相輪トウ



比叡山延暦寺西塔相輪トウ(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 相輪トウ(きへん+堂。UNI6A18。&M015440;)(そうりんとう)は比叡山延暦寺西塔東谷に位置(外部リンク)する高さ14.5mの銅製の搭です。もとは宝幢院の付属施設でしたが、宝幢院廃絶後は相輪トウのみ残りました。


宝幢院

 最澄は弘仁9年(818)に相継いで比叡山上における諸堂宇の建立計画を発表しているが、宝幢院やその付属施設である相輪トウもその頃の構想によるものであった。

 天台宗の根本経典の一つである法華経には、見宝塔品として釈迦が法華経を説法していると多宝塔が現出し、中にいた多宝如来が半座を空けて座を譲るという場面がある。それを具象化したのが宝幢院であり、相輪トウであった。「宝幢院」の「幢」とは塔を意味し、相輪トウの「トウ(きへん+堂。UNI6A18。&M015440;)」もやはり塔を意味する。すなわち宝幢院も相輪トウも法華経の見宝塔品における塔であることになる。

 弘仁9年(818)4月22日に最澄は六宝塔院を定めている。その六宝塔院は東の上野宝塔院(上野国緑野郡)・南の豊前宝塔院(豊前国宇佐郡)・西の筑前宝塔院(筑前国)・中の山城宝塔院(西塔)・北の下野宝塔院(下野国都賀郡)・国の近江宝塔院であった。この構想は最澄在世中にすべて完成せず、とくに近江宝塔院は東塔の惣持院となって円仁によって完成された(『叡岳要記』巻下、天台法華院)

 山城宝塔院はのちに西塔院として弘仁9年(818)7月27日の十六院構想のなかに含められた。その十六院構想の中に「法花延命幢院」として宝幢院があった(『叡岳要記』巻下、十六院)。弘仁9年(818)7月27日には光定(779〜858)を戒壇院知事および宝幢院別当に任じている(『延暦寺故内供奉和上行状』)。ところが構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多く、宝幢院自体も未着手に終わっている。ただし宝幢院の付属施設であった相輪トウについては、弘仁11年(820)9月に最澄によって銘文が撰述され、法華経・大日経など合計58巻分を銅桶内に埋経している(『叡山宝幢院図并文』)

 現存の相輪トウは明治に再建されたもので全高14.5mとなっている。うち宝珠・九輪で構成される上部は8.5m、円柱の下部は6mとなっているが、当時は全高13.6mで、うち上部は1m、銅桶は40cm、円柱の下部は12.2mとなっている(『叡山宝幢院図并文』)

 宝幢院を完成させたのは恵亮(812〜60)である。当初は円澄の弟子であったらしいが、のちに円仁の門弟となる(『僧官補任』宝幢院検校次第)。仁寿4年(854)11月には円仁の奏請により三部大法阿闍梨となっている。これによって三部大法潅頂を修したが、これは官符によって三部阿闍梨位を授けられる嚆矢となった(通行本『慈覚大師伝』)

 その後恵亮は惟仁親王(後の清和天皇)の護持僧となっていたようである。嘉祥3年(850)3月25日に降誕した惟仁親王は、文徳天皇の第4皇子であったが、母は藤原良房の娘であり、同年11月25日には皇太子に立てられた。そのため童謡に「大枝を超えて走り超えて、躍り騰がり超えて、我や護る田にや。捜(さぐ)りあさり食(は)む鴫(しぎ)や。雄々い鴫(しぎ)や。」と謡われ、識者は「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇に4皇子ありながら3兄を超えて惟仁親王が皇太子となったことをいったものとされた(『日本三代実録』巻1、清和天皇即位前紀)。その年8月5日に恵亮は惟仁親王が皇太子になるよう祈祷を行なっていたという(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。この惟仁親王と皇位を争ったのが長兄の惟喬親王であり、両者は皇太子の位をかけてそれぞれ護持する僧がいた。惟喬親王についたのが、空海の弟子の真済であり、惟仁親王についたのは空海の実弟で弟子の貞観寺真雅であり、また恵亮であった。

 後世の説話によると、惟喬親王と惟仁親王の皇太子をめぐる争いは、競馬や相撲で決着がつけられることとなった。競馬は惟喬親王側が勝ち、その後相撲となったが、相撲も惟喬親王側が圧倒しかかっていた。惟喬親王側は真済が、惟仁親王側は恵亮が大威徳護摩法していたが、恵亮は真済側に「恵亮和尚失せたり」と誤情報を流すことによって真済を油断させていた。相撲も一進一退となると、恵亮は独鈷で自分の頭を突き指して、脳を芥子にまぜ護摩にたき、黒煙をたてて一もみしたところ、惟仁親王側が最終勝利を収めることができたという(『平家物語』巻第8、山門御幸)

 宝幢院はかつて最澄が選んだ地に恵亮が建てたもので、嘉祥年間(848〜51)に完成した。千手観音像を安置し、清和天皇の即位を祈祷した。他にも等身大の不動・毘沙門三尊があった(『叡岳要記』巻下、宝幢院)。宝幢院は天安3年(859)正月23日に円珍が帰朝報告のため比叡山の諸堂を回った際、宝幢院の恵亮と面会して喫飯していることから(『行歴抄』天安3年正月23日条)、少なくとも天安3年(859)の段階での完成が確認できる。

 貞観元年(859)8月28日、恵亮の奏上により延暦寺に年分度者2人を設置することが認められた。そのうち一人は賀茂神分として大安楽経を修し、加えて法華経・金光明経を修することとなった。また一人は春日神分とし、維摩経にて試験し、加えて法華経・金光明経を試験することとなった(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。これらの経典のうち、「大安楽経」は一部で38巻ある経典で(『類聚三代格』巻第2、貞観元年8月28日官符)、詳細は不明であるが、法華経は天台宗の根本経典で、金光明経は護国経典の、維摩経は在家経典の代表的なものであり、いずれも天台宗と朝廷の繋がりを重視した経典の選択となっている。さらに恵亮は年分度者の試度(得度試験)は毎年3月下旬に西塔宝幢院にて実施することとし、戒壇院で大乗戒を受戒した後は、最澄創始の十二年籠山の制に従って籠山し、前述の経典を一日も欠くことなく講ずるものとした(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。このように比叡山と朝廷の繋がりを重視するとともに、年分度者の試度を宝幢院で行なうことによって、比叡山における西塔の位置づけを明確にするとともに、宝幢院が中心伽藍であることを示した。

 翌貞観2年(860)には相輪トウの柱が腐朽したため、修理すると同時に清和天皇の御願として無垢浄光根本真言77本、右大臣藤原良相(813〜67)分として無垢浄光相輪トウ中陀羅尼3巻(99本)、皇后藤原明子(829〜900)分として仏頂尊勝陀羅尼21本、太政大臣藤原良房(804〜72)分として仏頂尊勝陀羅尼真言21本が新たに納められた(『叡山宝幢院図并文』)

 恵亮はその年に示寂しているが、その後貞観3年(861)の式牒により恵亮が獲得した年分度者は西塔院司が管領することとなり(『類聚三代格』巻第2、仁和3年3月21日条)、貞観18年(876)3月14日には勅により延暦寺宝幢院に8僧を置くこととなり、欠員があった場合は官に申請して補わせた(『日本三代実録』巻28、貞観18年3月14日壬辰条)。その後元慶7年(883)10月11日には宝幢院を統轄する職として別当を設置しているが、その後、年分度者の管領について西塔院司と宝幢院の間で争いが置きたが、仁和3年(887)3月21日には宝幢院側の主張が通り、年分度者は宝幢院別当が統轄することとなった(『類聚三代格』巻第2、仁和3年3月21日条)。また規定により国家から宝幢院に灯油2斛6斗4升(476リットル)が支給された(『延喜式』巻26、主税上)

 その後、相輪トウは延喜17年(917)閏11月21日に暴風のために折れて倒れた。翌延喜18年(918)秋には再建のための用材を比良山より伐採しており、延喜19年(919)10月19日に完成した(『叡山宝幢院図并文』)。永観2年(984)には宝幢院の改造を行なっている(『叡岳要記』巻下、宝幢院)


弘安3年(1280)の『叡山巡礼記草』にみえる相輪トウ(右・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』〈同朋舎、1978年5月〉66頁より一部転載)と、『叡山宝幢院図并文』にみえる相輪トウの図(左・西村冏紹「比叡山相輪トウについて」天台学会編『伝教大師研究』〈早稲田大学出版部、1980年10月〉1048頁より転載)

宝幢院の廃絶と相輪トウの再建

 宝幢院はやがて、西塔院にかわって西塔の中心的存在となっていった。西塔分の年分度者2人は宝幢院が掌握し、さらに常住僧も8人あったためである。そのため西塔院司にかわって宝幢院検校が西塔を代表する者となった。

 恵亮の後は常済(?〜873頃)が宝幢院検校となっているが、宝幢院検校から天台座主に就任した人物には増命(843〜927)、延昌(880〜964)、陽生(913〜90)、暹賀(914〜998)、院源(948〜1025)、勝範(996〜1077)がおり(『僧官補任』宝幢院検校次第)、延長元年(923)には良源(912〜85)が宝幢院の日灯の房に入っている(『慈恵大僧正伝』)

 宝幢院は鎌倉時代から南北朝時代にかけて廃絶したらしく、宝幢院検校は、宝幢院廃絶後も西塔を代表する者として補任され続けた。宝幢院の跡地はその後昭和39年(1964)の発掘調査で再発見されるまで地中にあり、発掘調査では東西5間、南北6間(10.8m)の本堂を中心に、東西に数個の建物が並んで検出された。

 治承3年(1179)4月15日には西塔相輪トウ供養が行なわれており(『天台座主記』巻2、56世無品覚快親王、治承3年4月15日条)、信長の比叡山焼討ち後、相輪トウは慶長年間(1596〜1615)の初めに詮舜によって再建を試みられたが、結局寛永8年(1631)の再建まで待たなければならなかった。その後貞享2年(1685)に修理が行なわれ、同4年(1687)に完成した。高さは4丈5尺(13.5m)で、最澄撰述の銘文が復刻された(『西塔堂舎並各坊世譜』相輪トウ)

 ほかにも寛保2年(1742)にも修理が行なわれ(「相輪トウ銅像鍍金経筒外筒銘」〈景山1978所引〉)、天明元年(1781)にも修理が行なわれ、6月に相輪トウに納経されて完成した(『天台座主記』巻6、210世入道二品尊真親王、天明元年6月条)

 現在の相輪トウは明治29年(1896)に再建されたもので、昭和45年(1970)に解体修理工事が実施された。


[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年7月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・西村冏紹「比叡山相輪トウについて」(天台学会編『伝教大師研究』早稲田大学出版部、1980年10月)
・小野勝年『入唐求法行歴の研究 -智証大師篇-』下(法蔵館、1983年4月)
・村山修一『皇族寺院変革史 天台宗妙法院門跡の歴史』(塙書房、2000年10月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)

最終更新日:平成22年(2010)8月13日


比叡山延暦寺西塔相輪トウ(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



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