法雨寺



法雨寺天王殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。康熙38年(1699)頃の建立。法雨寺の事実上の山門で、左右に脇門がある。

 法雨寺は中華人民共和国浙江省舟山市普陀区法音路1号に位置する曹洞宗の寺院で、普済寺慧済寺とともに「普陀三大寺」の一つに数えられています。万暦8年(1580)に建立された海潮庵にはじまり、後に海潮寺・鎮海寺と改められ、康熙38年(1699)に法雨寺と改められました。法雨寺は普陀山のほぼ中央に位置しており、光熙峰の麓に位置しています。普済寺が前寺というのに対して、後寺と称されています。


開山真融

 普陀山は観音信仰の霊場であり、その信仰によって海を渡って普陀山を訪れる者は極めて多かった。しかし明代は建国以来倭寇に苦しめられており、普陀山を含めた舟山列島は倭寇の拠点とみなされ、たびたび住民の強制移住と建物の焼却処分が実施された。普陀山の中心寺院宝陀寺も例外ではなかったが、信仰の篤さからたびたび密航者によって復興され、そのたびに当局に破壊されるというイタチごっこが続いていた。

 状況が好転するのは、万暦年間(1573〜1620)初頭、万暦帝の母慈聖皇太后(?〜1614)が普陀山観音に対して篤い信仰を寄せたことによる。それ以前、普陀山に密航して無許可で宝陀寺を再建して追放された真表(生没年不明)が、慈聖皇太后の信認を得て、万暦6年(1578)に宝陀寺の住持に正式に任命された(『重修普陀山志』巻2、釈子仙附、皇明、真表伝)。以後、普陀山の復興は中央、とくに内廷の支援を受けた規定方針となり、これによって普陀山に渡って小庵を構える僧が続出した。その小庵の一つが後に巨刹・法雨寺となるのである。

 法雨寺の開山は真融(1524〜92)で、彼の小庵・海潮庵が後に寺号を得た。

 真融は麻城(現湖北省黄岡市)の人で、15歳で村の定慧寺にて出家した。師に従って数年、牛首山にいた。嘉靖27年(1548)、燕京(北京)の崇国寺に住み、数ヶ月をへて万寿山にて受戒した。五台山に入って一歩も出ないこと5年、嘉靖33年(1554)に牛山にて苦行煉磨すること3年、嘉靖36年(1557)に故郷に戻って龍華寺にて転経した。年をこえて蜀の地に入り、峨眉山の山頂に住み、一歩も出ないこと12年、浄土庵に蔵経閣を建立した。万暦2年(1574)今度は蜀北のエイ(栄−木+金。UNI93A3。&M040730;)華山(現四川省徳陽市)に金蓮庵を建立し、朝山する者の休息所とした(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、明、大智伝)

 万暦8年(1580)普陀山に渡り、「観音の名跡に託して、黍や菜を食べて生涯を終えたい」と思い、光煕峰の下に庵を構え、「海潮庵」と名付けた(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、明、大智伝)。光熙峰は普陀山の仏頂山の左に位置し、石蓮花とも石屋ともいい、緑の草むらの中に巌がそびえた様子が蓮花に似て、また白雪が積った山のようであったから、後世「光熙雪霽」として普陀十二景の一つとなった場所であった。真融が海潮庵にて最初に建立したのは円通殿(観音殿)であり、その後万暦22年(1594)郡司の呉安国が「海潮寺」と改めた(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)

 この当時は中国の主要仏教宗派である禅宗・天台宗がともに衰えていた時代であったため、かえって他の宗派が勢いを盛り返していた。真融が属していた律宗もその一つで、真融は雲棲(1535〜1615)・徳清(1546〜1623)・真可(1544〜1604)と並んで当時傑出した人物とされ、中でも最も秀でているとされた。真融は万暦20年(1592)5月3日に結跏趺坐して示寂した。69歳。海音寺の西の雪浪山の麓に葬られた(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、明、大智伝)

 真融が示寂し、その門徒の如寿(1538〜1612)らもまた建物を増設した。
 その後海潮寺は如寿(1538〜1612)が万暦18年(1590)に寺衆の推戴を受けて住持となった(『重修普陀山志』巻2、釈子、鎮海寺)。如寿は建物を増設したが(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)、寺院の雑務が繁多となって浄業の妨げとなることから、住持を退いて静室に居住した。その後万暦24年(1596)に如徳(生没年不明)が海潮寺住持となり、万暦30年(1602)には如誠・如光が相継いで住持となった(『重修普陀山志』巻2、釈子、鎮海寺)

 万暦33年(1605)に住持となった如光(生没年不明)の時代に海潮寺は拡充をみせる。万暦34年(1606)、御馬監太監の党礼なる人物が朝廷に勅額を請うており(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)、翌万暦35年(1607)皇帝の勅によって寺額を賜り、「勅賜護国鎮海禅寺」となった。さらに皇帝より紫衣を賜り、礼部の箚(とう。通達書)を得る官寺の扱いを受けることとなった(『重修普陀山志』巻2、釈子、鎮海寺)。以後海潮寺は鎮海寺と号した。この頃の鎮海寺の様相を描いた絵図によると、山門から天王殿・蔵経楼・千仏閣・円通殿が背負式に首尾線上に配置されており、現在の法雨寺の規模よりやや小さいとはいえ、やはり大規模な伽藍を有していた。その伽藍も万暦40年(1612)閏11月の火災によって焼失している(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)

 このように海潮寺歴代の住持を見てきたが、一方で海潮寺は都管(つうかん)の役割が大きかったらしく、住持と並び称されていた。都管は寺院の一切の事務を監督する役職であるが、海潮寺の開創以来都管をつとめた如灯は寺院の経理をことごとく掌握・熟達しており、公への献身、寺衆への情愛から多くの僧がみな敬服したという。如灯の他にも、如碧・如珂・性賢といった都管がいた。如珂は伽藍の発展に力があったという。性賢は真融の侍者であったが、僧務を諳んじていることから寺衆より推薦されて都管となったという(『重修普陀山志』巻2、釈子、鎮海寺)

 明末に鎮海寺住持となった寂住は崇禎2年(1629)に梵音洞に庵を建てて退居の場所としている(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、明、寂住伝)。崇禎13年(1640)に鎮海寺住持となった文元秀(?〜1645)の時代、大殿が焼失してしまい、やがて潮音庵に退去した(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、明、文元秀伝)


法雨寺の仏頂尊勝陀羅尼塔と九龍壁(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。仏頂尊勝陀羅尼塔は1987年の新建。九龍壁は雍正9年(1731)に建立されたものが文化大革命で破壊されたため、1988年に再建したもの。



法雨寺天后閣(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。雍正9年(1731)の建立で、法雨寺の山門として位置づけられている。

別庵性統と法雨寺の開創

 明が滅亡して清の時代となる順治3年(1646)、明如徳が鎮海寺の住持となり、円通殿の跡に桁行5間の小殿を再建し、観音大士像を安置した(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、明如徳伝)

 この翌年の順治4年(1647)には海賊が舟山を跋扈していたが(『清史稿』巻4、本紀第5、世祖2、順治4年条)、順治12年(1655)11月には復明を目指す鄭成功により舟山が占領されている(『清史稿』巻5、本紀第5、世祖2、順治12年11月丁亥条)。翌順治13年(1656年)9月に清軍は舟山を占領・回復したが(『清史稿』巻5、本紀5、世祖2、順治13年9月丙午条)、海上を勢力下におく鄭氏政権の孤立化をはかって同年に海禁令を発布した。これは海外貿易を禁止することによって、海外貿易によって勢力を拡張した鄭成功の勢力を弱体化する目的があった。さらに順治18年(1661)には遷界令によって沿岸部の住民を内陸部に強制移住させ、さらなる鄭氏政権の孤立化をはかっている。この海禁令と遷界令により舟山の住民は強制移住させられたため、舟山は荒廃した(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)。康熙4年(1665)5月には鄭成功に敗れて台湾から退却したオランダ人が普陀山を占拠し、半月の間に鋳像や旛幢などを掠奪して日本に行き、交易によって20余万金を賄っているが(『普陀洛迦新志』巻3、霊異門第3、清、康熙4年条)、この際に法雨寺(鎮海寺)の鐘も掠奪されている(『普陀洛迦新志』巻11、志余門第11、康熙4年条)。康熙8年(1669)には戦乱により寺は焼失してただ堂や塔が残るのみであった(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)。康熙10年(1671)には水師提督の張杰(生没年不明)が桁行5間の堂を建てたが、この年再度戦乱によって焼失してしまった(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)


 康熙23年(1684)10月、海禁令が緩められて遷界令が解除され(『清史稿』巻7、本紀7、聖祖2、康熙23年10月丁巳条)、さらに康熙27年(1688)には舟山一帯は定海直隸庁となり、清政府の直轄地となった(『清史稿』巻65、志第40、地理12、浙江、定海直隸庁)

 遷界令が解除されて間もない康熙23年(1684)、明益が鎮海寺の住持となった。鎮海寺は荒廃して草木に覆われていたため、伐採して建物を修復した。康熙26年(1687)春に鎮海寺の住持職を同門に譲って自身は退去しようとしたが、しばらくもしないうちに檀越の屠粋忠(?〜1706)が再度明益を住持に復しようとしたため、明益は別庵性統(1661〜1717)を住持とすることを要請し、自身は単身ビン(もんがまえ+虫。UNI95A9。&M041315;)(現福建省)に入って、3年間杉の大木を探し求めた(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、明益伝)

 このように明益が鎮海寺に再住を拒否して別庵性統を住持とするよう要請したことがみえるが、明益は律宗の僧であり、別庵性統は臨済宗の禅僧であったから、創建以来律寺であった鎮海寺は禅寺となり、寺号を法雨寺と改めることになる。

 別庵性統は蜀の高梁(現重慶市)の龍氏の子で、母は李氏といった。産まれようとする時、父の明宇は夢に白龍が河に浮び、一人の童子を守るのをみると産まれたという。12歳の時、出家したいと思い、李公なる人物に「官吏になるのがいいか、和尚になるのがいいか」と聞いてみたところ、「和尚がよい」と答えられたため、忠州高峰寺の三山燈来(1614〜85)のもとで出家、22歳の時に具足戒を受け、印可を受けた。康熙24年(1685)に師の示寂のため高峰寺の住持となり、康煕25年(1686)に天童寺住持となった(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、別庵伝)

 康熙26年(1687)提督陳賛伯・屠粋忠・鎮海寺もと住持の明益らの要請により、鎮海寺の住持となった。到着の日、鎮海寺の草木は目を覆うほどで、瓦礫は丘のようであった。草木を薙払い茅を結び、持律して戒を説くと、四方より僧が集まった。康熙28年(1689)金を賜り、法雨寺の建物を建造した。殿堂や寮舍は完成し、別庵性統は住持として上堂(住持が法堂にて説法すること)を行ない、ここに鎮海寺の寺額は皇帝の勅書によって改められて法雨寺となり、別庵性統はこの寺の中興となり、禅宗開法第一祖となった。別庵性統は康熙56年(1717)10月1日に示寂した。57歳。法雨寺の蓮花峰の下の右に葬られた。著作に『続燈正統』・『祖師正宗道影』・『高峰宗旨纂要録』・『梅岑集』・『径山録』がある(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、別庵伝)


法雨寺玉仏殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。玉仏殿は康熙26年(1687)建立。かつては御碑殿といい、雍正帝の碑文が納められていたが、碑文が文化大革命で破壊されたため現名に復した。



1920年代の法雨寺玉仏殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉116頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



1920年代の法雨寺玉仏殿内三尊石仏(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉117頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。この石仏は文化大革命の際に破壊された。

円通殿の藻井

 法雨寺の現在の伽藍配置は、天王殿より玉仏殿・九龍殿(円通殿)・千手観音堂・大雄宝殿(仏殿)が首尾線上に背負式に配置される形式となっている。規模としては同じく普陀山に位置する普済寺の方が大きいものの、麓から山部にかけて背負式に上がっていく配置は、実際の規模以上に見る者に感銘を与える。

 法雨寺が禅寺として構成されるにあたって、まず康熙26年(1687)に蔵経閣・東禅堂・三聖堂・三生堂・官庁・印寮が建立されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、円通殿)。これらはいずれも法雨寺の最も高い場所にある大雄宝殿(仏殿)の付近に建立されている。
 蔵経閣は大雄殿の後ろに位置する。法雨寺の最も奥まった場所に建っており、背後には山がそびえ立っている。桁行7間(30.2m)で、康熙26年(1687)に建立されており、光緒3年(1877)に法雨寺住持の立山満円によって修理されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、蔵経楼)。二層構造となっており、上部は貯蔵経、下部中央は法堂、西側は正続堂、東側は方丈殿となっている。上部の貯蔵経には薬師如来像が安置され、康煕帝自筆の「蔵経閣」の扁額が掛けられていた(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、重建普陀前後両寺記)
 東禅堂は大雄殿・三経殿の東側に位置する建物で、僧侶の住房である。桁行5間で康熙26年(1687)に建立されて以後、光緒18年(1892)に法雨寺の住持である化聞福悟(1840〜97)によって修築された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、東禅堂)
 三聖堂は桁行5間(14m)の建物で、康熙26年(1687)に建立された。現在の玉仏殿のことであり、万寿碑があった(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、三聖殿)。この碑文は康熙38年(1699)春に康煕帝より布施と扁額を賜ったことに対する記念として、康熙41年(1702)に住持の別庵性統らによって建てられたもので(『普陀洛迦新志』巻7、営建門第7、万寿御碑亭)、そのため雍正年間(1723〜35)に御碑殿と改められている。かつて堂内には碑の他に、近代に造られた観音像と、仏龕内には魏晋南北朝時代に造立された玉仏の三尊があったが(常盤1939)、文化大革命の際に破壊された。現在の玉仏は高さ1.6mで、1989年に北京の永楽宮より請来されたものである(普陀山仏教協会1999)
 三生堂は大雄殿・関帝殿の西側にあった建物で、桁行5間の建物で康熙26年(1687)に建立された。その後長らく廃絶していたが(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、三生堂)、1992年に僧寮が再建されると同時に再建された。

 これらは三聖堂(玉仏殿)を除いては、いずれも大雄殿の付近、寺の最も奥まった場所の建物である。すなわち再建にあたっては、個別の建造物を功徳主や施主がバラバラに建てていったのではなく、一定の統一性のあるプランに沿って建立されていったことが知られる。実際、明の万暦年間(1573〜1620)の鎮海寺を描いた絵図には、天王殿・蔵経楼・千仏閣・円通殿が首尾線上に配置されており、再建後の法雨寺もやはり天王殿・円通殿・大雄殿・蔵経楼が首尾線上に配置されている。すなわち明代の鎮海寺のプランに沿って再建が企画されるとともに、禅寺としての規式にかなった方法が模索されたものとみられる。

 その後康熙28年(1689)には明益が単身福建省に入り、3年かけて杉木を1,000株求めており(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、明益伝)、康熙32年(1693)に円通殿(九龍殿)を建立して観音を安置している(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、円通殿)

 円通殿は大円通殿とも九龍殿とも呼ばれる。桁行7間で12丈7尺(約38m)、梁間4間で8丈2尺(約25m)、高さ12丈7尺(約20m)の本瓦葺の建物で(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、円通殿)、法雨寺では最大の建造物である。また内部天井には九龍盤拱があり、黄瓦が葺かれており、この九龍盤拱と黄瓦は康煕帝の勅命によって金陵旧殿(南京の明故宮)を解体して下賜されたものであった(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、重建普陀前後両寺記)

 九龍盤拱は藻井(そうせい)ともいう。円通殿のものは、内部中央の観音像上方の天井にある。これは天井の組物を四方→八角形→円形とするもので、後漢の張衡(78〜139)の『西京賦』に「倒茄(逆さまの蓮)を藻井に蔕(へた)とし、紅葩(あかね)の狎獵(かざり)を披(ひら)く」(『文選』巻2、賦甲、京都上、西京賦)とあるように、後漢代には蓮弁形を逆さに吊した藻井があったことが知られる。藻井は他にも圜泉・方井・闘八藻井ともいい、宮殿を「圜泉・方井」、つまり藻井として蓮弁を吊り下げるのは、火災を避ける目的があったという(『宋書』巻18、志第8、礼5、殿屋)。藻井は格天井の中央を四方→八角形→円形と組み合わせていくもので、宋時代の建築書『営造方式』には「闘八藻井」として、四方部分(この部分自体も方井という)は直径8尺(240cm)、八角形部分は6尺4寸(192cm)、円形部分は「闘八」といい、直径4尺2寸(180cm)と規定されていた(『営造方式』第7巻、小木作製度2、闘八藻井)

 藻井は本来、皇帝宝座の空間が別格高貴な領域であることを明確に表わすために用いられた。現在では北京紫禁城の太和殿にみられるが、金陵旧殿(南京明故宮)にも藻井があったとみられ、現に円通殿はそれを移築したものであるという。明の初代皇帝洪武帝は金陵(南京)を都に定めたが、燕王朱棣(永楽帝)よるクーデター・靖難の役により焼失。北京に遷都となったが、皇太子は監国として南京に留まり、北京・南京の両京体制が持続されたから、南京にも同様に宮殿があった。

 また藻井は寺院の荘厳にも用いられ、下華厳寺の薄迦教蔵、浄土寺の大殿、永和宮の大殿、智化寺の如来殿など、遼・宋・元・明代の仏殿遺構に藻井が残っている。とくに中国江南では仏殿に藻井を荘厳することが常態化しており、宋代の遺構が残る寧波の保国寺の大殿をはじめとして、多くの寺院の仏殿に藻井がある。法雨寺の円通殿もまたそれらの一例であり、観音像の荘厳として下賜された藻井が意匠されたのである。なお円通殿は南京の明故宮の建物そのものが移築されたものとする記述がみられることがあるが、実際には康熙32年(1693)に新造されたのであって、明故宮から移築されたのは藻井と黄瓦のみであった。円通殿は光緒5年(1879)に大雄殿とともに法雨寺住持の立山満円(1825〜89)によって修理されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、円通殿)


法雨寺九龍殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。円通殿ともいい、観音菩薩を安置する。康熙38年(1699)の建立で、天井の藻井と黄瓦は南京の明故宮より移築されたもの。



1920年代の法雨寺大殿(九龍殿).(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉115頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



法雨寺九龍殿天井(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)

法雨寺伽藍の完成

 康熙32年(1693)に法雨寺の円通殿が建立されると、その2年後に大雄殿も建立された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)。大雄殿は大雄宝殿とも称され、すなわち釈迦堂のことである。法雨寺は普陀三大寺の一つに数えられる大寺であるが、他の普陀三大寺である普済寺慧済寺はともに観音を本尊にするのに対して、法雨寺は釈迦如来を本尊とする。

 大雄殿は入母屋造で本瓦葺、一重庇付の建造物で、桁行5間で10丈8尺(32.4m)、梁間は7丈8尺(23.7m)、高さ5丈4尺(16.2m)あった。光緒5年(1879)に円通殿とともに法雨寺住持の立山満円によって修理されており(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、大雄宝殿)、1996年にも大修理が実施された。大雄殿の東側には桁行3間の准提殿があり、大雄殿が建立された康熙年間(1662〜1722)に建立されたものとみられる。光緒8年(1882)に立山満円によって修復されており(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、准提殿)、現在は三経殿と称される。また大雄殿の西側には桁行3間の伏魔殿があり、これも大雄殿が建立された康熙年間(1662〜1722)に建立されたものとみられる。光緒8年(1882)に立山満円によって修復されており(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、伏魔殿)、現在は関帝殿と称されており、その名の通り関帝(関羽)を祀っている。

 康熙38年(1699)春、康煕帝は南に行幸し、杭州に駐屯した。別庵性統は康煕帝に召されて行在(皇帝の行幸における滞在所)に赴いた。康煕帝は別庵性統に鎮海寺がどうなったか尋ねると、別庵性統は法雨寺と改めたことを返答した。これによって江南の黄瓦12万枚と金1,000両を賜り、円通殿にかけるための扁額「天花法雨」を自ら書いて賜り、方丈に納める金剛経も、康煕帝自身が揮毫して賜った(『普陀洛迦新志』巻7、営建門第7、万寿御碑亭)。また同時に「法雨禅寺」の扁額も賜っている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)

 「法雨禅寺」の文字が大書される天王殿は、建立年代については不明であるが、この扁額を賜った康熙38年(1699)前後とみられる。天王殿は桁行5間、一重裳階付の建物で(桁行29m)、光緒2年(1876)に立山満円によって修理され(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、天王殿)、のちに民国14年(1925)にも達円により修理されている(普陀山仏教協会1999)

 また雍正9年(1731)3月にも浙江総督の李衛(1687〜1738)の奏上により金7万両を下賜されており、これによって堂宇を再建している(『普陀洛迦新志』巻4、檀施門第4、恩免普陀銭糧碑記)。この年には天后閣を建立しており、これが事実上の山門としての役割を果たしていた(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、天后閣)。これによってすべての殿堂・楼閣が揃って完美したことから、法雨寺は普済寺とともに普陀山に並んで輝く存在であると称された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)。この時に法雨寺の伽藍は完成を迎えた。


法雨寺伽藍配置図(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月)〉161頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



法雨寺千手観音殿(背面から)(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。康熙44年(1705)の建立。かつては御碑殿と称され、康煕帝の碑文が納められていたが、碑文は文化大革命で破壊。現在は1988年に新造された千手観音を安置する。



法雨寺大宝殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。大雄宝殿とも。康熙32年(1693)の建立で、内部に三世仏を安置する。法雨寺の事実上の本堂。

法雨寺の住持たち

 別庵性統の示寂後、玉峰空懐(?〜1719)が法雨寺の住持となった。玉峰空懐は康熙56年(1717)12月に住持に就任し(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、玉峰伝)、康熙58年(1719)に玉峰空懐が示寂すると、洞徹空明が住持となった(洞徹伝)。雍正元年(1723)には見コウ(火へん+工。UNI7074。&M018867;)空炎(?〜1729)が(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、空炎伝)、その示寂後の雍正7年(1729)には楽道空経(1662〜1734)が住持となった。雍正9年(1731)に楽道空経が法雨寺を退去すると、法沢明智(生没年不明)が住持となった(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、楽道伝)。彼らはいずれも別庵性統の法嗣であり、法雨寺が別庵性統の法脈の者が住持となる寺院となっていたことが知られる。

 楽道空経が住持であった雍正7年(1729)に雍正帝より金7万両を下賜され、普済寺と法雨寺が修造されることとなったが、楽道空経はその業務が繁多であることを嫌って法雨寺住持を辞職した。そのため法沢明智が同年中に法雨寺住持に就任している。法沢明智は別庵性統の法嗣であり、見コウ空炎が雍正2年(1724)に住持になったとき、要請を受けて法雨寺の監寺となっている。その戒行を見込まれたとともに、事務に熟達していたこともあったという。前述の通り、雍正9年(1731)に楽道空経の退去をうけて住持となったが、法沢明智はよく対処して、すべての工員の尊敬を集めたという(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、法沢伝)。3年後の雍正12年(1734)に工事は竣工しており、この間に天后殿を建立し(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、天后殿)、雍正11年(1733)にはオランダ人の掠奪によって失われていたと思われていた法雨寺の鐘が発見されている(『普陀洛迦新志』巻11、志余門第11、康熙4年条)。雍正12年(1734)正月15日、法雨寺修造の竣工に際して、雍正帝は自ら碑文を撰述して労に報いている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、御製普陀法雨寺碑文)

 法雨寺は別庵性統によって再興され、住持も以後は別庵性統の法嗣が継承した。別庵性統は大慧宗杲の正統たる臨済宗の宗風を張っていたが、法雨寺は乾隆年間(1736〜95)には曹洞宗の寺院となっていたらしい(常盤1939)

 乾隆38年(1773)冬、定海鎮総兵として赴任してきた李国梁(?〜1787)は、普済寺が繁栄しているのに対して法雨寺が零落しているのを見て不思議に思っていたが、法雨寺住持の遠輝□慧と面会して、法雨寺前住持の瑞琳□祥の時代に寺産や法具が各庵によって負債の抵当としてとられており、困窮していた事実を知った。そのため普済寺住持の越三とともに各庵の住僧に説得して法具などを返却させ、翌年の乾隆39年(1773)には越三・遠輝の呼びかけによって寺田が寄進された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺、恢復法雨寺田産法器序)

 法雨寺は同治11年(1872)に住持となった立山満円(1825〜89)の時代に大改修を行なっている。法雨寺は太平天国の乱においては直接的被害は受けなかったものの、参拝者が激減したため荒れ果ててしまい、殿堂や寮舎は破損していたという(『普陀洛迦新志』巻11、志余門第11、法雨寺万年簿)。その改修に尽力したのが立山満円であり、光緒元年(1875)には西客楼・香積廚・留雲堂・客堂、光緒2年(1876)には天王殿、光緒3年(1877)には蔵経閣・東斎堂・雨華楼・怡情室、光緒5年(1879)には大雄殿・円通殿、光緒8年(1882)には準提殿・西禅堂・雲水堂が修築されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)。立山満円は光緒10年(1884)に住持職を辞した。立山満円のあとを継いで復興に尽力したのは化聞福悟(1840〜97)である。

 化聞福悟は奉天鉄嶺の張氏という名家に生まれた。幼い頃より儒教を学び、成長すると太平天国の乱に際して僧忠親王(センゲリンチン、1811〜65)の幕下に入って軍功を挙げ、これによって監司の官職についた。僧忠親王戦死後の光緒元年(1875)、普陀山に渡海して観音を礼拝したが、ここで因縁を感じて立山満円のもとで出家得度し、金山江天寺にて具足戒を受戒した。立山満円が法雨寺の大改修を行なうと、師と志を同じくして修造に加わり、ついに立山満円の法嗣となった。光緒7年(1881)に北京に遊学し、香界寺の住持となったが、光緒10年(1884)に師を顧みて普陀山に戻り、法雨寺の住持を継いだ。法雨寺の復興を自身の務めとし、師の立山満円が着工できなかったものを次々を修復していった(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、化聞伝)。化聞福悟の時代に修復された建物として、光緒11年(1885)に山門・西戒堂、光緒12年(1886)に伽藍殿・東斎堂、光緒13年(1887)に伏魔殿、光緒18年(1892)に東禅堂、光緒21年(1895)に方丈・珠宝観音殿・安楽堂、光緒23年(1897)に祖堂・後斎堂がある(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、法雨禅寺)。また普陀山の方志(地方史)が失われたため、日本の岸桜(岸田吟香、1833〜1905)との間に交流をもち、彼より康熙37年(1698)に裘l(1644〜1729)撰の『南海普陀山志』を獲得、法雨寺の寺蔵とした。法雨寺の復興のため幾度も海を渡り、南北を駈け馳せた彼も、やがて気力・体力がつきていった。光緒23年(1897)秋、新たに蔵閣(経蔵)を建立するため北京に赴いたが、しばらくもしないうちに病にかかり法雨寺に引き返し、11月に示寂した。58歳(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、法雨住持、清、化聞伝)

 光緒27年(1901)に法雨寺住持となった開如徳月は近代化する普陀山にあって、宣統元年(1909)に普陀山化雨小学校を開校、以後教育面に関心を払い、民国11年(1922)には印光(1861〜1940)とともに『普陀洛迦新志』の編纂にあたった。中華人民共和国が1949年に成立すると、普陀山全域は軍隊の駐屯地となり、寺院は収公された。1952年には妙善(1909〜2000)が法雨寺代理住持となったが、法雨寺は軍の駐屯地となり、さらに文化大革命によって法雨寺の仏像はすべて破壊された。1985年に普陀山の寺院は普陀山仏教界に返還された(普陀山仏教協会1999)


法雨寺三聖殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。かつては準提殿と称され、康熙年間(1662〜1722)の建立。

[参考文献]
・常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』(法蔵館、1939年10月)
・中野徹・西上実責任編集『世界美術大全集 東洋編 第9巻 清』(小学館、1998年4月)
・普陀山仏教協会編『普陀洛迦山誌』(上海古籍出版社、1999年11月)

最終更新:平成22年(2010)9月9日


法雨寺関帝殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)。かつては伏魔殿と称され、康熙年間(1662〜1722)の建立。



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