安国寺



安国寺(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 安国寺(あんこくじ)は沖縄県那覇市首里寒川町2丁目に位置(外部リンク)する臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は太平山。景泰年間(1450〜57)に尚泰久王(位1454〜60)が建立した禅寺で、開山は熙山周雍(生没年不明)です。もとは那覇市首里久場川町に位置していましたが、康熙13年(1674)に現在地に移転。沖縄戦で焼失し、住職も戦死しましたが、戦後復興して現在に至っています。


開山熙山周雍と安国寺の建立

 安国寺は景泰年間(1450〜57)、尚泰久王(位1454〜60)が創建した寺院で、応寺開山熙山周雍が建立した第二の寺院である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)。尚泰久王は、仏教を篤く信じたため、天界寺・神応寺・広厳寺建善寺・普門寺・天竜寺を相継いで建立し、梵鐘は確認できるだけでも23口鋳造させた。安国寺はその中の一つに数えられており、建立の趣旨としては、一に世祖の冥福を修するため、一つに当君の健康を祈るためであったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)

 開山の熙山周雍は、上記にあるように、神応寺の開山であったとともに、円覚寺の第5世住持であり、中国浙江の僧であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)。熙山周雍の出身地である中国浙江省には、万寿寺・霊隠寺・天童寺・浄慈寺・阿育王寺といった南宋時代に定められた中国五山があり、禅宗の本場として多くの禅僧が集まり、日本からもかなりの数の禅僧が五山を訪れている。熙山周雍は「四明山人煕山叟周雍」と署名しているから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、楼鐘)、四明(現浙江省寧波市)の出身であることが知られる。熙山周雍もまた中国五山僧であったとみられ、宋・元時代に招聘されて日本に渡った多くの中国五山僧と同様、招聘ないしは自主的に海を渡り、琉球に滞在したとみられる。

 円覚寺にあった「円覚精舎草創記」の石碑は弘治11年(1498)8月に天界寺住持の熙山周雍が撰したというから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、立石碑併石橋事)、弘治11年(1498)8月の時点で天界寺住持を勤めていたことが知られる。しかしながら景泰年間(1450〜57)に安国寺の住持となった人物が弘治11年(1498)に天界寺の住持になるには、そもそも別人であるとか年代が異なるといった開山説話自体に何らか齟齬があると考える方が自然であろう。よほど長生きしたのか、あるいは若い時に中国から琉球に渡ったため、渡来僧という珍しさから若年ながら開山にたてられたということも考えられなくはないが、いずれにせよ安国寺の開山について詳細はわからない。

 安国寺の建立目的の一つとして、『琉球国由来記』では、「おそらくは日本の一国一寺の例にならったのであろう」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)と推測している。「日本の一国一寺の例」というのは、足利尊氏・直義兄弟が暦応元年(1338)頃から貞和年間(1345〜50)までの10年間にかけて日本全国66ヶ国2島にそれぞれ一寺一塔を設け、寺を安国寺、塔を利生塔としたものである。これら安国寺・利生塔には既存の寺院が用いられることが多く、安国寺には諸国に禅宗を伝播させて幕府の威信を宣揚する、利生塔には旧仏教側に塔を建立することによって懐柔を試みる、という側面があった。この安国寺・利生塔の設立目的としては、元弘年間(1331〜33)以来の戦死者を敵味方区別なく慰霊し、天下泰平を祈ることを目的としていた。

 その安国寺が琉球にも建立されたというのであるが、安国寺の造営は室町幕府初期の段階でほぼ終了しており、安国寺制度自体もその役目は五山十刹制度内に吸収されて終息し、かつ建立の趣旨も全く異なるから、安国寺制度が100年以上へた時点で、琉球に安国寺を日本側からの働きかけで建立されるということは全く考えられないことである。これは嘉吉附庸、すなわち島津氏が琉球付属の正当性として主張した、嘉吉元年(1441)島津忠国が琉球を室町幕府将軍足利義教より賜ったという所説にも関わってくる極めてデリケートな問題で、この安国寺を日本の例にならったとする説は少なくとも琉球侵攻(1609)以降に発生したものであろう。とはいえ、この安国寺の寺号について建立当初から何らかの働きかけを行った僧侶がいた可能性がある。例えば円覚寺開山の芥隠承琥(?〜1495)といった日本の五山僧が、安国寺の制度を尚泰久王に薦めた可能性も考えられるであろう。
 尚泰久王や次代の尚徳王(位1461〜69)の時代には、護佐丸・阿摩和利の乱、鬼界島征服が行なわれ、多くの人命が失われたことから、安国寺創建の動機として、敵味方問わず供養を行なう目的と、「善願をもって日々に願いを立て、冥福を祈り」(「旧天界禅寺金鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)と尚徳王時代の鐘にみえることから、日本の天龍寺や安国寺と同様の建立意図があったとする説もある(東恩納1950)


神応寺跡(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

安国寺の再建

 弘治6年(1493)に尚円王(位1469〜76)は梵慶を朝鮮王朝への使節として派遣し、同国に大蔵経を求めているが、この時朝鮮国王の成宗に宛てた書簡によると、大蔵経は安国禅寺に安置し、万世にわたって国家の珍宝としたいと述べている(『成宗実録』巻279、成宗24年6月戊辰条)。弘治6年(1493)の段階では、尚円王はすでに薨去しており、琉球国王は尚真王(位1477〜1526)であったが、この尚真王は琉球において、尚泰久王とならんで仏教を隆盛させた王であった。これによると、安国寺は、遣朝鮮使が首尾よく大蔵経を入手した暁には、同寺に大蔵経を納める予定であったことが知られる。

 安国寺は開創以降100年ほど経った時には荒廃していたという。よって嘉靖36年(1557)8月から修理工事を行ない、12月に完成した。また万暦24年(1596)には尚元王(位1556〜72)の遠忌の時期にあたって、同妃より青銅若干を献じられ、それを用いて修復を行った。また万暦49年(1621)尚寧王(位1589〜1620)の一周忌にあたって、尚豊王は方兄(銭)数千緡を喜捨し、安国寺の修理を行なった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)

 康熙13年(1674)久場下(那覇市首里久場川町)から中山坊の南方に移転し、周囲を石垣で囲んだ。さらに寺院の前方に仏殿を造営して、不動明王像を安置した(『球陽』巻之7、尚貞王7年条)。この地は首里城への道である大道に面し、中山門から守礼門の中間に位置した。世子の邸宅である中城王子邸(現沖縄県立首里高等学校)と大道を挟んで面しており、安国寺の境内には「キミコイシ嶽」という御嶽(うたき)があった(『琉球国由来記』巻6、キミコイシ嶽)

 また康熙37年(1698)にも良材を選んで造営を行なった。そのため丈室(方丈)の大きく美しい様子は開基された昔をみるようであったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)。乾隆2年(1737)には安国寺・龍福寺慈眼院・慎終庵(円覚寺法堂)の各寺に、知行12石を給することを定めている(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)


 客殿には木造の観音像・開山熙山周雍の位牌が安置された。殿内には木造の不動明王像、王世子尚純公(1660〜1706)揮毫の額、東風平王子朝春・読谷山按司朝易・保栄茂親方盛定の3人が寄進した蘭田和尚の揮毫による聯(柱・壁の左右に、相対してかけて飾りとする細長い書画の板)があり、額・聯はともに康熙32年(1693)9月に懸けられたものである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、客殿)

 安国寺には景泰7年(1456)9月23日に相国寺二世の渓隠安潜撰、天順元年(1457)12月9日鋳造の鐘があった。この鐘は、もとは魏古城に喜捨するため尚泰久王が鋳造させたものであるが、『琉球国由来記』が撰述された康熙52年(1713)の段階では安国寺に安置されていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、鐘銘)

 安国寺は天界寺の末寺であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、末寺)。歴代住持については不明であるが、一峰和尚以降の住持は以下の通りである。
 一峰長老・春甫長老・霊道長老・太牛長老・一閑長老・閃空長老・心了長老・牧源長老・達全長老・説三長老・石峰長老・勝山長老・太安長老・別峰長老・蟠山長老・康岳長老・霊源長老・綱宗長老・東峰長老・江外長老・東岩長老・湛道長老(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、住持次第)


 明治17年(1884)、旧尚王家の廟寺であった円覚寺・天王寺・天界寺・崇元寺・龍福寺はいずれも尚家の私寺となった。そのためそれまで沖縄で最も寺格が高く、禅宗各寺の取り締まりを行なっていた円覚寺は、いわば僧綱のような地位にあったのだが、円覚寺以下5箇寺が尚家の私寺となったため、禅宗各寺の取り締まりを行なう寺格を有する寺院が無くなり、自動的に5箇寺の次の寺格であった安国寺がその任を引き継ぐことになった。ところが明治20年(1887)安国寺自体が役知17石で、相場に換算するとわずかに金125円68銭にすぎなかったため、この任にあたることが困難であると申し出るとともに、私寺となった5箇寺の禄高を安国寺一派に支給するように求めた。これが容れられた。琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時安国寺は給与総額は1,722円2銭、うち国債証券額は1,700円であった。これとは別個に、安国寺以下僧録に支払われる役知役俸は13,022円28銭、うち国債証券額は12,850円であった(島尻1980)

 安国寺は琉球処分後の官寺衰退を耐え抜き、尚侯爵家の私寺となった円覚寺は、安国寺住持が住持を兼任することとなった。昭和20年(1945)の沖縄戦に際して住職の長岡敬淳は、陸軍少佐として防衛隊長となり、戦死した(名幸1968)。戦後、住職は不在であったというが、再建に着手され、現在に至っている。


[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)

[参考サイト]
沖縄県立図書館(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/)のウェブサイトのコンテンツ「収蔵資料」(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/)内の「首里古地図」より安国寺
http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/ankokuji.html#start


安国寺(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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