護国寺



護国寺山門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 護国寺は沖縄県那覇市若狭1255に位置(外部リンク)する高野山真言宗の寺院です。山号は波上山で、奥に位置する波上宮の神宮寺です。現在まで存続している寺院としては、沖縄で最も古いといわれています。


波上宮

 波上宮が鎮座する地は、海に琉球石灰岩の崖が突き出しており、現在は自然海岸が近くまで堆積しているが、古くは崖のみが海に突き出す地であった。ここには波上洞穴遺跡もあり、古くからの信仰地であった。

 波上宮は三所権現で、日本の熊野三所権現を勧請したものであるという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山権現縁起序並真言宗由来事)。その垂跡(神体)は八角の水晶であるという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山三所権現縁起)。本地仏は阿弥陀・薬師・観音である(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山権現縁起序並真言宗由来事)、いずれも開山日秀の自作である(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山三所権現縁起)


 波上宮の縁起は以下の通りになっている。
 昔、南風原間切の崎山村に崎山里主なる者がおり、常に釣や漁を好み、日々海や渚に行っていた。ある時、後ろから呼ぶ声があったため振り向いてみると無人であり、その辺にはただ異石があるだけであった。崎山里主はこの石から声が出たものと思い、そのため高所に安置した。祈って、「もし神霊であるのなら、私の今日の魚釣りは思い通りにさせて下さい」と言った。するとその日は大漁で、喜んで家に帰った。その後も祈ると度々霊験があった。ある夜、石のあたりに光があった。霊石だろうと思って、持ち帰って崇めた。時にこの国の諸神がこの石を奪おうとしたため、家にこの石を隠したが、害されることを恐れて、遂に石を抱いて村を出て北に去った。諸神は許さずこれを追ったが、さりとても崎山里主の志は堅く、その霊石を棄てず、遂に波上山に至った。たとえ死んだとしても他に行くべきではないと決意したが、ここに到って諸神は奪おうとすることを止めた。その時神託があって、「私は日本熊野権現である。お前は縁があるからこの地に社を建てなさい。そうすれば国家を守護するだろう」といった。これによって王家に奏上して社を建てた(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)

 ある日鳧鐘(梵鐘)が波の上より浮んで来た。鐘を撞けば、その音は波上山(なんみんさん)といった。そのためこの鐘を崇めて神殿に安置した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)。この鐘は朝鮮鐘で、顕徳3年(965)在銘であり、明治40年(1907)に国宝、昭和13年(1938)に重要美術品の指定を受けたが、沖縄戦で破壊され、龍頭などの残欠を残すのみになっている。現在は沖縄県立博物館に保管される。その他にも成化6年(1470)銘の天界寺の鐘も波上宮の拝殿に安置されており(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、鐘銘)、この鐘はさらに波上宮から金武観音寺に移された。戦争で紛失したが、戦後、金武の山中で再発見され、観音寺に納められた。


沖縄戦焼失以前の波上宮(坂口総一郎『沖縄写真帖』第壱輯〈1925年2月〉20頁より転載)



波上宮(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

護国寺の創建と日秀

 護国寺は察度王(位1350〜95)の代に建立されたものであるという。開山の頼重法印は洪武17年(1384)8月21日に入滅しているが、第2世以降数百年にわたって記録がないため、住持の世代は何世になるか明らかではなかった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山権現縁起序並真言宗由来事)

 護国寺の本尊は虚空蔵菩薩で、建立のされた時から安置されていたと、『琉球国由来記』は推測しているほか(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、、波上山三光院護国寺)、愛染明王像も護国寺建立の時に安置されたという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、波上山三光院護国寺)

 護国寺・波上宮の発展は日本僧日秀(1503〜77)によって成し遂げられた。日秀については「観音寺」で略記したから、参照されたい。

 嘉靖元年(1522)に日本の僧侶日秀上人が琉球に来て、波上宮を再興した、阿弥陀・薬師・観音を自刻し、波上宮に安置した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)。その銘文には「熊野三社大権現を建立し奉る。御本地三尊形像は、嘉靖21年(1542)4月吉祥日よりこれを始める。同23年(1544)12月7日、三仏像を一身一手一刀して作り、成就し奉る。」とあり、「日本上野国の住侶、渡海行者広大円満無礙大悲大願の日秀上人、随縁正衆千松々子、大明嘉靖23年甲辰(1544)12月大吉日、敬白」とあった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)

 日秀の波上宮・護国寺での活動は、仏像造立事業から、末社建立と幅広く展開していた。嘉靖3年(1524)には日秀が真言の本有素性の阿字(梵字)を記するために大日如来堂を建立している。この大日如来堂はもと日秀の庵地であり、海辺にあったというが風雨のため破壊されたため、康熙36年(1697)に住持頼賢和尚が地を移して石堂を勧請した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、末社)。嘉靖2年(1523)に日秀は水土の恩にむくいるため開聞山正一位権現を勧請している(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、末社)

 また護国寺には弁財天対面石なる石があり、護国寺の門外の路上に、まるく囲まれた石があり、「対面石」と名づけられた。昔日秀が七ヶ日毎夜、弁ヶ嶽の弁財天に参詣しようとすると、その次の日の夜から弁財天が垂跡して石の上に立ち、日秀と対面密契した。そのためその場を名づけて「対面石」といったという。囲んだ石は、順治子丑年(1660・1661)の間に囲んだものである(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、末社)

 護国寺には多くの仏像が戦前まであり、それぞれの由来が『琉球国由来記』に記されている。
 「飛地蔵」と名づけられた地蔵菩薩像は嘉靖年間(1522〜66)、日本の薩摩国川内郡(現、薩摩川内市)の大平寺(泰平寺)の本尊であったが、この地に縁があって、波上山に飛来した。時に尚円王(位1469〜76)は夢中で霊験があり、そのため勅を賜い、今にいたるまで毎月御穀を行なった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、、波上山三光院護国寺)
 不動明王は、本来は神徳寺の本尊であったが、康熙24年(1685)、護国寺住持の頼久和尚が尚貞王(位1669〜1709)のために日護摩を修していた時、本尊を始めて勧請した。金伽羅・勢多迦の脇立2像がある(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、、波上山三光院護国寺)
 弘法大師像は、康熙13年(1674)に前住持の頼昌法印の門中の衆が造立した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、、波上山三光院護国寺)
 石造の仁王2像は康熙35年(1696)に住持の盛海和尚が王家に奏上して造立した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、、波上山三光院護国寺)

 日秀が建立したもの以外にも鎮守・末社があった。荒坂堂は社の後地にあり、権現の守護霊神と位置づけられた。昔、崎山大屋の子が一生奉敬したため、今にいたるまでその末裔が祭祀していたという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、末社)
 また什物は仏像のみならず、仏画にも及んでおり、釈迦涅槃図1幅・両界曼荼羅2幅・八相図8幅・熊野権現縁起3巻があった。
 釈迦涅槃図1幅と両界曼荼羅2幅は、前住持頼慶和尚の私物であったが、順治18年(1661)9月に王家に奏上して護国寺の公物とした。俗伝によると、朝鮮国の絵師の描いたものであるという(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、釈尊涅槃像壱幅両界二幅)
 また八相図8幅は頼昌法印が住職であった時、奏上して調達したものである。日本洛陽(京都)の絵師が描いたものである(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、八相八幅)
 熊野権現縁起3巻は、文明9年(1477)2月21日に博多の茂家なる者が施主となって制作されたものであるが、のちに嘉靖41年(1562)6月、琉球の三司官の浦襲大臣・池城大臣・沢子大臣、および座主宥厳が護国寺に納めている(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、熊野権現縁起)。博多の茂家なる人物は、博多商人と思われ、博多商人がつくらせた「熊野権現絵巻」が80数年の時をへて国際貿易港となっていた琉球の那覇まで運ばれ、護国寺に寄進されたことは興味深い(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、熊野権現縁起三巻)


沖縄戦焼失以前の波上権現本地仏(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』〈岩波書店、1982年10月〉116頁より転載)

 護国寺は察度王時代の頼重が開創したとされ、嘉靖年間(1522〜66)には日秀によって大きく変容したが、嘉靖年間以前の様相はわかっておらず、そのため護国寺の実質の開山は日秀であるとみなす説もある。

 護国寺は嘉靖27年(1548)4月8日示寂の頼玖以降、芸瑜和尚・宥増和尚・快勢和尚・宥厳和尚・頼雄和尚・頼元和尚・快雄和尚 頼雄和尚 秀意和尚・頼慶和尚・頼意法印・尊盛和尚・有盛和尚・頼昌法印・頼久和尚・盛海和尚・頼賢和尚・頼遍法印・頼真和尚・頼峰和尚・頼雄法印・心海和尚・覚遍和尚が住持を務めており、覚遍和尚で第25世と数えており、時に康熙52年(1713)11月のことであった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、住持次第)


 護国寺が琉球の真言宗寺院の頂点にたつなど、飛躍したのは17世紀になってからのことである。万暦37年(1609)の薩摩の琉球侵攻によって、琉球は薩摩の掣肘下に置かれたが、そのため薩摩で深く信仰された真言宗が大きく宗勢を伸張させ、神社の別当寺にすぎなかった寺院は、次々と官寺となった。これらの真言宗寺院の官寺はいずれも護国寺の末寺となり、以後、護国寺は琉球における真言宗寺院の頂点に立つ。貞享5年(1688)に護国寺が薩摩国大乗院に送った符牒によると、護国寺は大乗院の末寺であり、護国寺の末寺として、臨海寺神宮寺徳寺観音寺神応寺万寿寺聖現寺があった(『三国名勝図絵』巻之4、薩摩鹿児島郡、鹿児島之3、仏寺之1、経囲山宝成就寺大乗院、琉球国真言寺符牒)。康熙31年(1692)に護国寺住持の盛海和尚が王朝に奏達して伽藍を司る役職である知事僧が設置された。快忠がその初代となった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、知事僧)

 護国寺の知行石は、康煕58年(1719)の段階で毎年米40石を支給されていた(『中山伝信録』巻5、僧禄)。さらに乾隆元年(1736)の段階で50石となっていた(『寺社座御規模』)。乾隆元年(1736)紫衣僧で、円覚寺・天王寺・天界寺・護国寺・臨海寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僧1人には米9升、従僕1人には雑穀9升を給付した(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。護国寺には菜園地があり、波之上の前原山に畑2畝4歩を所有した(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、菜園地)

 崇禎6年(1633)6月、波上宮は突然灰燼と化した。この前日に住持の頼雄和尚は特に思うこともなく、前日に三尊を寺に安置していたから、三尊は火難から免れることができた(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)
 崇禎8年(1635)に尚豊王(位1621〜40)は高応寺の頼慶(のち大日寺開山)を遣わして日本に到らしめ、垂跡の三神を求めた。その時、祝部として天願筑登の親雲上は頼慶和尚に従って鹿児島に赴き、佐藤権大夫に要請して神道一統を伝授された。頼慶和尚が帰国すると波上宮を再興しており、そのことは梁棟文(棟札)にみえるとある(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)

 波上宮は甲子祈念(かっしきねん、正月の甲子日に行なわれる祈祷)の日に間接的に関わっており、王家の行事と一体化した。御甲子御祈念の当日には、七社の祝官はみなその年歳徳あるところの神社に集まり、同じく神楽三座を行なったが、とくに波上宮の祝官はその時の仏餉を国王に献上した(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)

 尚貞王の時康熙辛亥(1671)12月8日から、12月吉辰を選んで、真言僧は皆、西殿に集まり、二夜三昼にわたって壇を設けて経を読み、国家の安泰を祈った。その中日には国王が西殿に行幸した。もしその日が番日(ばんのひ)・番半日(ばんなかのひ:琉球の法司官以下の官員は、すべて三番に分かれており、その番に当たると、番半の日に出仕して、小朝の礼を行う)に相当していた場合は、国王は下庫理(しちゃぐひ。国王が政務を執る場所)に行幸して、僧らに朝廷を見聞させた。しかし乾隆元年(1736)から護国寺仏名会に一本化することとなった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。かつては毎年正月・5月・9月の3ヶ月は、吉日を選んで護国寺の知事僧に、首里城の大台所の竃神を祭祀させてるため、壇を設けて祭品を供えて経を読ませていたが、乾隆2年(1737)からその祭礼を廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。また国殿を重修(修築)する際、銅匠に不動明王の金像をつくらせ、完成するや聖家僧(真言宗の僧)が壇を設けて経を読み、札と不動明王像を梁の上に貼っていたが、この年不動明王像を撤去した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)


 嘉慶8年(1803)波上宮が大破したため修築した。波上宮は、もとは三社にわかれていたが、大風に遭えば壊れやすいため、宮一軒を改造し、三欄にわけて明神を奉安することとした(『球陽』巻之19、尚成王元年条)

 護国寺には景泰7年(1456)鋳造の大安寺の鐘が安置されていたが、ペリーが琉球に来航した時、アメリカに寄贈され、現在はアメリカのアナポリス海軍兵学校に現存する。戦後この鐘の複製が琉球大学に送られたり、鐘自体が一時帰国したこともある。

 琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時護国寺は給与総額は3,148円16銭、うち国債証券額は3,100円で、総額は他の寺院と比して最も高かった。国債証券の利子は年5分利で、給与総額の中50円未満は現金で支払われた。各寺院は証券の利子によって運営されることになった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、明治23年(1890)1月29日に波上宮を官幣小社に列する内務省告示が出されている。波上宮は境内地は399坪、国債証券額が1,200円とされた(島尻1980)。波上宮は大正12年(1923)に日本本土のように神明造の建築様式に建替えられている。

 護国寺は沖縄戦で山門を残して全焼した。当時の住職名幸芳章は戦時中海軍に召集され、復員後に沖縄民政府に勤務しながら護国寺復興をめざした。名幸芳章は終戦直後の労苦を以下のように述べている。
「法衣も袈裟も珠数(数珠)もなく米軍支給の軍服のまゝであったが、次第に生活が落ちついてくるに従って、そろばん玉の焼け残りを拾って珠数を作ったり、配給された緑色の蚊張で法衣を作り自転車のベルで打ち鳴らしの鐘に使用したりした。一九四六年八月になって日本疎開中の人々が帰り始めると、女の丸帯で袈裟を作り、紋付羽織を法衣に仕立て直したり、紙にみ仏の名を書いてそれを弾薬箱で作った仏壇に安置してお経をあげると云う有様であった。」(名幸1968)

 護国寺は1947年5月に開南地区の沖縄刑務所官舎跡にバラック造りで再建したが、1952年にハワイうるま婦人会の援助により、もとの場所に再建された。この当時の住職名幸芳章は、1949年に大典寺住職藤井深忍とともに沖縄に残存する遺骨収集運動を展開、1950年には藤井深忍とともにキリスト教連盟と手を結んで沖縄平和連盟を結成。1952年10月には藤井深忍とともに大阪・京都・奈良方面の縁故寺院・大本山を訪ね、沖縄仏教の実情を伝え、仏像22体、法衣・袈裟・経典・仏具を請来し、1953年には対馬丸の慰霊碑「小桜の塔」が建立の指揮をとるなど、社会的活動を積極的に行なった。1955年12月には再建本堂が落成、さらに1968年には初の沖縄仏教通史である『沖縄仏教史』を出版した(名幸1968他)

 名幸芳章はその後も活動を続け、信徒会「一日会」や、1969年頃に日本ボーイスカウト沖縄県連盟発足させた。昭和48年(1973)に現住職が晋山(住持になること)したが、その後もまた小冊子『沖縄の迷信と仏教』『沖縄の迷信』『新沖縄年中行事』を発行し、昭和56年(1981)に『沖縄の迷信』(月刊沖縄社)を出版するなど、精力的に活動したが、平成5年(1993)1月30日に遷化した。

 昭和48年(1973)に現住職が晋山しているが、昭和50年(1975)に現在の本堂・納骨堂・書院(講堂)が完成、昭和60年(1985)に庫裏を建て替えている。現住職もまた先代同様に多くの活動を行なっており、沖縄県仏教会元会長・沖縄県教誨師会元会長・沖縄ゆうなの会(旧ハンセン病予防協会)元会長などを歴任、平成6年(1994)に山門を建て替え、護摩堂の新設し、平成18年(2006)4月に父の著作『沖縄仏教史』の復刻版発行を発行、同年12月に本堂内陣の全面的改修工事を完了した。


[参考文献]
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・葉貫磨哉「琉球の仏教」(中村元他編『アジア仏教史 中国編W 東アジア諸地域の仏教〈漢字文化圏の国々〉』佼成出版社、1976年3月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝(本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・原田禹雄『郭汝霖 重編使琉球録』(榕樹書林、2000年10月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会)
・根井浄『観音浄土に船出した人びと 熊野と補陀落渡海』(吉川弘文館、2008年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月) 


[参考サイト]
「波上山 三光院 護国寺」
(護国寺の公式HP)
http://w1.nirai.ne.jp/njm/index.html


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☆平成23年(2011)3月30日追記☆

 護国寺さまからのご教授により1968年以降の護国寺の様相をUPし、公式HPをリンクしました。


更新日:平成22年(2010)3月30日
最終更新日:平成23年(2011)3月30日


護国寺本堂(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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