天姥寺



天姥寺華表柱と福縁塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 天姥寺は京城(フエ旧市街)郊外、西に5kmの安寧社の丘の上に香江(フォン川)に面して位置する禅寺である。旅行ガイドブックなどでは「ティエンムー寺」と称される。


広南国と天姥寺

 天姥寺の建立は阮朝の祖である広南国阮氏初代太祖仙王(位1558〜1613)の時代よりはじまる。

 広南国阮氏の仙王は黎朝の重臣・阮淦(1468〜1545)の子である。阮淦は故国黎朝が莫氏によって簒奪されると、黎朝復辟を目指して莫氏との間で抗争した。しかし阮淦が莫氏によって暗殺されると、娘婿の鄭検(?〜1570)が阮淦の勢力を掌中に収め、仙王はかえって自身の身に危険を感じるようになった。

 仙王は姉で鄭検夫人である玉宝(?〜1586)を通じて、鄭検に南の富安(現フエ)への駐屯を申し出た。この当時ヴェトナムの領域は、北部が中心であり、中部がようやく領域となったばかりで支配の確立は不安定であり、南部にいたっては未だ領域外であった。仙王のヴェトナム中部駐屯によって、広南国阮氏は南進を開始し、後に北の鄭氏と対峙することになる。

 辛丑44年(1601)に仙王は香江に行幸し、平原に突起し、竜が首を廻している姿のようであった。前方に香江があり、後方は平湖があり、風光明媚の地であった。仙王は地元に者に問いかけてみると、この丘は霊異の地であり、伝説では、昔ある人が夜に赤い衣で緑色の裾を着た一人の老婆に会い、老婆は丘の上に座って「真の主がやって来てこの寺を修復するであろう。霊気が集まって龍脈が固まっている」といい、言い終わるや姿がみえなくなった。そこで山を天姥山と名付けたのだという。これを聞いた仙王は寺を建立し、天姥寺と名付けた(『大南寔録前編』巻1、太祖嘉裕皇帝寔録、辛丑44年6月条)


西側からみた天姥寺(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

石濂大汕@

 天姥寺は広南阮氏の顕宗(位1691〜1725)の時に修造されている。再建の契機となったのが、天姥寺に居住していた中国人禅僧の石濂大汕(1633〜1702)である。清国の浙西省の人で、字は厂翁といった。曹洞宗の覚浪道盛(1592〜1659)の法嗣である。

 天文・暦・弓射・数学・書画といった分野に才能を示し、とくに詩文を得意とした。しかし時は明末の戦乱期であり、清が中国を支配すると、明への忠義心から清の臣下となることができず、老母のもとを辞して剃髪して禅僧となった(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、石濂伝)。清は中国を統治するにあたって、女真族の風習である弁髪を「頭を留めるならば髪を留めず、髪を留めるならば頭を留めず」として強要したため、弁髪を野蛮な風俗とみなした漢民族の反発を買い、各地で抵抗運動が起きた。清はこれらを虐殺していったが、ただ僧侶になる場合は弁髪の強要が免れたから、多くの明の遺臣が出家して僧となった。石濂大汕もその一人であったのである。

 石濂大汕は出家後各地の名山を巡っていたが(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、石濂伝)、広南国の英宗(位1687〜91)が、煥碧元韶(1648〜1728)を清に派遣して高僧を求めることとした。この煥碧元韶も中国人で、フエの河中寺・国恩寺を建立している。煥碧元韶は石濂大汕が優れた人物であると知ると、広南国に連れ帰った(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、謝元韶伝)

 石濂大汕は天姥寺に居を構えたが、顕宗が朝廷に石濂大汕を召喚して禅宗について談義すると、顕宗は石濂大汕が博識であったため重んじることになる。石濂大汕は何度も顕宗を諫めたり助言することがあった(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、石濂伝)。実際、石濂大汕は清・ヴェトナム間の私貿易に関わっていたらしく、彼が広南国で重んじられたのは、清の内情に詳しい政策通としての役割があったからともいう(岸本2001)。当時都城(フエ)の外の人家が夜に火事になることが多く、顕宗は兵を出して救出に向かっていたが、石濂大汕は夜中に外出することを誡め、顕宗もこれに従った(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、石濂伝)。

 石濂大汕は天姥寺にいたほか、安旧社の禅林寺の開山となっているが(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、禅林寺)、ヴェトナムを去って広南の地に戻った。帰国後、その体験を『海外紀事』に著わしており、また商船に寄せて詩文をヴェトナムに送っており、明命年間(1820〜40)にいたっても石濂大汕の事績は天姥寺に伝承され続けていた(『大南列伝前編』巻之6、諸臣列伝4、高僧列伝、石濂伝)


天姥寺六角碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。内部に亀趺石の上に乗る1714年の石碑がある。



天姥寺六角大鐘楼と福縁塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

石濂大汕A

 石濂大汕が天姥寺に居住していたことにより、彼に帰依する顕宗が天姥寺の再建を実施した。永盛6年 (1710)4月に天姥寺の鐘を鋳造しており、重さは3,285斛に及んだ。顕宗が自ら鐘銘を作っている(『大南寔録前編』巻8、顕宗孝明皇帝寔録下、庚寅19年4月条)

 さらに永盛10年 (1714)6月に修復を行っており、宋徳大が責任者となった。山門から天王殿・玉皇殿・大雄葆殿・説法堂・蔵経楼・十王殿・水雲堂・知味堂・大悲殿・大師殿・薬師殿・僧寮・禅舎といった建物がある。さらにその後方には昆耶殿を建立し、また方丈なども建立された。工事は一年で完了し、顕宗自ら碑文を作成している。また清国に使者を遣わして大蔵経と律論部1,000余巻を購入し、天姥寺に置いた。天姥寺の目の前の香江のほとりには釣台を建てた(『大南寔録前編』巻8、顕宗孝明皇帝寔録下、甲午23年6月条)。この年に顕宗の妃である阮敬妃(?〜1710)が薨じたため、7月に顕宗は追悼のため天姥寺昆耶殿にて大斎を修し、自ら悼亡詩四章をつくり壁に書きつけた(『大南寔録前編』巻8、顕宗孝明皇帝寔録下、甲午23年7月条。および『大南列伝前編』巻之1、后妃列伝、阮敬妃伝)

 石濂大汕は帰国後、広東の長寿寺の住持となった。長寿寺の木材は顕宗が送ったものであったという(『大南寔録前編』巻8、顕宗孝明皇帝寔録下、甲午23年6月条)。後に臨済宗天童派の費隠通容(1596〜1674)が『五燈厳統』を撰述して曹洞宗の五代畳出問題に触れたため、石濂大汕は曹洞宗側に立って論戦に参加している。

 五代畳出問題とは、華北で栄え、後に中国における曹洞宗の流派(北伝曹洞宗)の祖となった鹿門自覚(?〜1117)が誰の法嗣であったかという問題である。鹿門自覚は本来は芙蓉道楷(1043〜1118)の法嗣であるが、芙蓉道楷の後に丹霞子淳(1064〜1117)・真歇清了(1090〜1151)・大休宗カク(王へん+玉。UNI73CF。&M020926;)(1091〜1162)・足庵智鑑(1105〜1192)・長翁如浄(1162〜1227)の5代を入れて、この後に鹿門自覚を入れるという主張が五代畳出である。長翁如浄は天童如浄とも呼ばれ、道元の師として知られるが、当時は彼らの事績がそれほど明確ではなかったため、かつては曹洞宗内部でも五代畳出を主張する者がいた。費隠通容が『五燈厳統』撰述に際して五代畳出とすることによって、五代畳出問題は最終的には曹洞宗側の官への訴えが全面的に認められ、『五燈厳統』の書籍と版木の廃棄が命じられる結果となったが、それまでに臨済宗・曹洞宗間で激しい論争となり、またそれぞれが支持する文人らも論戦に参加するほどであった。

 石濂大汕はこの五代畳出問題に際して、『証偽録』などの著作を撰述して批判したが、この論戦を当時石濂大汕と個人的な諍いによって嫌っていた潘耒(1646〜1708)につけ込まれ、潘耒は当時省の司法長官の任にあった許嗣興(?〜1720)に依頼して石濂大汕を投獄し、死へと追い込んだ。康熙41年(1702)のことであった。石濂大汕が先に示寂したため、潘耒の攻撃は一方的なものとなり、石濂大汕が私貿易を行ない、財宝を蓄え、地方官に媚を売り、春画を作成する人物として人格が貶められ、彼の建立・再建した寺院すら不明となる事態が長年続いていた。しかし研究が進んで、彼の著『海外紀事』の重要性が認識され、また厦門の普済禅院の開山であったことから、広範囲で活動を行なった人物として注目されており、評価が改まる日も来るとみられる。わずか1年の滞在であったにもかかわらず、君主の帰依を受け、また120年後も寺僧に語り継がれた石濂大汕が、ただの野心的な人物であっただけであるのかどうかは今後の解き明かされるであろう。


天姥寺儀門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。背後は仏殿。



天姥寺儀門と福縁塔(北側より)(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。儀門の左は鐘楼、右は鼓楼門。

阮朝の復興

 広南国は西山党の反乱によって滅亡した。天姥寺があるフエも西山党によって占領されていたが、西山党を滅ぼしてヴェトナム最後の王朝阮朝を打ち立てたのが嘉隆帝(位1802〜20)である。嘉隆帝は広南国第8代武王(位1738〜65)の孫にあたり、自身も広南国を引き継いでいるという自負があった。戦乱で荒れ果てた天姥寺は嘉隆帝によって再建に着手された。まず壬戌年(1802)正月に天姥寺にて戦死者の追悼を行なっている(『大南寔録正編』第1紀、巻之16、世祖高皇帝寔録、壬戌23年正月辛巳条)

 嘉隆14年(1815)4月に天姥寺の修復を行ない、仏像を鋳造している。嘉隆帝が行幸したが、臣下の鄭懐徳(1765〜1825)に向かって、「この寺の地は霊気があり、我が先祖であらせられる顕宗の甲午23年(1714)より大いに修造を行ない、今まで101年がたった。今その慣例にならって修造し、勝蹟を伝えよう」といった。修造にあたった兵士・工匠に合わせて銭1,800余緡を給付した(『大南寔録正編』第1紀、巻之50、世祖高皇帝寔録、嘉隆14年4月朔条)

 また嘉隆15年(1816)閏6月に嘉隆帝は天姥寺の図を観ているが、天姥寺を評して、「この寺は山水が青く秀でている。先朝(広南阮氏)の遺跡で、御園や釣台がある。これは礼部尚書のトウ(登+おおざと。UNI9127。&M039630;)徳超(1750〜1809)が記録していたものである」と述べている(『大南寔録正編』第1紀、巻之53、世祖高皇帝寔録、嘉隆15年閏6月条)

 天姥寺の修復は阮朝第2代皇帝の明命帝(位1820〜40)の時代にも継続された。明命3年(1822)8月、天姥寺の僧衆に銭60緡、粗米55方、白米5方、花塩6升を給付している。さらに民から寺夫30人を募り、彼らには徭役を免除している(『大南寔録正編』第2紀、巻之16、聖祖仁皇帝寔録、明命3年8月壬寅条)。明命11年(1830)3月にも修理が行なわれている(『大南寔録正編』第2紀、巻之65、聖祖仁皇帝寔録、明命11年3月辛丑条)


天姥寺仏殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



天姥寺弥勒殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



天姥寺観音殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

天姥寺の伽藍配置

 天姥寺は嘉隆14年(1815)に再建されたことは前述した通りであるが、この時に多くの建物が建立されており、当時のものでこそないが、その制は概ね現在にまで引き継がれている。

 天姥寺は香江の岸に面しており、階段をあがった先には華表柱が門の替わりとなっている。境内は儀門を境として主要境内と前庭部分に南北に分かれている。儀門は楼門で、左は鐘楼、右は鼓楼門となる。周囲は石壁で囲まれ、門は大小含めて8箇所ある。儀門の外側の左(東側)には六角碑亭が、右(西側)に六角大鐘楼がある(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、天姥寺)。六角碑亭の内部には、亀趺石の上に乗る永盛11年 (1715)の石碑がある。六角大鐘楼の内部には永盛6年(1710)に鋳造された大鐘がある。この鐘は高さが2m50cmあり、フエで最も大きい鐘となっている。

 紹治3年(1843)には紹治帝(位1841〜48)による「神京二十景」の一つ「天姥鐘声」が詠まれ、碑文が設置された。紹治5年(1845)に儀門の外の中央に慈仁塔を建立した。慈仁塔は福緑葆塔ともいい、塔は七層からなり、高さは5丈3尺2寸(21m)ある。上部に釈迦像が安置される(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、天姥寺)。現在の福縁塔は1884の再建で、高さ21m37cmあり、レンガ造の八角形の七層塔となっている。内部は7階建てで、各階には仏像の坐像が安置され、過去七仏をあらわす。最上部には釈迦如来像が安置される。本来はここまで登ることができるが、普段は閉じられている。

 福縁塔の前にはかつて香願亭があった。この上部には法輪が設けられ、風向によって向きが変わる風見鶏のような役割を果たした(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、天姥寺)。香願亭は現存していないが、この左右に碑亭が建てられており、その前・左右の三面には鉄の欄杆がある。

 主要境内部分は、中央に大雄殿(仏殿)があり、その左右・後方に厨家がそれぞれ1棟ある。大雄殿の背後には弥勒殿が、さらにその背後には観音殿があり、観音殿の右に蔵経楼が、大雄殿の前の東西に十王殿堂がそれぞれ1棟ある。その前は左雷家・右雷家がある(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、天姥寺)

 主要境内部分南西にはティック・クアン・ドック(釈広徳、1897〜1963)が南ヴェトナムの首都サイゴンまで乗っていったオースティンが展示されている。南ヴェトナムのゴ・ディン・ジエム政権はカトリック信者が多く、仏教に対して弾圧的処置をとっていた。1963年6月11日、ティック・クアン・ドックはサイゴンのアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身供養を行なった。炎の中端座して絶命までその姿勢を崩さなかった様子は国際的に衝撃を与え、さらにゴ・ディン・ジエムの義妹マダム・ヌーは、これを「僧侶のバーベキュー」と評したため、国民から非難が高まり、クーデターによってゴ・ディン・ジエムが殺害される一因となった。


天姥寺敦厚澄源和尚塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

[参考文献]
・陳垣著/野口善敬王訳注『訳注 清初僧諍記』(中国書店、1989年9月)
・岸本美緒「妖僧大汕と広東の文人たち」(『岩波講座東南アジア史月報』3、2001年8月)
・伊東照司『ベトナム仏教美術入門』(雄山閣、2005年8月)


天姥寺内に展示されるオースティン車(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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