機密院




機密院の前門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 機密院は京城(フエ旧市街)の南東、皇城(阮朝王宮)の東に位置する旧官房である。かつては紫禁城内の左廡の右直房に位置していた。

 阮朝は、中国明・清の制度にならって皇帝専制政治が原則ではあり、あらゆる政務の決定権は皇帝の手中にあったが、やはり中国にならって皇帝の諮問機関である「機密院」が設置された。機密院大臣は4名からなり、いずれも文班(文官)の三品の位以上の高官であった。すなわち阮朝における国家指導は皇帝と機密院があたっていた。

 皇帝が幼少である場合、機密院大臣が摂政となって影響力を行使し、国政に直接的影響を及ぼしたが、皇帝が成長すると機密院は実権を持たないただの諮問機関となった。一方で皇位の廃立に重大な影響力をもち、たとえば嗣徳帝が崩ずると、皇位をめぐって機密院大臣の都合の良い者が擁立されたり廃立されるなど、皇帝の地位を左右するほどであった。

 機密院に所属する官吏は、五・六品の位の官吏がそれぞれ2名、七品の位の官吏は4名であり(『大南一統志』巻之1、京師、官署、機密院)、例えば嗣徳帝代の後期では機密院の構成員は16名であった。

 機密院は明命14年(1833)に設置され、明命18年(1837)に南章京を改めて南司とし、北章京を改めて北司とした。同慶元年(1886)に機密院は兵部堂の西軒にあった。成泰元年(1889)また輔政大臣を5名設置し、機密院の職務を兼任させた。また参弁・商弁をそれぞれ1名増設した。成泰3年(1891)に機密院を正蒙堂に移設して機密新院とした。成泰6年(1894)に前堂を増設した。前堂は3間2厦(桁行3間の両側に庇が1間づつ付くこと)で、会商の場所とするために建造された。成泰9年(1897)輔政大臣が復活して六部の正卿を機密大臣とした(『大南一統志』巻之1、京師、官署、機密院)

 成泰11年(1899)に覚皇寺の場所に機密院を移建し、覚皇寺は廃寺となった。正座(正殿)は13間2厦(桁行13間の両側に庇が1間づつ)で二層の建造物である。上層の正面に「機密院」の三字が刻まれている。成泰16年(1904)に台風のため瓦が落下したが、黒石瓦に葺き改められた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、機密院)

 機密院の正面には楼門があり、門内は石造の屏風がある。庭内に成泰11年(1899)に鋳造された鼎が一つ置かれている。左右の門内にそれぞれ井戸が一つがあるが、水は極めて清らかで甘かったという。ここにあった覚皇寺の井戸であったという(『大南一統志』巻之1、京師、官署、機密院)

 機密院は正座(正殿)が西南にあり、官の商政の場所であった。正蒙堂は成泰17年(1905)に尊学所と改められ、修復が行なわれ、学部の尚書堂となった(『大南一統志』巻之1、京師、官署、機密院)


左廡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。かつてはここに機密院が入っていた。



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