瑠璃堂



旧黒谷道。奥比叡ドライブウェイから(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)

 瑠璃堂(るりどう)は比叡山延暦寺西塔北谷に位置(外部リンク)する堂坊です。黒谷が寸断される以前は黒谷青龍寺から釈迦堂に向う道に面しており、京都から西塔の中心伽藍へ向う途中にありましたが、黒谷道が寸断されたため、現在は奥比叡ドライブウェイから500mほど歩いたところにあります。瑠璃堂は織田信長の比叡山焼討ちに際して、焼け残った唯一の堂とする口碑で有名です。


旧黒谷道(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)



旧黒谷道と瑠璃堂(手前)と正教坊(奥)(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)



比叡山延暦寺西塔北谷の瑠璃堂、正面より(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)

近世以前の瑠璃堂

 瑠璃堂の建立時期は明確な史料がないため不明であるが、承澄(1205〜82)が建治元年(1275)に編纂した図像集である『阿娑縛抄』に西塔の一堂としてみえ(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔)、また鎌倉時代の延暦寺の寺誌『叡岳要記』において、「北谷 瑠璃堂(本仏薬師)」とあることから(『叡岳要記』巻下、西塔)、少なくとも鎌倉時代には存在していた。

 また中世の伝承では、西塔院の瑠璃堂の本尊薬師如来は、根本中堂の薬師如来と同じく清涼山の霊木で造られたとされ、他に法勝寺薬師堂の本尊、日野薬師、美濃国横安寺の薬師如来も同じ木で造られたという(『渓嵐拾葉集』法勝寺薬師堂本尊事)

 その後、寛正5年(1464)に継運が西塔瑠璃堂にて『一代決議集』を書写している(日光天海蔵『一代決議集』奥書〈『昭和現存天台書籍綜合目録』下〉)


比叡山延暦寺西塔北谷の瑠璃堂(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)



明治45年(1912)の瑠璃堂。大正7年(1918)の修理工事で桟唐戸に改められた板戸や、撤去された背後の小仏壇がみえる(『国宝延暦寺瑠璃堂維持修理報告書』〈滋賀県国宝建造物修理出張所、1940年〉図版41より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

瑠璃堂をめぐる伝説

 瑠璃堂は前記の通り、建立年代や由緒についてはっきりとしたことはわかっていないが、近世の寺誌や後世の伝説において建立年代の推測が行なわれてきた。

 明和4年(1767)に撰述された延暦寺の寺誌である『山門堂社由緒記』によると、瑠璃堂は薬師如来を安置するため「瑠璃堂」と称すのであって、本来の号は「放光院」といったという。元慶年間(877〜85)に本尊が光を放ち、都の陽成天皇が驚いて光を放つところを捜索させたところ、その地に至り、延最が薬師如来の霊瑞を奏上した。そこで天皇は尊崇して放光院の号を賜ったという。後、村上天皇が天台座主陽生(924〜90)に仏堂を造立させ、薬師如来と日光・月光・十二神将を安置させたという(『山門堂舎由緒記』巻1、西塔、北谷、瑠璃堂)

 後述するが、現在の瑠璃堂の建造物は建築様式からみると室町時代後期のものとなっている。口碑ではあるが、瑠璃堂は元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちに際して、唯一焼失を免れた建物であるという。そのため各種書籍やガイドブックにおいても、比叡山において唯一焼失を免れた建物という説が一般的となっている。

 ところが正徳4年(1714)に撰述された西塔の寺誌である『西塔堂舎並各坊世譜』によると、瑠璃堂の建立は天正年間(1573〜92)のことで、その後寛永7年(1630)に3間の堂として新造され、元禄6年(1693)に正琳坊の跡地に移建したという(『西塔堂舎並各坊世譜』北谷、瑠璃堂)。このように桃山時代の天正年間(1573〜92)建立、江戸時代前期に再建、その後移転という略歴が示されているのだが、瑠璃堂はすでに鎌倉時代の寺誌に記録があることから、天正年間(1573〜92)の建立説をとる同書の記述は否定される傾向にある。

 しかしながら瑠璃堂は西塔北谷の中心的建造物であるから、実際に焼討ちを免れたとするのは難しく、また瑠璃堂の建物自体、延暦寺では珍しい禅宗様を基調としていることから、『西塔堂舎並各坊世譜』の記述に従って、禅寺の一堂を元禄年間に移建したとみなす説もある。実際、瑠璃堂は粽付円柱と礎石の間に木製礎盤が組み込まれているが、粽付円柱は室町時代の形式を有するのに対して、木製礎盤は当時のものではないことから、瑠璃堂が移建された建造物であることが知られる。


 瑠璃堂の建物は方3間で、軸部は禅宗様の粽付円柱となっており、木鼻・海老虹梁・須弥壇の形状、海老虹梁と内陣来迎柱の間に頭貫・台輪・詰組斗きょうを連ねて天井を受ける内陣構架の形式から、室町時代中・後期の禅宗様と考えられている。

 現在、瑠璃堂は桧皮葺入母屋造の建物である。ただし明治33年(1900)の記録では「屋根柿葺」とあることから(『名勝旧跡取調帳』)、その後桧皮葺に変更されたものであり、これは大正7年(1918)の修理工事の際に、担当者が明治45年(1912)2月8日付の官報告示(国宝指定)に「桧皮葺」と誤って指定されていたのを真に受けたためで、官報告示の記述に従ってわざわざ設計変更を提出し、柿葺を桧皮葺にしてしまったものである(滋賀県国宝建造物修理出張所1940)

 さらに、現在の瑠璃堂は正面中央に桟唐戸、その左右に花頭窓があるが、明治45年(1912)の写真では桟唐戸ではないため、大正の修理の際に推定復元されたものとみられている。また天井は格天井で、床は土間となっているが、これらも当初からのものであるかどうかは不明である。


大正7年(1918)の修理着手前の瑠璃堂内陣天井(『国宝延暦寺瑠璃堂維持修理報告書』〈滋賀県国宝建造物修理出張所、1940年〉図版42より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

瑠璃堂の修復

 宝暦元年(1751)に修復願が出されており(『釈迦堂附瑠璃堂御修覆箇所帳』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)、寛政10年(1798)(『釈迦堂附瑠璃堂御修覆箇所帳』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)、文化2年(1805)(『文化二丑年瑠璃堂并鎮守御修覆奉願箇所覚』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)にも修復願いが出されている。

 明治45年(1912)2月8日に国宝指定されており、戦後国宝保存法が文化財保護法に切り替えられた際に、重要文化財に指定された。

 大正4年(1915)1月15日には、大雪による積雪のため瑠璃堂背後の山腹急斜面上の杉が倒れて瑠璃堂を直撃し、屋根を破壊した。そのため同7年(1918)7月に修理工事に着手し、翌8年(1919)1月に竣工した。この修理のための総工費3,976円(当時)のうち、国庫補助額は3,376円(当時)、残り600円(当時)は延暦寺が負担した。

 昭和13年(1938)10月21日夜、強風のため長23m、太さ84cmの木が根本より折れ、瑠璃堂の屋根に倒れて倒壊。翌22日朝に黒谷より通学の児童が発見した。この際本尊の薬師如来像は須弥壇から前方の土間に投げ出され、バラバラに破壊された。昭和14年(1939)7月に修理工事を開始し、翌15年(1940)1月31日に竣工した。工事費用8,676円(当時)はすべて延暦寺が負担した。


昭和13年(1938)10月被害直後の瑠璃堂。西北方より(『国宝延暦寺瑠璃堂維持修理報告書』〈滋賀県国宝建造物修理出張所、1940年〉図版28より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

正教坊@ 〜西塔の再興者詮舜 その1〜

 瑠璃堂は隣の正教坊の持仏堂という位置づけであった。

 正教坊は、もとの名称を石泉院といった。ここには閼伽井(あかい。仏に備えるための水をくむ井戸)があったといい、石泉水と名付けられていた。旱魃になっても涸れなかったため、霊井とされた。そのため石泉院は秘密潅頂道場となり、また千日回峰行の行門室であった。

 この正教坊における信長の比叡山焼討ち以前の様相はほとんど知ることができないが、詮運(生没年不明)が天文22年(1554)頃に正教坊に住していたらしく、後の詮舜(1540〜1600)が14歳の時に詮運のもとで得度している(「舜公碑銘」)

 信長の比叡山焼討ち後に、正教坊の再興第一世となったのが詮舜である。この詮舜は正教坊のみならず、焼討ち後に比叡山の復興に尽力し、とくに西塔の復興を果たした人物であり、瑠璃堂の側面には詮舜の生涯と功績を記した碑文「舜公碑銘」が亀趺石の上に建てられている。これは詮舜示寂後137年後の元文2年(1737)に建てられたもので、公家の花山院常雅(1700〜71)・八条隆英(1702〜56)によって撰述された。碑文自体は『天台霞標』3編巻之3(『大日本仏教全書』第125冊)にも収録されている。

 詮舜は俗姓は藤原で、近江国滋賀郡(現、滋賀県大津市)に生まれた。先祖は武蔵国児玉の人で、正慶・建武年間(1332〜38)に戦乱を避けて近江国に移ってきた。豈の賢珍は先に出家していたから、詮舜が出家の意志を示すと、父に反対された。そこで詮舜は父に衰えた天台教学を復興すると志を述べたから、父は感動して出家を許した。14歳の時、西塔の正教坊詮運のもとで出家・受戒し、顕教・密教を兼学し、少しも怠ることはなかったが、当時周囲の僧はすでに放埒の者が多く、時の比叡山は道を志す者とよこしまな者が混在する有様であった(「舜公碑銘」)。詮舜は元亀2年(1571)に回峰行の苦行を行なっている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)

 元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちに際しては、比叡山より逃れて観音寺に寓居した。ここで比叡山復興を誓い、志を同じくする者たちが集まった。たまたま兄の賢珍が豊臣秀吉のもとに仕えていたが、弟詮舜を呼び寄せてみると、秀吉は詮舜の勇敢で潔く正直なのをみて気に入り、詮舜は秀吉に側近として仕えることとなった。同じく天台僧で秀吉に仕えていた医師がいた。それが施薬院全宗(1526〜99)で、二人とも比叡山再興の志があったから、全宗は東塔を、詮舜は西塔を再興することを誓い合った。そのことを聞いた正覚院豪盛(1525〜1610)もやって来て、ともに比叡山再興について協議した(「舜公碑銘」)


3比叡山延暦寺西塔北谷の瑠璃堂の石碑(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)

正教坊A 〜西塔の再興者詮舜 その2〜

 秀吉が織田信雄と対立し、兵を美濃国(岐阜県)に進めると、詮舜はしばしば陣中に出入りして比叡山復興を願い出た(「舜公碑銘」)。秀吉は旧主信長の意志であったから、比叡山再興にはなかなか首を縦に振らなかった。ある日陣中で、物はみな自然になるの理について談じていたが、そのとき詮舜は秀吉にむかって、「あなたの童名は日吉丸といいますが、今将軍としての大業をなしとげました。運をひらき栄えることはあたかも朝日が昇るかのようです。日吉社と比叡山が復興しようとする時期もまた、自然の道理ではないでしょうか」といった。ついに秀吉は比叡山復興を許可した(『天台座主記』巻5、166世准三后覚恕、天文12年5月条)。秀吉は豪盛・全宗とともに諸国に募縁するよう指示した。募縁の文章は公家の中山慶親(1567〜1618)が撰述し、諸国をめぐった(「舜公碑銘」)宝幢院の大衆が西塔の本堂たる迦堂を、まずは仮堂として建造していたが、本尊がなかったため、新たに造立しようとしていた。詮舜は本尊が近江国高島郡水尾村(現、滋賀県高島市)にあるという夢をみたため、実際に行ってみると、はたして夢の通り本尊があったから、天正13年(1585)12月28日に転法輪堂(釈迦堂)の本尊を水尾村より迎えた(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、天正13年12月28日条)

 文禄2年(1593)には天台座主尊朝法親王(1552〜97)の命により兄賢珍とともに秀吉に願い出、私財をなげうって日吉二宮本殿を再建した(「舜公碑銘」)。文禄3年(1594)2月23日には正親町天皇の三回忌が清涼殿で行なわれ、比叡山からは4口(人)の僧が八講を行なった。その中に詮舜と豪盛がいた(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄2年2月23日条)。西塔の復興が少しづつ行なわれていくと、方々に散った延暦寺の僧を呼び寄せた。その頃、兄の賢珍が示寂した。賢珍は近江国栗太郡(現、滋賀県草津市)の観音寺(芦浦観音寺)住持であったが、その跡を遺言で弟詮舜に継がせた。詮舜は観音寺第8世となり、観音寺が掌握していた琵琶湖湖上水運や租税の経営を行ない、その様子は「徳恵ありて人和して民賑わう」ものであったという(「舜公碑銘」)

 文禄元年(1592)に秀吉は朝鮮出兵を行ない、肥前国(佐賀県)に駐屯しているが、詮舜もそれに同行した。さらに文禄3年(1594)の伏見城築城に際して、経営を行なっている(「舜公碑銘」)。詮舜の才能を秀吉は認めており、幾度か還俗させようしたが、詮舜は首を縦に振らなかったという(「舜公碑銘」)

 文禄4年(1595)、秀吉は突如、園城寺の闕所(財産没収と破却)を命じた。詮舜は転法輪堂(釈迦堂)の復興をめざしていたから、園城寺弥勒堂(本堂)を詮舜に賜い、それを転法輪堂とするよう願い出た。そのため転法輪堂は再建された。これが現在の釈迦堂である。さらにその余材で坂本生源寺の仏殿を建立した(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄4年条)。慶長元年(1596)には園城寺の闕所により延暦寺に賜っていた大津の園城寺の寺地を返却し、かわりに上坂本村と葛川村の地を得た。

 このように西塔の復興を果たした詮舜は、慶長5年(1600)2月19日、仏号を唱えながら安らかに示寂した(「舜公碑銘」)。示寂した場所は観音寺であった(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。詮舜の最期の心残りは散佚した経典の再収集であり、これは門弟に託された。詮舜は西塔北尾谷に葬られた(「舜公碑銘」)


比叡山延暦寺西塔北谷の瑠璃堂、側面より。瑠璃堂は正教坊の持仏堂という位置づけとなっている(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)

正教坊B 〜回峰行石泉坊流〜

 正教坊は石泉院(石泉坊)と称され、千日回峰行の行門室であった。かつて東塔無動寺谷の玉泉坊流、横川飯室谷の恵光坊流とならんで西塔正教坊の石泉坊流は千日回峰行の三門流に数えられ、多くの行者を輩出した。

 いつ頃から正教坊が千日回峰行の行門室となったか不明であるが、正教坊の再興第1世の詮舜は、信長の比叡山焼討ちの直前の元亀2年(1571)に回峰行の苦行を行なっている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)

 正教坊の第2世の豪運(?〜1615)は回峰を行なわなかったが、詮舜の門弟で一族であった舜興(1593〜1662)は慶長17年(1612)に回峰行を行ない、元和2年(1616)に正教坊第3世住持となり、その後寛永11年(1634)4月に観音寺に移っているが、万治3年(1660)には葛川の総一和尚となり、参篭すること44次におよんだ。また法華経の読誦は1000部、護摩行も1000遍行ない、また師詮舜の悲願であった経典の再収集も、承応年間(1652〜54)に正教坊の北に書庫を設けることによって成し遂げている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。これは正教蔵文庫と称され、明治12年(1879)に正教坊住持稲岡尭如より西教寺に寄進され、現存する。

 また正教坊第4世の心運(?〜1668)は、舜興の外姪(甥。姉妹の子)で、寛永17年(1640)に回峰行七百日満となり、慶安5年(1652)には葛川総一和尚となり、参篭44度に及んだ(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。第5世の舜雄(?〜1701)は当初慧心院等誉の門弟であったが、後に心運の弟子となり、明暦3年(1657)から万治3年(1660)にかけて回峰行七百日を満了し、その年のうちに師から正教坊を譲られた。延宝2年(1674)5月に故あって正教坊を離れ、南尾谷西学坊、のち和泉国海岸寺(大阪府堺市)で示寂した(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)

 第6世の等運は、舜雄同様に等誉のもとで出家したが、その後舜雄に師事。万治3年(1660)に回峰行三百日を達成して白帯袈裟を受け、その後回峰行七百日も満了した。延宝2年(1674)5月に正教坊住持となった。貞享5年(1688)には葛川総一和尚となり、54度に及んだ。元禄8年(1695)には正教坊を改造し、元禄15年(1702)には正教坊を正教院と改め、弟子の等貫に正教院を譲って、等貫は第7世となった(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。その後正教院は正徳4年(1714)から延享元年(1744)までの間に正教坊に復している(武2008)

 寛政5年(1793)10月7日、西塔正教坊の聖諦が千日回峰行を満行のため参内し、玉体加持の祈祷を行なった。この時聖諦は桧笠で、小御所母屋のすみの柱の下に桧扇を敷いて笠をもたせおいたという(『天台座主記』巻7、214世入道二品真仁親王、寛政5年10月7日条)

 その後、石泉坊流の回峰行は、元治元年(1864)3月22日、大阿闍梨大僧都覚宝が回峰千日行満して綸旨を賜り、9月27日に参内し、孝明天皇の天顔を拝して玉体加持の祈祷を行なったのを最後に途絶した(『天台座主記』巻8、231世、二品昌仁親王、元治元年3月22日条)

 その後、正教坊は衰退し、正教坊の持仏堂という位置づけであった瑠璃堂は残ったが、大正頃には門のみが残るだけで、建物は失われていた。現在では坊舎があり、西塔北谷にある山坊は他に瑞雲院のみとなっている。


[参考文献]
・『国宝延暦寺瑠璃堂維持修理報告書』(滋賀県国宝建造物修理出張所、1940年)
・濱田隆編集担当『日本古寺美術全集 第10巻-延暦寺・園城寺と西教寺』(集英社、1980年9月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月) 

最終更新日:平成22年(2010)8月1日


比叡山延暦寺西塔北谷の正教坊(平成22年(2010)7月19日、管理人撮影)



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