ウィーン04 カールスガッセ



047ウィーン工科大学(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 再度Uバーンに乗ってカールスプラッツ駅に戻ってきました。南側にはカールス広場があり、広場を挟んでウィーン工科大学の建物がみえ、その東側にはカールス教会があります。

 カールス教会は1713年にカール6世(位1711〜40)が、ペスト撲滅を祈願して、エルラッハ Johann Bernhard Fischer von Erlach(1656〜1723)につくらせたものです。1690年代より、オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲を退けたウィーンでは、空前の建築ブームが起こっており、ペスト沈静化のためという目的がありながらも、同時代の建築ブーム、バロック様式の流行が背景となった建築物でもあるのです。

 このカールス教会は建築史的にも有名な建物で、『ヨーロッパ建築史』に「楕円形のホールに楕円形ドームを乗せるローマ・バロック的構成を示す一方で、イタリア盛期バロックだけではなく、古代ギリシア神殿のペディメントや、独立柱のオリエント情緒を喚起するミナレット風の丸屋根といったいくつもの様式を総合し、きわめて重厚な記念性を感じさせるものに仕上げられている。」(西田雅嗣編『ヨーロッパ建築史』〈昭和堂、1998年〉本田昌昭氏執筆分、172頁)とあるように、特徴的なものとなっています。


048カールス教会(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 1896年10月14日に作曲家ブルックナー Josef Anton Bruckner(1824〜96)の葬儀がカールス教会で行われています。

 ブラームスとブルックナーは楽理的に対立していましたが、ブラームスはこの葬儀に姿を見せ、中に入るよう進められた時に、「すぐに自分の番だ」と言って立ち去ったエピソードがあります。

 もっともブラームスの自宅と、ブルックナーの葬儀が行われたカールス教会は直線距離で30メートル!!

 もし葬儀に参列していなかったとしても、ブラームスの自宅(カールスガッセのアパートの最上階)から葬儀に参列する人々が見えていたということになります。ブラームスが亡くなったのは半年後の1897年4月3日のことでした。


049カールス教会(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 カールス教会の正面右側、ウィーン工科大学との間の路地を少し歩くと、第二の「聖地」である、ブラームスの家跡があります。

 ブラームスは1887年から、肝臓がんで亡くなる1897年4月3日までここにあったアパートに暮らしていました。作曲した楽譜が売れていたため、かなり裕福だったようですが、生涯独身で、かつ金に無頓着であったため晩年まで質素な生活をしていました。


050ブラームスのアパート跡(右側)(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 ブラームスの部屋について、彼の弟子グスタフ・イェンナー Gustav Uwa Jennner(1865〜1920)は以下のように回想しています。

 「ブラームスはカールスガッセ四番地の最上階〔四階〕、八号室(三部屋分)に住んでいた。入るとまず寝室に足を踏み入れる。これはお客が主人の寝室を通るのが日常茶飯事という、ウィーン風のひどい造作で、「客が恥ずかしくなければ、気にすることもない」ということらしい。ベッドの上には、J・S・バッハの肖像画。ガラス扉をぬけると、そこが質素な家具のある居間で、グランドピアノと書き物机が置かれていた。一番奥の部屋には、楕円形をした有名なシューマン夫妻の肖像画が掛かり、それにはブラームスに充てた達筆の献辞があった。それから仕事机と、壁側の書棚。通りに面する居間と書庫の窓は年中閉められ、反対側にある寝室の窓は昼も夜も開けっ放しで、そこからウィーン工科大学の本校校舎が見えた。」(天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集3 ブラームスと私』〈音楽之友社、2004年10月〉225頁)


051ブラームスのアパート跡(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 アパートはその後取り壊されてしまいましたが、それを記念するプレートがはめ込まれています。ハイドン、シューベルトなど、他の作曲家の自宅が現存するのを思えば寂しいことです。

 ブラームスのアパート跡の向かいにはピアノ店があり、店のプレートにはピアノを演奏するブラームスがあしらわれています。


052ブラームスのアパート跡のプレート(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)



053ブラームスのアパート跡の向かいにあるピアノ店(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)

 カールス教会の北東にあるウィーン・ミュージアム・カールスプラッツは、ウィーン(旧ウィーン市立歴史博物館)の歴史に関する博物館です。ウィーンの歴史とその多様性を概観できるので、ウィーンの博物館・美術館の中で、まず最初に訪れるべき場所だと思います。

 所蔵品の中には、シュテファン大聖堂のステンドグラス・彫像のほか、第二次ウィーン包囲の時のオスマン・トルコの軍旗、クリムト Gustav Klimt(1862〜1918)の「ドーラ・フルエニ=ガビヨンの肖像」「パラス・アテナ」「エミーリエ・フレーゲの肖像」「愛」が所蔵されており、ブラームス関連では、若き日のブラームスの肖像画(現在ハイドン記念館に寄託)、「赤いはりねずみ(ブラームス行きつけの食堂)」の看板などが所蔵されています。


054ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツ(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)



055ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツの図録(英語版)

 2時間ほどウィーン・ミュージアム・カールスプラッツを見学して疲れたので、近くのカフェ・ムゼウムで休息をとりました。

 カフェ・ムゼウムは1899年に建てられたカフェで、アドルフ・ロース Adolf Loos(1870〜1933)の設計になります。白壁のみで一切の装飾を廃した開放的な空間を現出しています。

 この建築は当初非難を浴びましたが、新しい芸術に共感を持った人々にとって重要な拠点となり、クリムト、シーレ、ココシュカなどが顔を出したといいます(宝木範義『ウィーン物語』〈新潮社、1991年11月〉115頁)

 ここでモーツァルト・トルテを食べました。


056カフェ・ムゼウム(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)



057カフェ・ムゼウム内部(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)



058カフェ・ムゼウムで食べたモーツァルト・トルテ(平成25年(2013)12月26日、管理人撮影)



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