龍福寺跡



浦添中学校のグラウンド。ここにかつて龍福寺があった(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 龍福寺はかつて沖縄県浦添市仲間2丁目47番地に位置(外部リンク)した臨済宗寺院です。山号は極楽山のち補陀落山。龍福寺の前身である極楽寺は琉球最初の寺院で、英祖王(位1260?〜99?)によって禅鑑を開山として建立されました。その後荒廃しましたが、浦添原の地に移転して寺名を龍福寺と改め、芥隠承琥(?〜1495)を開山として復興しました。明治時代に廃寺となり、現在は浦添市立浦添中学校のグラウンドとなっています。


琉球仏教初伝

 龍福寺の前身は極楽寺という寺院であった。この寺院は琉球における最初の寺院としても名高い。

 琉球に仏教を伝えたとされるのが、禅鑑という僧である。しかしながら琉球は日本と中国の間に位置していることから、それ以前にも僧の来着があった。

 最も最初に訪れたと思われるのが、天平勝宝5年(753)11月に沖縄に上陸した鑑真一行である。遣唐第二船で帰国する遣唐副使の大伴古麻呂の船に乗り、船は一時「阿児奈波島」に至った。島に石窟があり、唐僧義静がこの中に入って坐禅としたところ、魑魅に遭って失心した。そこで思託は檳榔をとって義静を救出し、船に上げたといい、船はその日のうちに出発したとある(『日本高僧伝要文抄』第3、従高僧沙門釈思託伝所引、延暦僧録逸文、思託自叙)。ここにみえる「阿児奈波島」こと沖縄のことであろう。 

 空海(774〜835)は入唐への航海中暴風雨に遭い、「胆を留求の虎性に失ふ」と述べているように(『遍照発揮性霊集』巻第5、為大使与福州観察使書一首)、留求(流求)すなわち琉球に漂着することを恐れている。また円珍(814〜91)も入唐の航海中の仁寿3年(853)8月14日に琉球国付近に漂着し、しばらく無風状態であったが、巽(東南)風が吹いたため航海が続けられたという。この時円珍は「いわゆる琉球国は人を喫らうの地」としている(「円珍奏状(円珍請伝法公験奏上)」園城寺文書〈平安遺文4492〉)。この時、円珍が目を閉じて合掌して不動明王を念願すると、たちまち金色の人(黄不動)が舳の上に立ち、にわかに風が吹いたという説話がある(『円珍和尚伝(東寺観智院蔵本)』)。当時、流求は食人の国とされていたが(『隋書』巻81、列伝第46、東夷伝、流求国)、当時の流求の地については、台湾説・沖縄説があり、現在では台湾説が有力なものとなっている。

 寛元元年(1243)9月には渡宋者の一行が、暴風雨のため流球に流され、帰国後の寛元2年(1243)9月28日夜に船頭と数人の僧侶がその体験談を慶政(1189〜1268)に灯火のもとで語っている。それを記録したのが『漂到流球国記』である。
 寛元元年(1243)9月8日、肥前国小置賀島を出航した一行は、暴風雨にあり、二・三人が海に飛び込んで溺死する有様であったが、17日に流球国の東南に漂着した。船に乗る者達は討論し、貴賀国・南蕃国・流球国といいあったが、結局流球国であるとの結論に達し、命が今日限りのものであることを知った。一行は18日に上陸し、19日には小屋を発見したが、小屋の中に炉があり、その中には人骨があったから、一同は魂を失うような思いをし、これによって流球国に漂着したことを確認し、船に戻ってこの凶事を告げた。
 翌20日には赤い衣服を着て、赤い布を頭に巻いた裸足の童形の者を発見した。その者は巌の上に鳥のように急速に登っていったから、船上の者は死を予見した。また僧侶と信心の者は木を拾い集めて仮小屋をつくり、最後の思いをなさんと、念仏読経した。ついに21日未明、海上に船が二、三艘やって来た。その船は日本・中国の船にも似ておらず、指揮する者は赤い衣服をつけ、赤い布を頭に巻いていた。しばらくの間、船が10余艘やって来た。1船ごとに10余人ばかりが乗っており、それぞれが鉾(ほこ)・楯を持ち、弓箭を帯びていた。彼らは一斉に矢を放つと、雨のように矢が飛んできた。また楯を持って水に浮ぶ様子は、まるで水鳥のようであった。
 22日、弦を緩めて鉾を捨て、手をあげて和平の思いを示してきた。日本人もまた弓箭を納め、甲冑を解いた。その時彼らの船に近寄ってみると、その人は日本人より身長が高く、顔は非常に黒く、耳は長く鈎(耳飾りか)があった。髪は乱れて肩まで垂れ、腰に銀帯を帯び、首に金の丸をつけていた。衣服は赤か黒で、言葉は通じず、また文字を知らなかった。食物の交換が行なわれたが、流球船からは煮芋と紫苔が贈られた。その味は日本と同じであった。また女性は兵具を帯び、ある者は子どもを背負っていた。髪を結んで頭の上に置き、中国の女性に似ていた。壮年の男子は刀で屠肉の様子を示し、ある者は口を開いて肉食を表した。和平はやがて解かれ、日に3度来て戦闘を行なった。
 23日夜、良風が吹いたため、帆を揚げ碇をあげて脱出を試みた。この時船が30余艇やって来て戦闘となったが、ようやく脱出に成功し、29日に中国福州に到着した。到着した夜、船はついに大破した。翌年6月に日本に帰還した(『漂到流球国記』)

 前述したように、古代における流求の地については、台湾説・沖縄説があり、現在では台湾説が有力なものとなっているのであるが、10世紀になると沖縄において日本との人や動産などの移動が活発となり、やがて地域を拠点とした按司らが勢力を伸張。各地に割拠するグスク時代となり、やがて按司の盟主的存在である「世の主(王)」を長とする山北・中山・山南の3勢力が鼎立する三山時代となる。そのような中で、琉球の中山の中心地となったのが浦添であった。


浦添グスク跡(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

英祖王と浦添

 浦添は、沖縄本島の南部地域に位置する。南は那覇市に隣接し、西は東シナ海に面する要衝であった。かつて浦添の地は琉球の首都であり、伊波普猷(1876〜1947)は浦添の古称「うらおそい」から、「うら(浦)」を「おそう(襲)」、すなわち浦々を支配する意であることを明らかとし、浦添の地が琉球の中心地であったことを明らかとした(「浦添考」〈『古琉球』〉)。その浦添を根拠としていたのが英祖王であり、この王の時に禅鑑が琉球に来航し、仏教がはじめて琉球に伝わったという。

 英祖王は神号を英祖日子(えぞのてだこ)といい、紹定2年(1229)に降誕した。父は恵祖世主(えぞのよのぬし)で、母や妃の名は伝わっていない。世子は大成(蔡澤本『中山世譜』巻之2、英祖王)

 英祖王は天孫氏の後裔である(蔡澤本『中山世譜』巻之2、英祖王、附紀)。天孫氏とは舜天王が即位するまで琉球に君臨した王家のことで、伝説的ではあるが、25代続き、利勇によって簒奪されて滅亡したという。その利勇を倒して即位したのが、琉球の伝説的な初代王の舜天王である。

 恵祖世主の妻は日輪を夢見て懐妊したといい、英祖が産まれた日には紫気が天に連なり異香が部屋に満ちたという。そのため当時の人は「日(てだ)の子が産まれた」といった。学を好み、成長するにつれ、見識は人々を抜きんでて、評判は郷里に高かった(蔡澤本『中山世譜』巻之2、英祖王、附紀)。時に義本王(舜天王の子)の治世下にあったが、疫病が流行したため、義本王は自身に不明があったとみて有徳の者へ王位を譲ることにした。群臣は英祖を推戴したため、義本王は試しに英祖に国政を代行させた。英祖は賢才を用いて不肖なる者を退けた。すると疫病の流行は止んだ。英祖王が執政して7年、国は大いに治まったから、義本王は英祖王に譲位した(蔡澤本『中山世譜』巻之2、義本王、紀)

 英祖王は景定元年(1260)即位した。彼の事績として、景定2年(1261)の巡行と諸法の改定、景定5年(1264)の西北の諸島の朝貢、咸淳2年(1267)の大島の朝貢があげられており、大徳3年(1299)8月5日に薨去したという。在位47年、享年71歳(蔡澤本『中山世譜』巻之2、英祖王、紀)

 英祖王の居城については、伊祖城・浦添城の両説がある。琉球の古歌集『おもろさうし』には、「伊祖伊祖の石ぐすく あまみきよが たくだるぐすく 伊祖伊祖の金ぐすく(伊祖の堅固で立派なぐすくよ。祖神あまみきよが造ったぐすくなのだ)」(『おもろさうし』第15、第1066番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、179頁より一部転載〉)と、伊祖城が沖縄の祖先神あまみきよによって造られたものと歌われ、伊祖城における王権の神授性を表している。さらに「伊祖の戦思い 月の数 遊び立ち 十百年 若てだ 栄せ 意地気戦思い 夏は しけち 盛る 冬は 御酒盛る(伊祖の戦思い様、立派な戦思い様が、月ごとに神遊びをして、千年も末長く、優れた按司様を盛りあがらせよ。夏は神酒を盛り、冬はお酒を盛って栄えていることだ)」(『おもろさうし』第15、第1069番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、180頁より一部転載〉)と英祖王を讃える歌がある。ここでの「伊祖の戦思い」とは、伊祖の戦に優れた方、すなわち英祖王をさし、「若てだ」も太陽(てだ)、すなわち英祖王を表しているとされる。

 英祖王のもう一方の居城とされる浦添城は、標高130〜140mの地に位置する東西380m、南北60〜80mの大規模な城蹟である。発掘調査によると5期にわたる変遷があり、第1期は13世紀末から14世紀初頭にあたり、本格的な土木造営ではないものの、野面積みの低い石垣や、掘立柱の建物群跡が検出されている。また第2期にあたる14世紀から15世紀には大規模な城普請が行なわれ、石灰岩塊やコーラルを大量に搬入して整地造成を行なっている。この造成層は厚いところでは2m、薄いところでも50cmあった。この造営層の下から緊縛された埋葬遺体が発見されている。遺体は20代女性で、身長150cmほどで仰向屈葬されており、遺体の下に石灰岩礫が敷き詰められていた。両腕・両脚が胴体に密着するよう強く折り曲げられており、死後硬直開始前に緊縛されたものとみられている。この遺体は造成事業と関連する人柱の可能性も考えられている。また高麗瓦が検出されており、「癸酉年(1273/1333/1393年か)高麗瓦匠造」「大天」「天」といった在銘瓦が発掘されている(浦添市教育委員会1985)


 また英祖の廟として浦添ようどれが知られる。浦添ようどれは浦添グスクの北西の断崖下に造営されており、万暦48年(1620)に尚寧王が自身の廟とするために改修を行なっており、沖縄戦で破壊されたが、戦後修復された。浦添ようどれは東室・西室に分かれており、これまで東室は尚寧王陵、西室は英祖王陵とみられてきた。近年の調査によると、東西両室にある厨子・小壺11基のうち、尚寧王の一族が納められた石厨子が4基あり、他に被葬者不明の石厨子6基、王国末期に殉死者の遺骨をまとめた厨子甕1基があった。うち西室にある英祖王の葬られたと考えられてきた厨子(1号石厨子)と同系統のもの(4号石厨子)が西室にも安置されている(浦添市教育委員会2005)

 発掘調査などから、浦添ようどれの崖下から金属工房跡と瓦溜りの遺構が発見されており、出土物から13世紀の造営によるもので、また西室内部には3間×2間(約6.8×4.3m)の礎石を有する木槨の瓦葺建物がかつてあり、そこには高麗系瓦が葺かれ、高麗系瓦には「癸酉年」銘の高麗系瓦があったから、造営は1273年頃とみられている。その時の造営は石積構造ではなく、自然の崖を用いたもので、厨子は1号・4号厨子に遺骨に混じって漆片が採取されたことから、もとは漆塗板厨子であったとみられる。また東室は発掘されていないが、墓室の規模・構造と4号厨子の存在から、東室・西室はセットで造営されたものとみられ、さらに床レベルは東室の方が1m高く、さらに琉球の方位観は東を優位とするから、東室もまた英祖王陵の可能性が指摘される(浦添市教育委員会2005)

 また1号・4号厨子には多数の成人男女や未成年の遺骨が納められていることから、一つの厨子内に王の一族が合葬されたものと見られている。うち4号厨子の遺骨から採取されたミトコンドリアDNAは、母系で中国南部・東南アジアにたどることができ、13〜14世紀の琉球の国際環境の上では、中国南部の女性が琉球王家に嫁いだ可能性が指摘され、明代のビン(もんがまえ+虫。UNI95A9。&M041315;)人三十六姓の渡来以前のものとして注目される。また遺骨には火葬の痕跡があり、洗骨が琉球で発達する以前は、初期琉球王族において火葬が受容されていたとみられている(浦添市教育委員会2005)

 その後14世紀末〜15世紀前半に石積構造に改修したとみられ、14C年代や仏像彫刻から最も様式が古い1号・4号石厨子は15世紀前半につくられたものと考えられ、尚巴志王(位1422〜39)が正統4年(1439)に天齎山に葬られていること(『歴代宝案』43-20-1)、極楽寺が尚巴志王の時に移転したと考えられることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、方丈中央大硯屏)、尚巴志王代に石厨子が安置されたものと考えられている。さらに西室に安置されている2号・3号厨子は洗骨状態から15世紀のもの、東室に安置されている5号・6号厨子は15〜16世紀のものと見られる(浦添市教育委員会2005)。以上のことから、これまで浦添ようどれにおいて英祖王が葬られたのは西室、尚寧王が葬られたのが西室とみられてきたのが、実際には西室・東室は同時期(13世紀)に造営され、しかも一つの厨子には個人ではなく王族単位で葬られていたことが知られる。


浦添ようどれの西室(手前)と東室(奥)(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

極楽寺の建立

 英祖王の時、咸淳年間(1265〜74)、異域より僧侶が航海してやってきた。俗にその名を称さず、ただ補陀洛僧と言った。王は初めてこれにまみえて重んじ、寺院を浦添城の西に営み、極楽寺と号し、延請してここに住まわせた。これは我が朝(琉球国)の梵侶(僧)・仏宇(寺院)の始めである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)

 この禅鑑なる僧は、「補陀落僧」と称していたという。このことから禅鑑は補陀落渡海と関連がある者とみなされた。補陀落渡海とは、観音信仰を基調とするもので、観世音菩薩が海のかなたの補陀落山に住んでいるとされることから、那智勝浦などの海岸から小船で行者が沖に出、そのまま海没するまで航海を続けるという、いわば宗教的自殺であった。この禅鑑は補陀落渡海によって海に出たものの、海没することなく漂着して琉球にたどり着いたと考えられており、補陀落渡海の信仰などから天台宗の僧侶であったという推測がある(名幸1968)。他に琉球には金武観音寺の開山日秀が、補陀落渡海を試みて琉球に漂着している。

 極楽寺の跡地についてであるが、康熙52年(1713)に撰上された『琉球国由来記』には「旧址なお存す」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)とあることから、この時点では何らかの遺跡が存在していたらしい。

 禅鑑が浦添グスクの西に極楽寺を建立したと『琉球国由来記』は記すが、琉球において西(ニシ)は北の意にも用いられており、実際にその極楽寺跡は浦添グスクの北側斜面に位置しており、戦前までは浦添ようどれの御墓番の屋敷があった。この屋敷が極楽寺の跡と伝えられており、戦前までは極楽寺の石垣囲いがあり、屋敷内には、境内の池跡とみられる池もあったという。この場所はもとは小高い丘を背に北西向きの縦長の平地に造成されており、地形は首里城下の円覚寺の地形と酷似していた。御墓番の屋敷は戦後の採石で深くえぐり取られてしまい、極楽寺の跡地は確認不可能である(安里1997)

 極楽寺の地は岩石がけわしくそびえ立ち、坂や道が険しかったため、はなはだ往来に苦しんだという。年月をへてほとんど荒廃の状態となったが、寺の前の谷上に薮があったから、そこに移転した。その後火災に遭って住僧の歴代、寺院の記録はみな焼失してしまった。すでに年月が遠く隔たっているため、その由来を詳細に考察することはできなくなってしまった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)。この移転した跡地についても『琉球国由来記』には「遺址今なお存す」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)とあるから、康熙52年(1713)の段階でやはり何らかの遺跡が存在していたらしい。この移転した時期について、『琉球国由来記』では方丈の中央に祀られる歴代国王の大硯屏が、舜天王にはじまって尚巴志王に終わっていることから、尚巴志王(位1422〜39)の頃であると考察している(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、方丈中央大硯屏)。その理屈であるならば次代の尚忠王(位1440〜44)でなければならないのだが、雍正9年(1731)に編纂された『琉球国旧記』も『琉球国由来記』の説を踏襲して、この移転を尚巴志王の時としている(『琉球国旧記』巻之7、寺社、天徳山龍福寺)。なお浦添ようどれの改修が、石厨子の14C年代や仏像彫刻から15世紀前半に行なわれたことが判明しており、極楽寺の移転との関連性が指摘されている(浦添市教育委員会2005)

 この移転した地もやや狭く、建物を構えるのには面積が乏しかった。そのためさらに浦添城の南に数百歩を越えると、周りの山が環状になって囲まれており、竹や木が生い茂っていた地があった。成化年間(1465〜87)に尚円王(位1469〜76)はこの地に移転させ、旧号を改めて、今の名(龍福寺)とした。芥隠承琥(?〜1495)を屈請し、開山とした『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)。尚円王は、第一尚氏王統から王位を簒奪して、第二尚氏王統における初代国王となった人物である。そのため新たな王統の存在感を示すものとして第一尚氏王統以前から存在していた極楽寺を龍福寺に改め、芥隠承琥を開山としたものとみられる。芥隠承琥は円覚寺開山として有名であるが、尚円王のフィクサー的存在であったとみられており、尚円王代に天王崇元寺の開山となっている。


 万暦37年(1609)4月1日未刻、那覇港に上陸した島津勢は、湾から陸地を進撃し、浦添グスク・龍福寺を焼き払った(『喜安日記』)。尚寧王(位1589〜1620)は龍福寺を再建して、旧制に復した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)


 仏殿には木造の文殊菩薩騎獅仔像が安置されていた。この獅仔像は、かつて自分で寺辺の田を行き来し、人や田の苗を襲っていた。そこに獣の足跡があったため、怪しんで寺に行きこれを見てみると、腹や脚に泥がついており、生きているように座っていた。そのため公から寺に六・七畝の田が納められ、獅仔像の供に充てられた。その後人や田の苗が襲われることはなかった。これは今(1713)に到っても寺領となっている。俗に獅仔田という。康熙27年(1688)に小規模な修理を行った。像をみると脚が壊れていたが、そのほかの身体には全く隙間がなかったが、その腹中に稲の皮があった。奉行の向氏儀間親雲上朝武と大工の渡嘉敷親雲上がこれを見て驚き、いよいよつつしみ敬う心が生じた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、仏殿)


極楽寺跡(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)。極楽寺の跡は浦添グスクの北、浦添ようどれの手前に位置している。現在は採石のためえぐられてしまい、極楽寺の跡地であると示すものは何もない。

王廟としての龍福寺

 龍福寺の方丈の中央には舜天王・舜馬順熙・義本王・英祖王・大成王・英慈王・玉城王・西威王・察度王・武寧王・思紹王・尚巴志王・歴代王叔・歴代先妃・先遠宗親の大硯屏が安置されていた。尚巴志王以降の歴代国王の硯屏は龍福寺には安置されておらず、国廟たる崇元寺にのみ安置された。万暦年間(1573〜1619)の兵乱時に倭兵(薩摩勢)がこの硯屏を文殊獅仔像とともに門外に運び出し、ことごとく堂宇を焼却した。この硯屏はいつ頃の作であるのか不明であり、万暦年間(1573〜1619)以前よりあったものであるということしか不明である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、方丈中央大硯屏)。このように龍福寺には第二尚氏王統以前の歴代国王の位牌が祀られており、第二尚氏王統以前の王廟としての性格を併せ持っていた(長間1994)

 方丈の西壇には尚寧王(位1589〜1620)の位牌と、向氏具志頭按司朝騎の先祖の位牌が安置されていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、西壇)。朝騎は小禄の向氏の第8世であるが、この家は尚真王(位1477〜1527)の嫡長子である浦添王子月浦こと尚維衡(1494〜1540)を初代とするもので、正徳3年(1508)に世子になったものの故あって廃嫡、浦添グスクに追放された(『向氏家譜(小禄家)』)。以降歴代浦添ようどれに葬られたが、尚維衡の孫である尚懿(?〜1584)は尚元王(位1556〜72)の王女首里大君加那志を娶って、二人の間に尚寧をもうけた。これが後の尚寧王にあたるため、尚寧王の位牌の隣に向氏具志頭按司朝騎の先祖の位牌が安置されたのである。

 尚寧王は万暦25年(1597)に首里から浦添グスクまでの道を石畳に整備しており(「浦添城前碑文」『金石文 歴史資料調査報告書X』)、故郷である浦添の地を重視していたが、万暦37年(1609)の島津氏の琉球侵攻によって尚寧王は虜囚として鹿児島・江戸に連行された。浦添ようどれを整備して自身の陵墓を造営し、薨去後王陵である玉陵(たまうどぅん)ではなく、浦添ようどれに葬られた。伊波普猷は、尚寧王が薩摩の侵攻によって、琉球が薩摩の植民地化したことや、自身が捕虜となって日本に連行されたことを恥じて、代々の国王の墳を避け、浦添に墓をつくったとしている(「琉球文に記せる最後の金石文」〈『古琉球』〉)。しかしながら実際には、前述したように尚寧王の曾祖父尚維衡は、実父の尚真王に追放されていた。尚真王は、玉陵を弘治14年(1501)に造営したが、その時建立した碑文によって尚真王以下9人の人物とその子孫のみを玉陵の被葬資格者と規定し、尚維衡を除外した。そのため尚維衡の子孫である尚寧王は玉陵に葬られる資格を有していなかったのである。

 尚寧王は浦添ようどれを整備するとともに、周辺環境を整備していった。前述したように、首里から浦添グスクまでの道を石畳とし(「浦添城前碑文」)、薩摩侵攻で放火・全焼した龍福寺も再建した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)。龍福寺は再建されたものの、開山である芥隠承琥以外の記録は失われたらしく、歴代住持を考察することすらできなかったとい(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、住持次第)

 再建された万暦年間(1573〜1619)以降の住持は以下の通りである。
 因翁長老・参雪長老・剛山西堂・哲参西堂・閃空長老・泉渓長老・自心長老・法林長老・勝林長老・凌雲西堂・江山長老・単伝長老・東岩長老・廓潭長老(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山龍福寺、住持次第)

 円覚寺所蔵の大般若経は、もとは龍福寺が所蔵しており、中国福建より請来されたものである。その後龍福寺の手を離れ、円覚寺の公用となった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、大般若経来由記)

 乾隆元年(1736)、天孫氏・尚忠王・尚泰久王・尚思達王・尚金福王・尚徳王の6王の位牌をつくり、龍福寺内に安置した。それ以前は龍福寺にはこの6王の位牌がなかったから、龍福寺に以前から安置されていた神主(位牌)とあわせて昭穆の制を改めて定めた(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)

 乾隆2年(1737)、龍福寺・安国寺慈眼院・慎終庵(円覚寺法堂)の各寺に、知行12石を給することを定めた(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)

 乾隆3年(1738)、春秋の仲月(2月・8月)の初戌日に、国王は紫巾官1人を遣わして、龍福寺に安置された歴代国王の神主(位牌)に進香することとし、恒例とすることとした(『球陽』巻之12、尚敬王18年条)。さらに翌4年(1739)には龍福寺の行香の礼式を定めた。これより以前、龍福寺には先王の神主(位牌)は安置されていたものの、行香の礼を行なっていなかった(『球陽』巻之12、尚敬王19年条)

 乾隆25年(1760)に龍福寺の山号を補陀洛山と改めた(蔡温本『中山世譜』巻10、尚穆王、紀、乾隆25年本年条)。山号を改めたのはこの年3月のことであり、龍福寺住持の古関和尚の上奏であったという。また同時に禅鑑禅師の位牌を寺内に安置している(『球陽』巻之15、尚穆王9年条)。同57年(1792)7月22日に台風のため龍福寺は破壊されており(『球陽』巻之18、尚穆王41年7月22日条)、龍福寺は再度修復を行っている(蔡温本『中山世譜』巻10、尚穆王、紀、乾隆57年本年条)。この時の修復工事は9月25日に起工して12月27日に落成した(『毛姓家譜(支流)』八世安良、玻名城親雲上)


 道光25年(1845)、国王は普天間宮に拝謁する際、はじめて龍福寺に到り、香を焚き礼を行なった(『球陽』巻之21、尚育王11年条)。この時普天満宮からの参詣の帰りであり、龍福寺にては住持が寺門から4間ほどのところで、国王一行を待っており、仏殿にて国王が焼香すると、御書の間に下がって休息し、その後首里城への帰途についた(「年中各月日記」『琉球王国評定所文書』9)



龍福寺想像図(祖慶剛氏作成。『浦添市史』〈浦添市教育委員会、1983年3月〉231頁より一部転載)

龍福寺の廃寺

 明治17年(1884)、龍福寺は旧王家の尚家の私有財産となった。旧尚王家の廟寺は円覚寺・天王寺・天界寺・崇元寺・龍福寺の5箇寺であったが、いずれも尚家の私有財産となった。龍福寺はその後明治42年(1909)頃廃寺となって、建物は払い下げられて那覇市泊に移転した。寺院自体は美里村泡瀬住民の要請により同地に移転したともいうが詳細は不明である。

 龍福寺旧地は沖縄戦において激戦地となった。昭和20年(1945)4・5月に、浦添城一帯の前田高地に日本軍が拠点を構築したため、それを攻撃する米軍との間で激戦となった。それが「前田高地の戦い」である。龍福寺跡がある市立浦添中学校の東側に隣接する市立浦添小学校は、堅牢なコンクリート製の建造物であったことから、日本軍の指揮所が設置され、また米軍からも「アパートメントハウス」と称されて主要攻撃目標とされたから、両軍入り乱れて大量の戦死者を出す激戦地となった。4月25日に米軍は米国陸軍第96師団第381連隊の作戦区域だけで36門の大砲が1616発の砲弾を撃ち込み、空からはナパーム弾を投下して丘陵一帯を焼きつくした。4月28日には第381歩兵連隊のK中隊は、浦添小学校へと進出した。校舎は大きなコンクリートの建造物で、日本軍の本部があったことから制圧に乗り出したが、半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害を受け撃退された。5月5日に今度は米国陸軍第307連隊が浦添小学校を占領して直ちに機関銃を設置して要塞化し、前田高地周辺を移動しようとする日本軍に機関銃弾を浴びせ、日本軍は大量の戦死者を出した。

 戦後、1948年に龍福寺跡地には浦添市立浦添中学校が開校して、龍福寺跡地は地中に埋没することとなったが、昭和53年(1978)に浦添市立浦添中学校グラウンド西側の間地ブロック工事の際に龍福寺跡を含む浦添原遺跡の存在が確認された。その後1970年代に建てられたコンクリート製の校舎が老朽化し、平成15年(2003)度に校舎の建て替え工事を予定していたが、平成14年(2002)4月12日に給食時間の準備中に教室でコンクリート片が落下して生徒一人が負傷する事故が発生したため、同年度中に前倒しで建替え工事が実施された。それと同時に浦添原遺跡の発掘調査が同年11月29日から翌平成15年(2003)8月20日まで実施された。発掘調査の際にも米軍の不発弾が発見されるほどであった。


[参考文献]
・伊波普猷『古琉球』(沖縄公論社、1911年。ただし改訂初版〈青磁社1942年10月〉を典拠とした岩波文庫版〈伊波普猷著/外間守善校訂『古琉球』岩波書店、2000年12月〉によった)
・『Okinawa : the last battle』(米国陸軍省編、1948年。ただし訳出部分は外間正四郎訳『沖縄 日米最後の戦闘』〈光人社、2006年8月〉によった)
http://www.history.army.mil/books/wwii/okinawa/
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『浦添城跡発掘調査報告書(浦添市文化財調査報告書第9集)』(沖縄県浦添市教育委員会、1985年3月)
・長間安彦「龍福寺御焼香の次第について」(『浦添市立図書館紀要』6、1994年12月)
・安里進「首里城以前の王城・浦添グスクの調査」(『日本歴史』585、1997年2月)
・『浦添原遺跡・龍福寺跡・浦添番所跡-浦添中学校校舎改築事業に伴う埋蔵文化財範囲確認発掘調査-』(浦添市教育委員会、2002年)
・『浦添原遺跡』(浦添市教育委員会、2005年3月)
・『浦添ようどれの石厨子と遺骨-調査の中間報告-』(浦添市教育委員会、2005年3月) 
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)


前田高地の戦いにおける激戦地のひとつ「アパートメントハウス」の戦闘直後の写真(『Okinawa : the last battle』〈アメリカ陸軍省編、1948年〉278頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている) 。この「アパートメントハウス」は浦添市立浦添小学校のことで、沖縄戦では白兵戦がおこるほどの激戦地であった。この写真には写っていないが、その左側が浦添市立浦添中学校で、そのグラウンドの下に龍福寺跡がある。



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