浄土院



比叡山延暦寺東堂西谷浄土院(平成16年(2004)11月13日、管理人撮影) 

 山王院を通過して、次は浄土院に行きました。
 若干距離があったように思えましたが、窪地状の所に浄土院は位置しています。

 この浄土院は伝教大師(最澄)廟があることで有名なのですが、中に入ってみますと、ただ下の写真のような建物がみえるのみで、「これだけ?」と思ってしまいました。

 近くによってみると横にビニール紐のようなもので柵になっていました。入るなということでしょうが、写真のように階段とビニール紐の柵の間に30cmほどの隙間がありました。
「入ってもいいってことかな?」
と思って入って建物の後ろにまわると、朱色のお堂があり、周囲は掃き清められていました。これが御廟所(伝教大師廟)で、どうやら修復工事中のようで、足場が組まれてました。その次の年には「天台宗開宗千二百年」なので、それにあわせているのかな?と思いました。

 私が隙間から入ったものですから、後ろからわらわらと人がついて来て御廟所(伝教大師廟)の前にたくさんの人だかりが出来てしまいました。

 ところで、私は学生の頃にバイト先の社長から、12年間、浄土院に篭って伝教大師の廟所に仕える僧(侍真)が、伝教大師が生きているようにして仕えるという話を聞いていましたので、その時は少々不気味に感じていましたが、12年間篭山は最澄が『山家学生式』に定めていることであり、篭山規定は高野山など他の寺院でも多く行われていた事だったのです。侍真に選ばれるのは大変名誉なことだそうです。


比叡山延暦寺東堂西谷浄土院拝殿(平成16年11月13日、管理人撮影。まがってるけど…。) 

最澄廟所としての浄土院

 浄土院は、最澄が構想した九院の一つであり、後の十六院構想にも浄土院は含まれていた。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば十六院構想時に含まれていたものでは、根本法花院・向真院は、造立されなかったのである。

 浄土院は『弘仁九年比叡山寺僧院等之記』では、浄土院はまたの名を「法花清浄土院」とされ、弘仁9年(818)9月の段階で別当に薬芬が、知院事に煖然がその地位にいることが知られているから、弘仁9年(818)以前に造営に着手されていたようである。浄土院とは、最澄が義真とともに延暦23年(804)に入唐した時、台州臨海県龍興寺の付属施設であり、最澄はここで道邃より受法している。浄土院の名称はこれにより採用したのであろうか。

 弘仁13年(822)6月4日、最澄は中道院にて示寂した(『叡山大師伝』)。遺体は浄土院に運ばれた。この地は最澄を荼毘した地ともいわれる(『浄土院長講会縁起』)。以後、浄土院は最澄の廟所としての地位を有するのである。

 浄土堂は3間の規模であり、5間の礼拝堂が1宇、5間1面の雑舎が1宇あったという。伝教大師廟は、桧皮葺の方丈廟堂が1宇あり、四面に孫庇があった。この基本的な構成は、浄土堂は阿弥陀堂と名称を変えたように、それぞれ若干の名称を変えたほかは、特に大きな変化はない。また『叡岳要記』によると、最澄が建立した等身阿弥陀坐像が安置されたという。

 仁寿4年(854)7月16日、天台座主円仁は唐の五台山竹林寺の風に習って、浄土院の廟供の事を行っている(通行本『慈覚大師伝』)。これの詳細は不明であるが、円仁は入唐中の開成5年(840)5月1日に五台山竹林寺を訪れ、同五日には「竹林寺斎礼仏式」というものに参加している(『入唐求法巡礼行記』巻第2、開成5年5月1日・5日条)。具体的に竹林寺のどのような「風」を浄土院の廟供に導入されたかは不明である。現在浄土院で行われている法儀は、御影供と長講会の2つのみであるという。

 無論、浄土院は信長の叡山焼打ちによって灰燼に帰したが、江戸時代に再建されている。現在みえるのはその時の再建されたものである。
 表門は正面1間(2m95cm)、側面1間(1m26cm)の向唐門で、屋根は銅板葺である。『東塔五谷堂舎並各坊世譜』によると万治4年(1661)8月から11月に祖堂・唐門・前殿を改造し、明和年間(1764〜72)に修復されたとある。
 拝殿は白砂の前庭の後ろに建ち、規模は桁行5間(13m58cm)、梁行3間(7m87cm)で、屋根は入母屋造、銅板葺で中央に軒唐破風をつけている。内部は拭板敷で、天井は格天井となっている。17世紀中頃の建立とみられており、『天台座主記』の記述から寛文元年(1661)の建立(『天台座主記』巻6、180世入道二品慈胤親王、寛文元年8月条)が推定される。
 伝教大師の廟所である御廟所は、正面3間(8m)、側面3間(8m)で、屋根は宝形造の銅板葺となっている。外観は礎盤・台輪・火頭窓が備わった禅宗様建築である。内部中央は1間(3m45cm)四方の堂内堂となっており、中央四点柱間を桟唐戸で閉ざして周囲に高欄をめぐらしているから、外部から堂内に入っても、さらなる密閉空間を形成するのである。外陣空間の床は瓦敷となっている。御廟所の建立年代は、表門・拝殿と同じく寛文元年(1661)頃の建立とみられる。


近世における侍真制の復興

 元禄12年(1699)11月には、侍真の制度に、12年篭山を加えている。そのことは『開山堂侍真条制』に詳しい。
 「12年篭山制は伝教大師最澄の定めた制度にかかわらず、時代が移り変わり、法は堕落して、12年篭山制を知らない者すらいた。もし身命をすてて伝教大師最澄の祖訓にしたがう者があった場合、山院にあっても衆務を免除することを許そうと思っていた。また浄土院は近年、ただ堂司だけがいて侍真はおらず、そのため伝教大師最澄への恩に報いることができないのである。そのため侍真を設置するという建議は私の意にかなうのである。この年の初夏、登壇受戒して篭山の誓いを立てる者が2人いた。近くまた発心する者が2人いた。また新たに侍真の房を構築して既に落成した。このことは我が喜びにたえない。また全山の僧に告ぐ。初修行の僧は伝教大師の真子である。歴代の侍真は礼供を欠くことがあってはならない。よって条件を立て、これを以て永式としたい。
 一、大小二食はの時には如法供養すること。
 一、食をたてまつる時には、変食呪二十一遍と般若心経三唱をよむこと。
 一、朝課の仕事と晩課の敬礼法の時には、ともに梵網十戒をよむこと。
 一、両業の人は、それぞれの恒務がある。今は定めるところではないとはいえ、(恒務の間でも)ますます心を精進すべきである。
 一、3月に居を遷すというのは、釈尊が定めたことである。侍真の職は久しく留めてはならない。3月が終わったら(侍真の職を)再び始めること。(3月に)閏月があった場合は、四月に(侍真の職を)始めなさい。
 一、3月中に特に重要なことがなかった場合、院を出てはならない。
 一、重病などの場合、(本人の)要請によって交替させなさい。
 以上の条件は、それぞれ遵守させなさい。急制ではないとはいえ、誠や思いをつくして祖師の恩に微塵でも報いることを誓うのである。」


 また享保5年(1720)には7項目にわたる『浄土院規矩』がまとめられ、第1課誦献斎の事、第2散物油料の事、第3大小掃除の事、第4拝堂巡検の事、第5院内への付届事、第6輪番諸式事、第7交代用意の事であるという。


 この『開山堂侍真条制』と『浄土院規矩』によって、現在、浄土院で行われている侍真日課の基本をなしているという。現行の祖廟浄土院侍真日課は以下の通り。
午前3時半、出定(起床)、開拝殿戸。
午前4時、 朝課
午前5時、 備御小食(大師宝前)献供作法・大黒天法楽
午前5時半、侍真小食
午前6時半、阿弥陀供一座・護国三部妙典(仁王般若・金光明・法華)読誦・大般若経読誦
午前10時、 献斎供養(大師宝前)・献茶(大師・弥陀・文殊)
午前10時半、侍真斎食
午後4時、 晩課
午後5時、 閉拝殿戸
午後9時、 入定(就床)



[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年8月)
・小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』第二巻(鈴木学術財団、1966年2月)
・小野勝年『入唐求法行歴の研究―智証大師篇―』下(法蔵館、1983年4月)
・滋賀県教育委員会編『滋賀県の近世社寺建築』(滋賀県教育委員会文化部文化財保護課、1986年3月)
・武覚超「比叡山の山修山学-浄土院の十二年篭山行を中心に-」(『日本仏教学会年報』63、1998年5月) 


比叡山延暦寺東堂西谷浄土院御廟所(平成16年11月13日、管理人撮影)



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