恭宗恵皇帝安陵



安陵(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 安陵は京城(フエ旧市街)より南に下ること直線距離で3km、フエ新市街南東の香水県安旧社に位置する。育徳帝(位1883)の陵墓で、旅行ガイドブックなどでは「ズックドゥック帝廟」と称される。育徳帝の廟は他に恭宗廟がある。

 成泰2年(1890)に陵名を安陵とした。周囲を城壁で囲み、正面に楼門を設ける。内部も城壁で囲み、三関門を設けて上部は楼とし、左右に花表の柱を建てた(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、恭宗恵皇帝安陵)

 拝庭には階段を設けて、欄杆・花盆を施しているが(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、恭宗恵皇帝安陵)、現在では荒廃している。


安陵の三関門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



安陵の三関門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



安陵の碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。碑文は現在ない。

 寝殿は隆恩殿といい、正眷(正殿)と前眷(前殿)を二重連結式に接続する。中央に神御(位牌)を安置し、隆恩殿の後方の左右に左右従院があった(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、恭宗恵皇帝安陵)

 宮の塀の前を門とし、門の左右は掖門とした(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、恭宗恵皇帝安陵)

 安陵は育徳帝の陵墓であるが、育徳帝が帝位についてわずか3日で廃位・弑逆されたため、歴代皇帝の中には正式には数えられていなかった。その後子の成泰帝(位1889〜1907)が即位すると育徳帝に恭宗恵皇帝の廟号・諡号が追贈され、恭宗廟と安陵が造営された。成泰帝はフランスの圧力で息子の維新帝(位1907〜16)に譲位を余儀なくされたが、民族運動家の潘佩珠(1867〜1940)に荷担して対仏反乱を企てた結果、成泰帝・維新帝はともにレユニオン島に流された。

 ヴェトナムが独立すると、成泰帝・維新帝の亡骸は安陵寝殿後方の墓所に埋葬された。また隆思殿では中央に育徳帝、左右に成泰帝・維新帝が祀られる。安陵は育徳帝系統の三代の皇帝に関する陵墓なのである。


安陵寝殿の宮門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



安陵寝殿の隆思殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



安陵寝殿の隆思殿内部(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。中央に育徳帝、左右に成泰帝・維新帝の位牌が安置される。



安陵寝殿後方の脇門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。安陵へは現在直接は寝殿しか行くことができないが、脇門から後方を左折すると安陵本体につく。



安陵寝殿後方にある成泰帝陵(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



「ヴェトナム・フエの都城と寺廟」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る」