聖現寺



聖現寺(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 聖現寺(しょうげんじ)は沖縄県那覇市泊町3丁目に位置(外部リンク)する真言宗寺院です。山号は天久山で、別名を天久寺(あまくぬてぃら)といいました。もとは那覇市泊3丁目の泊高校の正門付近に位置していました。成化年間(1465〜87)に建立され、同時期に勧請された天久宮の別当寺となっています。開山は咄海禅師。本尊は正観音菩薩。天久宮は「天久権現」「天久山大権現」「天久山熊野三社大権現」とも呼ばれており、熊野神と密接な関係があります。聖現寺・天久宮とも沖縄戦で焼失しましたが、50〜100mほど北の現在地に移転・再興されました。


天久宮

 天久宮の位置する泊村は、奄美大島・沖縄本島西部諸島の貢納船が着岸する港であった。那覇が一種の国際貿易港としての役割を果たし、中国・日本など様々な民族が雑居したの対し、湾口を挟んでその北に位置する泊村は、琉球の支配に関わる物資の移動・集積の地となっていた。

 この泊村が奄美大島と関連する港として開発されたのは、伝承によると咸淳2年(1266)に大島が入貢した時で、英祖王(位1260?〜99?)が臣下に命じて公館を泊村に建造し、官吏を設置したことに始まるという。この公館を「泊御殿(とまいうどぅん)」という。また公倉を泊御殿の北に建造し、諸島の貢物を貯蔵したという。これが後の聖現寺であるという。公館や公倉が何年に建造されたのか、いつの代に公倉が寺院となったのは不明である(蔡温本『中山世譜』巻3、英祖王、紀、咸淳2年条)。この泊村が全盛期を迎えたのは、尚徳王(位1461〜69)が、奄美大島のなかで最後まで琉球の支配に抵抗していた喜界島を、成化2年(1466)に征服して以降のことで、尚徳王の軍勢は喜界島征服後、泊の港に帰着している(『女官御双紙』中、泊の大あむ)

 泊御殿は奄美諸島や沖縄西部諸島の貢納船の事務を担当する役所であった。ここには「公倉」と称される倉庫があり、それが後に聖現寺となったという。また『琉球国由来記』は聖現寺の建立年代について「開基は成化年間(1465〜87)で、神社と一緒に建立されたのであろうか。」としており(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、聖現寺)、尚徳王の喜界島征服以降の泊村の発展と期を同じくしている。以後泊村の発展は、万暦37年(1609)に薩摩が琉球に侵攻し、奄美諸島の行政権を薩摩に割譲するまで続いた。薩摩侵攻後は奄美大島との関係自体が消滅したから、泊御殿は廃止され、18世紀の段階ではただ石垣を残すだけとなっていた。


 天久山熊野三社大権現の本地仏は、阿弥陀・薬師・十一面観音であり、開基は成化年間(1465〜87)である(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、天久山大権現縁起)。開創説話は以下のようになっている。
 目軽村に、目軽の翁子という者がいた。この人は浮世の事をせず、悠々に日々を過ごしていた。ある時夕方、隣里の天久野に出て佇み、ふと山の上を見てみると、気高き女性が、威儀正しき法師(僧侶)を見送って下っていくところであった。山の中腹に小さな洞窟があり、洞窟には井があって、水が流れていた。ある時は女性を送って山に上っていたこともあった。翁子はこれを見て、法師に「何者か。女性は誰なのか」と聞いた。法師は「私はただここに住んでいる。女性は山の上の森に住む人である。名乗るべきことはない」と返答した。翁子は彼らを見るたびに不思議なことだと思っていた。ある時は正しく洞窟の中に入ることもあれば、ある時は道半ばで消えてしまったこともあった。翁子はこの事を王府に奏上した。そこで国王は諸官人に命じて、虚実を知るために洞窟に向って香を置いておくと、火は自然についた。翁子の申すことは真実であることであるとして、後に社を造営した。神託があって、「我は熊野権現である。衆生に利益するためにあらわれた。女性は国の守護神の弁財天である。」 例の翁子はただ者ではなかった。そのはじめ、水辺で長井髪の毛1本を見つけた。それを指(しるべ)として天女に逢った。天女は翁子の家に留まること3年、2人の間に息子が3人産まれた。その末裔は今も村に遺っているという(『琉球神道記』巻第5、天久権現事)

 天久宮は過去二度移転して、現在の位置に鎮座している。現在、天久宮・聖現寺はともに泊高校の北側の傾斜地に位置している。ここに移転したのは沖縄戦で焼失したためで、戦後になってからのことである。それ以前は現在地より南に50〜100mほどの泊高校に位置していた。天久宮はさらに雍正12年(1734)に聖現寺の境内に移転してきたのであって、それ以前は北の斜面に位置していた。すなわち、天久宮は二度移転してほぼもとの場所に戻ってきたことになる。

 泊高校の北側には斜面があり、現在は聖現寺・天久宮が位置し、その北側には天久緑地が広がっている。この地はもとより御嶽(うたき)が多数ある地であり、天久之嶽(オシアゲ森之御イベ)・潮花ツカサ(ヨリアゲ森ノ御イベ)・天久寺嶽(オダシ森之御イベ)・天久之小嶽(コバノ森御イベ)があったという(『琉球国由来記』巻12、各処祭祀1、真和志間切)。現在の天久宮も、戦後再建当初は御嶽形式で祀られており、現在も本殿の地下には御嶽(泊之ユイヤギ御嶽)がある。


沖縄戦焼失以前の天久宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉21頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



天久宮拝殿(手前)と本殿(奥)(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



天久宮本殿地下の御嶽(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

聖現寺

 聖現寺の開創時期について、詳細なことはわかっていないが、『琉球国由来記』には「開基は成化年間(1465〜87)で、神社と一緒に建立されたのであろうか。」としている(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、聖現寺)。開山は咄海とも(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、聖現寺)、吐海ともいわれる(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、禅窟変密門事)

 この聖現寺の開創時期について、『琉球国旧記』では、潮音寺の跡地に聖現寺が建立されたとするが(『琉球国旧記』巻之7、寺社、天久山三社並聖現寺)、『琉球神道記』に両寺とも記載されていることから、誤りとされる(名幸1968)

 聖現寺と潮音寺が同一視する説話があるのは、両寺が決して無関係であったにもかかわらず発生した説話ではない。かつて聖現寺には旧潮音寺の鐘が安置されており、そのことが両寺を同一視する説話が発生させる元となった可能性があろう。

 尚泰久王(位1454〜60)は各寺院の鐘を鋳造したが、その中には天順元年(1457)6月19日に鋳造された潮音寺の鐘も含まれている。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)潮音寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「住持比丘以芳」(「潮音寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が潮音寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、潮音寺住持の以芳が後記を記したものである。この鐘はのちに聖現寺に移されたが(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、鐘銘)、戦災で失われて、現存していない。

 住持は咄海から春甫・江沢・桃林・温泉・慶安と受け継がれ(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、住持次第)、臨済宗を宗旨としていたが、護国寺住持の頼昌法印が王府に奏上して、康熙10年(1671)真言宗寺院とした(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、住持次第)。この同時期に神応寺・万寿寺も臨済宗寺院から真言宗寺院へと改宗されており、それらはすべて頼昌の奏上によるもので、頼慶は神応寺・万寿寺がそれぞれ識名宮・末吉宮の別当寺であるにもかかわらず、禅宗寺院であることは通例に反することであると主張し、それが王府に受け入れられたことによるものであった。

 頼長和尚が真言宗開山となり、以後頼真・頼峰・頼盛・頼満・照山・峰賀・恵遍の住持が記録されている(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、天久山聖現寺、住持次第)

 沖縄戦以前の聖現寺本堂は単層、寄棟造、本瓦葺で、前面などは吹抜で縁側となっている。また縁柱はいずれも角材を用いており、椽柱で鴨居上の欄間の部分には、外側に竪板を張っており、強い風雨に備えていた。軒の出は少なく、本堂内に客殿を併設している。

 天久宮はもと寺外の北の地に建てられていたが、雍正12年(1734)7月、聖現寺内の地に移転した。この寺の大門内に移築し、西に坐して東に向って修築した(『球陽』巻之13、尚敬王22年条)。 沖縄戦以前の天久宮の本殿は、法量は桁行が12尺2寸(3m69cm)、梁間が8尺(2m40cm)、向拝の深さは4尺9寸(1m48cm)で、桁行3間、入母屋造、本瓦葺で、前面にのみ椽が付属する。また沖縄戦以前にはすでに廃絶していたが、拝殿もあり、その基壇跡は間口46尺9寸(14m21cm)、奥行39尺8寸(12m5cm)、三段の石段をへて拝殿残礎があり、これは桁行21尺(6m36cm)、梁間14尺8寸(4m48cm)あり、ここから22尺9寸(6m93cm)奥に本殿があった(田辺・巌谷1937)

 なお『ペリー日本遠征記図譜』によると、聖現寺境内に天久宮が描かれている。それによると本殿は覆屋(切妻造か)に覆われており、手前に拝殿が建っている。拝殿は石段が接続する基壇上にあり、単層切妻造、本瓦葺で、壁は竪板張となっている。正面に開けられた開口部と窓があり、沖縄戦で失われる以前の普天満宮の拝殿に極めて類似する。ただし普天満宮の拝殿の窓は二つあるが、天久宮拝殿の窓は一つとなっている。この拝殿は大正期までに失われている。


沖縄戦焼失以前の聖現寺(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉40頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)。

外国人居留地

 聖現寺は外国人の臨時の居留地として利用された。その最初の事件が英艦隊の来航である。英艦隊の乗員は琉球に上陸し、宿所として聖現寺が割り当てられた。ベイジル・ホール (Basil Hall, 1788〜1844) は聖現寺について以下のように記している。
「午後一時に、われわれはアルセスト号の貯蔵品を収める建物を下見するために上陸した。われわれが提供された場所は六〇ヤードと四〇ヤード〔五四メートルと三六メートル〕の広さで、四角く切ったサンゴを積みあげた高さ一二フィート〔三・六メートル〕の石垣がめぐらしてある。
 南側の大きな門を入ると、よく手入れされた生垣の間に玉砂利の道がつづいている。その左右は花壇をしつらえた庭園ふうの空地になっている。
 最初の訪問の折に、われわれが饗応を受けた寺院も、この石垣の一隅にあった〔実際には、この領域全体が天久の聖現寺の境内であった〕。この建物は完全に樹木でおおわれており、木の枝は壁の外側にも垂れ下っていた。門と正反対の位置、すなわち道のつき当りには大きな数本の榕樹(バヤン)の枝におおい隠されて、いくぶん小さな寺院があった。この小寺院の手前十ないし十二歩の位置に、周囲に高いヴェランダをめぐらせただけの何の装飾もない正方形の建物がある。
 最初にのべた寺院は、移動式の仕切り〔襖〕によって四つに仕切られていて、周囲をヴェランダが囲んでいる。ヴェランダの外側の縁には、彫刻をほどこした木の柱が一列に並んで屋根を支えている。このため屋根は、ヴェランダよりずっと外側まで張り出しているのである。
 ヴェランダの床は地上から二フィート〔六〇センチ〕の高さがある。勾配のついた屋根はきれいなタイル〔瓦〕で葺かれ、その下の軒は、花やさまざまな物の姿の浮彫りで飾られている。
 他にいくつかの付属の建物や台所があり、屋根つきの歩廊がそれを結んでいた。寺院の部屋の一つには上座に壁龕(へきがん)〔床の間か〕が設けてあり、緑の木の枝を挿した背の高い花瓶が置かれ、壁には中国文字を記した竹の板がかけられていた。
 この部屋の反対側の壁には、一人の男が、小鳥を猫の爪の下から助け出すところを描いた絵がかけてある。小鳥はたったいま鳥籠から出されたばかりとみえ、倒れたままの鳥籠の中には他にまだ二羽の小鳥が翼をばたばたさせている。それは単なる写生にすぎないが、いきいきした筆づかいで描かれている。
 裏側の部屋には、金箔を塗った三体の仏像があった。高さは一八インチ〔四五センチ〕あり、その前に花を活けた壺が供えてあった。
 この寺の天井の高さは一〇フィート〔三メートル〕に満たない。そして軒蛇腹(のきじゃばら)や円柱をはじめ、ありとあらゆるところに、花やさまざまの動物の姿が巧妙に彫刻されている。
 建物のまわりの地面は、たくさんの小さな花壇に分れ、それぞれ異なった種類の花や灌木(かんぼく)が植えてある。小道をたどっていくと台座に彫った岩の上に、水をみたした優雅な形の陶製の器が据えてあって、中には木製のひしゃくが浮かんでいた。
 寺院に付属した建物のそばには、大きな鐘を吊った枠(フレーム)〔鐘楼か〕があった。鐘の高さは三フィート〔一メートル弱〕、厚さは二インチ〔五センチ〕で、足長蜂の巣に似た不細工な形をしているが、いちめんに浮彫りが施されている。その昔は耳馴れないものではあるが素晴らしい。
 大きな方の寺院の一部を病人と看護人が使うことにし、アルセスト号の軍医助手が一室、他の一室は、この区域全体の責任者となる砲手が割り当てられることとなった。
 奥まった小高い場所にある小寺院は、ライラ号の観測所ときめた。中央の四角い建物は火薬庫に適当であろう。
 門には英語と琉球語で、マクスウェル艦長または首長たちのうちの一人の署名のある通行証の所持者以外は、立入りを禁ずる旨の注意が掲示された。」(ベイジル・ホール著/春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』〈岩波文庫、1986年7月〉175-177頁)


 その後、琉球との条約の調印を意図として、フランス艦が来航した。フランス艦はフランス人神父フォルカード(Theodore-Augustin Forcade, 1816〜85)の滞在を琉球側に承認させ、一旦去った。フォルカードは聖現寺を宿所として滞在した。フォルカードは次のように述べている。
「この島に上陸したのは一八四四年五月六日で、泊(ポツングの本当の名称)の寺にそのまま連れて行かれました。案内されたのは、住居というよりは、体のいい牢獄でした。我々は拒むこともできず、今日なおそこにいます。
 そこでは、周囲をぐるりと取り巻くおびただしい数の護衛に加えて、下級官吏の一団が我々の側に控えていましたが、彼らの目的はただひたすら我々の徒然をなぐさめることなのだそうです。おまけに数え切れないほどの召使いがいました、。
 最初のころ、我々は注視の的でした。昼夜を問わず、我々が鼻をかんだり、つばをはいたり、咳をしようものなら、十二、三人ほどの人たちがびっくりして飛んで来て、気絶でもしたのではないかと聞いたりするのでした。食事はこの豪壮な邸宅にふさわしいものでした。まるでこの国の産物が我々を養うために、ことごとく供されてしまっているかのようでした。」(フォルカード著/中島昭子・小川早百合訳『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』〈中公文庫、1993年4月〉46頁)
「いずれにせよ、この家にいる官吏たちが望んでいるのは、私がこれほどの豪華さに驚き、豊かさに溺れ、もうこの世に望むものは何もないというような状態になり、そしれ、笑い、食べ、よく眠って、海岸に迎えが来るのを辛抱強く待つようになることでした。」(フォルカード著/中島昭子・小川早百合訳『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』〈中公文庫、1993年4月〉48頁)
 聖現寺境内に鎮座する天久宮では毎年12月晦日に祝部・内侍などの神職や泊村の住人らが斎宿する風習があったが、フランス人宣教師(フォルカード神父)が滞在していたため、道光22年(1842)にこの場所を長寿寺に変更している(『球陽』巻之21年、尚育王8年条)
 フォルカードの滞在は2年に及んだが、フランス艦が再度来航すると次のように記している。
「これと前後して私が二年前から一部屋だけを使っている寺[全体]が、私に明け渡された。下級官吏たちは家の中の持ち場を離れ、僧侶は悪魔とその付属品を運び出した。よい兆候だ! 二度とかえって来るな!
 フランス国旗のおかげで、容易にこのような成果を得ることができた。私はただ、訪ねてくるフランス人士官たちを相応に迎えるには少々部屋が小さすぎると、[琉球]王府に申し出て、この家を全部使わせてくれないかと要請してみただけのことである。
 たった一度要請しただけで、早速場所を空けてくれたのだ。」(フォルカード著/中島昭子・小川早百合訳『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』〈中公文庫、1993年4月〉69・70頁)
 しかし、フォルカードはこのフランス艦に乗船して、琉球を去った。


 咸豊3年(1853)5月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794〜1858)率いる米国東インド洋艦隊は那覇港に来航し、船員らは琉球に上陸した。ペリーは水兵居住用の公館・公会堂の提供を求めたが、琉球側は「他に使用し得る場所を得んとせば、シン=ヒェン=ズ shing-hien-sz(聖現寺)即ち神の顕現し給ふ僧院こそ、艦隊碇泊中の住居として貴下等に供し得るものなり。余は一時の住居として、この場所に移転さるべき訓令の発せられんことを願ふものなり。」(土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督 日本遠征記(二)』〈岩波文庫、1948年10月〉27頁より一部転載)と返答している。さらに米国側は、聖現寺の1年間有償の賃貸契約を申し出ているが、琉球側は坊主が住居用に自分で造った寺院であるから、賃貸契約はできないと返答している(琉球王国評定所文書2)。ペリー艦隊の宿泊地となった聖現寺は、のちに返還されたが、観音像が行方不明となってしまい、米国人が盗んだものとされた。そこで咸豊11年(1861)、塑像を造ることを寺社奉行に要請したところ、許可が下りた(『球陽』巻之22、尚泰王14年条)

 琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時聖現寺は給与総額は583円44銭、うち国債証券額は550円であった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、天久宮は境内地は1263坪(耕地450坪、小作料年32円)、国債証券額が450円とされた(島尻1980)

 聖現寺・天久寺は双方とも昭和19年(1944)10月10日のいわゆる「10・10空襲」で焼失した。戦後境内地は沖縄県立沖縄水産高等学校に借地されたが、昭和51年(1976)に同校が糸満市西崎町へ移転後は、沖縄県立泊高等学校の敷地となった。そのため聖現寺・天久宮は敷地を50〜100mほど北の斜面に移転した。聖現寺は1959年に再建、天久宮は戦後は御嶽形式により復興、1972年に本殿を再建した。斜面に移転したため、天久宮の鳥居と入口は最も高い場所に位置し、その一段下に本殿・拝殿などが鎮座、その下には御嶽が位置するという、極めて特異な形式となっている。


[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・豆州下田郷土資料館編『ペリー日本遠征図譜』(京都書院、1998年6月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)


『ペリー日本遠征記図譜』より「泊村の寺」(豆州下田郷土資料館編『ペリー日本遠征図譜』〈京都書院、1998年6月〉31頁より一部転載)。描かれている寺院は聖現寺。右端に写真撮影する人物と被写体がみえるが、これは記録に残る限り日本最古の写真撮影である。



「琉球の官寺」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る