ウィーン12 楽友会館



174ブラームス記念像(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 ブラームス没後の1901年頃に、彼を記念した像を建てることとなり、ブラームス委員会の選定により、一旦ブラームスと親しかったクリンガー Max Klinger(1857〜1920)のデザインに決まったものの、その後周囲の激しい反対にあい、お流れとなってしまいました。

 現在の記念像はルドルフ・ヴァイアー Rudolf Weyr(1847〜1914)の作で、1908年につくられました。


175ブラームス記念像(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



176ブラームス記念像(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 ブラームス記念像のリンク・シュトラーゼを挟んで向かい側に、ブラームス第五の「聖地」、煉瓦造の楽友会館がみえます。


177楽友会館(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 楽友会館はブラームスの勤務先ともいえる場所で、1872年秋から1875年まで楽友協会の総務となり、楽友協会の管弦楽団と合唱団の定期演奏会の決定権を持ちました。総務を辞めてからも、事実上参与のような形となっていました。

 葬儀の時もブラームスの棺はカールスガッセの自宅から一旦楽友会館を経由してからエヴァンゲリスト教会に向かったほどです。

 ジョージ・ヘンシェル Sir George Henschel(1850〜1934)は次のように述べています。
 「葬列は「楽友協会」の建物の前でいったん停止。門も柱も、黒い布で覆われている。正門の両側には高い燭台が置かれ、その上には金属の受け皿。なみなみと注がれたワイン・ウォッカは点火され、神秘的な青い炎が、感情を押し殺したようにゆらゆら燃えていた。これまで巨匠の見事な指揮で幾度となく演奏した合唱協会が、天蓋の下でブラームスの美しい合唱曲〈ごきげんよう〉(Op.93a-4)を歌う。春の大気に愛らしい歌声が響く。近くの木々には、思いがけない春の到来を喜ぶ小鳥のさえずりに聞こえただろう。」(天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集1 ヨハネス・ブラームスの思い出』〈音楽之友社、2004年2月〉125頁)

 ちなみに楽友会館の小ホールは、彼の業績を記念して「ブラームスホール」と名付けられています。


178楽友会館(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 次にトラムに乗りました。反時計回りに回って北西にあるフンデルトヴァッサー・ハウスに向かいます。


179国会議事堂(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 トラムに乗るとウィーンの壮麗な公共建築物が散見されます。


180ウィーン市庁舎(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



181ヴォティーフ教会(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



182停車駅(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 フンデルトヴァッサー・ハウスはフンデルトヴァッサー Friedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser(1928〜2000)が建設した集合住宅で、この手の建築物には珍しく公営住宅なのです。


183フンデルトヴァッサー・ハウス(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



184フンデルトヴァッサー・ハウス(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



185フンデルトヴァッサー・ハウス(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



186フンデルトヴァッサー・ハウス(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 フンデルトヴァッサー・ハウスからトラムに乗って、郵便貯金局に行くためユリウス・ラープ・プラッツにて下車しました。ドナウカナル通りを西に行き、ドミニカナーバスタイ通りを南下するとドミニカ教会です。

 途中、ドミニカ教会に立ち寄りました。1226年に建立され、後に1631年から1636年にかけてバロック様式に改築され、ドームとファザードは1666年に完成しました。


187ドミニカ教会(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 ドミニカナーバスタイ通りの一つ西側の通りのポストガッセ通りには、聖バルバラ教会があります。聖バルバラ教会は東方典礼カトリック教会の教会です。

 この教会はもとは1573年にイエズス会が建てたもので、1652年から1654年にかけてバロック様式に改造されました。しかし1773年にマリア・テレジアがイエズス会解散令を出したため、東方典礼カトリック教会の教会となりました。

 オーストリア帝国は1772年のポーランド分割の際に、旧ポーランド領であったガリツィア(現ウクライナ領)を領土とし、ガリツィア・ロドメリア王国として帝国の一部に編入しました。そのため首都ウィーンにも彼らが信仰する東方典礼カトリック教会の教会を建立する代用として、聖バルバラ教会が代用されたのです。1842年には郵便局を建てるため移転する予定でしたが、結局、中央郵便局の建物に組み込まれる形で現存しました。


188聖バルバラ教会(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



189聖バルバラ教会(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)

 聖バルバラ教会は中央郵便局に取り込まれた形になっており、その裏側に位置しています。逆側(東側)のドミニカナーバスタイ通りに行って見ると、中央郵便局の正面となり、有名な郵便貯金局の裏側になります。


190ドミニカナーバスタイ通りの中央郵便局(右)と郵便貯金局(左の白い建物)(平成25年(2013)12月28日、管理人撮影)



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