崇元寺跡



崇元寺第一門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



沖縄戦破壊以前の崇元寺第一門(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉35頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



崇元寺第一門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



崇元寺第一門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 崇元寺(そうげんじ)はかつて泊港から首里城にのびる道の途中に位置(外部リンク)した臨済宗の寺院です。「すーぎーじ」と方称され、米軍には「takamotoji(タカモトジ)」と称されていました。現住所では沖縄県那覇市泊1丁目。山号は霊徳山。王廟として用いられ、冊封使が諭祭を行なう場所でした。那覇からは長虹堤を通過して崇元寺橋を渡ると崇元寺に到着し、さらにここから2kmほどで首里城の玄関守礼門に到達しました。


沖縄戦焼失以前の崇元寺前堂(第二門)(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉36頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



崇元寺前堂(第二門)跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

崇元寺の創建

 崇元寺の創建年代について、詳しいことはわかっていない。

 康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』には「宗廟および丈室の立、何代何年をあきらかたるを知らず」とあるように、いつ頃建立されたのか不明であったらしい。それでも宣徳年間(1426〜35)に尚巴志王(位1422〜39)によって建立されたとも、成化年間(1465〜87)に尚円王(位1469〜76)が建立したとも推定をしているが、「何是たるを知らず」と匙を投げている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、霊徳山崇元禅寺記)

 崇元寺はまた慈恩寺なる寺院の後身であるともいう。かつて歴代の王は慈恩寺を廟としていたが、その廟は王城にもっとも近かった。尚徳王(位1461〜69)が薨去したあと、その親族が不定期に廟に入っては泣哭していたから、その声は王宮にまで聞こえてきた。そのため尚円王は泊村に地を選んで、改めて国廟を建てたという(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。この時円覚寺天王寺の開山でもある芥隠承琥(?〜1495)が開山となったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、丈室)

 尚円王は、第一尚氏王統から王位を簒奪して、第二尚氏王統における初代国王となった人物である。そのためそれまで第一尚氏王統の廟寺であった慈恩寺にかわる新たな廟寺を建立する必要に迫られた。その廟寺が崇元寺であり、尚円王のフィクサーとも称される芥隠承琥が崇元寺の開山となった。このような経緯であるため、慈恩寺が移建して崇元寺としたとみる説があるが(葉貫1976)、後代『琉球神道記』において慈恩寺と崇元寺が別個の寺院として表記されているから、別の寺院とみるべきであろう。


沖縄戦焼失以前の崇元寺前堂(第二門)内部架構(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉36頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

崇元寺嶽と崇元寺下馬碑

 崇元寺の建立年代について、詳細は不明であることは前述した通りであるが、崇元寺の東ににある拝所である崇元寺の嶽(うたき)の草創説話には、崇元寺建立の経緯の一つとして、尚円王の即位を預言した人物が登場する。崇元寺の嶽は神名を「コバノミヤウレ御イベ」というが、崇元寺の嶽の草創説話によると、崇元寺の建立は尚円王の時とし、さらにこの説話自体の年代を『琉球国旧記』では成化年間(1465〜87)とする(『琉球国旧記』巻之6、島尻、崇元寺嶽)。以下『琉球国由来記』によって説話を記しておく。

 大安里の清信というもので、もとは大城掟と称した者がおり、泊まり村の住人であった。ある日首里から帰る時、黄昏に安里橋の東に至り、清風が顔をなで、馬が風にいなないた。たまたま一人の老人に会い、語り合った。その時老人は清信を引いて林の中に入った。みると高く立派な建物があり、景観は人里に似ていなかった。二人の老人が囲碁しており、一人の童子が茶を沸かしていた。清信は心中非常に怪しんで、辞して帰ろうとする時に秘かに馬の鞭を残しておき、その跡を訪ねてみようとした。翌日林の中に入ってその跡を探してみたが、人の跡などなかった。ただ馬の鞭があるだけで、そのためいよいよその事を怪しんだ。
 後、清信がここを過ぎるとまた老人に会うことは以前のようであった。また別れる時、老人は黄金一塊を清信に与えて、「私はお前と縁がある。だからここで会ったのだ。ここはまことの霊地であるから、お前はこの地を開いて家を構えなさい」というや見えなくなった。そこでここに移り住んで、花晨月夕(かしんげっせき。朝には花を、夜には月を。風流な遊びの喩え)して知人を招き、常に山水を楽しみ、余生を送ろうとした。
 その時、内間里主は御鎖側職の職についており、しばしば那覇と首里を往来していた。ある日清信が内間里主と門外で会ったが、その貴相をみて龍鳳(四海に君臨する人相)であることを知った。別の日、内間里主は那覇より帰ると、その時清信が席をともにしており、内間主里を招いて座を南面に設けて跪いて礼をした。内間里主は「私は貴人でもないのに、どうしてあえてここに座らせたのか」と聞いた。清信はしばらくして内間里主の貴相が尋常のものではないことを告げると、内間里主は愕然として立ち上がり、去っていった。清信は留めることはできず、門外まで送ったが、内間里主が馬に乗る時にたまたま脚をみると一つの黄色のアザがあり、清信はいよいよ尊敬の念をもち、跪いて「あなたの貴相はそのしるしなのです」といった。
 その後内間里主は王位につき、尚円王と称した。そのため清信はその朝廷に仕えた。尚円王は前に清信が言ったことに感じ入り、清信を抜擢して安里の地頭職を授け、世代は子孫に及んだ。またその宅地が山水が清く秀でているから、宗廟を創建して崇元寺と号した。廟の前庭の左右に樹があり石で囲んだ。これは鞭を残した場所であったから、そのため拝所としたのである(『琉球国由来記』巻12、各処祭祀1、真和志間切、崇元寺之嶽)

 このように清信が尚円王の即位を預言したため、安里地頭職を得、崇元寺が安里に建立されたという説話となっているが、第一尚氏王統の滅亡における安里大親こと清信の関連について、伊波普猷(1876〜1947)は久高島の外間祝女の家に伝承されていた以下の口碑を紹介している。
 「危機が近づいていることを露とも知らなかった王(尚徳王)は、その翌年、百官を率いて、久高(くだか)島参詣に出かけた。同島の外間(ほかま)村に、代々祝女(のろ)を職とする家があったが、当時家を嗣いだのは、十七八歳の女で、クニチヤサという絶世の美人であった。王が祭典の際、この祝女を見そめて、彼女と恋に落ち、首里に帰るのを忘れた頃、革命(よがわり)が勃発した。革命党は、王城に闖入して、王妃世子及び王族を虐殺して、早速、京の内で、よのぬし選挙の大会が開かれた。この際、金丸と親交を結んでいた安里大親(あさとのひちあ)が、神懸りして、「食呉(ものく)ゆ者(す)ど我が御主(おしゅう)、内間御鎖(うちまおざす)ど我が御主」といったように、謡い出したら、衆皆ヲーサーレーと和して、「琉球国のよのぬし」は立どころに選挙された。これは所謂ユーウテーというもので、この言葉は、私達の語感には、一種異様に響くものであるが、古琉球では、革命がある場合には大方この形式で、主権者の選挙が行なわれていたとのことである。」(伊波普猷『琉球古今記』〈『伊波普猷全書』第7巻121頁〉。仮名遣いを現行のものに一部改め、ルビは初出のみとした)
 ここでは安里大親(清信)が積極的に尚円王の即位を推し進めたことが述べられており、安里大親は国内の重要な御嶽に奉仕する男性神職であったとみられている(鎌倉1982)。尚円王の即位と崇元寺の建立は説話を通じて密接に結びつけられていたことが知られる。

 崇元寺の南側の石垣の東西には、「崇元寺下馬碑」という石碑が建てられており、嘉靖6年(1527)7月25日に建立されたものである。西の碑は沖縄戦で破壊され、残欠は沖縄県立博物館が所蔵されている。東の碑は奇跡的に沖縄戦の破壊を免れ、現在も崇元寺の東側に建っている。もとの建立位置は道路の南側であったが、明治期に現在地に移動している。

 碑の表側には「あんしもけすもくまにてむまからおれるへし(按司も下司も此所にて馬から降るべし)」とあり、裏には「但官員人等至此下馬」とある(「崇元寺下馬碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)


崇元寺の石垣(左)と崇元寺下馬碑(右)(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

崇元寺の修造

 崇元寺は建立以降、国王が代を重ねていき、小規模な修造があったが、記録が残っていないため不明である。天啓7年(1627)に修造を行ったが、さらに歳月をへて諸堂宇が傾いたため、順治16年(1659)2月から4月まで、宗廟(正廟)・丈室(庫裏)・諸廊(東庁・西庁)・山門(第二門)・厨庫(神厨)を修造して完成させた。また康熙21年(1682)には廟や堂宇の老朽化にともなって、諸宰官が、薄板で廟宇の屋根を覆う通例を改めて瓦葺とすることを建言し、その通りに実行された(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、霊徳山崇元禅寺記)

 崇元寺は石垣に囲まれており、全体は南向となっている。南側の前面中央の石垣を厚くして第一門を形成する。この第一門は三口を並べて設けており、門幅13m43cm、厚さ4m54cmあり、門口は中央は広さ2m51cm、左右はそれぞれ2m18cmある。門の上部には屋根を設けず、水平となっている。この崇元寺第一門を建築史家の伊東忠太(1867〜1954)は絶賛し、その著「琉球紀行」において、「一見素朴なるが如くにしてよく凝視すれば益々豊富である。一瞥粗野なるが如くにしてよく観察すればいよいよ高雅である。極めて無雑作なるに似て実は苦心惨憺の作である。甚だ淺薄なるに似て実は重厚深刻の作である。要するにこの門は旧来の因習に拘泥せずして、新に独創的意匠を試みたもので、清新溌剌たる気分が横溢している。この時この地に於てこの建築に邂逅するは余の最も意外とする処である。」と述べている(伊東忠太「琉球紀行」、同『木片集』〈万里閣書房、1928年〉501頁より一部転載)

 第一門を入り、10段の石段上に第二門があった。第二門は前堂と称され、諭祭が終わって宴を設け、客を待つ場所であった。桁行7間、梁間3間、単層入母屋造、本瓦葺で、中央1間に両開の桟唐戸があり、門口となっていた。内部は荘厳・彩色され、床は四半瓦敷となっている。

 第二門からさらに進むと、左右に東庁・西庁があった。 東庁は祭祀の際に国王の控所に充てられた建物で、桁行5間、梁間3間、単層入母屋造、本瓦葺で、正面中央には両開の桟唐戸が付けられた。低い基壇上にあり、内部の床は土間であったが、当初は四半瓦敷であったとみられている。
 西庁は東庁の対称して位置し、桁行5間、梁間4間、単層寄棟造、本瓦葺で、前面1間は6本の遊離柱を建てて向拝としている。この西庁は王妃の控所に充てられた建物で、東庁が中国的であるのに対して、西庁は日本的であると評される。
 西庁の北には神厨が位置した。神厨は桁行4間、梁間4間、単層寄棟造、本瓦葺で、日本の神社建築における神饌所と同様のものとみなされる。


沖縄戦焼失以前の崇元寺東庁(国王控所)(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉37頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



沖縄戦焼失以前の崇元寺西庁(王妃控所)(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉38頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



沖縄戦焼失以前の崇元寺神厨(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉38頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

宗廟としての崇元寺

 崇元寺は円覚寺の末寺であり(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)、知行石は、康煕58年(1719)の段階で毎年米24石を支給されており(『中山伝信録』巻5、僧禄)、さらに乾隆元年(1736)の段階で30石となっていた(『寺社座御規模』)。また乾隆元年(1736)に定められた規定によると、黄衣僧で、崇元寺・神徳寺慈眼院・円覚寺法堂・神応寺万寿寺聖元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付することとした。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。僧侶が居住する崇元寺の庫裏は、桁行12m30cm、梁間10m54cmの規模であり、『中山伝信録』には「仏堂」と記されていた。この建物は僧侶の居住空間であり、住宅のように各室あって畳敷となっていた。崇元寺の丈室(庫裏)の壇上には聖観音菩薩の木像、開山芥隠承琥の位牌が安置された(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、丈室)。開山の芥隠承琥以後、住持の歴代は不明であるが、順治年間(1644〜61)の歴代住持は以下の通りである。
 了岩和尚・松屋和尚・乾叟和尚・閃空和尚・空山和尚・久山和尚・霊室和尚・太伝和尚・達全和尚・牧源和尚・説三和尚・石峰和尚・勝山和尚・叟山和尚・別峰和尚・円道和尚・蟠山和尚・康岳和尚・霊源和尚・東峰和尚・覚翁和尚・江外和尚・東岩和尚(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、当寺住持次第)

 このように他の寺院同様、開山以下多くの僧が歴代の崇元寺住持となったが、崇元寺は他の寺院とは異なり、最初から歴代琉球国王の宗廟として建立された寺院であった。とくに冊封使が諭祭を行なう場として有名であり、多くの使録にみえ、また戦前の姿が比較的知られていることから、琉球の宗廟といえば崇元寺というイメージが半ば固定化されているが、実際には円覚寺・天王寺天界寺が廟寺とされ、後に龍福寺がその列に連なった。

 その宗廟としての崇元寺の中核であったのが、正廟である。正廟は崇元寺の本堂であり、第二門の北側正面の基壇上に南向に位置しており、桁行7間、梁間5間、単層入母屋造、本瓦葺の建物であった。基壇正面には石段が設けられ、石段は基壇左右にも設けられていた。窓は花頭窓で、組子に花模様の透かし彫りを施した花狭間となっている。建築は建立当時のものをよく保っていたとみられ、内部は荘厳・彩色されていた。
 宗廟(正廟)には「河山帯励」と「永観厥成」の2額が掲げられており、前者は康熙2年(1663)10月に冊封使の張学礼が揮毫したもので、後者は康熙22年(1683)冬に冊封使の汪楫らが揮毫したものである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、宗廟額二ヘン)。また門には「粛容」の額が掲げられていたが、揮毫した年月、揮毫者の名は記されていなかった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、二門額)

 崇元寺の正廟には琉球歴代国王の神主(位牌)が安置されていた。正廟内部中央には伝説上の琉球初代国王の舜天の位牌を祀り、以後代序順に昭穆(左右交互に偶数奇数配列する)で安置されていた。琉球歴代国王は、王統は異なったとしても概念的にすべてここに祀られていたとみなされており、ここで諭祭することによって琉球歴代国王の序列に組み込まれることになる。また崇元寺正廟の神主の配列は後代の琉球史書に多大な影響を与えた。例えば琉球最初の史書は『中山世鑑』(1650)において、第一尚氏王統の初代思紹王は、死後に封爵された追封の王であるとみなされたが、後に清の冊封使汪楫が諭祭のため崇元寺に入った時、式典の最中に人を廟内に入れて秘かに神主をメモさせており、尚思紹王の神主が祀られていたことから、尚思紹王は追封の王ではないとみなした(『中山沿革志』序)。汪楫はこれによって『中山沿革志』(1684)を著述・版行させ、その影響を受けた蔡鐸(1645〜1725)はその著『中山世譜』(1701)において尚思紹王を追封の王ではないとし、以後現在まで実際に王位についたとみなされるようになった。
 そのこともあってか、それまで尚稷・尚懿・尚久はいずれも国王の父で、王位につかなかったものであるが、彼らの神主(位牌)は、先王と尊称していたため、崇元寺の廟に安置されていたのを、康熙己卯(1699)、唐栄(くにんだ)の儒者が、三神主の王爵を除いて、改めて安置することを題奏した。王はその意見を受け容れて、尚稷・尚久の神主は天王寺に、尚懿の神主は天界寺に安置し(『球陽』巻之10、尚敬王7年条)、宗廟祭祀の厳格化を図っている。

 その後、琉球の祭祀の簡略化に伴って、崇元寺における祭祀も一時後退した。古来、正月1日と15日になるごとに、国王は必ず進香を円覚寺・崇元寺・広厳寺長寿寺に行なってきたが、雍正7年(1729)にいたってこれを廃止した(『球陽』巻之15、尚穆王12年条)。旧例に復して崇元寺で国王の進香が再開されるのは乾隆26年(1761)になってからである(『球陽』巻之15、尚穆王12年条)

 また宗廟たる崇元寺に祭祀と無関係の者をシャットアウトする規定が打ち出されている。
 昔から泊村の中街に、崇元寺の右辺に一小道があり、安里橋にいたった。これを赤平路といったが、この路は国廟や泊村に忌まれたため、康煕46年(1707)松樹を植えて道を遮断し、往来がなくなった(『球陽』巻之9、尚貞王39年条)
 また乾隆2年(1737)には崇元寺・円覚寺の社参を廃止した。社参とは、官員311人が馬に乗り、諸寺に詣でて福を祈ることである。正月元旦および15日に国王が法司官を遣わして香を円覚寺で行なっていたが、これは国廟であるから、社参の者が詣でて福を祈るのは礼に反していることであり、また崇元寺も歴代の国廟であって、社参の者が道すがら福を祈るというのは、これまた礼に反することとされたためである(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)
 崇元寺の歴代先王の神主(位牌)は、毎年春秋の二仲(2月・8月)の上戌日に、うやうやしく祭祀を行なっていた。とくに唐栄(くにんだ)の筆帖式(筆記者)は自らその祭品をととのえて、その神主(位牌)に供えた。その後雍正11年(1733)に三廟(円覚寺・天王寺・天界寺)の例によって、崇元寺の歴代先王の神主(位牌)には御料理座に命じて品物を調えさせることになった(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)

 崇元寺の修復はたびたび行なわれ、嘉慶2年(1797)(『毛姓家譜(支流)』紀録、13世盛邑)、嘉慶12年(1807)(『麻姓家譜』紀録、14世麻克昌)、道光29年(1849)(『球陽』巻之22、尚育王15年条)、同治3年(1864)(『麻姓家譜』紀録、16世麻為錦)に実施されている。


沖縄戦焼失以前の崇元寺正廟(本殿)(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉39頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



崇元寺正廟(本殿)跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

諭祭

 崇元寺は、琉球王家の廟所であったが、他の廟所とされた円覚寺・天王寺・天界寺とは位置づけが異なっていた。円覚寺は、第二尚氏王統の「王統」としての廟であり、その範囲は第二尚氏王統の歴代の国王に限定され、すなわち国内的に正統を誇示するものであった。天王寺は、王妃や祀られていることから知られるように、第二尚氏王統の王家に連なるものの家廟といえるものであり、その範囲は現国王の近親者を中心とした視点からなっていた。天界寺は、子が王位についたものの、自身は王位につかなかったものを中心に祀っていることからも知られるように、第二尚氏王統において、尚円王からの直系血筋とその正統性を確認する廟であり、その視点は遡及的血統にあった。

 その一方で崇元寺は、琉球の伝説的な初代王舜天から歴代の琉球国王が祀られており、これらは現政権が連綿と続く琉球国王の正統な後継者であることを誇示した。また第二尚氏王統まで王朝が頻繁に変わった琉球において、その王位の正統性を公認したのが、明・清といった歴代の中国王朝であった。琉球において国王が薨去すると、国王は対外的には即位したことにはならず、あくまで「世子」のままであった。その後、明・清といった歴代の中国王朝に先王の薨去が報じられた後、中国側から冊封使が琉球に派遣され、諭祭(ゆさい)において先王の功を評し、その後に国王に冊封されて、正統な国王であることが認可されたのである。

 その諭祭が行なわれたのが崇元寺であった。嘉靖13年(1534)に尚真王(位1477〜1526)の薨去にともなう先王の諭祭と新王の冊封に際して、崇元寺にて諭祭した陳侃の見聞によると、6月16日に尚真王を祭る諭祭を行なったが、寝廟(崇元寺)にて行なうのみであって、陳侃は尚真王の墓所がどこにあるのかわからなかったという。また諭祭に際して、冊封使陳侃らが崇元寺に到着する時に、世子(新王の尚清王)が白衣に黒い帯をしめて門外に出迎え、門内に入ると、先王の神主(位牌)は東側に安置され、西に向けられていた(陳侃『使琉球録』使事紀略)。先王の神主の安置する位置と方向については、その後も踏襲され、『中山伝信録』にみえる崇元寺の図にも、同様に安置されていることが確認できる(下図)。冊封使らは西に位置して東に向き、世子は南に位置して北を向き、諭祭文が読み上げられた。諭祭が終わると、世子は屋外に出て、北に向いて恩を謝し、前堂(第二門)にて冊封使と宴会を行なった(陳侃『使琉球録』使事紀略)


『中山伝信録』にみえる崇元寺

Takamotoji(タカモトジ)

 明治17年(1884)、旧尚王家の廟寺であった円覚寺・天王寺・天界寺・崇元寺・龍福寺はいずれも尚家の私寺となった。崇元寺は昭和8年(1933)1月23日に国宝に指定されたが、沖縄戦で木造建造物は完全に焼失し、石像建造物もまた破壊された。

 崇元寺は昭和19年(1944)10月10日のいわゆる「10・10空襲」で破壊され、さらに昭和20年(1945)5月のシュガーローフの戦いによって完全に廃墟となった。シュガーローフは日本側呼称が安里52高地と呼ばれた小さな丘陵の陣地であったが、この地は南下する米軍にとって、南西に那覇、東に首里を望むことができる要衝であり、米軍がここを占領した場合、日本軍第32軍司令部があった首里を側面から攻撃することが可能となっていた。そのため日本軍の独立第15混成連隊とアメリカ第6海兵師団の間で激戦が繰り広げられた。日本軍が立て篭もるシュガーローフ自体は小さな丘陵にすぎなかったが、東側のハーフムーン、南側のホースショアと連携して相互防衛を行なう一大防禦陣地を形成していた。5月12日から始まったこの戦闘で、米軍はシュガーローフのみを攻撃していたが、三ヶ所が連携した攻撃によりたびたび米軍は大損害をこうむって撃退されたことから、シュガーローフを占領したのみでは決着がつかないとみた米軍は、戦闘の焦点はをシュガーローフ本体から、その周辺の一斉占領へと推移させた。そのためシュガーローフの南西に位置する崇元寺町一帯もまた日本軍が陣地を構築して側面から米軍を掃射した。

 空襲で焼失したとはいえ、石垣に囲まれた崇元寺は日本軍にとって良好な陣地となっていたらしく、米軍の記録にも崇元寺から攻撃を受けたことがみえる。なお崇元寺は米軍側呼称では「Takamotoji(タカモトジ)」と訓読みしている。5月16日、第22海兵連隊第1大隊は、シュガーローフとホースショアを攻撃する第3大隊の右翼側で、その攻撃を援護するため配置につこうとしたが、崇元寺の周辺から激しい機関銃による砲火を受けた。それ以前、崇元寺の周辺は沈黙を保っていたが、今回の崇元寺付近からの攻撃によって、日本軍が、那覇の方角からシュガーローフ側面の攻撃を防ぐために増援部隊を送り込んで、米軍の試みを妨害する意図があったことが明らかとなった。第1大隊はさらにシュガーローフ・ホースショアからも攻撃を受けたため、付近の高地を占領する所期の目的を果たすことができなくなった(『Okinawa: Victory in the Pacific』)

 シュガー・ローフ(安里52高地)が占領されると、5月19日、安里からその西方の崇元寺町方面にわたって陣地占領中の独立混成第15連隊第2大隊(大隊長井上清公大尉)は右翼からの攻撃を受け苦戦に陥り、損害も多くなった。20日には米軍は那覇北側地区において全正面攻撃を実施し、安里から崇元寺町方面の防衛に当っていた独立混成第15連隊第2大隊も連日の米軍の猛攻に戦力の低下著しく、1400(午後2時)頃、井上大隊長は最期の訣別電報を連隊長美田大佐に送り、同日夜、主力を率いて斬込みを実施し、大隊長以下大部は戦死し、残存兵力は約30名となった(『戦史叢書』)

 戦後崇元寺は石門のみ復興され、境内地の一部は公園となった。1951年9月6日、琉球軍民政官ルイス准将が石門にセメントを入れる作業を開始して修復が着工された。この修復資金は占領軍兵士と地元民の寄付金で修復された(沖縄県立公文書館ウェブサイト内、写真に見る沖縄〈http://www.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/DPA/HTML/USA/U01/06-85-1.html〉)。この修復後の1955年に崇元寺石門は琉球政府特別重要文化財に指定された。さらに那覇市は1956年に崇元寺公園に指定し、崇元寺の旧跡は公園化した。

 石門は再建されて公園となり、文化財に指定されていたが、一方で前堂跡から正廟跡にかけては戦後の土地利用のため、公園の管理区域からはずれており、崇元寺自体の跡地は分断されていた。さらにこの跡地は盛土がなされ、そこが崇元寺の堂宇がそびえ立っていたことが想像することができないほどだった。昭和55年(1980)那覇市は崇元寺跡地を児童公園用地として買収し、翌年にはそれに伴う発掘調査が実施された。



[参考文献]
・伊波普猷『琉球古今記』(刀江書院、1918年。ただし底本は『伊波普猷全書』第7巻〈平凡社、1975年6月〉を用いた)
・伊東忠太「琉球紀行」(同『木片集』 万里閣書房、1928年)
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・『Okinawa: Victory in the Pacific』(米国海兵隊編、1955年)
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/
・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・葉貫磨哉「琉球の仏教」(中村元他編『アジア仏教史 中国編W 東アジア諸地域の仏教〈漢字文化圏の国々〉』佼成出版社、1976年3月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 写真(編)』(岩波書店、1982年10月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 (本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・『崇元寺跡 範囲確認発掘調査概報(那覇市文化財調査報告書第9集)』(沖縄県那覇市教育委員会、1983年3月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・原田禹雄「思紹と尚巴志の冊封」(『がじゅまる通信』15、1998年7月)
・ジェームス・H・ハラス著/猿渡青児訳『沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』(光人社、2007年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)


沖縄戦消失以前の安里橋(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉100頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)。安里橋は崇元寺橋とも称されており、沖縄戦で破壊された。



崇元寺橋(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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