慈眼院



慈眼院(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 慈眼院(じげんいん)は沖縄県那覇市首里山川町3丁目眼に位置(外部リンクする臨済宗妙心寺派の寺院で、首里観音堂と通称されています。首里城の玄関口、守礼門から西にのびる綾門大道(あいじょーうふ。現県道50号線)の延長線上、県道29号線と交差する地点に位置しています。山号は万歳嶺。万暦45年(1617)に徳庵を開山として観音堂とともに建立されました。琉球処分の後、慈眼院は廃寺となったので、観音堂が慈眼院の名称を引き継ぐ形となりました。沖縄戦で焼失しましたが、戦後間もなく復興して現在に至っています。


慈眼院の建立

 慈眼院が位置した万歳嶺は、小高い丘陵であり、その西にある官松嶺(下ミヤキジナハ)に対称して上ミヤキジナハともいった。弘治10年(1497)に建立された碑「万歳嶺記」によると、「万呼の義を取る」とあり、さらに漢の武帝が嵩山にて封禅の儀を行なった際に万歳が三度聞えたという故事を引用するとともに、封禅の儀が秦によって始められたことを文飾する(「万歳嶺記」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。すなわち封禅の儀が行なわれた嵩山と、万歳嶺を対称させて、万歳嶺を嵩山に擬していることになる。


 万暦37年(1609)、琉球は薩摩の島津氏による侵攻を受け、降伏。国王尚寧王(位1589〜1620)は虜囚となり、鹿児島・江戸へと抑留された。万暦39年(1611)に琉球に帰されたが、以降琉球は薩摩に服属することとなる。
 万暦39年(1611)に薩摩への人質として金氏摩文仁親方安恒が抑留され(蔡鐸本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚寧王、万暦39年条)、以降薩摩に対して二心がないことを示すため、数人の人質が薩摩に送られた。これを「国質(くにじち)」という。さらにより高位の人質が送られることとなり、万暦44年(1616)に10年を期間とした人質として佐敷王子朝昌こと尚豊が薩摩に抑留された(蔡鐸本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚寧王、万暦44年条)。尚豊は首里尚家の人物で、尚久(1560〜1620)の第4子である。尚久は尚元王(位1556〜72)の第3王子であったから、尚豊は尚元王の孫にあたる。

 尚豊の父尚久は実子が薩摩にいるため、誓いをたて、「こい願うところは、わが愛子尚豊があれこれ便を得て、始終幸があり、速やかに帰国したならば、私は尚豊に命じて、この嶺の半分を開いて新たに観音大士堂を構え、崇敬いたします」といった。この感にこたえて、その冬の11月、つつがなく帰国した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万歳嶺慈眼院、万歳嶺慈嶺禅院記)

 尚豊は薩摩に人質として抑留されたものの、当初の予定の10年間の抑留は免ぜられ、同年冬、摂政(しっしい)に任ぜられて帰国した(蔡鐸本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚寧王、万暦44年条)。摂政は琉球における官職の一つで、行政を司る三司官の上申を国王に取り次ぐ役職であった。最初に任命されたのは尚寧王の弟尚宏(1578〜1611)である。尚宏は兄尚寧王とともに薩摩側に抑留され、兄に先立って駿府にて没していた。そのため同じく薩摩側に抑留されていた西来院の僧菊隠宗意が三司官に任命された。
 尚寧王は浦添尚家の出身であったが、薩摩の琉球侵攻によって尚寧王政権を担っていた三司官は、相継いで失脚・斬刑・死亡したため、実権は親薩派の手に移った。尚寧王は従兄弟の尚熙(生没年不明)を事実上の世子である中城間切総地頭職として、後継者に定めていたが、薩摩侵攻後の万暦46年(1618)12月20日に尚熙は島添大里間切総地頭職となり、事実上後嗣からはずされていた(『向姓家譜』)。その後後継者とされたのが尚豊の子尚恭(1612〜31)であり、薩摩の意向により尚豊はその後見となった。尚恭の母は、尚寧王の弟尚宏であり、浦添尚家・首里尚家の地を両方とも引いていることになる。しかしながら尚寧王が薨去すると、尚恭は幼少であるとの理由によって、その父尚豊が即位することになる。これが尚豊王(位1621〜40)である。


 国質から帰国した尚豊は、父の誓いを果たすため、万暦45年(1617)春、役人に命じて工匠や材料を集め、堂を落成させた。諸願成就し、意のごとくとなって満足すると、続いて一宇の院を建立し、慈眼院と号した。長老徳庵に命じて院の事を司らせ、香火を奉った(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万歳嶺慈眼院、万歳嶺慈嶺禅院記)。観音堂は万歳嶺の中腹に、慈眼院を万歳嶺の南側に建立されており、

 開山の徳庵和尚について詳細は不明であるが、慈眼院が天界寺の末寺であること(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、末寺)、また慈眼院第2世住持の春叔長老をはじめとして、慈眼院の住持となった春甫・松屋・久山・石峰・江外が天界寺の住持になっていることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、当山住持次第)、天界寺に関係する禅僧であったらしい。尚豊は尚寧王薨去後に即位して尚豊王となったから、慈眼院は官寺として位置付けられることになる。


沖縄戦消失以前の慈眼院地蔵菩薩坐像(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』〈岩波書店、1982年10月〉106頁より転載)。



戦前の首里観音堂(慈眼院の案内板「万歳嶺跡」より)

慈眼院の修復・再建

 慈眼院は隆武3年(1647)から康熙年間(1662〜1722)の始めまで、堂宇をおよそ3度修復した。しかし再度廃壊したため、尚貞王の命によって康熙14年(1675)8月より修復工事が開始され、9月に完成した。ついで院もまた小規模な修復を行った。記録がないため詳細に考察することはできない(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万歳嶺慈眼院、万歳嶺慈嶺禅院記)

 慈眼院には観音堂のほか客殿があり、客殿の壇上には銅製の地蔵菩薩像が安置されていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万歳嶺慈眼院、客殿)。この客殿壇上の地蔵菩薩坐像(像高台座含81.7cm)であるが、造形が室町時代式で、日本の仏師の作とは異なることから、金武観音寺開山で、地蔵菩薩信仰を琉球に伝えた日秀の作とみられており、鋳造は王府工人の製作と考えられている(鎌倉1982)

 慈眼院の住持は開山徳庵和尚をはじめとして、春叔長老・春甫長老・松屋西堂・一閑長老・雪庭西堂・雲山長老・久山西堂・建猷西堂・孝庵西堂・牧源長老・石峰長老・勝山西堂・得髄長老・江外長老・湛道長老・向恩長老が歴代の住持であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万歳嶺慈眼院、当院住持次第)

 乾隆元年(1736)に、黄衣僧で、慈眼院・円覚寺法堂・崇元寺神応寺万寿寺神徳寺聖元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付することとした。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。乾隆2年(1737)、龍福寺安国寺・慈眼院・慎終庵(円覚寺法堂)の各寺に、知行12石を給することを定めた(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)

 琉球処分後、慈眼院は廃壊したため、慈眼院の小堂の位置づけであった観音堂が、慈眼院を合併する形で慈眼院の名称を継承した。観音堂は「上り口説」に「旅の出立観音堂、千手観音伏拝で」と謡われており、旅の安全を祈願する拝所として有名であり、多くの参詣者を集めていた。

 慈眼院は昭和20年(1945)の沖縄戦で破壊・焼失したが、1952年に万歳嶺の頂上付近を削って再建された。この再建は沖縄の他の寺院に先駆けてのものであった。


[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 写真(編)』(岩波書店、1982年10月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 (本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・上里隆史『琉日戦争一六〇九-島津氏の琉球侵攻-』(ボーダーインク、2009年12月)


[参考サイト]
沖縄県立図書館(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/)のウェブサイトのコンテンツ「収蔵資料」(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/)内の「首里古地図」より、
慈眼院
http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/jigen_in.html#start
観音堂
http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/kannondo.html#start

「合掌犬コナンの南無南無」(慈眼院で飼われている“合掌犬”)
http://gasshouken.ti-da.net/


慈眼院旧地(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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