普済寺



普済寺三門(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。康熙年間(1662〜1722)に建立された。中山門といい、かつては三勅碑が安置されたから御碑殿とも呼ばれたが、三勅碑は文化大革命で破壊された。

 普済寺は中華人民共和国浙江省舟山市普陀区に位置する禅宗寺院です。開創は日本僧恵萼が普陀山に観音像を持ち込んだことによるとされ、それをもとに不肯去観音院が建立され、元豊3年(1080)に宝陀寺と改められました。当初は律宗寺院でしたが紹興元年(1131)に禅寺に改められ、のちに教院五山十刹のうち、十刹第5位に数えられたほど栄えました。洪武20年(1387)・嘉靖32年(1553)・隆慶6年(1572)・万暦2年(1574)と幾度も廃寺となりましたがそのたびに復興され、万暦26年(1598)に普陀寺と改められ、康煕38年(1699)に現行の普済寺の勅額を得ました。法雨寺慧済寺とともに「普陀三大寺」の筆頭に数えられ、観音信仰の中心地となっています。


普陀山

 普陀山は中国浙江省の長江河口域の太平洋上に浮かぶ舟山列島の一島で、南北8.6km、東西3.5kmの小島である。周囲の海は長江が上流から運ぶ泥濘によって茶色となっており、中国に渡った円仁や成尋の記録には、泥濘の濃さによって中国大陸との遠近を測量する方法が記載されている。寧波の沖合に位置する普陀山は観音霊場として今日まで人々の信仰を集めてきた。

 観音信仰の発生はおおむね法華経の登場とともにはじまる。観音、すなわち観世音菩薩はアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokitesvara)の意訳であり、観自在菩薩とも漢訳された。法華経普門品の中に、海上に浮かぶ船中で、たとえ暴風雨のため羅刹鬼国に漂ったとしても、もし一人が観世音菩薩の名を称えれば、みな難を逃れると説いている。古代インドにおいて、インド洋から師子島(スリランカ)といった南海諸島への交易が盛行し、多くの貿易船が運航されたが、彼ら船乗りや商人が最も恐れたのが遭難・難破といった海難事故であった。すなわち紀元前後の古代インドの船乗りらによって海難事故防止のため名を称えられていたのが、観音の原型であり、この信仰が法華経普門品の祖型となったのである。

 このように法華経普門品に航海の守護神としての性格が説かれるが、古代インドにおいて南インドを出航する船乗り達によって、観音が実際に居住する地への関心が高まっていた。『八十華厳経(大方広仏華厳経)』入法界品(大正蔵293)において、「ここにおいて南方に山あり。補怛洛迦と名づく。彼に菩薩あり。観自在と名づく。」とあるように、観音の住処は補怛洛迦(補陀落)なる場所であることが説かれる。

 補陀落は梵音のポタラカ(Potalaka)の音写で観音の住処を意味するが、古代インド人は南インド沿岸に実在する山を想定していたらしい。また後世、インドでは補陀落の場所をスリランカであるとみなしていた。普陀山の「普陀」とは、いうまでもなく観音の住処である補陀落のことである。

 もともと普陀山は梅岑山という名称で呼ばれた小島にすぎず、それが観音信仰の中心地となるのは日本僧慧鍔(えがく)の観音請来説話が関係する。


普陀山遠景(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

恵萼行状

 普陀山において、はじめて寺院を建立したとされるのは日本僧慧鍔(えがく)とされる。この慧鍔は平安時代前期の実在の人物で、「恵萼」とも表記される。平安時代にさかのぼる恵萼のまとまった伝記はないものの、諸記録に散見するため、ある程度の人物像を描くことは可能である。記録に残る限り、恵萼は唐を三度(数え方によっては五度)往復しており、一回きりの遣唐使などの使節や、留学のため何年も滞在する留学生・留学僧などの、通常の日本と唐をめぐる人物像とは異なった動向をみせている。この時期の日本と唐の人物をめぐるネットワークは、恵萼や唐の商人を見る限りではわれわれが現在想像する以上に活発である。

 第一回目の恵萼の動向は、円仁の旅行記録『入唐求法巡礼行記』の中に風聞としてみえる。恵萼は会昌元年(841)に弟子とともに3人で五台山に到っている。恵萼の発願により十方に僧供を募るため、恵萼は本国に帰国し、弟子僧2人は留まって五台山に居住していた(『入唐求法巡礼行記』巻第3、会昌元年9月1日条)。五台山は中国山東省の山系であり、文殊菩薩の聖地とされたことから多くの巡礼者を集め、多数の寺院が林立していた。このように恵萼は五台山の僧供を日本で募るため、弟子を残して帰国していたことが知られる。
 また円仁が円載(生没年不明)の弟子仁済より聞いたところによると、仁済は劉慎言からの話として、恵萼は船で楚州に行き、すでに五台山を巡礼して、この春に故郷に帰ろうとしている。そのため劉慎言は船を準備して恵萼を待っていた。恵萼は前年の秋にしばらく天台山にいたが、李隣徳四郎の船に便乗して明州(寧波)から帰国する予定であったが、恵萼の銭・物・衣服や弟子はすべて楚州にあったから、恵萼を迎えて楚州から出発するであろうと述べている(『入唐求法巡礼行記』巻第3、会昌2年5月25日条)

 第二回目の恵萼の渡航は会昌5年(845)の情報として、やはり円仁の『入唐求法巡礼行記』にみえる。会昌2年(842)に恵萼が五台山を巡礼し、五台山の供を募るため李徳の船で本国に帰国したが、以後毎年供養料を持って五台山に到来していた。今は国難(廃仏)にあって還俗し、楚州にいるという(『入唐求法巡礼行記』巻第4、会昌5年7月5日)。武宗による会昌の廃仏は、徹底した仏教弾圧であり、この時期多くの僧が還俗させられ、仏像は溶かされて寺院は破壊された。この廃仏は既存の仏教教団に大打撃を与えた。例えば真言宗は以後中国の地にては衰退し、天台宗は宋代まで復興することができなかった。会昌の廃仏において、唐側は外国人僧侶に対して還俗の後国外追放としているから、還俗させられた恵萼もまた国外追放に処されたと思われる。

 なお恵萼は会昌2年(842)以来、同5年(845)まで毎年五台山に詣でていたといい、恵萼は記録にみえる三回の入唐以外にも、二度入唐していたことが知られる。実際、その間の会昌4年(844)4月29日に恵萼は『白氏文集』巻52の書写を終了しており(金沢文庫旧蔵『白氏文集』巻52、跋)、同年5月2日にも『白氏文集』巻59の校合を行なっており、これは諸人を請じて書写したものであったという(金沢文庫旧蔵『白氏文集』巻59、跋)。これは恵萼の五台山の僧供を日本で募っていたことと一連をなすものであり、逆に五台山にて『白氏文集』の書写を募って、日本に請来しようとしていたことが見出せる。承和14年(847)7月8日に円載の従者仁好とともに恵萼は日本に帰国している(『続日本後紀』巻17、承和14年7月辛未条)

 皇太后であった橘嘉智子(786〜850)は多くの宝幡・繍文の袈裟をつくっており、きわめて巧妙なものであったが、周囲にはその本意を知らせなかった。後に恵萼が入唐すると宝幡・鏡匳の具を五台山の寺院に施入した(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年5月壬午条、太皇大后橘嘉智子崩伝)。また皇太后橘嘉智子は唐の禅化を慕い、金や書簡を恵萼に委ねて優れた禅僧を招聘しようとした。恵萼は杭州の霊池院の斉安国師(生没年不明)のもとに参じて、皇太后の書簡を手渡した。恵萼は「我が国は仏法を深く信じて親しみ、教法(禅宗以外の宗派)が非常に盛んです。しかし最上である禅宗はいまだに伝わっていません。願わくは師の伝える仏法を得て、わが国の宗門(禅宗)の根底としたいのです」といった。斉安国師は義空(生没年不明)をもってその要請に充てた。義空は便ち恵萼とともに渡海して大宰府に到着した。恵萼は先んじて奏上したところ、勅によって義空を迎えて東寺の西院に住まわせた。恵萼は再度入唐して蘇州開元寺の僧契元(生没年不明)に要請して、この事を記録して美玉に刻み、「日本国首伝禅宗記」と題して船で送ってきた(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、唐国義空伝)

 真如(高丘親王、799〜865)の入唐の一行の中に恵萼の名がみえる。貞観4年(862)7月に大宰府鴻臚館を出発して遠値嘉島(五島列島福江島)にて停泊、9月3日に東北の風を得て出航した。7日に明州(寧波)の揚扇山に到着した。この一行の中に恵萼もいたが、真如が長安へと向うのには同道せず、恵萼・賢真・忠全らは翌貞観5年(863)4月に明州から本国に帰国した(『入唐五家伝』頭陀親王入唐略記)

 このように恵萼は幾度も日本と唐の間を行き来していたことが知られるが、恵萼と普陀山の説話は中国南宋の僧大石志磐(生没年不明)が咸淳5年(1269)に撰した仏教史書『仏祖統紀』にはじめて登場する。

 それによると大中12年(858)前後のこととして、日本国の僧慧鍔が五台山に礼拝して観音像を入手し、四明(寧波)を経由して帰国しようとした。舟が補陀山(普陀山)にさしかかると、舟が石の上に差し掛かって進むことができなかった。皆があやしんで、「もし尊像を海東(日本)に持っていくには機縁が熟していないから、この山(普陀山)に留めよう」というと、船はすぐさま浮き動いた。慧鍔は哀しみ、観音を慕うあまり去ることができず、海上に庵をつくって安置した(『仏祖統紀』巻第42、法運通塞志17之9、唐、宣宗、大中12年条)

 このように、普陀山にて恵萼が乗る船が座礁し、離礁のために観音を普陀山に安置したという説話が記されている。前述したように、恵萼は四明(寧波)を日本と唐への往復の根拠地の一つとしていたから、四明の沖合にある舟山列島の一島である普陀山に立ち寄る可能性は充分あった。また恵萼が観音像を五台山から日本に請来しようとしていたことが記されるが、前述したように恵萼羽日本からは宝幡・鏡匳を唐に運び、唐からは『白氏文集』を請来し、義空を日本に招聘している。また嘉祥元年(848)に建立された安祥寺に唐製の仏頂尊勝陀羅尼の石塔1基が安置されており、恵萼が建てたものであるという(「安祥寺伽藍縁起資財帳」〈平安遺文164〉)。このように恵萼の募縁活動は人と物を相互に移動させることであり、李徳のような唐の商人を仲介していた。


普済寺八角水亭(中央)と三門(左側)(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。雍正年間(1723〜35)に建立された。

宝陀寺の建立

 恵萼が普陀山において観音を安置したことは、方志や仏教史書において概ね共通して記される事項であるが、具体的な年月について諸説わかれている。例えば咸淳5年(1269)の『仏祖統紀』では大中12年(858)に系年しており(『仏祖統紀』巻第42、法運通塞志17之9、唐、宣宗、大中12年条)、南宋の宝慶年間(1225〜27)に撰述された『宝慶四明志』では大中13年(859)とする(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、教院4、開元寺)。唐の大中年間(847〜60)は恵萼の生存年代にほぼ重なるとみられるから、恵萼の普陀山観音説話を大中年間の事績とするには矛盾はないが、さらに後代の方志や仏教史書では後梁の貞明2年(916)説が有力となり、ほぼ固定されることになる。例えば元の至正21年(1361)に盛煕明(生没年不明)が撰述した『補陀洛迦山伝』では貞明2年(916)とし(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、梁、貞明2年条)、以後、明の万暦35年(1607)刊の『重修普陀山志』、民国11年(1922)の『普陀洛迦新志』にも踏襲された。

 現存する方志や仏教史書のうち、最初に貞明2年(916)説を唱えたのは、元の至正元年(1341)に梅屋念常(1282〜?)によって撰述された仏教史書『仏祖歴代通載』である。この中で日本国の恵萼が五台山の菩薩画像を得て、本国に帰ろうとしたが、船が洞窟の前に到って進まなくなったため、像をそこの住民の張氏の門に捨て、張氏は神異をみて家を観音院としたことが記され、さらに郡の将軍がその像を迎え、僧が嘉木で像を彫ったと記述する(『仏祖歴代通載』巻第16、唐、補怛洛伽山)。『仏祖歴代通載』では文中において、張氏が家を観音院としたとする記述の後に「梁の貞明二年、始めて寺を建つ」という『昌国志』の引用文を注記する。『昌国志』とは王阮によって南宋の紹熙年間(1190〜94)に撰述された昌国(現舟山列島)の方志で、現在は散佚しているが、同様の説話と同じ逸文が『釈氏稽古略』にも引用されているから、『昌国志』には恵萼の観音勧請説話、張氏の観音院建立説話、嘉木造像説話の三説話が記されており、同時に貞明2年(916)に寺院が建立されたことが書かれていたことが確認される。すなわち貞明2年(916)に恵萼が観音を普陀山に安置したというのは、三説話が一説話にまとめられる時に、本来観音院が寺院になった年月を記したものが、その前に記されていた恵萼の観音勧請説話に系年してしまったための、文献上の誤読によるものである。そのこともあってか、大徳2年(1298)の『大徳昌国州図志』において、恵萼の観音勧請説話、張氏の観音院建立説話、嘉木造像説話の三説話すべて記載するものの、この三説話に関しては一切系年を行なっていない。説話において大中年間と貞明2年の間の混乱を避ける意図があったとみられる。

 恵萼の観音像は張氏の宅に安置され、その後張氏が宅を不肯去観音院としたという(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)。「不肯去」とは文字通り、去ることを肯わずの意味であるが、その後普陀山から四明(寧波)の開元寺に持ち出されている。その由来を述べた説話には、開元寺の僧道載が夢に不肯去観音をみて、観音が開元寺に帰りたいとの啓示を受け、開元寺に新堂を建造して観音を納めたという。この観音を納めた建物を開元寺では「五台観音院」といった(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、教院4、開元寺)。その後、異僧がいて嘉木を持って開元寺に行き、不肯去観音を模刻し、観音像が完成するや僧の所在はわからなくなったという。そこで観音像を迎えて普陀山に安置した(『仏祖統紀』巻第42、法運通塞志17之9、唐、宣宗、大中12年条)。その後不肯去観音院は、前述の通り貞明2年(916)に寺号を得ている(『仏祖歴代通載』巻第16、唐、補怛洛伽山所引、昌国志逸文)

 寺号を得た不肯去観音院は、元豊3年(1080)に宝陀寺の勅額を賜っている(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)。その前年の元豊2年(1079)、宋は王舜封(生没年不明)を高麗に遣わして医者に高麗国王の病状を診断させた(『宋史』巻487、列伝第246、外国伝第3、高麗条)。当時、宋は北方の遼(契丹)と対峙しており、高麗は軍事的に強力で、かつ地勢的には隣国である遼の冊封体制下にあった。しかし宋は神宗(位1067〜85)の意向により、高麗と非公式に交渉をもつようになる。高麗は遼と陸続きであったから、自然宋使は海路にて高麗を目指すことになったが、航海技術が未熟であったため、常に海難の危険性がつきまとっていた。そのため多くの船員は海神廟を信仰したが、王舜封は普陀山の観音を信仰することによって海難を免れたと信じていた。説話によると、王舜封が高麗への使節として船に乗っている時、大亀が船の下に潜り込んで船を背負ってしまい動けなくなってしまった。普陀山を望んで礼拝すると亀は潜ったため船は航海を続けることができた。宋に戻るとその事を皇帝に上奏し、「宝陀観音寺」の勅額を賜ったという(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)

 宋代では基本的に一定の条件を満たせば、寺院は賜額を得ることができたが、一方で賜額を得ない寺院は基本的に廃寺とされる傾向にあった。真宗(位997〜1022)は賜額を得ない私造寺院が騒擾をおこすもとであるとして、詔してすべて破壊することとしたが、天禧2年(1018)には賜額がない寺院でも建物が30間以上で仏像・住持がある寺院は存続を許し、名山名勝にある寺院はたとえ30間に満たなくても存続を許す一方で、新造の私寺の建立は禁止された(『続資治通鑑長編』巻91、天禧2年、4月庚寅先是条)。勅額を30間という小庵院まで下賜することによって郷村・山林のすみずみまで天子の恩沢を浸透させ、代わりに勅額のない寺観は廃毀して姦盗の巣となることを防止する意図があり、これによってあらゆる寺院が国家の統制下に及ぼすことを意味していた。しかし禁令を出しても小仏堂の建立は跡をたたず、これらは徐々に拡大していって古寺と偽り、結局古寺として勅額申請を出して、賜額を得るケースが多かったため、方志に「今の額に改め」とあっても実際は創建に等しいという指摘がある(竺沙1982)

 このケースからみると、宝陀寺はすくなくとも真宗の天禧2年(1018)の賜額改令の際に賜額寺院ではなく、元豊3年(1080)になってようやく賜額を得たということは、単に「名山名勝」とみなされた30間未満の小寺院であったか、あるいは実際にはこれまで見てきた縁起をもつような古寺ではなく、実際にはもっと新しい寺院なのかもしれない。宝陀寺の発展は宋代が転換点であった。


普済寺天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。康熙30年(1691)に建立された。



普済寺天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)

真歇清了

 宝陀寺は紹興元年(1131)、これまで律宗の寺院であったのを禅寺に改められることになった(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)。この突然の改定には宋代の禅僧真歇清了(1088〜1151)が大きく関わっている。

 真歇清了は俗姓を雍といい、左綿安昌(四川省綿陽市)の人である。幼い時、抱かれて寺に行った時、仏を見て喜んだため、人々はみな不思議なことだと思った。11歳の時、聖果寺の清俊のもとで出家して法華経を業とした。さらに7年、得度して具足戒を受戒した。成都の大慈寺にて円覚経・金剛経・大乗起信論などを講義して、ほぼ大意を理解した。峨嵋山に登って普賢を礼拝し、蜀(四川省)を出て東に行き、瀘南郡(現重慶市)に崇寧寺を建てて、ここに留まった(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 その後丹霞子淳(?〜1119)のもとに身を寄せた。ある日、丹霞子淳の部屋に赴いた。丹霞子淳は「如何が是れ空劫以前の自己」と問いかけたが、真歇清了は言葉を進めようとすると、丹霞子淳に平手打ちされた。その時真歇清了は豁然として悟るところがあった。翌日、丹霞子淳は悟ったところを問いただしたが、真歇清了は珠が影に随うように整然と返答した。その後五台山の文殊大士に礼拝し、京師(開封)に行き、禅宗や講宗(天台宗)の名席の僧侶のもとを訪れた(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 その後真歇清了は長蘆山(江蘇省儀征県)洪済寺の祖順道和(?〜1123)のもとに参禅した。祖順道和は多くの禅僧を厳しく指導したが、真歇清了はその中にいて英俊たちと親しみ、さらなる進歩をみせたため侍者に任命された。翌年侍者を辞したが、祖順道和は偈をもって招き、真歇清了を秉払(ひんぽつ。法座を開き、住持にかわって払子を持ちながら説法すること)させて首座とした(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 政和8年(1118)に祖順道和は病のため長蘆山を退院(ついいん。寺院を退居すること)したが、しばらくもしないうちに再度長蘆山の住持となった。その時祖順道和の夜に夢のなかで人が「蜀僧(真歇清了)は当代の公なり」と告げたという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 宣和3年(1121)、祖順道和は再度病となり、真歇清了を首座に任命した後、病が重くなり退院することになった。宣和4年(1122)7月、経制使陳公が真歇清了を屈請して長蘆山の住持とした(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。「経制使陳公」とは宣和年間(1119〜25)末に発運兼経制使に任命された陳亨伯、すなわち陳遘(1090〜1127)のことで(『宋史』巻179、志第132、食貨下、会計)、当時杭州を治めていた(『宋史』巻447、列伝第206、忠義2、陳遘伝)

 宣和5年(1123)の長蘆山における夏安居の時には堂に雲水が1,700僧も集まったという。5月に開堂(新住持が法堂にあがって演法すること)し、丹霞子淳の法を嗣ぐことを表明した。8月に祖順道和が遷化したため、真歇清了は喪に服し、師への礼をもって弔った。10月にみずから托鉢を行ない、翌宣和6年(1124)2月に戻ってきた。長蘆山の住持となること7年間にわたったが、建炎2年(1128)6月に退院した(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。この間、靖康元年(1126)に宋は金に滅ぼされ、北方の金と南方の南宋が対峙することとなる。

 建炎2年(1128)6月、明州(寧波)沖合の梅岑(普陀山)に赴き、観音大士に礼拝した。海や山の700余家は、ただ真歇清了の法話を聞いてすべて漁業を捨てたという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。この観音大士とは、いうまでもなく普陀山の観音のことであるが、当時南宋を征服しようとする金の侵攻が激化しており、戦火は江南におよんで明州(寧波)もまた焼け野原となっていた。そのため避難の目的もあって普陀山に赴いたようである。

 真歇清了は普陀山にいること4年(満3年)して結制を行なった(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。結制(けっせい)は修行僧が一ヶ所に集まることを指すが、同時に新住持の就任式である晋山(しんざん)が行なわれることが多い。実際、真歇清了は紹興元年(1131)に宝陀寺を禅寺に改めているから(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)、この時の結制は宝陀寺における晋山開堂であったとみられる。なお真歇清了はこの時、宝陀寺に「海岸孤絶禅林」の扁額を掲げたという(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、嘉定7年条)

 紹興元年(1131)5月、天台山の国清寺より三度招かれたが、三度とも辞退した。8月に雁蕩山に赴き、10月には台州の天封寺に滞在した。その後福州の雪峰寺より招聘されて11月に入院した。その時集まった雲水の数は長蘆山の時に劣らなかったという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 紹興5年(1135)に東庵に退居したが、紹興6年(1136)7月に四明(寧波)阿育王寺の住持の公帖によって真歇清了が招かれた。しかしその時、阿育王寺は荒廃しており、負債は20万にも及んでいたという。真歇清了は10月に阿育王寺に入るや、真歇清了が阿育王寺に入ったということを聞きつけて多くの人々が集まり、彼らの寄進によって負債の8・9割を返済することができたという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。紹興7年(1137)に建康(南京)に赴いた。詔があって蒋山(霊谷寺)の住持となったが、真歇清了は住持となっては病のため辞すること7度にも及んだが、そのたびに許されたという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 紹興8年(1138)温州の龍翔院と興慶院を合併して禅寺とすることとなり、詔によって真歇清了が招かれて住持となることになった。4月に入院し、陞堂小参(しんどうしょうさん。住持が法堂にて説法すること)した。人々が堤防の両岸に水が溢れるかのように集まったという(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。このように龍翔院と興慶院が合併して龍翔禅寺が建立されたが、これが現在の江心寺である。この龍翔禅寺は南北に三門・大殿があり、法堂・方丈が翼のように広がっており、賜田1,000畝に及ぶ大寺であった(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 紹興15年(1145)2月、真歇清了は暇を乞い、龍翔禅寺より去ったが、4月に臨安(杭州)の径山寺に招かれて、5月に入院した。この時集まった僧は1,000人を超えたという。紹興20年(1150)2月に病に罹り、請うて長蘆山に帰った(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)

 紹興21年(1151)に勅により崇先顕孝禅院を建立し、詔によって住持となった。6月に入院したが、暑さのため疾に罹ってしまった。9月、慈寧太后(1080〜1159)が寺に詣でたため、真歇清了は病をおして開堂した。太后は簾を垂して説法を聴き、金襴の袈裟や銀・絹などの物を賜った(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)
 慈寧太后こと韋賢妃は徽宗の妃で、高宗の実母であった。靖康元年(1126)に徽宗・欽宗ら北宋皇族とともに金軍によって北方に拉致された。高宗は北方にいる母の救出を念願としており、紹興7年(1137)に皇太后とし、同12年(1142)金との交渉によって送還され、高宗自身が出迎えて、慈寧宮に居を構えたから「慈寧太后」と呼ばれた。慈寧太后は質素倹約な性格であったが、仏教・道教への信仰が篤いため、高宗が帝位につく以前に金へ使者として赴く際、4人の金甲をつけた人が刀剣を持って侍っていたのを見て、「わたしは四聖(道教の四神)をあつく祀っています。必ずやその報いがあるでしょう」といい、金軍によって北方に拉致された後も祀っていた。送還後に西湖の上に四聖を祀る祠(四聖延祥観)を建立している(『宋史』巻243、列伝第2、后妃下、韋賢妃伝)。真歇清了の晩年は慈寧太后の深い帰依を受けることになった。

 その後慈寧太后の医師の診断により病状が少し和らぎ、真歇清了は慈寧宮に赴き銭を賜るとともに、水陸会(施餓鬼)を行なった。10月1日朝、慈寧太后の使いと別れた後、しばらくして首座を呼んで「私は今から逝こう」といい、瞑目し跏趺して示寂した。63歳。慈寧太后は祀料を賜い、斎祭(葬儀)にあてた。崇先顕孝禅院の西の桃花塢に塔を建てて葬った。これを見送る人は原野に満ちあふれ、心を傷めて涙を流した。紹興23年(1153)8月、悟空禅師の勅諡号を賜った。法嗣に大休宗カク(王へん+玉。UNI73CF。&M020926;)がおり(『真歇清了禅師語録』崇先真歇了禅師塔銘)。その法系は足庵智鑑(1105〜92)・長翁如浄(1162〜1227)をへて道元(1200〜53)にいたる。


普済寺円通宝殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。普済寺の本堂で、観音菩薩を安置する。康熙32年(1693)に建立で、中央に康煕帝による賜額「普済群霊」が掲げられている。



1920年代の普済寺大殿(円通宝殿).(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉114頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

南宋・元時代の宝陀寺

 真歇清了が復興した宝陀寺は史浩(1116〜94)によって再興されている。史浩は紹興18年(1148)3月に普陀山を訪れ、宝陀寺に滞在したが、この時潮音洞にて観音を観得する霊験があったといい(『延祐四明志』巻第16、釈道攷、上、昌国州寺院、宝陀寺、越王留題)、宝陀寺の大円通殿の再建事業の縁起の代筆を行なっている(『ボウ峰真隠漫録』巻23、代補陀山化縁起殿ボウ)。嘉定3年(1210)8月に大風雨のため、円通殿(観音殿)が破壊されてしまった。住持の徳韶(生没年不明)は朝廷に奏上して銭数万緡を賜った(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、嘉定3年条)

 嘉定7年(1214)寧宗から「円通宝殿」と「大士橋」の扁額を賜っており(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)、扁額は再建した円通殿と新造した潮音洞の橋に掲げ、原本は龍章閣を建立して納めた。杉10万本を植樹し、当時宝陀寺が所有する寺田は567畝、山は1,607畝にのぼった(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、嘉定7年条)

 この年、丞相の史弥遠(1164〜1233)は父史浩の志を受けて、財を捨てて建物を荘厳し、供養を行なった。寧宗はこれを聞いて宸翰と金襴の衣・銅鉢・瑪瑙の数珠・松鹿の錦旛を賜い、さらに銭106万を施入し、長明灯を設置した(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、嘉定7年条)。これによって普陀山の観音は、五台山の文殊、峨眉山の普賢と並んで「天下三大道場」と称されるようになった(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)

 淳祐8年(1248)、制帥の顔頤仲(生没年不明)が雨を祈ったところ霊験があったため、銭2万、米50石を施し、長生庫接待荘を建てた。さらに朝廷に要請して租役が免除となった(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、淳祐8年条)。この顔頤仲なる人物については詳細なことはわからないが、端平3年(1235)の段階で臨安府事の職にあった(『続資治通鑑』巻第167、宋紀第167、端平3年4月己亥条)。長生庫とは寺院に寄進された布施をもとにして、寺院経営のため金融営業を行なう施設のことで、宝陀寺のほかに永寧寺・祠山廟・宝蔵院・接待荘に設けられており、いずれも数千銭といった多額の資本金を元手とした営利目的に設置されたもので(日野1956)、宝陀寺の銭2万はかなり潤沢な資本金を有していたことが窺える。接待荘は寺院を訪れる僧侶の滞在費とするために宛てられた荘園であり、前述した通り、普陀山の接待荘は顔頤仲の奏上によって免租地となっていた。後に至元14年(1277)にも住持の如智が衣鉢を喜捨して接待寺を沈家門の側に建て、往来する者の便としている(『大徳昌国州図志』巻7、叙祠、寺院、宝陀寺)

 元代に入ると、宝陀寺は朝廷より篤い帰依を受けた。大徳2年(1298)春に中宮(卜魯罕、?〜1307)は内侍李英に命じて布施を寄進して建物・仏像を修復させた。翌年春には宿衛の孛羅に命じて金100両を寄進し、江浙省の臣下にその事を差配させて建物を一新した(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、大徳2年条)。翌大徳3年(1299)には朝廷より四明(寧波)の湖田20頃を賜っている(『延祐四明志』巻16、昌国州寺院、宝陀寺)。なおこの大徳2年(1298)夏に宝陀寺の住持となっていたのが、後に日本に渡った一山一寧(1247〜1317)であった(『一山国師妙慈弘済大師語録』巻下、行記)。大徳4年(1300)春には魏也先らを遣わし、僧侶に斎(おとき)して転読させ、賜金2,000緡を寄進して演法堂を建立した。さらに浙江省の官田2,000畝を割いて供僧の料にあてた。正月・5月・9月に読経と祈祷を行ない、とくに璽書を頒布して護持させた(『補陀洛迦山伝』興建沿革品第4、大徳4年条)

 元統元年(1333)、宣譲王(テムル・ブハ、1285〜1367)は交鈔(紙幣)1,000錠を寄進し、太子塔を宝陀寺の南に建立している(『重修普陀山志』巻2、建置、元統元年条)。この太子塔とは高さ18mの多宝塔のことで、明治40年(1907)にこの地を訪れた建築史学者伊東忠太(1867〜1954)は、太子塔の古色ある遺構を高く評価した。民国8年(1919)に修復が加えられたため、大正11年(1922)に太子塔を訪れた常盤大定(1870〜1945)は白玉のように一見美観を呈し、熟視すると加塑であったため仰天している(常盤1939)


普済寺三門付近よりみた太子塔遠景(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。太子塔は高さ18mの多宝塔で、元統元年(1333)に建立された。

倭寇の猖獗と宝陀寺の分裂

 13世紀より高麗の沿岸において倭寇と呼ばれる海賊もしくは私貿易・密貿易を行なう集団が登場した。倭寇は文字通り解釈すれば、すなわち「倭」=「日本」の海賊ということになる。

 ところが民族的に朝鮮人であっても倭寇によって対馬などに連行されて、一定の期間をそこで暮らした者は倭人と呼ばれていた。長い逗留の末に倭語を話せるようになったり、強制的に月代を剃られて視覚的に倭人のようになると、それら共通事項によって帰属する国家や民族集団からドロップアウトし、それらを超越して境界に生きる集団「マージナル・マン」と化した。彼らは対馬・壱岐・松浦・五島列島を拠点として朝鮮半島や中国沿岸を襲撃した(村井1993)

 明は建国以来、沿岸部は倭寇の襲撃に脅かされており、しかも方国珍(1319〜74)・張士誠(1321〜67)といった対立者らが滅亡すると、彼らに服属していた地方の有力者達は倭寇を引き入れて沿岸部を掠奪した。その過程において定海県(舟山列島)を中継拠点とし、そこから掠奪に出撃する倭寇が登場した。

 そのようななかで洪武20年(1387)、方国珍が定海県を拠点として最後まで抵抗した教訓によって、太祖(位1368〜98)は湯和(1326〜95)に命じて普陀山の居留民をすべて大陸側に強制移住させるとともに、普陀山の寺院をすべて焼き払って破壊し、仏像などは寧波の栖心寺に移されることとなった(『明太祖実録』巻159、洪武17年正月壬戌条)。さらに宝陀寺の由緒は栖心寺の空地に移転して「補陀寺」となっていたから(『寧波府志』巻18、ギン県、寺、補陀禅寺)、ここに大中年間(847〜60)以来の由緒を誇る宝陀寺は焼き払われて廃寺となるとともに、移転によって普陀山とは切り離されてしまった。

 この時、普陀山にはわずか一つの殿宇を僧が守っているだけの状態であったというが(『重修普陀山志』巻2、建置、洪武20年条)、普陀山観音への人々の信仰は断ち切れず、正徳年間(1506〜21)には眼疾に悩む皇太后(孝康敬皇后、?〜1541)が潮音洞の甘露潭に使者を遣わし、光明池と改名しているなど(『重修普陀山志』巻2、山水、光明池)、普陀山観音霊場復興の兆しが見え、正徳10年(1515)、僧淡斎が潮音洞の南に桁行5間の正殿と、桁行20間の方丈を建立し(『重修普陀山志』巻2、建置、正徳10年条)、128年ぶりに宝陀寺が再建された。さらに嘉靖6年(1527)には河南輝府が琉璃瓦3万枚、磚1万枚を施入して宝陀寺を荘厳している(『重修普陀山志』巻2、建置、嘉靖6年条)

 このように復興途上にあった普陀山であるが、再度破壊の憂き目に遭っている。後期倭寇に対する明の対応のためである。対馬などを拠点にして高麗沿岸などを襲っていた前期倭寇とは異なり、後期倭寇は五島列島を本拠地とし、私貿易を行う中国人が十人中、八・九人に及んだ。直接的発生の経緯は寧波の乱によって日本・明間の勘合貿易が廃止され、海禁政策が強化されたことにある。私・密貿易の商船らは海に出るや島に隠れて倭寇となり、山東省・浙江省・福建省沿岸を襲撃した。

 その中で、浙江省の主要港寧波の沿岸にある舟山列島は、五島から浙江省沿岸に向かう倭寇にとって格好の経由地となり、しかも舟山列島、とくに双嶼島(六横島)は近年まで軍港があったことからも窺えるように、良港としての条件を満たしており、しかも天然の要害であったから、官軍の追撃に対しても有利に働いた。双嶼島の倭寇は嘉靖27年(1548)に明軍の攻撃により滅亡したが、嘉靖32年(1553)に今度は普陀山に侵出して来たため、総督の胡宗憲(?〜1565)は宝陀寺の建物を定海県の招宝山(寧波市鎮海区)に移転し、観音大士像を遷座した。その他の建物はすべて焼き払った(『重修普陀山志』巻2、建置、嘉靖32年条)。この措置は、観音霊場である普陀山において倭寇が拠点を構えるのを防ぐ目的があったとともに、倭寇が普陀山に参拝するのを防ぐ目的があった。実際、普陀山に倭寇の領袖王直(?〜1559)が参拝したことがあり(『日本一鑑』窮河話海)、宝陀寺を普陀山から大陸側に移すことによって、普陀山への人々の移動を減少させた。

 これによって普陀山の宝陀寺は再度廃寺となってしまったが、招宝山に仏像とともに移転してしまったため、以後宝陀寺の歴史は普陀山と招宝山に分かれ、さらに洪武20年(1387)に栖心寺に強制移転した宝陀寺も「補陀寺」として存続していたから、宝陀寺は明代に三寺に分裂してしまった。この時の普陀山の破壊は徹底したもので、建物という建物は破壊し、僧侶を追放し、歴代王朝の勅賜や碑文もすべで引き倒して海中に投棄した。わずかに残ったのは聖寿寺だけであり、しかも瓦は瑠璃瓦など荘厳が行なわれず、内部の梁もまた同様であった(『重修普陀山志』巻4、重修補陀山宝陀禅寺記)

 しかし、やはり普陀山観音信仰は断絶することなく、隆慶6年(1572)には五台山の僧真松が普陀山に来て、宝陀寺の修復を開始している(『重修普陀山志』巻2、建置、隆慶6年条)。真松は五台山龍樹寺の僧で、京師(北京)を訪れて礼部尚書の厳訥(1511〜84)に普陀山の惨状を訴え出た。厳訥はしばしば寧波府に対して真松に箚(とう。官が発給する住持任命状のことで、公帖)を与えて普陀山を管轄させるよう通達した。その後寧波郡守や将軍らが協賛して次第に修造していき、さらに宦官らにも援助を惜しまなかったという(『重修普陀山志』巻4、重修補陀山宝陀禅寺記)

 しかし復興した宝陀寺は再度破壊された。宝陀寺が復興された隆慶6年(1572)に浙江監察御史謝廷傑が巡回したところ、普陀山に再度僧侶が集まっているのをみて「奸僧」とみなし、兵を率いて僧5名を逮捕し、大小の銅の仏像などを押収し、草屋を焼き払っている。官側は、集まっていた僧侶は布施を生活の糧にしているだけで陰謀を企んでいるわけではないと見なしていたが、将来の禍根になることを恐れての処断を実施していた(『両浙海防類考』巻4、普陀禁約)。宝陀寺の真の復興は万暦年間(1573〜1620)まで待たねばならない。


普済寺蔵経楼(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。康熙36年(1697)の再建で、二階建構造となっており、一階部分は法堂として、二階部分は経蔵として併用されていたが、現在法堂の機能は東客堂に移されている。

万暦の復興

 明代には倭寇の根拠地になる恐れがあったことから、普陀山の寺院が破壊されて僧侶は追放されていた。普陀山観音信仰の高まりから、たびたび普陀山の宝陀寺は復興されたが、その都度破壊されたことは前述した通りである。普陀山の復興の端緒をつくったのは真表(生没年不明)である。

 真表は翁洲(浙江省舟山市岱山県)の人で、12歳の時に普陀山に入り、宝陀寺住持であった明増(生没年不明)を師として出家した。壮年になると普陀山復興を志しとし、禁令に違反して普陀山に入り、建物を再建した(『重修普陀山志』巻2、釈子仙附、皇明、真表伝)。真表が普陀山で建物を再建したのは万暦2年(1574)のことで、参拝者を接待して布施を受けるようになっていたが、詐欺にあって事件が公のものとなってしまった。そのため定海把総の徐景星(生没年不明)が普陀山の仏像・建物・僧侶を当局が管理し、財物の寄進も逐一報告させるよう、寧波府に提案した(『両浙海防類考続編』巻8、普陀禁約。石野2005所引)。普陀山に絶えず参拝者が訪れ、禁令が事実上骨抜きとなったため、現状を容認した上で統制を続けていくという提案であったが(石野2005)、結局浙江省側の意向により僧侶は追放となり、庵堂は破壊して財物は没収された(『両浙海防類考続編』巻8、普陀禁約。石野2005所引)

 しかしこの浙江省側の政策は、徐々に中央の政策と乖離をみせており、とくに中央において普陀山に対する政策に大きな影響を与えたのが、万暦帝(位1572〜1620)の母慈聖皇太后(?〜1614)である。

 慈聖皇太后は隆慶帝の貴妃で、子の万暦帝が即位すると慈聖皇太后と尊称され、乾清宮に移った。慈聖皇太后の万暦帝に対する教育は極めて厳しく、万暦帝が勉強を怠ると、すぐに呼び寄せて長時間跪かせて説経したという(『明史』巻114、列伝第2、后妃2、穆宗后妃、孝定李太后伝)。そのため万暦帝は慈聖皇太后を非常恐れていたという。慈聖皇太后は仏教を信仰しており、北京を中心に数多くの寺院の建設・修造を行なっており、彼女をとりまく宦官らも仏教・道教に傾倒している者が多かった。例えば万暦5年(1577)には宦官の明鳳は普陀山で出家して朝陽と名乗っており、菩薩頂の麓に庵を構えていた。彼の弟子の真玄、孫弟子の如楽もまた宦官であったという(『重修普陀山志』巻2、殿宇、茶山静室、朝陽庵)。普陀山への内廷の関心は高まりつつあった。

 普陀山より一度は追放されていた真表は万暦6年(1578)に礼部より箚(とう。住持任命状のことで、公帖)を発給されて住持となり(『重修普陀山志』巻2、釈子仙附、皇明、真表伝)、同年、宝陀寺の天王殿・雲会堂を建立した(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦6年条)

 万暦14年(1586)に大蔵経を普陀山に頒布されることになり、さらに真表に金環・紫の袈裟衣を賜ったが(『重修普陀山志』巻2、釈子仙附、皇明、真表伝)、これは慈聖皇太后の意向によるもので、詔勅により大乗経を637函印刷し、うち41函を普陀山の宝陀寺に納めた(『重修普陀山志』巻3、芸文、応制、恭遇皇上奉聖母勅命賜南海宝陀寺蔵経頌)。これによって宝陀寺に蔵経殿を建立しており、大蔵経を納めた。また建物53軒を建立し、『華厳経』にみえる善哉童子の五十三参りに対応させている(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦14年条)

 慈聖皇太后の帰依は普陀山信仰の復興に絶大な効果をみせ、万暦15年(1587)には総兵官の侯継高(1533〜1602)により碑亭が3座建立されている(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦15年条)。また真表が大蔵経頒布の礼のため宮中に赴いたが(『重修普陀山志』巻2、釈子仙附、皇明、真表伝)、この時真表に会ってその人柄に感銘をうけた魯王朱頤坦(?〜1594)によって銅の仏像を寄進され、毎年米30石を宝陀寺に送られることになった(『重修普陀山志』巻3、芸文、応制、皇明魯王補陀山碑記)

 その後万暦20年(1592)に豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、それに関連して倭寇への警戒心が進む中、万暦26年(1598)5月、浙江省によって普陀山への渡海を禁じた。すでに帳簿に記録されている僧侶については追放を免れたが、寺院を建造するため煉瓦や木材の運搬を禁止した(『両浙海防類考続編』巻8、普陀禁約。石野2005所引)。それでも普陀山に渡海する者は跡を絶たなかった。


普済寺普門殿(全彰殿)(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。全彰堂ともいい、「千手壇」の扁額が掲げられる。康熙35年(1696)に建立された。



普済寺法堂(客堂)(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。もとは東客堂で、康熙33年(1694)に建立された。

普陀寺

 万暦26年(1598)に宝陀寺は火災によって建物をすべて焼失してしまった。観音像は無事であったが、関帝のひげに火がついたため損壊した。この時多くの信者が集まって宝陀寺を再建しようとしたが、当局が禁止したため、復興することができなかった(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦26年条)

 浙江省寧波府の川沿いには礼拝の時に使用する香や蝋燭を売る個人経営の店が建ち並んでいた。寧波は仏寺が林立する極めて仏教が盛んな地域であったから、このような店は珍しくなかったが、普陀山への参詣者は警戒が厳しい港ではなく、このような川沿いの店で普陀山への船を調達し、普陀山へと密航した。さらにいくら寧波など浙江省で普陀山への渡海を止めることができたとしても、江蘇省から直接普陀山に船に乗ってやって来る者を止めるのは容易なことではなかった(石野2005)。また普陀山への渡海は香船と名付けられた船で行なわれたが、隙間が無いため風通しが悪く、中に入って手を洗う事も口をすすぐこともできず、失禁する者は数百にも及んだという。言語・飲食・用便は香頭と呼ばれる某寺の和尚が行なったというが、現世の地獄と表現されるほどの劣悪な環境であったという(石野2005)。それでも多くの民衆が普陀山へと参詣したのであった。

 宝陀寺の復興が進まない中、万暦8年(1580)に建立された小さな草庵が巨大寺院となり、万暦22年(1594)には海潮寺と改められた大寺となった。これが後の雨寺である(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)。宝陀寺の再建は当局の妨害によって進まず、参詣者は鎮海寺(海潮寺)に流れていったといい(石野2005)、宝陀寺側に焦りがみられた。

 万暦30年(1602)7月27日、宝陀寺の再建工事が着手された(『重修普陀山志』巻1、宸翰、御製重建普陀寺碑)。この再建の総指揮をとったのが、万暦帝の命を受けた宦官張随(生没年不明)であった(『重修普陀山志』巻4、事略、渡海記事)。宝陀寺の焼失は慈聖皇太后を嘆かせ、慈聖皇太后の意を受けた万暦帝が再建の指示をしており(『重修普陀山志』巻1、宸翰、御製重建普陀寺碑)、万暦帝が再建のために用意した金額は1,000両に及んだ(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦30年条)。倭寇対策のため再建について浙江省では問題視されていたが、浙江巡撫の尹応元(生没年不明)は数千の兵を率いて巡察しており(『重修普陀山志』巻4、事略、渡海記事)、治安安定化へのパフォーマンスを行なった。その間、万暦33年(1605)正月には万暦帝より再建資金をさらに2,000両追加された(『重修普陀山志』巻2、建置、万暦33年条)

 再建工事は万暦35年(1607)3月15日に完成し、万暦帝は宝陀寺の寺額を改め「大明勅建護国永寿普陀禅寺」の勅額を賜った(『重修普陀山志』巻1、宸翰、御製重建普陀寺碑)。ここに宝陀寺は普陀寺に改められることになった。

 完成した普陀寺は正面78丈(240m)、奥行き53丈2尺(150m)にも及ぶ大寺院となり、これまでの規模を一新した巨大寺院となった。山門は桁行3間、正面は5丈6尺(16.8m)、高さは2丈5尺(7.5m)あった。その奥の天王殿は桁行5間であり、正面は9丈2尺(27.6m)あった。円通大殿は桁行7間で、正面は14丈(42m)、高さは5丈8尺(17.4m)あり、その奥の蔵経宝殿は桁行5間で、正面9丈2尺(27.6m)、高さ3丈8尺(11.4m)あり、その奥の景命殿は桁行5間で正面9丈(27m)、高さ2丈8尺(8.7m)であった(『重修普陀山志』巻2、規制)


元時代の宝陀寺(左)と、明の万暦年間(1573〜1620)の普陀寺(右)の推定伽藍配置図。宝陀寺は「補陀落山聖境図」(長野・定勝寺蔵)を、普陀寺は『重修普陀山志』巻2、普陀山図を参考に管理人作成。

康熙の普済寺再建

 崇禎17年(1644)明が滅亡すると、江南では明の皇族を擁立して明の復興を目指した運動が繰り広げられた。南京では福王朱由ッ(1607〜47)が皇帝に即位したが、福王が清軍に捕えられると唐王朱聿鍵(1602〜46)が自立。また魯王朱以海(1618〜62)はこれとは別に監国と称し、年号もそのまま「魯王監国元年」と称した。魯王監国元年(1646)、魯王は舟山に到り、その後普陀山へと上陸した(『普陀洛迦新志』巻11、志余門第11、魯王監国元年条)。その後清軍に敗北して監国6年(1651)に舟山より脱出したが(『普陀洛迦新志』巻9、流寓門第9、沈宸セン伝)、これ以後も舟山列島の支配者は安定することはなかった。

 順治12年(1655)11月には復明を目指す鄭成功により舟山が占領されている(『清史稿』巻5、本紀第5、世祖2、順治12年11月丁亥条)。翌順治13年(1656年)9月に清軍は舟山を占領・回復したが(『清史稿』巻5、本紀5、世祖2、順治13年9月丙午条)、海上を勢力下におく鄭氏政権の孤立化をはかって同年に海禁令を発布した。これは海外貿易を禁止することによって、海外貿易によって勢力を拡張した鄭成功の勢力を弱体化する目的があった。さらに順治18年(1661)には遷界令によって沿岸部の住民を内陸部に強制移住させ、さらなる鄭氏政権の孤立化をはかっている。この海禁令と遷界令により舟山の住民は強制移住させられたため、舟山は荒廃した(『重修普陀山志』巻2、殿宇、勅賜護国鎮海禅寺)。この時普陀寺も無住状態となっている。康熙4年(1665)5月には鄭成功に敗れて台湾から退却したオランダ人が普陀山を占拠し、半月の間に鋳像や旛幢などを掠奪して日本に行き、交易によって20余万金を賄っているが(『普陀洛迦新志』巻3、霊異門第3、清、康熙4年条)、普陀寺もまた掠奪によってすべてを奪われている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。また康熙10年(1671)には居留民が無住状態にある普陀寺に移ってきたが、この時建物はすべて残らず焼失してしまった(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 康熙23年(1684)海禁策が緩められると、僧侶らは普陀寺の復興へと乗り出す。その中心となったのが通元照機(1608頃〜?)である。通元照機は康熙26年(1687)に普陀寺を復興させ、翌康熙27年(1688)に普陀寺の住持となり、80歳を過ぎたため栴檀庵に隠居した(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、普済住持、通元伝)

 その後普陀寺の再建を担い、「中興」と称されたのが潮音通旭(1649〜98)であった。

 潮音通旭は松江華亭の兪氏の子で、普陀山の紫竹旃檀林にて出家、具足戒を白龍慧鏡禅師より受けた。その後あまねく名僧のもとに参禅したが、とくに嘯堂・寒泉の二人の禅師に参禅。その後天台山万年寺の無礙□徹の法嗣となった。その後普陀山に戻ってきたが、当時普陀寺の住持が空席であったから、普陀山の僧侶や俗人は競って潮音通旭に対面することを望んだ。これを見た定鎮総戎の藍理(1649〜1720)は普陀寺の住持となることを要請した(『普陀列祖録』国朝、潮音旭禅師伝)

 康熙28年(1689)に康煕帝が南巡した際、定海総兵の黄大来(?〜1690)が普陀山の有様を上奏したところ、康煕帝より再建資金1,000両を賜ったが(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺、勅建普済禅寺記)、これにはさらに藍理の尽力もあったという(『普陀列祖録』国朝、潮音旭禅師伝)。潮音通旭は康熙29年(1690)に普陀寺の住持となり(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、普済法雨二寺住持表)、康熙35年(1696)9月に『普陀列祖録』を撰述するなど(『普陀列録』題辞)、普済寺の再建に尽力したが、再建途中の康熙37年(1698)11月4日に50歳で示寂してしまった(『普陀列祖録』国朝、潮音旭禅師伝)

 潮音通旭が示寂後も普陀寺の再建は留まることなく、康煕38年(1699)3月、康煕帝が再度福建省に行幸すると、康煕帝の宸翰「普済群霊」の4字を賜り、さらに再建資金1,000両が追加された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺、勅建普済禅寺記)。これ以後、普陀寺は普済寺と称されるようになる。

 康熙30年(1691)に天王殿が、康熙32年(1693)に大円通殿が、蔵経殿と景命殿は康熙36年(1697)に再建されており、中山門も康熙年間(1662〜1722)内に建立されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。このように主要伽藍部分の大半は康熙年間の再建で復興された。


普済寺地蔵殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。先覚堂ともいい、康熙31年(1692)に建立された。

普済寺の伽藍

 普済寺の伽藍は康熙年間(1662〜1722)にほど完成をみせている。伽藍配置の主要部分は万暦年間(1573〜1620)の普陀寺再建のプランによったものであるが、さらに拡大をみせ、正面150m、奥行き285mの大伽藍となっている。

 普済寺の伽藍配置は中山門・天王殿・大円通殿・蔵経殿・景命殿が首尾線上に配置される。以後順にみていこう。

 まず正面中央に中山門があり、これは三門のことであるが、中国の寺院は三門の機能を天王殿が担っていることが多いから、これは日本風にいえば勅使門に近い。実際この門が開かれるのは住持が晋山した時だけである。中山門は桁行5間で、康熙年間(1662〜1722)に建立された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。規模は正面16.7m、奥行き10.2mあり、内部に3碑安置されるから御碑殿ともいう。内部の碑文はいずれも文化大革命で破壊されている。明時代には左右の東山門・西山門とともにそれぞれ桁行3間で、建物が設けられていたが、康熙年間の勅修の時、体制が合わないとの理由で東山門・西山門ともに建物を設けなかった(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。東山門・西山門は中山門の東西にあり、桁行1間の通用門である。いずれも康熙年間(1662〜1722)に建立された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 康熙30年(1691)に天王殿が再建された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。天王殿は桁行5間で、正面29m、奥行き11mある。内部の四天王像は1984年に造立された。

 大円通殿は康熙32年(1693)に再建され(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)、桁行7間で正面40mある。中央に康煕帝による賜額「普済群霊」が掲げられている。光緒15年(1889)に住持隆璋によって修復され、黄色の瓦が葺かれたが、この修理に2万金を費やした。さらに光緒29年(1903)に住持通達によって丈六の阿弥陀如来像が荘厳された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。1987年、1998年にも修復されている。内部には高さ8.8mの毘盧観音坐像が安置される。これは1981年に再造されたもので、また1981年に造立された観音三十二坐身像がある。

 蔵経殿は康熙36年(1697)の再建で、蔵経閣ともいう(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。二階建構造となっており、一階部分は法堂として、二階部分は大蔵経を納める経蔵として併用されていたが、現在法堂の機能は蔵経楼の東側にある客堂に移されている。一階内部には薬師・釈迦・阿弥陀のいわゆる三世仏が安置される。またここに納められていた明・清代の大蔵経は文化大革命で失われたため、1986年に香港仏教青年協会会長の袁文忠氏より大蔵経を寄進されている。桁行5間で正面は29.8m、奥行きは20.8mある。光緒29年(1903)に修造されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 景命殿は康熙36年(1697)の再建で、中央に「皓月禅心」の扁額が掲げられている。景命殿とは方丈のことであり、桁行5間、正面27.7m、奥行き12.5mあり、民国4年(1915)に住持了余によって再建されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 霊応殿は大円通殿の東側にあり、桁行3間の建物である。文殊殿とも称され、正面に「法華壇」の扁額が掲げられており、ここで法華経を読誦する。康熙年間(1662〜1722)に建立され、光緒32年(1906)に月徳によって修造されている(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 大円通殿の西側には関帝殿がある。この関帝殿は普賢殿とも称され、「華厳壇」の扁額が掲げられ、ここで華厳経を読誦する。桁行3間で、康熙年間(1662〜1722)に建立された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 蔵経楼の東側に全彰堂がある。これは普門殿ともいい、「千手壇」の扁額が掲げられる。桁行5間で、康熙35年(1696)に建立された。雍正年間(1723〜35)に戒堂となったが、光緒26年(1900)に住持善章によって修造された。内部に関帝の銅像が安置されていたが、これは光緒26年(1900)に奸人によって北方に銅像が売られてしまったため、僧俗数人が発心して請来したものであったが(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)、現在は千手観音像が安置される。

 蔵経楼の西側には先覚堂がある。これは地蔵殿ともいい、「楞厳壇」の扁額が掲げられており、『大仏頂如来密印修証了義諸菩薩万行首楞厳経』が読誦される。桁行5間で、康熙31年(1692)に建立され、雍正年間(1723〜35)には方丈殿となっていた。内部には歴代祖師住持の位牌が安置されていた(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。なおその西側には康熙30年(1691)建立の桁行5間で二階建の僧寮があり、かつては宝珠軒と称された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)。二階部分は現在も僧寮として使用され、一階は普陀山仏教協会の公室として使用される。


普済寺伽藍配置図(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月)〉159頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

その後の普済寺

 雍正9年(1731)3月、浙江総督の李衛(1687〜1783)の奏請により、雍正帝より金7万両を下賜され、普済寺・法雨寺の修造が実施されることとなった(『普陀洛迦新志』巻4、檀施門第4、清、雍正9年条)。この時、東西羅漢殿が建立され、普済寺の伽藍は現在の姿となった。また定香亭(八角水亭)および御碑亭が雍正年間(1723〜35)に建立された(『普陀洛迦新志』巻7、営建門第7、御碑亭)

 嘉慶10年(1805)冬、長生堂が焼失し、千人楼・鐘楼も類焼、鐘楼は溶解してしまった。そのため嘉慶11年(1806)春、普済寺住持の維賢承徳(生没年不明)は募縁して銅鐘を鋳造し、その後鐘楼も再建した(『普陀洛迦新志』巻6、禅徳門第6、普済住持、清、承徳)。光緒15年(1889)に大円通殿が修造されており、屋根は黄瓦で葺かれた。この時の費用は金2万両を遂したという。また蔵経楼は光緒29年(1903)に修造された(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、普済禅寺)

 中華人民共和国が1949年に成立すると、普陀山全域は軍隊の駐屯地となり、寺院は収公された。普済寺もまた駐屯地となったが、1966年に文化大革命によって仏像はすべて破壊され、寺産は略奪され、寺院も荒廃した。1979年に普陀山仏教界に返還され、同年修復が実施された。現在普済寺内に普陀山仏教協会が設けられている(普陀山仏教協会1999)


[参考文献]
・常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』(法蔵館、1939年10月)
・日野開三郎「宋代長生庫の発展に就いて」(『佐賀龍谷学会紀要』4、1956年12月)
・石原道博『倭寇(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、1964年4月)
・竺沙雅章『中国仏教社会史研究』(同朋舎出版、1982年2月)
・村井章介『中世倭人伝』(岩波新書、1993年3月)
・井手誠之輔「長野・定勝寺所蔵 補陀落山聖境図」(『美術研究』365、1996年)
・普陀山仏教協会編『普陀洛迦山誌』(上海古籍出版社、1999年11月)
・佐藤成順「南宋の宰相史浩の補陀落山観音信仰について」(『鴨台史学』4、2004年3月
・石野一晴「明代万暦年間における普陀山の復興」(『東洋史研究』64-1、2005年6月)
・『聖地寧波【ニンポー】 日本仏教1300年の源流』(奈良国立博物館、2009年7月)

最終更新日:平成22年(2010)10月13日


普済寺御碑亭天井(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。御碑亭は雍正年間(1723〜35)に建立された。



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