弥勒石像(弥勒堂跡)



比叡山延暦寺西塔の弥勒石像(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)

 弥勒石像は比叡山延暦寺西塔釈迦堂の裏手北東にの香炉岡に位置する石仏です。鎌倉時代初期に造立されたものとみられています。


再発見

 比叡山は古来より多くの堂坊が立ち並ぶ巨大伽藍であった。ところが比叡山上には石造の遺品が極めて少なく、注目すべきものは全くないと思われていた。それが西塔香炉岡より発見された。

 西塔香炉岡は釈迦堂の東北に位置する丘で、西塔の中では東谷に位置分類される。ここには現在相輪トウがあるが、昭和39年(1964)の発掘調査では宝幢院跡をはじめとして2箇所の堂跡、5箇所の僧坊跡、20余りの建物の礎石が発見された。伝説によると、釈迦堂供養の際に天人が香炉を手に持って降りてきて、口に「敬礼天人大覚尊(きょうらいてんにんだいかくそん)」から始まる四句文を唱えた。後に香炉をこの丘に埋めたから、「香炉岡」と呼ぶのだという(『山門堂社由緒記』巻第1、西塔、香炉岡)

 昭和34年(1959)秋、釈迦堂の解体修理工事が終盤にさしかかっていた頃、横川に参詣した篤信の一老女が、釈迦堂の後方に大きな石仏があることを語ったので、西塔輪番の小堀光詮師(現、三千院門跡)は半信半疑のまま、修理場の工人に、人の背丈ほどある熊笹の群生を切り払わせたところ、弥勒石像が出現したという(川勝1960)


比叡山延暦寺西塔の弥勒石像、側面より(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)

 釈迦堂を正面から左側にまわると相輪トウへの道があり、50mほど進むと十字路となり、そこを右に進むと弥勒石像の光背の後ろ側がみえる。道を進んで回り込むと石像正面となる。

 石像は仏身・光背・蓮座・敷茄子を一石で彫製したもので、花崗岩製、総高216cm、像高180cmとなっている。光背が大きく欠け、また頬も剥離している。石像の下には別石で造られた円形反花座があるが、現在は地中に埋まっている(川勝1960)

 光背は身光(下)と頭光(上)からなる二重輪光式で、光背表面に仏身をめぐって11個の月輪内に梵字が表わされている。光背背面中央には大きく月輪を彫り沈める。月輪は58cmあり、梵字で釈迦を表わす「バク」字を薄肉彫する。中央の月輪の左右下には、それぞれ文殊を表わす「マン」、普賢を表わす「アン」の梵字が薄肉彫される。中央下方には上下30cmの落とし込みをつくり、その内部には28cm、深さ10cmの奉籠孔を設けており、もとは経典を納めたものと推測される(川勝1960)

 光背背面に釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊が梵字で表わされ、しかもそれが光背背面にあることから、第二の釈迦で56億7千万年後に出現する弥勒と考えられている(川勝1960)

 近世の比叡山の寺誌である『山門堂社由緒記』では弥勒石像について、「弥勒堂(旧跡なり。相輪トウの巽(東南)にあり。東谷に属す) 今石像弥勒一体あり。堂は廃たる。」(『山門堂社由緒記』巻第1、西塔、弥勒堂)とあり、弥勒石像は、もとは「弥勒堂」なる堂の尊像であったとみられている。実際、弥勒石像の光背や頬の欠損は、元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちの際に、火にかかって剥離したものであるとみられている。


[参考文献]
・川勝政太郎「比叡山香炉岡石仏とその様式」(『史迹と美術』300、1960年1月)

最終更新日:平成22年(2010)8月7日


比叡山延暦寺西塔の弥勒石像、背面より(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)



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