都城隍廟



都城隍廟跡付近(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 都城隍廟は京城(フエ旧市街)内の南西にかつて鎮座した廟である。都城隍廟とは都における城隍廟、すなわち城壁と堀の守護神であり、もとは中国にて発生した神廟であり、明・清代に大きく発展した。ヴェトナムでは順天元年(1010)9月に城隍を治めているのが最初であるが(『大越史記全書』本紀、巻之2、李紀、太祖皇帝、順天元年9月条)、明・清の制度の影響を受けた阮朝では、都城隍廟が建国間もない時期に建立された。

 都城隍廟は嘉隆8年(1809)正月にに建立された(『大南寔録正編』第1紀、巻之37、世祖高皇帝寔録、嘉隆8年正月正月戊辰条)。その地は京城内の西衛国坊にあたる(『大南一統志』巻之1、京師、群廟、 都城隍廟。都城隍廟は現存しない。

 正堂と前堂はそれぞれ桁行3間で、左右の従祀はそれぞれ桁行5間であった(『大南一統志』巻之1、京師、群廟、 都城隍廟。中央に都城隍の神を祀り、左廡には嘉定・広徳・広南・広治・広平・広義・平定・富安・平和・平順・藩安・辺和・定祥・永清・河僊といった各省の城隍の神を祀り、右廡には北城・清華・乂安・山南・上山・南下・山西・京北・海陽・太原・安広・興化・諒山・高平・宣光いった各省の城隍の神を祀った(『大南寔録正編』第1紀、巻之37、世祖高皇帝寔録、嘉隆8年正月正月戊辰条)。この都城隍廟のために富春の民15人を廟夫として充当した(『大南寔録正編』第1紀、巻之37、世祖高皇帝寔録、嘉隆8年正月正月戊辰条)。後に明命3年(1822)6月には社稷壇とあわせて15人が都城隍廟の守護にあたることになった(『大南寔録正編』第2紀、巻之16、聖祖仁皇帝寔録、明命3年6月条)

 祭祀は毎年の春秋二仲(2月・8月)の社稷壇の祭祀を行なった後の庚日に武官に命じて実施していた(『大南一統志』巻之1、京師、群廟、 都城隍廟

 明命20年(1839)に各省の配位(城隍の神)を撤去した。成泰2年(1890)に解体修理が行なわれている(『大南一統志』巻之1、京師、群廟、 都城隍廟。現在は何も残っていない。ちなみに皇城(阮朝王宮)の紫禁城内の紹芳園の東側には城隍の小祠跡が残っている。これは本境城隍・霊応諸尊神の2柱を祀っていたが、成泰年間(1889〜1907)に廃廟となっている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)


京城図・『大南一統志』巻1より 都城隍廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



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