如意寺跡2(大慈院跡・西方院跡)



如意越の十字路(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。ここを右折すると大慈院跡、左折すると大文字山(如意ヶ嶽)、直進すると雨神社に到達する。

 如意寺の伽藍を構成する子院のうち、大慈院と西方院は隣接しつつ、他の子院とは位置が離れている。「如意寺幅」には大慈院・西方院と、深禅院は隣接しているように描かれているが、実際には600mほど離れている。

 宝厳院跡から約300mほど、若干きつい山道を登ると写真上の十字路に出る。この十字路の左側には京都一周トレイルの「東山45」の標識がある(写真には写っていない)。十字路を直進すると如意越えの山道で、林道に一旦出てから雨神社側を通過して大津市方面の比叡平に出る。左折すると大文字山(如意ヶ嶽)に行くことが出来る。目的地の大慈院・西方院跡へは、この十字路を右折する。

 十字路を右折して山道を約200mほど降ると、今度は写真下のように京都一周トレイルの「東山44-2」の標識にあたる。ここを左折する。


大慈院跡への入口(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 約20mほど進むと右下方に造成された平坦地をみることができる。ここの山道はある程度は整備されているものの、整備が細微までは行き届いていないらしく、倒木に進路を阻害されて歩行は困難であった。

 さらに50mほど進むと、大慈院跡に到達する。


大慈院跡への山道(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

大慈院跡

 大慈院跡は標高約410mのところにあり、造成された平坦地が逆「く」字型に約100mほど続く。「如意寺幅」に大慈院の建造物として、本堂とその付属施設・経蔵・鐘楼・日宮・月宮が描かれている。

 本堂は、桧皮葺入母屋造で桁行4間、梁間4間、1間向拝付の建造物であり、「図説」によると、鎌倉右大将(源頼朝)が朝敵の怨霊をなぐさめるために大慈院を建立したものであり、丈六の阿弥陀仏像1尊を造立して、平家一族の姓名を書いたものを仏像の中心(胎内)に納めて、堂内に安置したものであるという(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)。如意寺自体が平氏の氏寺的要素があったから、平家滅亡後に源頼朝が怨霊供養のため大慈院を建立したことが知られる。その後、如意寺は隆弁(1208〜83)によって再興されることとなり、建長6年(1254)2月20日には若宮別当僧正、すなわち隆弁に「六波羅大慈院」をたまわったが(『吾妻鏡』建長6年2月20日条)、この「六波羅大慈院」は如意寺大慈院のことと思われる。

 本堂に隣接する堂名不詳の建造物は、「如意寺幅」によると桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間3間で、縁が周囲にめぐる構造となっている。貞和3年(1347)に如意寺堂宇の一斉修造が行なわれたが、大慈院の建物のなかに「延寿堂」という、「如意寺幅」「図説」ともに記載のない建造物が記載されていることから(『三井寺続灯記』巻第8、修造用脚員数事)、この建物は延寿堂とみられる。この延寿堂の正面には月宮・日宮が描かれており、双方とも桧皮葺一間社流造である。

 経蔵は「如意寺幅」によると、「一切経蔵」と記されており、一切経を納める経蔵であったことが知られる。桧皮葺入母屋造で、桁行3間、梁間3間であり、縁が周囲を廻っている。鐘楼は桧皮葺切妻造で、方1間の建物である。

 大慈院の下方には西方院が描かれており、「如意寺幅」によると、大慈院と西方院は石階段で繋がっていたが、現在ではその石階段は存在しない。



大慈院跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

西方院跡

 西方院跡は大慈院跡の40m下方にあり、標高370mほどのところに位置する。大慈院跡から西方院跡まで、急傾斜な崖となっているが、傾斜や幅は均等であることから、階段のようなものがあったとみられ、実際「如意寺幅」には石階段が描かれている。ちなみに大慈院から急傾斜な崖を伝って西方院に行くことは難しいことではないが、そこから大慈院に戻ることは難しい。西方院跡をそのまま西に薮木をかきわけて50mほど進むと、薮木だらけの山道に通じており、ここから北に登ると大慈院跡に戻ることができる。

 西方院の創建について詳細はわかっていないが、如意寺中興の祖隆弁(1208〜83)は弘安6年(1283)8月15日、関東の長福寺で示寂した後、遺言により如意ヶ峰の西方院に葬られ、塔を築いて供養が行なわれており(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)、この頃までには建立されていたらしい。なお平安時代初期の瓦が出土していること、地勢的な点から、桧尾寺との関連を推測する説があるが、これは後述する。「如意寺幅」によると、西方院には建造物は2棟しかなく、如意寺における子院のなかでは最も規模が小さい。しかしながら、如意寺の本堂は本瓦葺入母屋造の桁行5間、梁間4間、1間向拝付で、縁に高欄がめぐる建物であり、「如意寺幅」に描かれる60近い建造物のうち、本瓦葺であるのは本堂エリアの三重塔と、西方院の本堂のみであるから、西方院の本堂が如意寺のなかでも特別な位置づけを有していたのであろう。この本堂は「如意寺幅」には「西方院本堂 阿弥陀」と注記されるように、本尊は阿弥陀如来であり、院号もまた西方浄土・阿弥陀信仰と関連するものであった。

 また名称不明の建造物が石階段の脇にあり、桧皮葺入母屋造の桁行3間、梁間3間で、縁を周囲にめぐらせている。

 このように西方院には堂宇が2棟しかなく、しかもそのうち一つは名称すらわかっていない。しかしながら、貞和3年(1347)に如意寺において修理用のため費用と堂宇のリストが経常されており、この時如意寺は本堂・西方院・宝厳院の3所にわかれて予算計上がなされているのだが、西方院は本堂左右の廊それぞれ3間・赤龍社・阿伽井屋・深禅院・如法堂・浴室・潅頂堂・大慈院・大慈院廊下・一切経蔵・鐘楼・日宮・月宮・延寿堂が書き出されており、総計11,550文を計上している(『三井寺続灯記』巻第8、修造用脚員数事)。このように、堂宇2棟しかもたない西方院が、赤龍社・深禅院・大慈院を引率する立場にあったことが確認される。ここに本堂の規模が本瓦葺と、他の堂宇とは異なってやや格式張っていたことも、西方院が他の子院を統轄する立場であったからと説明することもできよう。如意寺の中興の祖隆弁の墓所があったことも関係あるのかもしれない。また実顕(1339〜90)も西方院に住していた(『三井寺続燈記』巻第2、僧伝1之2、釈実顕伝)


西方院跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)



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