世祖高皇帝天授陵



香江(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。この先の右岸に嘉隆帝廟がある。

 天授陵は京城(フエ旧市街)から南に行くこと18km、香江(フォン川)を舟で渡った先の香茶県定門社の授山の山中に位置する。ヴェトナム阮朝初代皇帝の嘉隆帝(位1802〜20)の陵墓で、ガイドブックには「ザーロン帝廟」と呼ばれる。

 この天授陵が造営されたのは嘉隆帝の生前の時からであるが、そのきっかけとなったのは皇后宋氏(1765〜1814)が嘉隆13年(1814)に崩じたことである。嘉隆帝は諸大臣を議し、古の合陵の礼に倣って造立することとした。宋福リョウ(きへん+梁。UNI6A11。&M015427;)・范如登(1753〜1818)を山陵使とし、黎惟清とともに諸山を見ていった結果、授山が吉であることが判明した。今度は嘉隆帝自身がその地に行幸すると、気が横溢して群山を結んで囲んでいることにより、授山を陵地とすることとなった(『大南寔録正編』第1紀、巻之48、世祖高皇帝寔録、嘉隆13年3月癸丑条)

 嘉隆14年(1815)9月に山陵の地である天授山に神祠を建立している(『大南寔録正編』第1紀、巻之51、世祖高皇帝寔録、嘉隆14年11月条)。同年中に造営して天授陵と号した。嘉隆帝と承天高皇后との合葬陵である(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、世祖高皇帝天授陵)

 嘉隆15年(1816)11月には「山陵条禁」が定められている。それによると、陵の境界を示すために石を建てているが、境界内にて樹木を伐採し、土や柴を採取し、竈を設けて炭を焼いたり放火して山を焼くこと、陵の四方の内に人がほしいままに入ること、雑木を栽培することなどを禁止している(『大南寔録正編』第1紀、巻之54、世祖高皇帝寔録、嘉隆15年11月条)。 

 嘉隆18年(1820)12月、嘉隆帝が崩ずると皇仁殿(後の奉先殿)が梓宮(しきゅう。遺体安置所)となり、翌年の明命元年(1820)2月に諡・廟号が決められた。また嘉隆帝を診断した医師らが拘禁されており、嘉隆帝の跡を継いだ明命帝は、医師らが「必ず治癒する」と言っていたため相当不信感があったが、臣下の奏上によって結局釈放している(『大南寔録正編』第2紀、巻之2、聖祖仁皇帝寔録、明命元年2月条)。3月に嘉隆帝の亡骸は天授陵に運ばれ、埋葬された(『大南寔録正編』第2紀、巻之2、聖祖仁皇帝寔録、明命元年3月戊戌条)。8月には嘉隆帝の功績を誌した「聖徳神功碑」が設置された(『大南寔録正編』第2紀、巻之4、聖祖仁皇帝寔録、明命元年8月条)

 正面は広さ150丈(600m)、左右と後面の3面は広さ100丈(400m)であり、周囲を城壁で囲んでいる。陵墓自体の四面の城壁は、それぞれ長40丈(160m)あり、門の前には階段がある。陵の右に明成殿という寝殿があり、後方に従祀院がある(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、世祖高皇帝天授陵)。この明成殿は明命12年(1831)3月に修理が行なわれている(『大南寔録正編』第2紀、巻之72、聖祖仁皇帝寔録、明命12年3月条)。また陵の左に聖徳神功碑亭がある(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、世祖高皇帝天授陵)


 授山を封じて天授山とし、郊壇を設けて祀っている。陵の四方周囲に36峰もの山が取り巻いており、それぞれの山は名付けられている(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、世祖高皇帝天授陵)

 また天授陵(嘉隆帝廟)の右の順山には順天高皇后天授右陵がある。紹治6年に「天授右陵」の陵号が定められた。城壁の右に嘉成殿という寝殿がある(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、順天高皇后天授右陵)


天授陵(『KIEN TRUC CO DO HOE』〈Nha Xuat Ban Da Nang、2009〉150頁より部分転載)



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