脱俗院跡



脱俗院跡付近(平成23年(2011)12月29日、管理人撮影)

 脱俗院は最澄が生前に定めた十六院の一つである。

 弘仁9年(818)7月27日、最澄は十六院構想を定めているが、その中に脱俗院が見えている。これは別名を法華清浄脱俗院といい、別当として薬芬(生没年不明)を、知院事として行宗(生没年不明)が任じられている(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)』)

 別当に任じられた薬芬は、最澄の門弟のうち、「信心ある仏子」と讃えられた門人の一人であり(『叡山大師伝』)、また後に最澄の廟所となる浄土院の別当に、最澄の生前より任じられていたことからもわかるように(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)』)、戒行ともに優れた人物であったらしい。また一乗止観院(後の本中堂)においても、大別当義真(781〜833)・小別当真忠(生没年不明)についで、上座薬芬・寺主慈行(生没年不明)・都維那円信(生没年不明)が任命されているように、一乗止観院の三綱の一人であった(『山門堂舎記』根本中堂)

 この脱俗院は、本尊が地蔵菩薩であり、別名を水飲堂といったが(『叡岳要記』巻上、十六院)、それ以外の詳細はわかっていない。最澄の著作に仮託された『三宝住持集』によると、西坂(雲母坂)を麓より登山する人が、垢衣を脱俗院で脱ぐから、脱俗院の名があるとする(『三宝住持集』当山十六院事)

 脱俗院は別名を「水飲堂」と称したことは前述の通りであるが、水飲の地は、比叡山の西側の境の地であり、天禄元年(970)の天台座主良源(912〜85)による「二十六ヶ条起請」の規定があり、これによると籠山僧の結界として、東は悲田、南は般若寺、西は水飲、北は楞厳院が指定されており、ここから外に出ることが禁止されていた(「天台座主良源起請(二十六ヶ条起請)」廬山寺文書〈平安遺文303〉)。すなわち脱俗院は比叡山における結界の地に置かれた子院であった。

 この脱俗院については、水飲付近に位置したということ以外はほとんどわかっていない。中世にはあったようであるが、廃院になった時期も不明である。

[参考文献]
・佐伯有清『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館、1992年10月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)





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