慈孝寺



慈孝寺三門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 慈孝寺は楊春社に位置する寺院である。

 慈孝寺にはもともと前身の寺院があったらしいが、その寺号は伝わっていない。現在の慈孝寺は紹治3年(1843)に宮監の朱福能が私財を寄進して再興したものであり、紹治帝より「慈孝寺」の扁額を賜っている(『大南一統志』巻之2、承天府上、寺観、慈孝寺)

 宮監とは宮中に仕える去勢された男性のことで、阮朝は明の制度を模して内官監に対応させた職掌を設けている。その長官として太監が1人いるのは明制と同様である。政治に弊害をもたらした明の宦官とは異なり、阮朝の宦官が表に出ることはほとんどなく、建国の時に高官となった黎文悦(?〜1828)のみが宦官出身であっただけである。明命17年(1836)2月に明命帝(位1820〜41)は宮監が政治に関与することを禁じる上諭を発布しており(「文廟上諭碑文」)、阮朝においては宮女とともに一段低い扱いを受けていた。また王宮で死ぬ権利があったのは皇帝と皇后のみであったから、宮監は病気になると王宮から外に出され、療養のため宮監院に移された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、宮監院)

 このような宮監が建立した寺院が慈孝寺であったのである。阮朝は国教を儒教としていたから、皇帝は『周礼』などの理想に則った陵寝制の陵墓に葬られ、高官は死ぬと、王祠・公祠・郡公祠などに祀られた。それに対して、宮中の女官・宮監には後嗣となる子孫がおらず、そのため祖先祭祀を断絶させてしまうことになるため、儒教倫理において「不孝」の謗りを受けた。儒教倫理から存在そのものを批判されざるを得ない彼らの間では、自然信仰が仏教へと向けられることになり、実際に紫禁城には一時期、翠光楼・弘恩寺・威霊相佑廟楼が建立されており(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)、宮中では儒教以外の星宿・仏教・道教が信仰されていた。

 慈孝寺の寺名は彼らが仏の教えを授ける師に対して、「宮監人ら、よく孝道を以て師に奉りて荘厳す」(「重修慈孝寺碑記」)とあるように、子が親に仕えるように孝道をもって仏事を行なったことに由来するものとする。宮監の仏教信仰と仏僧への帰依・寺院への喜捨は、いわば儒教倫理における肉親間の孝が、仏教倫理における師弟の孝と対比され、これによって宮監らの「孝」意識が皆無ではなく、仏教という儒教とは異なった次元の倫理観では、強く意識していることの表明であった。


慈孝寺中庭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 慈孝寺の開山は一定性天和尚(1784〜1847)である。一定性天は広治省登昌県碧羅総中堅村の人で、俗姓を阮氏といった。幼くして童行となり、報国寺の普浄和尚を本師として19歳の時に得度した。密弘和尚を戒師として受戒し、普浄の法嗣となった。普浄が示寂すると報国寺住持となり、明命14年(1833)には霊佑観の住持となった。また明命20年(1839)には覚皇寺僧綱となった。紹治2年(1842)に病となり、安養庵に退居した。紹治7年(1847)10月7日に安養庵にて示寂した。64歳(「安養庵一定和尚行寔碑記」)


慈孝寺仏殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 慈孝寺は一定性天が示寂後、彼の住庵安養庵を塔(墓所)とし、周囲の建物を増築した。嗣徳2年に阮登桂(1794〜1865)が撰述した「重修慈孝寺碑記」によると、この造営の寄進を行なったのが楊威以下20数名の太監・女官であった。この時、本堂は3間2厦となり、他に統会堂・楽善堂・愛日堂・碑亭・鐘亭・僧房が建立され、屋内に観音・法龍天菩薩・地蔵菩薩・関帝が安置された(「重修慈孝寺碑記」)。またこの時、門や垣、建物を修復している(「安養庵一定和尚行寔碑記」)。これらの工費は700貫に及んだという(「重修慈孝寺碑記」)

 慈孝寺は多くの墓所があり、これはヴェトナムにおける仏寺の特徴である、墓を併設しないということから逸脱する。ただしその大半は住僧の塔所(墓)である。またこの慈孝寺は、社会参画仏教を提唱して現在世界的に有名となったティック・ナット・ハン(釈一行、1926〜 )が若い頃に修行した寺院としても知られる。


慈孝寺碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



慈孝寺の一定性天塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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