された。日本軍は占領した米軍に集中砲火を浴びせたが、米軍は稜線を一昼夜確保した。これにより大名高地の守備隊は分断されてしまった。末吉宮の周辺は米軍に占領されたのはこの時と思われる。21日夜に独立歩兵第22大隊は大名高地の米軍に対して反撃を行なったが、多大な損害を受け失敗した。一一〇高地や五五高地は日本軍が依然として確保していたが、大名高地一帯は米軍に浸透されたため、日本軍の前線は後退した。


 沖縄戦によって遍照寺・末吉宮は破壊され、とくに末吉宮は砲撃によって柱2本と虹梁を残して飛散した。遍照寺は戦後もとの地に仮復興されたが、やがて沖縄県沖縄市久保田1丁目の現在地に移転した。徹底的に破壊された末吉宮も昭和47年(1972)に復元修理されている。


[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・『Okinawa: Victory in the Pacific』(米国海兵隊編、1955年)
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)


大名高地(『Okinawa: Victory in the Pacific』〈米国海兵隊編、1955年〉189頁より転載。同書は日本ではパブリック・ドメインとなっている)。日米両軍の激烈な戦闘のため、末吉宮を含む大名高地一帯は焼き払われて荒涼とした地となってしまった。



遍照寺(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



「琉球の官寺」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る