等持寺



保事協会館前(京都市中京区御池通高倉上る東側)の「足利尊氏邸・等持寺跡」石碑(平成20年(2008)2月18日、管理人撮影)

 等持寺(とうじじ)はかつて京都市の三条坊門万里小路に位置した禅宗寺院ですが、現在では廃寺となっています。本尊は地蔵菩薩。もとは鳳凰山・等持院ともいい、現在の等持院の場所に位置していましたが、貞和5年(1349)頃に三条坊門万里小路に移転しました。よく現存する等持院と混同されることが多い等持寺は十刹第1位の寺格を誇りましたが、室町時代末期に廃寺となってしまいました。


等持寺前史

 現在京都市北区等持院北町には庭園で有名な等持院が位置している。この等持院は足利将軍家の菩提寺であり、山号は万年山という。この等持院は寺名(等持)や開山(夢窓疎石)・本尊(地蔵菩薩)、足利将軍家に極めて密接であったという共通性をもつ等持寺と混同されることが多い。この万年山等持院は、もとは衣笠山の山上に位置した真言宗の寺院であったが、現在の場所に移されて夢窓疎石を開山とする禅宗寺院に改められたという(『雍州府志』巻5、寺院門下、等持院)。また仁和寺の一子院であったともいい(『山城名勝志』巻之8下、等持院)、『等持院常住記録』往古伽藍絵図(今枝1970所載)によると、仏殿・方丈・僧堂・庫裏といった禅宗の建造物とならんで、歓喜天を祀る聖天堂や、弘法大師に供奉する御影堂、長講堂・願王殿(雁王殿)・観音院・春日社・稲荷祠などといった密教色の濃い建造物も甍を並べていた。この万年山等持院は記録上では「仁和寺等持院」「北等持」といい、現在では等持寺と区別するため便宜上「万年山等持院」「洛北等持院」と称されており、美しい庭園のため現在では多くの観光客が訪れる京都の名所となっている。

 さてこのコンテンツで述べる等持寺も、かつては「等持院」と称され、万年山等持院と紛らわしい。「等持官寺」「等持禅寺」といい、現在では等持院と区別するため便宜上「洛中等持寺」と称される。なおこの「洛中等持寺」も康永元年(1342)頃まで「等持院」と称され、「等持寺」と寺号で称されるようになるのはそれ以降のことになるのであるが、紛らわしいので便宜上「等持寺」と記しておく。

 等持寺の正確な開創年代は不明であるが、『空華集』によると、「等持」は旧号を鳳凰山といったが、今では「城中(京都)」にあって、山号を鳳凰山に復することはなかったという(『空華集』巻第4、詩、和答勝義中、叙)。風光明媚な庭園で知られる現存する等持院の山号は「万年山」であることから、この「等持」は等持院ではなく、等持寺をさしていることが知られる。すなわち等持寺は京都郊外にあった「鳳凰山」なる寺院を移転してきて成立した寺院であることが知られるのである。

 等持寺の開山は夢窓疎石(1275〜1351)であるが、実際の開山は古先印元(1295〜1374)であった。その古先印元は暦応2年(1339)の清拙正澄(1274〜1339)の示寂に際して祭文を記しているが、この前年である暦応元年(1338)より等持寺に住んでいたという(『禅居附録』古先和尚祭文)。このことから等持寺が移転したのは暦応元年(1338)頃とみられている(今枝1970)。等持寺が位置していた場所は三条坊門の足利尊氏邸の付近であり(『師守記』暦応2年11月26日条)、この地にはもとは浄花院(清浄華院)という向阿(1268〜1345)建立の浄土宗寺院の敷地であったのだが、幕府はこの浄花院を強制的に土御門室町に移転させ、跡地に等持寺を建立したのだという(『後愚昧記』永徳元年12月2日条)

 暦応2年(1339)7月6日に足利直義は、塩屋兵衛入道(塩冶高貞)の管轄下にあった丹波国国分寺地頭職を等持寺本尊の造立料とし、仏師院吉に造立させてい(雨森善四郎氏所蔵文書、乾〈『大日本史料』6之5所載〉)。足利尊氏は元弘・建武期の争乱において、馬上にて天下をとったが、心中では「もしわが運が開けば必ず三寺を建てん」と誓っていた。しかし国内は未だに平穏ではなく、建設もままならないことから、「寺」字が三字とも含まれる「等持寺」を寺額としたという。さらに唐の太宗の故事に倣って地蔵菩薩を等持寺の本尊とした(『翰林葫蘆集』勝軍地蔵造冑剣旛光供養)。この等持寺の寺号を尊氏の三寺建立の宿望と組み合わせたのは古先印元であり、この案に尊氏は躍り上がって喜び、古先印元を開山としたが、古先印元が関東に赴いた後、足利尊氏は等持寺を夢窓疎石に付してしまい、等持寺の開山を古先印元から夢窓疎石に代えてしまい、古先印元を第2世としてしまったという(『月舟和尚語録』巻5、慈照院殿三十回忌陞座、散説)

 この間の事情は若干複雑であるから、次に古先印元の伝とともに、等持寺開山変更事情についてみていこう。


等持院(平成20年(2008)2月18日、管理人撮影)

記録から抹消された開山

 等持寺の開山は夢窓疎石ということになっている。しかしながら、夢窓疎石が等持寺の開山となるよりも前に、古先印元が等持寺の開山となっているのである。古先印元には足利尊氏の弟直義が帰依しており、尊氏・直義兄弟の関係が蜜月であった時には、古先印元も足利尊氏の信任を得ていたのであるが、観応の擾乱で兄弟が対立し、弟直義が失脚すると、直義が帰依した古先印元は等持寺の開山を事実上追放されてしまい、京都を去って鎌倉へ行き、二度と京都に戻ることはなかった。さらに禅宗界で勢力を拡張しつつあり、かつ足利尊氏の帰依を受けていた夢窓疎石に、半ば一方的に後継者に目されていたなかで、夢窓派ではなく幻住派の法を嗣ぐことを表明して夢窓疎石との関係を絶ってしまい、古先派の門徒達は夢窓派に併呑されてしまうことになる。

 古先印元の伝記には、古先印元の法嗣の等宣・等演が古先印元の行状について略記したものを、古先印元と旧交があった石室善玖(1294〜1389)のもとに持ち込み、石室善玖が永和2年(1358)2月上旬に書き上げた『古先和尚行状』がある。この『古先和尚行状』は『続群書類従』9下に翻刻されている。以下それを中心にみてみる。

 古先印元(1295〜1374)の俗姓は藤原氏で、薩摩国(現鹿児島県)の人である。示寂後には「正宗広智禅師」の勅諡を賜っている。6歳の時に親元を離れて相模国(現神奈川県)円覚寺の桃渓徳悟禅師(1240〜1306)の弟子となり、剃髪して桃渓徳悟の左右に侍ること6年におよんだ(『古先和尚行状』)

 嘉元3年(1305)古先印元12歳の時、桃渓徳悟が示寂した。文保2年(1318)24歳の時、海を渡って入元し、直ちに天台華頂峰頂に登って無見先覩禅師(1265〜1334)のもとに参禅して数ヶ月間心法を諮問したが、機縁はかなわなかった。しかし無見先覩は古先印元の奮励ぶりと敏慧さを憐れんで、天目山幻住庵の中峰明本国師(1263〜1323)を紹介した。中峰明本は古先印元に法語数則を示した。古先印元は堂門から出ずに修行に励んだ(『古先和尚行状』)

 5・6年の歳月を経て古先印元は中峰明本のもとを去り、金陵(江蘇省南京)鳳台山の保寧寺の古林清茂禅師の法席に学び、雪隠(せっちん)の事(便所掃除をする持浄の職)を領した。ここでは了庵清欲(生没年不明)・仲謀良猷(生没年不明)・南山(東明)慧日(1272〜1340)・大道□蹊(生没年不明)・竺仙梵僊(1292〜1348)と莫逆の友となって往来し、みな契過忘年の交誼があった。さらに多くの禅師のもとに歴参した。また呉松曹渓の真浄寺の清拙正澄禅師のもとに到った。清拙正澄は日本の北条氏より招聘され、北条氏の要請に応じるため日本へ向う船に乗ろうとした。この時古先印元は清拙正澄の見送りのため海岸にやって来ていたが、清拙正澄は古先印元の姿を認めると、古先印元を船に同乗させて日本に連れて行こうとした。古先印元は本国に帰らない誓いをしていたため固辞したが、清拙正澄の再三の要請のためやむをえず、日本に戻った(『古先和尚行状』)

 嘉暦2年(1327)清拙正澄が鎌倉の建長寺の住持となると、古先印元は蔵主(ぞうす。禅寺の大衆の閲蔵看経をつかさどる)となり、冬に秉払(ひんぽつ。法座を開き、払子を持ちながら説法すること)した。延元4年(1339)古先印元43歳の時、天竜寺の夢窓疎石の斡旋によって甲斐国(山梨県)慧林寺の住持となった(『古先和尚行状』)。夢窓疎石と古先印元は、ともに当初は桃渓徳悟の弟子であり、このことから夢窓疎石は20歳年下の古先印元に自身の法を嗣いでもらいたかったとも考えられている(玉村1958)実際、暦応2年(1339)11月15日に夢窓疎石は、等持寺の古先印元を自身の代わりとして天竜寺造営の大勧進としている(「天竜寺造営記録」鹿王院文書)。しかし古先印元は入元した際に参禅した中峰明本の法を嗣ぐことを表明してしまい(『古先和尚行状』)、以降、古先印元と夢窓疎石の関係に大きな影響を与えることとなる。

 延元5年(1340)古先印元は等持寺の住持となっている(『古先和尚行状』)。前述の通り、実際にはその2年前の暦応元年(1338)の段階では古先印元は既に等持寺に居住している。等持寺を開創したのは足利直義で、彼が教寺(禅宗以外の寺院)あった等持寺を禅寺に改め、古先印元を開山に迎えたという(『宋文憲公全集』巻20、日本建長寺古先原禅師道行碑)。貞和元年(1345)8月29日の天竜寺供養では夢窓疎石が御導師となり、請僧十口の一人として真如寺の古先印元がみえる(『園太暦』貞和元年8月29日条)。このことから古先印元と夢窓疎石との関係はこの時点では決定的な対立をみせていない。

 貞和3年(1347)53歳の時には真如寺に遷り、しばらくもしないうちに再度等持寺の住持となった。足利尊氏は建長寺の住持職が空席になったため、建長寺の住持に古先印元を招聘したが、古先印元は固辞して同門の無隠元晦(?〜1356)に譲った。貞和6年(1350)56歳の時、京都万寿寺や相模国浄智寺に遷った。同年8月には檀越の藤原某が陸奥国の普応寺を建立したが、古先印元を開山第一世に招聘した。また安房国(千葉県南部)の律宗寺院であった天寧寺を禅宗寺院とした(『古先和尚行状』)。この頃勃発した観応の擾乱(1350〜52)による幕府内部の対立は、直義の帰依を受けていた古先印元の立場に大きな影響を与えることとなった。観応の擾乱に敗れて足利直義は鎌倉に退いていたが、観応2年(1351)冬に中巌円月(1300〜75)と無文元選(1323〜90)は、古先印元を訪れてから足利直義のもとに参謁している(『仏種慧済禅師中岩円月和尚自暦譜』観応2年条)。このことは古先印元と足利直義が観応の擾乱以降も極めて密接な関係を保っていたことを示している。この数ヶ月後に直義は暗殺されてしまい、古先印元は有力な後ろ盾を失い、かつ禅宗界で最も足利尊氏に近い夢窓疎石の後継者となることを蹴ってしまったため、等持寺開山の資格を剥奪されてしまい、二度と京都に戻ることはなかった。

 延文3年(1358)64歳の時、鎌倉公方の足利基氏(1340〜67)は長寿寺を建立し、古先印元を開山祖師とした。延文4年(1359年)65歳の時には鎌倉円覚寺の住持となり、幾ばくもしないうちに鎌倉建長寺の住持となり、東庵(とうあん。前住持との居るところ)として広徳庵を造立した。古先印元は檀越達の要請によって丹波国(京都府中部・兵庫県北東部)の願勝寺・信濃国(長野県)盛興寺・武蔵国(東京都)正法寺・摂津国(兵庫県南東部・大阪府北部)宝寿寺の開山にもなっている(『古先和尚行状』)

 古先印元は晩年、自身が開山となった鎌倉長寿寺に住み、参禅してくる者達を倦まずに指導した。平生の応酬の語句は、さらに彫虫篆刻の体はなく、一実に最も高古朴略の風を慕ったという。応安7年(1374)正月20日、微病となったが、談笑することは平日のようであった。同24日午刻(午前11時頃)筆をもとめて自身が示寂した後の行事や遺誡や心印大字を書き、筆をなげうって逝去した。享年80歳。遺骸は長寿寺の曇芳庵に葬られ、その塔を「心印」といった(『古先和尚行状』)。法嗣には友峰等益・東曙等海・照中等暾・中和等睦・本禅等択・竺西等梵がいる(『正宗広智禅師語録』中峰一派東流略図)


鎌倉建長寺の法堂(平成17年(2005)1月17日、B氏撮影)。古先印元は建長寺法堂にて秉払した他、建長寺住持となり、退去寮広徳庵を営むなど、建長寺との関係は深い。

足利将軍家家刹から官寺への転換

 等持寺は康永元年(1342)まで「等持院」という名称で呼ばれていたが、同年を境として寺号に変更されるようになる。前述したように、この寺号を考えたのは古先印元であり、古先印元は等持寺の開山として等持寺の運営を担うことになる。しかし足利直義の失脚にともなって古先印元も等持寺を去ると、古先印元は開山からはずされ、夢窓疎石が等持寺の開山となった。さらに等持寺は天竜寺の末寺となり、等持寺の住持職は夢窓門徒のみの独占の度弟院寺院となってしまった。

 永和3年(1359)9月8日には足利義満によって等持寺は十刹第1位に列せられた(『花営三代記』永和3年9月8日条)、同21日に等持寺が十刹第1位となることは沙汰止みとなっている(『花営三代記』永和3年9月21日条)。康暦元年(1379)9月21日に幕府は等持寺の申請のままに等持寺を準十刹としている(『空華日用工夫略集』永徳2年5月5日条)。康暦2年(1380)の足利義満による十刹制度の改変においては、等持寺は十刹第1位に昇格している(『扶桑五山記』2、十刹)。その4年後の至徳元年(1384)に京都十刹が定められた際にもやはり十刹第1位に列せられている。

 万年山等持院には「等持寺絵図(等持寺古図)」が現存しており、在りし日の等持寺の伽藍を窺い知ることができる。同図は『大日本史料』6之5、今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)、『京都・激動の中世』(京都文化博物館、1996年)、冨島義幸「等持寺仏殿と相国寺八講堂-顕密仏教空間としての評価について」(『仏教芸術』273、2004年3月)などに掲載されている。それによると、東西に若干長い正方形をした伽藍敷地は、一辺の長さが20丈(60m)であった。南東に仏殿があり、南西の小御所と廻廊で連結する。伽藍の中央部には僧堂・観音殿があり、それぞれ廻廊にて仏殿と連結する。観音殿の北には方丈があり、観音殿と廻廊で連結するが、観音殿と方丈の東には苑池がある。北西部には東司・庫院などがある。北東部には鎮守前並松があり、伽藍から北方に突き出した形で鎮守の天神がある。このように等持寺伽藍には法堂がなく、三門・仏殿・法堂が中軸線上にならぶ禅宗寺院に典型的な形式とは異なっている(冨島2004)。また開山塔を妥帖庵、小御所を清晏斎、観音殿を宝雲閣、八講堂を宗鏡堂といったという(『扶桑五山記』2、十刹位次)



御所八幡宮(平成20年(2008)2月18日、管理人撮影)。等持寺跡の御池通をはさんた南側に位置する。かつて足利将軍家の御所にあったから、「御所八幡宮」と称されたという。

等持寺八講

 等持寺は禅宗寺院として建立されたが、その一方で足利尊氏自身の信仰から地蔵菩薩を本尊とするなど、密教的要素が強かった。そのようななかで足利将軍家の家刹であった等持寺には「法華八講」あるいは「武家八講」と称される法会が定期的に実施された。その始めは暦応2年(1339)9月1日、足利直義は法華八講を等持寺にて修し、父貞氏の冥福を祈っているのが初見である(『師守記』暦応2年9月1日条)。また法華八講ではないが、同年11月26日に足利尊氏は後醍醐天皇の崩後百箇日にあたることから、曼荼羅供を等持寺にて修している。この時導師を行なったのは隨心院僧正であったという(『師守記』暦応2年11月26日条)。この法華八講の特徴としては、足利将軍家ゆかりの人物の忌日法会としての役割を果たしており、等持寺が足利将軍家の家刹としての役割を担っていたことを示している。また八講の主体となったのは禅僧ではなく、醍醐寺をはじめとした密教僧がこれを執り行っていたことである。

 この法会は等持寺の仏殿で行なわれていたが、仏殿の規模は桁行7間、梁行5間という巨大なもので、内陣だけでも桁行5間、梁行4間という巨大空間を有していた。また仏殿は、禅院建築よりもむしろ住宅建築に近かった。これについては、幕府が公家に准じて顕密仏事を行なうため、その会場となった内裏・仙洞や院家建築に倣ったものと解釈されている(冨島2004)

 永徳2年(1382)に将軍足利義満は室町殿の近隣に相国寺を建立した。相国寺は幕府と宗教政策において密接な位置を占めるとともに、等持寺が持っていた足利家菩提所という性格を奪い取ってしまい、等持寺の幕府における重要性は相対的に低下した。


相国寺法堂(平成16年(2004)11月10日、管理人撮影)

等持寺のその後

 応永27年(1420)4月21日、李氏朝鮮の使節として京都に来た宋希ケイ(王へん+景。UNI749F。&M021246;)(1376〜1446)は等持寺にて魏通事天の出迎えを受け、魏通事天の家にて接待されたが、にわかに将軍の命令によって、経典や礼物は等持寺に入れ置き、官人(宋希ケイ一行)は深修庵に行くこととなり、宋希ケイは憤慨している(『老松堂日本行録』21日入王部落宿魏通事天家所詠および23日深修庵書懐2首)

 文安3年(1446)正月16日、等持寺は全焼したが(『師郷記』文安3年正月16日条)、翌文安4年(1447)4月13日には等持寺の僧堂の立柱・上棟が行なわれている(『康富記』文安4年4月13日条)。さらに文正元年(1466)12月27日には勘解由小路富小路の味噌屋に放火され、その近所がことごとく焼失したが、等持寺・秋野道場・林光院なども焼失してしまった(『尋尊大僧正記』文正元年12月28日条)。延徳2年(1490)3月10日には等持寺仏殿の立柱・上棟が実施され(『蔭涼軒日録』延徳2年3月10日条)、同年5月21日には等持寺仏殿の立柱諷経が行なわれ(『蔭涼軒日録』延徳2年5月21日条)、同年8月29日には等持寺仏殿の再建が完了している(『蔭涼軒日録』延徳2年8月29日条)室町時代末期の等持寺の様子は、「洛中洛外図屏風」上杉本・旧町田家本などに描かれている。

 等持寺が廃寺となった時期はわかっていないが、天正11年(1583)正月20日に京都奉行の杉原家次は。、等持寺領ならびに敷地の事について、蔭凉軒勤西堂の競望を退けて、従前通り等持院に安堵されている(等持院文書〈『大日本史料』11編3冊〉)ことから、この頃までに廃寺となっていたらしい。



[参考文献]
・『京都府史蹟勝地調査会報告』3(京都府、1922年3月)
・玉村竹二『夢窓国師』(平楽寺書店、1958年10月)
・『群書解題』4下(続群書類従完成会、1967年6月)
・今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・堀川貴司「「等持院屏風賛」について (中世文学史の現在)」(『国語と国文学』69(5)、1992年5月)
・冨島義幸「等持寺仏殿と相国寺八講堂-顕密仏教空間としての評価について」(『仏教芸術』273、2004年3月)


京都市中京区御池通高倉上る東側付近(平成20年(2008)2月18日、管理人撮影)。この付近が等持寺がかつて建っていた場所にあたる。



「京都十刹」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る