国恩寺



国恩寺三門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 国恩寺は京城(フエ旧市街)の南の香水県福菓邑に位置する禅寺である。中国人禅僧の煥碧元韶(1648〜1728)によって建立された。

 煥碧元韶は清の広東省潮州程郷県の人で、俗姓を謝氏といった。出家し、報資寺にて中国臨済宗天童派の曠円本果(生没年不明)の法嗣となった(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、謝元韶伝)。このため煥碧元韶は木陳道サ(1596〜1674)の法孫にあたる。なお曠円本果は日本黄檗宗の祖とされる隠元隆g(1592〜1673)の法従兄弟にあたる。永治2年(1677)に商船で帰寧府(現ヴェトナムの平定省帰仁)に行き、弥陀寺を建立し、さらに順化に赴いて国恩寺と普同塔を建立した(「大越国王勅賜河中寺煥碧禅師塔記銘」)。英宗(位1687〜91)の命により清に戻って高僧を探し求め、石濂大汕(1633〜1702)を連れ帰った(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、謝元韶伝)。石濂大汕は後に天姥寺に居住し、天姥寺再建の契機となった。その後煥碧元韶は河中寺の住持となり、保泰9年(1728)に示寂した。81歳。ヴェトナムに滞在すること51年に及んだ。門弟によって国恩寺に塔が造られた(「大越国王勅賜河中寺煥碧禅師塔記銘」)

 国恩寺には広南国君主の顕宗(位1691〜1725)より下賜された対聯があり、それぞれ「貝葉飄雲六辰禅誦祈豊稔袈裟湿雨一味清機見道昌」「八葆燦金梁暁日臨関羨有人有景五雲生玉棟春光朝座喜不即不離」とあった。さらに「国王天縦道人」の扁額も掲げられていた(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、国恩寺)

 前述したように煥碧元韶は普同塔を建立しているが、これは国恩寺の前に位置していた。その後兵火のため破壊された(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、国恩寺)

 国恩寺は嘉隆年間(1802〜20)初頭に密宏和尚によって再建された(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、国恩寺)。密宏の塔(墓所)は国恩寺境内にある。


国恩寺北碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。内部に「大越国王勅賜河中寺煥碧禅師塔記銘」の石碑がある。



国恩寺南碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。内部の石碑は落書きなどによって判別ができない。



国恩寺仏殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



国恩寺密宏禅師塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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