紫禁城



皇城図・『大南一統志』巻1より紫禁城部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 紫禁城はフエの皇城(阮朝王宮)内部の宮殿地域をさす。皇城は宮殿地域の紫禁城が中央にあり、その周囲を取り囲むようにして、中央官庁や宗廟が配置される。建造当初は単に宮城といったが、明命3年(1822)正月に建物を皇帝の色である黄色で塗り、紫禁城と改称した(『大南寔録正編』第2紀、巻之13、聖祖仁皇帝寔録、明命3年正月丁卯条)

 紫禁城は高さ9尺3寸(2m81cm)、厚さ1尺8寸(54cm)の城壁に囲まれた一周306丈12尺(930m)、東西81丈(245m)、南北72丈6尺(220m)の規模である(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。京都御所が南北450m、東西240mほどであるから、東西規模ではほぼ同じ、南北規模では二分の一の規模ということになる。紫禁城は概ね黄色で統一されているが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)、黄色は中国では中央を表わす色であるとともに、君王の衣服の色であった。

 紫禁城には門が7箇所ある。南の中央にある門を大宮門といい、「乾成宮」という扁額を掲げている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。東側は興慶門・東安門、西側は嘉祥門・西安門、北側は祥鸞門・儀鳳門である。大宮門は現在でこそ太和殿の背後にあるが、嘉隆年間(1802〜19)初頭の段階では大宮門の地には太和殿が建てられており、太和殿の左右には左粛門・右粛門の2門があった。明命14年(1833)に太和殿をやや南に移して左粛門・右粛門の2門を撤去し、その地に大宮門を建設したのである(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)


保大7年(1932)の紫禁城(『PHA THUAN AN HUE -La Citadelle et ses Palais-』〈THE GIOI,2007〉口絵より部分転載)



大宮門跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 紫禁城は主要な建物が南北方向に一直線に並んでおり、南の大宮門を先頭に勤政殿・乾成殿・坤泰殿と配列される。

 勤政殿は紫禁城の前殿であり、通常における正殿という扱いであった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。このような直線域に主要建造物を並べるプランは嘉隆元年(1802)の段階ですでに計画されており、黎朝の故事に倣ったものであるから(『大南寔録正編』第1紀、巻之19、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年11月癸酉条)、阮朝が成立してからの創始プランではなく、ヴェトナム歴代王朝において培われた宮殿構成であった。

 紫禁城の基本は前述の通り嘉隆元年(1802)11月に計画されたが(『大南寔録正編』第1紀、巻之19、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年11月癸酉条)、本格的に建造されたのは嘉隆3年(1804)になってからのことである。嘉隆10年(1811)5月に勤政殿が再建され(『大南寔録正編』第1紀、巻之42、世祖高皇帝寔録、嘉隆10年5月戊寅条)、嘉隆18年(1819)5月(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年5月条)、明命12年(1831)5月(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年5月丁卯条)、成泰11年(1899)に修理されており、この時花壇を勤政殿の左右に並べている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 勤政殿の東側にある建物は文明殿、西側は武顕殿といい、前庭の東側には左廡が、西側には右廡がある。左廡・右廡は文武官の詰所と通常考えられているが、機密院内閣が位置していたように、国政の中枢を担っていた。左廡の右直房には機密院が位置したが、内閣は右廡の左直房、左廡の右直房、左廡の左直房と在所を転々とした。

 また左廡の東側には東閣があり、東閣の南には聚奎書楼がある。なお文明殿と武顕殿は東西の名称がたびたび入れ替わっており、嘉隆年間(1802〜19)初頭に建てられた時には現行の通りであったが、明命5年(1824)に東西の名称を入れ替えて東側を武顕殿、西側を文明殿としたが、明命14年(1833)には現行の通りに戻されている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。その間、明命12年(1831)5月には左廡・右廡が修理されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年5月丁卯条)


焼失以前の勤政殿(伊東忠太『東洋建築の研究』下〈龍吟社、1943年〉口絵より転載)



勤政殿跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

乾成殿

 勤政殿の北側には乾成殿があり、そのさらに北に坤泰宮がある。乾成殿と坤泰殿は嘉隆年間(1802〜19)初頭に建てられた。うち乾泰殿は建立当初は中和殿と称されており(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)、嘉隆10年(1811)4月に建立された(『大南寔録正編』第1紀、巻之42、世祖高皇帝寔録、嘉隆10年4月己未条)。嘉隆18年(1819)5月に修理が行なわれたが(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年5月条)、同年12月に嘉隆帝が崩じたのはこの中和殿であった(『大南寔録正編』第1紀、巻之60、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年12月丁未条)。明命14年(1833)に乾泰殿と改められ、その前殿を乾成宮と名付けた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 乾成殿と勤政殿の左廊(東側)の中間には光明殿があり、右廊(西側)の中間には貞明殿があり、いずれも嘉隆9年(1810)に建設され、明命11年(1830)に修理が行なわれた。また乾成殿の東軒に明慎殿があり、明慎殿前に設けられた池を光文池といった。池の西に四方無事閣、北に自彊楼、東に日成楼があり、いずれも紹治元年(1841)に建てられたが、成泰年間(1889〜1907)に撤去された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 なお勤政殿・乾成殿といった主要建造物の西側は皇帝の私的空間である内宮である。皇帝の私的空間であるため、『大南一統志』の「皇城内図」には内宮の様子が記載されていない。乾成殿の西側に位置する貞明殿から回廊が西へと伸びており、紫禁城外部の寿址宮に繋がっていた。


乾成殿跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 坤泰宮の北に高明中正殿がある。高明中正殿は当初坤元宮と称されており、嘉隆6年(1807)9月に建造された(『大南寔録正編』第1紀、巻之33、世祖高皇帝寔録、嘉隆6年9月条)。嘉隆12年(1813)5月(『大南寔録正編』第1紀、巻之46、世祖高皇帝寔録、嘉隆12年5月癸丑条)、明命12年(1831)5月に修復が行なわれており(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年5月丁卯条)、その後明命14年(1833)に高明中正殿に改められた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 建中楼は明命8年(1824)5月に造営され、当初は明遠楼と称され、紹治帝により「神景二十景」の一つ「重明遠照」と詠われたが、嗣徳29年(1876)に老朽化のため解体された。維新帝(位1907〜16)の時代に悠久楼と称し、維新7年(1913)に造営された。フランス建築との折衷様であり、現在残る建中楼跡地の三分の一ほどの規模であった。その後啓定6年(1921)に啓定帝によって増改築されることとなり、啓定8年(1923)に建中楼として完成した。啓定帝は啓定7年(1922)にマルセイユ植民博覧会出席のためフランスに外遊しており、その際にそれまで見たことのない大きな建物を多く見て、その大きさに魅力を感じ、後に建中楼の建設に影響を与えたという。その経験によりフエの建築物の多くはフランス・ヴェトナム建築折衷の独特の様式となった。建中楼もまた正面66mにもおよぶ煉瓦造のバロック様式の建造物として完成した。1947年2月のフランス軍との交戦により廃墟となり、現在は基壇が残る。


 高明中正殿の東軒は静観院といい、静観院の北にには澄光シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)があり、前方には溜池である内御河があった。また高明中正殿の左廊の中間に養心院が、右廊の中間に順徽院があった。養心院の東に清暇書楼が、清暇書楼の北に淡如書舎があったが、清暇書と淡如書舎は成泰年間(1889〜1907)に解体された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)


建中楼跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



保大7年(1932)の建中楼(『PHA THUAN AN HUE -La Citadelle et ses Palais-』〈THE GIOI,2007〉口絵より部分転載)

閲是堂

 閲是堂は光明殿跡の東の垣の外に位置する。東向で、紫禁城の中では勤成殿・乾成殿・坤泰殿・建中楼といった主要建造物につぐ規模を誇った。宮廷舞踊の演奏するための劇場であり、明命7年(1826)に建てられた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 閲是堂の前には尚膳所・御医院があり、いずれも嗣徳6年(1853)に建てられ、さらに成泰年間(1889〜1907)には橋家・厨家があった。御医院の塀を隔てた南側には成泰年間(1889〜1907)に建てられた侍衛直房・謹信司・僊仗庫があったが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)、現在は何も残っていない。

 閲是堂は戦争の惨禍で失われたが、後に再建され、現在は宮廷舞踊と宮廷音楽が催される観光コースとなっている。


閲是堂(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

紹芳園

 閲是堂の北側には塀がある。この塀には閲是左門という小門があり、門をくぐると東西方向に道がある。これを西側に行くと乾成殿方面にいたり、東側に行くと興慶門から紫禁城の外に出る。この東西の道を通らずに、そのまま北方向をみると紹芳園門があり、その門をくぐると紹芳園にいたる。

 紹芳園は御園、すなわち皇帝の庭園であり、紫禁城の南東に位置する。範囲は、南北は閲是堂の北塀付近から紫禁城の北限まで、東西は乾成殿の付属施設、および建中楼の東限から、紫禁城の東限までといった、面積にして紫禁城の全体の六分の一強を占めた。北東に園内の北側には玉液池がある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 玉液池の水は紫禁城の北に位置する瀛洲の金水湖から引いており、紹芳園の東西には内御河という園池兼用水路があり、玉液池にいたる。内御河の東には城壁との間に城隍がある。本境城隍・霊応諸尊神の2柱を祀っていたが、成泰年間(1889〜1907)に廃廟となっている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。現在も跡は残っている。

 紹芳園は広範囲に及んでおり、しかも時代によって大きな変遷を遂げているため、文献上の特定の施設を、現在の位置に比定することは困難である。

 紹芳園門の北側には現在野原が広がっているが、かつては皇福殿があり、廻廊が屈折して卍字形のようになっていた。また左右に仁声亭という八角亭と、明達四亭という方亭があった。いずれも紹治元年(1841)に建てられ、同慶年間(1885〜88)に解体された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)

 付属の施設として、代表的なものに仁智堂がある。これは御河の北にあり、同慶年間(1885〜88)初頭に太平御覧書楼として完成した。太平御覧書楼はその後荒廃したが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)、戦火を免れ、今でも修理が行なわれている。

 内御河の北には翠光楼・弘恩寺・威霊相佑廟楼が所狭しと林立していた。翠光楼の上層には九天が、下層には諸星君列位を祀っており、弘恩寺には仏像が、威霊相佑廟には関公を祀っていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。これらは宮廷内の信仰が星宿・仏教・道教を中心としたものであったことを物語っており、儒教を国教化した阮朝の国是とは異なっている。同じく儒教を国教化した李氏朝鮮と同様に、国是と宮廷内部のにおける信仰の実態は異なっていたことが知られる。翠光楼・弘恩寺・威霊相佑廟楼はいずれも紹治年間(1841〜47)に建立されたが、成泰年間(1889〜1907)に撤去された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)


紹芳園跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



玉液池(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



太平御覧書楼(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

[参考文献]
・藤木大介・中川武・中沢信一郎・林英昭「阮朝の仏領期宮殿建築について -ヴィエトナム・フエ阮朝王宮の復原的研究(その134)(建築歴史・意匠)」(『研究報告集II 建築計画・都市計画・農村計画・建築経済・建築歴史・意匠』78、2008年2月)
・中川武:他「紫禁城建中楼の復原考察-ヴィエトナム/フエ・阮朝王宮の復原的研究(その17)」(『学術講演梗概集F-2 建築歴史・意匠』1998年7月)
・松岡裕佑・中川武・中沢信一郎・坂本忠規・中村泰一「紹芳園について ヴィエトナム・フエ・阮朝王宮の復原的研究(その65)」(『研究報告集II、建築計画・都市計画・農村計画・建築経済・建築歴史・意匠(73)」2003年2月)


城隍(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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