大日寺跡



大日院跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 大日寺(だいにちじ)はかつて沖縄県那覇市首里金城町3丁目に位置(外部リンク)した真言宗寺院です。開山は頼慶。山号は東松山。頼慶の首里城への儒学講義に際して、遠路であることを憐れんだ国王が建立させた寺院です。明治頃に廃寺となりました。


大日寺頼慶

 大日寺開山の頼慶(生没年不明)は人となりは幼い頃より聡く、若くして日本に留学して修行に精進し、密法の奥旨を受け、両部の源底を受け、儒学を学び、帰国して東寿寺(那覇市久米2丁目にあった寺院)に住した(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、東松山大日寺)

 頼慶の日本留学の目的は密教を本義としていなかったらしく、崇禎8年(1635)に尚豊王(位1621〜40)は高応寺の頼慶を遣わして日本に到らしめ、垂跡の三神を求めた。その時、祝部として天願筑登之親雲上は頼慶和尚に従って鹿児島に赴き、佐藤権大夫に要請して神道一統を伝授された。頼慶和尚が帰国すると波上宮を再興したという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)。このように頼慶は神道を学ぶために留学しており、しかも垂迹の三神を求めていた。

 このような一環で頼慶は留学中、儒学に触れる機会があったらしく、帰国後は儒・仏・道を兼学したという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、東松山大日寺)。儒・仏・道は「三教」と称され、兼学の要目であったが、実際に頼慶は仏教・儒教・神道を学んだ形跡はあるものの、道教を学んだ形跡はない。この記述は単に「三教」を表すための語であって、実際に兼学していたのは道教ではなく神道であったとみられる。室町時代には「儒・釈・神の三教の学をして室とするなり」(『興福寺官務牒疏』勘録、興福寺末寺派寺社疏記)いう考えもあったから、単に三教兼学を意味したようである。

 尚質王(位1648〜68)は頼慶に詔して、儒学を講義させた。頼慶は遠路から日々参内していたから苦労であろうと思われ、順治年間(1644〜61)、寺院と大日如来堂が建立された。さらに頼慶には一生、切米15斛を賜った(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、東松山大日寺)。頼慶は他にも臨海寺(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺、住持次第)、護国寺(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、住持次第)の住持を務めている。

 大日寺は「首里古絵図」によると、首里城の南に位置し、直線距離にして数10mの地点であった。現在の地名でいうところの首里金城町3丁目となる。大日寺は明治期にはすでに廃寺となっている。


[参考文献]
・沖縄県教育委員会文化課琉球国絵図史料集編集委員会編『琉球国絵図史料集第三集-天保絵図・首里古地図及び関連資料-』(榕樹社、1994年3月)


金城町の石畳道(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)。ここを登って東に100mほど行くと大日寺跡につく。



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