光明山寺跡



光明山寺跡(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影) 

 光明山寺とは旧山城町(現木津市)に位置した山岳寺院です。
 一時は28宇とも120余舎とも称されたほどの偉観を誇っていましたが、現在では田畑となっており、その様子を偲ぶことすらできません。その跡地は蟹満寺の東の山を1km程登った場所にあります。蟹満寺は白鳳時代よりの由緒がありますが、その蟹満寺でも光明山寺傘下の懺悔堂であった時期すらあったほど光明山寺の威勢は大きかったのです。


光明山寺の開創

 光明山寺は『東大寺要録』巻第6、末寺章第9によると、東大寺の厳モウ(王+罔)によって建立されたとある。この厳モウ(王へん+罔)は 興福寺本『僧綱補任』第3、長元6年条にみえる厳チョウ(王へん+周。UNI7431。&M021074;)であると考えられている。同書によると厳チョウは三論宗で東大寺の僧であり、河内国(現大阪府)の人であるという。このことから光明山寺の建立年代は長元6年(1033)頃であるとみられる。『東大寺要録』は嘉承元年(1106)に編纂され、長承3年(1134)に観厳によって増補・再編集されていることから、この伝承には信ずべきものがある。そのことを傍証するかのように、長治元年(1104)の「右大臣藤原忠実家政所下文案」(東南院文書4ノ8〈平安遺文1613〉)によると、藤原頼通(992〜1074)が光明山寺付近の郷の宿直人(官司に仕える人)に伽藍や近辺の山林を守らせ、樵が木を伐採したり、漁師が魚を捕ることを禁制するように指示していることから、藤原頼通の時代には光明山寺があったことは確かで、『東大寺要録』にみえる光明山寺建立の厳モウの生存年代と合致するのである。

 後代の史料では、文明14年(1482)成立とみられる『笠置寺縁起』によると、役優婆塞、すなわち修験で有名な役行者が白鳳12年壬申4月24日に笠置山に登って千手窟に詣で、北峰一代の峰に始めて修行し、光明山寺を「一之宿」とし、笠置寺を弥勒の岡としたという。「白鳳12年壬申」とあるが、白鳳は『日本書紀』にはみえない年号であり、干支から天武天皇元年、西暦672年を示すようである。

 また同じく後代の史料である『興福寺官務牒疏』によると、宇多天皇(867〜931)の勅願で、真言宗広沢流の寛朝僧正(916〜98)の開基であり、本尊は薬師仏であるという。さらに永承4年(1049)に弘寛僧都によって再建されたとある。寛朝僧正の頃に光明山寺が建立されたと観念づけられたのは中世初期まで溯るらしいが、「弘寛僧都」なる者は『僧綱補任』等の史料にはみえない。


東大寺三論宗の浄土教者 〜永観・覚樹・重誉〜

 上のタイトルに違和感をおぼえる人が多かろうかと思う。
 現在東大寺は「華厳宗」であり、ましてや「三論宗」と「浄土教」がセットとなっているのは、一見不可思議である。しかし古代律令体制より近世にいたるまで、東大寺は「八宗兼学」が原則であり、多くの学僧が東大寺に属した。明治になってから一旦浄土宗となったものの、華厳宗となって現在にいたっている。

 その東大寺であるが、南都最大の寺院でありながらも平安時代初期には法相宗の興福寺におされて、寺勢は振るわなかった。その東大寺の中でも三論宗の勢力は、東大寺内に戒壇院や、空海が建立した真言院等の間に挟まれて、目立つ存在ではなく、また三論宗の中心的寺院は元興寺であったから、「八宗兼学」といいながらも三論宗に限ってはその内実は乏しかった。そのようななかで、醍醐寺開山として有名な聖宝(832〜909)が貞観17年(875)東大寺内に東南院を建立して、東大寺内に三論宗の拠点を形成。以降、東大寺は三論宗の中心的存在となっていったのである。また東大寺三論宗は奈良時代より伝統的に浄土教の流れをもっていた。

 その東大寺三論宗の浄土教者の代表的存在は永観(1033〜1111)であるが、彼は同時に光明山寺の黎明期に居住した存在でもあった。

 永観は『拾遺往生伝』によると、但馬守源国挙の孫で、国経の子である。2歳で石清水別当の元命の養子となり、8歳で山崎開成寺の僧より不動明王呪を受けた。11歳の時、禅林寺の深観大僧都に従い、12歳で出家した。三論宗を主に学んだが、法相宗も学んでいる。その一方で18歳の時より毎日一万遍念仏を唱えており、浄土教者の片鱗を見せている。
 天喜5年(1057)25歳の時、選ばれて平等院の番論議に参加して、名声を得た。また康平7年(1064)には法成寺竪義(りゅうぎ)に参加している。竪義とは問答により学僧の教学理解の浅深を課試する方法であり、延暦寺霜月会・六月会の竪義、園城寺の碩学竪義とならんで法成寺の勧学竪義は「北京三会」と称されるエリート学僧の登竜門であった。これらにみえるように、永観は南都エリート僧として着々とその地位を固めていったが、32歳の時、突然光明山に蟄居した。40歳になって光明山を出て、洛東の禅林寺の東南の方角に東南院という堂に篭った。この8年間、永観がいかなる事を行っていたか、活動は知られない。しかし、光明山蟄居以降の永観の活動は一変したらしく、30歳あるいは40歳以後、永観は病気がちとなり、浮世を厭うようになっていった(以上『拾遺往生伝』巻下、前権律師永観伝)。それでも永観の公的活動はますます活発化し、応徳3年(1086)永観54歳の時には南都僧最大の栄誉である興福寺維摩会の講師に選ばれた(『三会定一記』第1、応徳3年条)。承徳3年(1099)5月28日に権律師となったが、翌日には辞じ(興福寺本『僧綱補任』第5、承徳3年条)、その間、永観の弟子である慶信が東大寺別当になっているが、権律師を辞した翌年には永観も東大寺別当に補された。永観が東大寺別当となったことで、東大寺の再造営が開始され、中世東大寺発展の端緒となった。しかし東大寺別当もわずか2年ほどで辞して禅林寺に戻り、その後は専修念仏を唱えて弱者の救済にあたった。
 永観が光明山寺に住したのはわずかに8年間にすぎないが、人里隔てた光明山寺に篭って修行したことは、この後の光明山寺史においても重要な意味をもつ。永観が光明山寺でしたように、本寺を離れて人里隔てた場所に居を構えて住み、修行や念仏を行う場所のことを「別所」という。後に別所は勧進の拠点・墓寺ともなり、その様相を変容させていくが、前記のような意味でいえば、光明山寺は典型的な「別所」であり、「山城国別所」と表記された(『拾芥抄』巻4、諸寺部第9、諸寺、光明山)

 ほかに光明山寺に住した僧として覚樹(1081〜1139)があげられる。
 覚樹は東大寺三論宗の僧で、六条右大臣(源顕房)の子である(興福寺本『僧綱補任』第6、大治4年条)。慶信の弟子で(『三論祖師伝集』巻下、覚樹伝)、伊賀国名張郡黒田荘を慶信法印より相伝している(「東大寺衆徒解案」東大寺文書4ノ1〈平安遺文3732〉)。ということは永観の孫弟子にあたることになる。
 長治元年(1104)8月1日の弘徽殿御八講に東大寺の聴衆として列席し(『中右記』長治元年8月1日条)、天永元年(1110)に30歳で興福寺維摩会講師となった(『三会定一記』第1、天永元年条)。その後覚樹は東大寺によって筑前国観世音寺と本末関係を樹立するため、保安元年(1120)6月頃に大宰府観世音寺に下向したと考えらている。覚樹は高麗版続蔵経の輸入を計画して、宋商の荘永・蘇景が高麗より聖教100余巻を入手した。この間宋商ら一行は壱岐で海賊で襲撃されたが反撃、捕縛している。
 大治4年(1129)10月28日に権律師に補せられているが(興福寺本『僧綱補任』第6、大治4年条)、覚樹は前年9月より病床に臥せっていたらしく、この年12月17日には藤原宗忠が覚樹の住する光明山に見舞いに訪れている(『中右記』大治4年12月17日条)。天承2年(1132)5月27日には権少僧都に転じた(興福寺本『僧綱補任』第6、天承2年条)。保延4年(1138)に辞職し、権少僧都を実意に譲って退いた(同書、保延4年条)。その間、長承2年(1133)大和国城上郡大神庄に所有する田地15町余を藤原中子の所領黒田荘中村と交換している(「権少僧都大神荘相博券案」東大寺文書4ノ77、平安遺文2259)
 保延3年(1137)10月24日に覚樹は東大寺東南院の南新屋で『倶舎論疏』の校点を終了したことが同書巻6奥書(石山寺蔵、『平安遺文』題跋編1445)にみえるが、維摩会ならびに光明山八講にて校点作業が遅滞したことを述べている。覚樹は保延4年(1138)2月14日、59歳で入滅した(興福寺本『僧綱補任』第6、保延4年条)。著作に『十二礼疏』1巻があったという(『浄土依憑経論章疏目録』釈教録第3)が、現存しない。歌人としても知られており、「普賢十願文に願我臨欲命終時といへる事をよめる 覚樹法師 命をも罪をも露にたとへけり消えばともにや消えんとすらん」(『金葉和歌集』に巻第10、雑下、第633番歌)が残る。その名は生前に中国にまで轟いており、崇梵大師明遠という宋の僧が仏舎利80顆を送られている(『三論祖師伝集』巻下、覚樹伝)。弟子に真言の名匠である寛信、画僧の珍海、後述する重誉がいる。

 重誉(生没年不明)は、光明山理法房に住した僧で、覚樹の弟子である(『浄土依憑経論章疏目録』集義録第4)。三論宗の学匠であるとともに、密教も習学しており(『浄土法門源流章』大日本国浄教弘通次第)、密教は真言宗小野流の静誉(後述)より受学している(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)。そのため密教関係の著作が多く、保延4年(1138)8月頃に光明山において『秘宗深密抄』を著している(金沢文庫蔵『秘宗深密抄』奥書〈『平安遺文』題跋編1509〉)。また同6年(1140)3月には空海の『秘密曼荼羅十住心論』の要義を論述した『十住心論抄』(大正蔵2442)を著している。浄土教に関する著作もあり、『西方集』3巻を撰述した(『浄土法門源流章』大日本国浄教弘通次第、および『浄土依憑経論章疏目録』集義録第4)

 この3人の師弟はいずれも東大寺三論宗の僧であり、とくに永観・覚樹は興福寺維摩会講師となる等、南都学僧のエリート的存在であった。そうでありながら一方で3人は浄土教者であり、山深い光明山寺に篭っており、永観が念仏者であったように、その弟子・孫弟子であった覚樹・重誉もまた念仏者であった可能性が高い。彼ら東大寺三論宗の浄土教者は、「光明山流」と称され、浄土教成立史の上で、看過せざる影響を及ぼした。


蟹満寺遠景(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影) 

関白藤原忠実と光明山寺 〜教海・頼基〜

 光明山寺の運営に俗権側から支えたのが関白藤原忠実(1078〜1162)である。

 光明山寺と藤原摂関家の繋がりは、藤原頼通(992〜1074)の時代まで遡るということは前述した通りであるが、長治元年(1104)5月の「右大臣藤原忠実家政所下文案」(東南院文書4ノ8〈平安遺文1613〉)によると、興味深い事実がみえてくる。

 それによると、光明山寺は伽藍が建立された後、「本願聖人」が光明山寺を往還する人の為に、光明山寺の「坂」に松の木を植えた。「坂」というのは蟹満寺よりのびる1kmほどの陸橋のことと思われるが、現在では松ではなく竹が生えている。「本願聖人」が松を植えたのは猛暑の時には日陰で涼むことができ、また冬の寒い時には風を防ぐことができるからであった。しかし郷民が焼畑のため毎年春、野に火が放っていた。「坂」の間の道の左右には無数の率都婆が林立していたのであるが、この火によって卒都婆がすべて焼失。それだけではなく、徐々に火が堂舎・僧房に近づいてきているため、これらも焼失する恐れが無きにしも非ずという状態となってしまった。そのため藤原忠実は、樵が木を伐採したり、漁師が魚を捕ることを禁止し、もしこれを承知せず乱入する者があった場合、その名を書き連ねて申上させることとしたのである。

 光明山寺において、藤原忠実と関係の深かった僧は教海である。永久4年(1116)12月9日に忠実は熊野使のことについて光明山聖人を召して質問しているが(『殿暦』永久4年12月9日条)、この「光明山聖人」というのが教海である。
 翌永久5年(1117)正月20日に忠実とその室の師子、子の忠通が仏体供養を行った際、光明山寺において教海が大威力徳法ならびに大般若経を行っている(同書永久5年正月20日条)。これに関連するのか、8日後の正月28日に忠実は光明山寺を祈願所とし、その四至内の樵採漁猟を再度禁止している(「関白家政所下文案」東南院文書4ノ8〈平安遺文1866〉)。5月2日、関白藤原忠実は熊野に使を遣わしたが、この時光明山聖人(教海)は精進を行い、忠実と室の師子、その息女も精進した。

 ほかに藤原忠実と関係の深かった僧に僧都頼基(1052〜1134)があげられる。彼が光明山寺に隠棲したことは『金葉和歌集』巻第9、雑上、第538・539番歌の橘能元との贈答歌にみられる。

僧都頼基光明山に籠りぬと聞きてつかはしける 橘能元
 うらやまし憂き世をいでていかばかり隈なき峰の月を見るらん  
返し 僧都頼基
 もろともに西へや行くと月影の隈なき峰をたづねてぞ来し  

 頼基が僧都に補任されたのが、元永3年(1120)12月で、保安3年(1122)に僧都を辞退している(興福寺本『僧綱補任』第5、元永3年条および保安3年条)ことから、頼基が光明山寺に篭ったのは元永3年(1120)12月から保安3年(1122)の間であるということがわかる。頼基の隠棲は光明山寺が摂関家の祈願所であったことも関係するとされている。


法相宗の実範

 天養元年(1144)9月10日、光明山寺にて実範(?〜1144)という高僧が没した。彼は法相宗の僧侶でありながら、公的活動は密教を中心とし、また戒律を復興。晩年には浄土教を信仰するなど、南都僧という位置づけのみでは語り得ない僧である。内大臣藤原頼長は実範が病であることを聞いて、式部大夫盛憲を光明山寺に遣わして見舞いしていたが、それもむなしく光明山寺の自房にて他界した。ある人は極楽に往生したといったが、実範は年来心を安養につとめていたともいわれていた。また臨終の時に弟子達は極楽往生の証である音楽を聞いたという(『台記』天養元年9月10日戊午条)

 実範は藤原顕実(1083〜1110)の第4子である。はじめは興福寺に投じて法相宗を学んだが、のちに醍醐寺にゆき、密教を厳覚(1059〜1121)に学んだ。これより前のある日、厳覚は青竜が池に出て首をかたむけ清水を吹くという夢をみた。翌日門徒に「今日まさに受法の人あるべし。汝ら道場を灑掃せよ」といったが、はたしてその通りに実範がやってきた。これによって厳覚は自らもてるところのすべてを実範に付した(『元亨釈書』巻第13、明戒6、中川寺実範伝)。永久4年(1116)10月13日に曼荼羅寺にて厳覚より伝法潅頂を授けられた(『血脈類集記』第4、権大僧都厳覚)。『了因決』潅頂(大正蔵2414)に『息心抄』からの引用として、「実範がいうところによると、“秘密潅頂はただ小野流にあって、私実範は厳覚僧都よりこれを受けた。厳覚僧都は信覚僧正よりこれを受けた。(厳覚僧都の弟子の)寛信・静誉らはこれを求め請うたが、不肖の身によって許されなかった。私のところでは(人に授けることを)思いとどめたが、範俊僧正は二・三人に授け、彼の所より多く弘まっていった。その作法はおおむね伝法と大異小同である。”」とあるように、厳覚は弟子に授けていない秘密潅頂を実範に伝えている。実範が秘密潅頂を受けたことによって、以降真言僧として公式の活動にたびたび姿をみせるようになり、天仁3年(1110)、永久6年(1118)、元永2年(1119)、元永3年(1120)の宮中真言院における後七日御修法に勤仕している(『御質抄』末)

 実範はこの後横川の明賢の所に行き、天台を学んだ。このように実範は博く諸宗を探索したが、律宗が傾頽していることを嘆き、さがしもとめていた。そこで念じて「戒が貴いのは伝授するからである。わたしが戒律に精究していたからといってどうして師がいないのに承けるというのはいかがなものであろうか?」といった。ある日、唐招提寺から銅筒によって清水が中川に通るという夢をみた。めざめてこれが好相であると判断し、明朝唐招提寺に赴いた。唐招提寺は鑑真の時代より数世代へており、建物は荒廃し、僧達は居住せず、庭などの境内地は半ば田畑となっていた。実範が唐招提寺に入ってみたが、僧侶はおらず、ただ寺の傍らに禿丁(僧侶の蔑称。「腐れ坊主」というような意味)が牛にむちうって田を耕していた。そこで実範は彼に「真公(鑑真)の影堂はどこにあるのか」を問うたところ、禿丁はある場所を指さした。実範はまた「この寺に僧はいないのか?」と問うたところ、答えて「私は儀相を全うしていないとはいえ、さきに少し四分戒本を聴いたことがある。」といった。実範はこの出会いがまたとないものであることを悟り、禿丁に受戒を乞うた。すると禿丁は犁を手放して牛を放ち手を洗って、実範をともなって影堂の中に向かい、実範に受戒した。これによって断絶しかかっていた戒律の戒灯が実範に伝えられた。そこで中川寺に帰って律講を開き、羯磨を行じた。この時より戒律の法が再興されたのであった。実範が忍辱山にいて花を採取していた時、中川山の地に至ってここがすぐれた土地であることを見抜いた。そこで官に申請して伽藍を建立して、成身院と名づけた。これが後に中川寺となった。実範は後に光明山に移り、そこで没した(『元亨釈書』巻第13、明戒6、中川寺実範伝)

 実範の著作には『阿字義』1巻、『阿字要略観』1巻、『往生論五念門行式(念仏式)』1巻、『観無量寿経科文』1巻、『大経要義鈔』7巻、『東大寺戒壇院受戒式』1巻、『抜次第口決』、『般舟三昧経観念阿弥陀仏』1巻、『病中修行記』1巻、『眉間白毫集』1巻、『臨終要文』があり、ほかに静誉と実範の談話を抄した『入曼陀羅鈔』7巻がある。これらのうち、『臨終要文』は奥書によると、光明山にあった成身院根本(実範)本と草本があり、光明山寺に入ってから完成したと思われる。

 光明山寺に入ってからの実範の活動は、『台記』の記述もあってか浄土教者として語られる事が多いが、保延7年(1141)に無垢浄光陀羅尼法を行っているように、密教的活動が停滞したわけではない。
 鳥羽上皇は実範に無垢浄光陀羅尼法を修法するよう院宣を下したが、鳥羽上皇は疑問をもったのか、同門の寛信(1084〜1153)に対して実範が無垢浄光陀羅尼法を習っているかどうか問いただしている。寛信は支度を敬愛法(愛染明王・千手観音を本尊にし、護摩を焚く法)にて行う旨の書進を得ている旨を答えた。それによって光明山寺において実範は無垢浄光陀羅尼法を修法した(『覚禅鈔』巻第38、無垢浄光陀羅尼法、勤修先跡)。この修法を行ったのはいつであるか不明だが、保延7年(1141)6月19日付の実範の無垢浄光陀羅尼法支度の注申があり、その時に行われたのであろう。無垢浄光陀羅尼法の本尊は本来は阿弥陀であることが多いが、この時に実範は金剛界を懸けて敬愛法にて修法を行ったので、後世にまで物議を醸している(『厚造紙』無垢浄光陀羅尼法、大正蔵2483)


真言僧と光明山寺 〜静誉・心覚・慶雅〜

 光明山寺は南都僧が建立・発展させたものであることは前述したが、多彩な僧の顔ぶれはやがて光明山寺を典籍の集積地とし、さらに多くの学僧を呼び寄せた。その結果南都の僧のみならず醍醐寺・勧修寺・高野山・石山寺・仁和寺といった真言系寺院の僧侶も光明山寺に居住することとなったのである。光明山寺に居住した真言僧のうち、名が判明するのは静誉・心覚・慶雅の3人である。

 静誉(1077〜?)は越前阿闍梨とも称された。小野隨心院で修行し、長治2年(1105)に範俊(1047〜1112)の弟子となった(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)。嘉承2年(1107)12月9日に範俊より胎蔵界を受けている(『血脈類集記』第4、権大僧都範俊)。さらに永久2年(1114)4月19日に38歳で勧修寺にて厳覚より金剛界を受けている(『血脈類集記』第4、権大僧都厳覚)。伝灯は範俊より受けたという(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)が、厳覚より伝灯を受けたとする見解(『本朝伝法潅頂師資相承血脈』)もあり、ともすれば前述の実範の法姪となる。また前述したように、厳覚は金剛界法を弟子の静誉に授ける以前に、他宗派の実範に授けるようなことをしている(『了因決』潅頂)。静誉はその後石山寺に住んだが、さらに光明山寺に住み、光明山流を形成した(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)。元永3年(1120)および仁平2年(1152)の宮中真言院の後七日御修法に参加している(『御質抄』末および「真言院後七日御修法請僧交名」東寺百合文書ふ函2-8、2-40)。年未詳だが、藤原忠実が鴨院にて御祈の際に文殊鎮家法を修している(『師口』〈大正蔵2501〉巻1、文殊鎮家法)。著作に『入曼荼羅鈔』7巻あるというが、実際には静誉と実範の談話を抄したものである。弟子に真誉・重誉(前述)・増忍・覚暹の4人がいた(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)。また俊乗房重源より白檀の三寸阿弥陀像一体と不動尊一体を譲渡された「越前阿闍梨」なる人物がいるが(『南無阿弥陀仏作善集』)、静誉とは別人であるようである。

 心覚(?〜1180/1182)は、または宰相阿闍梨ともいう。著作はきわめて多く、『別尊雑記』57巻、『入唐記』1巻など140部にものぼる。園城寺の住僧で、参議平実親の子である。園城寺の門徒となって、天台の止観を学んだが、綱維の宗班を楽しまず、ただ菩提をもって望みとしたという。25年もの間、光明山に住んでいたが、その後光明山を出て高野山に移った(『高野山往生伝』宰相阿闍梨心覚伝)。『久安四年記』(歴代残闕日記)に久安4年(1148)12月の平実親の葬儀に参加した「光明山〔郷覚〕」なる僧がいるが、おそらくは心覚のことであろう。永暦2年(1161)6月13日、高野山の別所である小田原別所(浄瑠璃寺)で賢覚より伝法潅頂を重ねて受けた(『血脈類集記』第4、大法師賢覚)。また承安元年(1171)7月8日に浄瑠璃寺にて八祖御影供が行われているが、この八祖御影等の本尊・座敷は光明山より心覚が取寄せたもので(『浄瑠璃寺流記事』)、これによって心覚が光明山寺を出てから高野山に居住するまで、浄瑠璃寺にいたことが知られる。養和2年(1182)6月24日に示寂した(『高野山往生伝』宰相阿闍梨心覚伝)とも、治承4年(1180)6月24日に示寂した(『高野春秋編年輯録』巻第7、治承4年6月24日条)ともいう。

 慶雅(1103〜?)は経雅・景雅・鏡賀・景覚など多くの名を称した。慶雅は、真言では実範の弟子で浄慶坊阿闍梨と称され(『血脈類集記』第5、権律師宗意、裏書)、華厳の法系では東大寺尊勝院光智の流れをくむ良覚の弟子である(『三国仏法伝通縁起』巻中、華厳宗)。慶雅は石山寺を拠点とした真言宗僧侶の一人に数えられ(『石山寺流記』真言法流事)、仁和寺華厳院を房としており(『仁和寺諸堂記』花厳院)、仁和寺と醍醐寺に居住して仁和寺御室に近侍した(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』巻第4)。慶雅の活動で目立つのは経典の書写であるが、その多くを光明山にて行っている。
 長承3年(1134)8月17日に『毘盧遮那神変経演密鈔』(石山寺蔵聖教第11箱〈『平安遺文』題跋編1350〉)の書写を終了したのをはじめとして、保延5年(1139)6月14日に『金剛寿命陀羅尼念誦法』(醍醐寺聖教319函〈『平安遺文』題跋編1535〉)、保延5年(1139)7月2日に『普賢金剛薩タ(土へん+垂。UNI57F5。&M005190;)瑜伽念誦儀軌』(石山寺聖教第18箱〈『平安遺文』題跋編1539〉)、天養元年(1144)6月27日に『法身三密観図』(石山寺聖教第23箱〈『平安遺文』題跋編1643〉)、天養2年(1145)正月11日に『聖位経』(石山寺蔵儀軌甲箱〈『平安遺文』題跋編1671〉)、天養2年(1145)2月24日に『大方広曼珠師利経観自在授記品経』(石山寺聖教第17箱〈『平安遺文』題跋編1675〉)、久安元年(1145)10月11日に『金剛界神秘』(石山寺聖教第13箱〈『平安遺文』題跋編1704〉)、久安2年(1146)2月23日に『仏説大孔雀明王画像壇場儀軌』(石山寺聖教第116箱〈『平安遺文』題跋編1722〉)、久安2年(1146)2月30日に『瑜祇惣行法私記』(石山寺聖教第12箱〈『平安遺文』題跋編1724〉)、久安4年(1148)5月24日に『伽駄金剛真言』(石山寺聖教第19箱〈『平安遺文』題跋編1808〉)、久安6年(1150)11月7日に『胎蔵界許可伝教儀式』(石山寺聖教第7箱〈『平安遺文』題跋編1935〉)、仁平3年(1153)3月26日に『法華経開題』(大正蔵2190)をと、真言宗の仏典の書写を光明山寺にて行っている。このうち詳細な場所が判明するのが、天養元年(1144)に光明山草庵にて書写した『法身三密観図』と、久安2年(1146)に光明山西谷において書写した『瑜祇惣行法私記』のみである。または成身院本を底本としている。この成身院とは中川寺のことで、前述の通り師実範の開創である。保元2年(1157)正月13日に法橋に叙された(『御室相承記』巻5、紫金台寺御室、臨時御奏聞)
 承安4年(1174)6月17日に勧修寺西明院において光明山少納言公の本を以て『諸真言』(石山寺聖教第26箱〈『平安遺文』題跋編2728〉)を書写している。また書写者名はないが、承安4年(1174)9月20日に勧修寺西明院において光明山少納言公の本を以て『胎蔵厚紙次第』(石山寺儀軌乙箱〈『平安遺文』題跋編2744〉)を書写したのも慶雅と思われる。その後の活動は判然としないが、承安3年(1173)、承安5年(1175)、治承3年(1179)の宮中真言院における後七日御修法に勤仕している(「真言院後七日御修法請僧交名」東寺百合文書ろ函1-13・15・19)。文治5年(1189)閏4月30日に東大寺にて『華厳論章』(大正蔵2329)を書き終わっている(『華厳論章』奥書)。弟子に真言では郎証が(『血脈類集記』第5、権律師宗意、裏書)、華厳では高山寺明恵10歳の時に雑華を教えている(『元亨釈書』巻第五、慧解2之4、栂尾寺高弁伝)。また法然が景雅のもとを訪れ、両者はしばらく法談して、景雅は法然に華厳の血脉と書籍を授けたという(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』巻第4)。著作は前述の『華厳論章』のほか、『金師子章勘文』(大正蔵2346)がある。


光明山寺跡より東方をのぞむ(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影)

以仁王の討死と南都焼打ち

 治承4年(1180)5月26日に以仁王が光明山の鳥居前で討死している。

 4月9日、平氏の専横によって皇位継承の可能性を失った後白河法皇の皇子である以仁王(1151〜80)は源頼政(1104〜80)のすすめにより、平清盛追討の令旨を出した。しかし、計画は整わないうちに洩れてしまい、5月15日には以仁王配流の宣旨が発せられてしまい、以仁王は園城寺に逃亡した。そこで山門の協力を得ようとしたのだが、園城寺に留まって山門の協力が得られようはずもなく、南都に逃れようとしたが、26日に宇治川の合戦にて大敗し、30騎ほどで敗走したところを追撃され、光明山の鳥居の前で追いつかれて矢を雨のようにあび、以仁王の左腹にあたって落馬し、頚を取られて討死した。これをみた以仁王の配下の鬼佐渡・荒土左・あら大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀・金光院の六天狗も次々と討死した(『平家物語』巻第4、宮御最期)。現在宮内庁治定による以仁王墓が光明山山麓にある。

 これ以降、反平氏の蜂起が頻発したが、南都の東大寺・興福寺も反平氏側にたって、盛んに反平氏運動を繰り広げていた。そのため南都は平氏の攻撃によって壊滅することとなる。その前兆は治承4年(1180)12月28日に九条兼実(1149〜1207)のもとに平重衡(1157〜85)の軍勢が光明山を焼こうとしているとの風聞が流れている(『玉葉』治承4年12月28日条)ことからも明らかであった。この時に光明山寺が焼かれたかどうかは不明である。むしろ平重衡が目指したのは光明山をさらに南に下った南都の本拠である東大寺・興福寺で、両寺は徹底的に焼かれた。


光明山明遍

 明遍(1142〜1224)は藤原信西(通憲)の末子である(『元亨釈書』巻第5、慧解2之4、高野山明遍伝)。父の信西(1106〜59)は院の近臣として政界の実力者であったが、権力抗争に端を発する平治の乱(1159)で自害。子の多くは配流となり、明遍も越後国に流された(『平治物語』上、信西の子息遠流に宥めらるる事)。赦免後、明遍は三論宗の敏覚の門弟となった。信西の子孫には僧侶となった者が多く、明遍の兄に澄憲(1126〜1203)・勝賢(1138〜96)、甥に聖覚(1167〜1235)・貞慶(1155〜1213)がいる。明遍はやがて三論の奥旨をきわめたとして、才名が世に知られ、嘉応2年(1170)には興福寺維摩会講師に選ばれている(『三会定一記』第1、嘉応2年条)。承安元年(1171)5月20日の最勝講では呪願師を勤め(『玉葉』承安元年5月20日条)、24日の夕座講師も勤めた(『玉葉』承安元年5月24日条)。また翌3年(1173)5月27日の最勝講の夕座講師を務めた(『玉葉』承安3年5月27日条)。また翌4年(1174)10月17日より関白松殿基房(1145〜1230)は当時の能説5人を屈請して5ヶ日の間、日ごとに五部大乗経を供養することとしたが、このなかの5人に明遍が選ばれている(『玉葉』承安4年10月17日条)。安元2年(1176)5月23日の最勝講でも明遍は講師の一人に選出されている(『玉葉』安元2年5月23日条)
 このように貴族の仏教的活動に参加しながらも、明遍の名利を厭う心は深く、本寺における交わりを好まなかった。そこで治承4年(1180)37歳の時、光明山に居を構えた。ここでは諸行を捨てず、万善を厭わず、ひろく顕密の勤行を行った(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』巻第16)

 明遍は真言密教にも造詣が深く、密教の法系は実範(前述)の資明恵(高山寺の明恵とは別人らしい)の資となっている(『血脈類聚記』5、裏書)。また明遍は守覚法親王(1150〜1202)の命により『十住心論第七勘文』も作成しており、浄土教の著作にでは『往生論五念門略作法』1巻、『往生論臨終五念門行儀』1巻、『往生論五念門略鈔』1巻、『往生行儀』1巻(『浄土依憑経論章疏目録』上、第3、釈経録)、『五念門頌』1巻(『蓮門類聚経籍録』上 正依論釈類)、『念仏往生得失義』1巻(『蓮門類聚経籍録』下、他師章疏類)があった。その後明遍は大原談義に参加したことによって、浄土宗では現在でもその名を知られている。

 大原談義とは、法然(1133〜1212)が専修念仏を説いたことによって、人々の間に興味と疑念が生じ、その真贋をただすため文治2年(1186)に天台宗の顕真(1131〜92)が大原の勝林院の自坊に法然と当時の碩学を招集して行った問答である。これより前に、顕真は永弁を使者として法然のもとに遣わして、坂本に法然を呼び寄せた。顕真は法然の答弁に感動して大原に隠居し、浄土教の章疏の研究を行っていた。しばらくして顕真は法然および重源・永弁・明遍・貞慶・印西・湛学・大原の本成坊・蓮慶・智海・証真を招集し、問答を行った。この問答を聴衆およそ300人ほどが見守った(『大原談義聞書鈔』・『西方指南抄』中巻、末、源空聖人私日記)

 隠遁後はめだった公的な活動は行わなかった明遍であるが、三会の人事をめぐる論争にまきこまれている。三会とは興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会の南京三会、平安時代後期に併設された円宗寺法華会・最勝会大乗会・法勝寺大乗会の北京三会のことである。これら法会の講師を歴任した者は已講と称され、已講は貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、三会は僧綱位への登龍門であったが、南京三会に北京三会が追加されたため、已講の人数は増加傾向となり、僧綱の定員もそれにしたがって増加した。それでも年間6人の候補がいるのであるから、僧綱に任用されない者も少なくなかった。そこで三会已講および已講経験者で僧綱位にあるもののうち、次に僧綱に任用されべき者を年次ごとに輪転リストを「三会巡」という。文治2年(1186)5月29日、九条兼実のもとに興福寺権別当の覚憲が来て、「三会巡」適用者が僧綱に任用されないことについての不満をのべている(『玉葉』文治2年5月29日条)

 承安2年(1172)維摩講師の信円はすでに僧正に任じられていたが、承安元年(1171)維摩講師は弁暁(1139〜1202)、承安3年(1173)維摩講師は勝詮(1106〜1200)であった。このうち弁暁は前年に少僧都に任ぜられていたため、この年に大僧都に任するということは、「過分」であると考えられていた。またそのようにすると勝詮を少僧都に任ずる必要が出てくるのであり(『玉葉』文治2年6月5日条)。その「三会巡」調整のため、彼らより以前の嘉応2年(1170)に興福寺維摩会講師をつとめていた明遍に注目が集まったのである。そこで明遍に僧綱位に任される意志があるか問い合わせをしたが、明遍は固辞した。そこで弁暁・勝詮との間で調整することとなったが、それでも弁暁が去年少僧都に任ぜられているため、上臈とすることはしないとの方針が確定された(『玉葉』文治2年6月6日条)。三会巡は明遍が適用されるが最善であるものので、それが無理であれば、勝詮ではどうであろうかと、後白河法皇は述べている(『玉葉』文治2年6月10日条)

 三会巡は明遍が第1位であるが、光明山に隠遁したため、僧綱位を臨んでいなかった。そこでむりやり任命することとなった(『玉葉』文治2年6月12日条)。結局、文治2年(1186)6月28日に明遍律師を三会巡が第1位であるため、少僧都に任じた。三会巡が第2位の信円僧正は僧綱位を所望しなかったためそのままとなり、三会巡が第3位の弁暁は去年臨時に少僧都に任ぜられたため、今年大僧都に任ずるのは過分であると沙汰・評定された(『玉葉』文治2年6月28日条)

 このようにして明遍45歳の時、少僧都を宣下されたが、かたく辞してしたがわなかった。明遍は隠遁の思いがいよいよ強くなり、建久6年(1195)54歳にして光明山を離れ、高野山に移り住んだ(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第16)。高野山では蓮華谷に蓮華三昧院を建立した。明遍は元仁元年(1224)6月16日に83歳で高野山にて示寂した。この間の明遍の消息は不明だが、善光寺に参詣し、帰りに法然に対面して問答したという伝承がある(『一言芳談』巻之上)。また明遍は隠遁を徹底するあまり、兄達が提唱した父信西の十三回忌の出席を拒絶したという説話があるが(『沙石集』第10本、俗士遁世シテル事第4)、信西の十三回忌の年(1172)と、説話中で明遍が隠遁していた高野山に実際に住した年(1195)が著しく異なるので、仮託説話と思われる。また園城寺長吏の公顕の行業を、明遍が遁世聖の善阿弥陀を遣わして試させたという説話(『沙石集』巻第1、出離ヲ神明ニ祈事第3)もある。


宮内庁治定以仁王墓(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影) 

光明山寺の拡張と変容

 光明山に多くの住僧が増えるにつれ、光明山寺の規模の拡大していった。保安5年(1124)には北谷に観尊が『菩提心論』1巻を書写したことがみえる(『菩提心論』奥書〈三千院円融蔵桐函装束箱、三千院円融蔵文書目録〉)ほか、天養元年(1144)には経雅が光明山の草庵にて『法身三密観図』を書写している(『法身三密観図』奥書〈石山寺聖教第23箱、平安遺文題跋編〉)。また久安2年(1146)には同じく経雅が光明山西谷において『瑜祇惣行法私記』を書写しており(『瑜祇惣行法私記』奥書〈石山寺聖教第12箱、平安遺文題跋編〉)、文永3年(1266)には三論宗智舜が光明山東谷往生院にて『涅槃論疏』を書写している(『涅槃論疏』奥書〈東寺観智院聖教又別第34箱20、東寺観智院金剛蔵聖教目録18〉)。このように140年ほどの間に光明山寺は北谷・南谷・東谷と拡張を続けており、また建仁3年(1203)10月24日に光明山の尼御前が法隆寺学衆の田楽の料足を沙汰している(『法隆寺別当次第』成宝僧都、建仁3年10月24日条)ように、光明山には尼僧の住房すら形成されていた。

 またそれまで光明山は三論宗・真言宗・法相宗の僧侶が別所に住むという、雑多な環境であったのが、この頃までに東大寺末寺として明確に位置づけられるようになっていった。例えば嘉禎4年(1238)10月8日に東大寺大仏殿千僧供養が行われたが、末寺として光明山寺の僧9口が出仕している(『東大寺続要録』供養篇、本、大仏殿千僧供養事)。この頃より光明山寺は別所から東大寺末寺としての光明山寺へ脱却したようであり、光明山寺跡から建長元年(1249)に東大寺三面僧坊にて製造された軒丸瓦KsM51が発掘されている(光明山寺跡出土軒丸瓦KsM51銘)。近年の発掘調査によると、12〜15世紀の遺物が発掘されており、四本柱の楼門跡、高野山形水洗式トイレの遺構が発掘されているが、このようにこの頃から光明山寺は「寺」として伽藍が整備されていった。このよう組織化された光明山寺は、「一和尚」が統轄し、本寺東大寺との折衝にあたった。

 さらに光明山寺の規模は拡大をとげ、以仁王が討死した光明山の鳥居の前というものが麓であったことから考えると、光明山寺の規模というのは一山のみならず、麓まで侵出していたことが窺える。また住房が28宇(『興福寺官務牒疏』)とも120余舎(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)とも称され、蟹満寺ですら光明山寺の懺悔堂(『伝灯広録』後巻第1、城州光明山上人静誉伝)ほどの位置づけまで転落した。

 このような光明山寺の急激な拡張は、周辺荘園およびその荘民との間に摩擦をもたらした。建暦3年(1213)頃、光明山寺と興福寺寺務領の綺(かば)荘との間で相論が発生し、綺荘民が光明山寺のボウ示(荘園等の境界を定めた標識)を掘り捨てるという事態が発生している(東大寺所蔵探玄記第十七巻義決抄第一裏文書、鎌倉遺文1981・1983・1985)


説話にみえる光明山寺

 説話集は平安時代初期の『日本霊異記』からはじまり、平安時代後期の『今昔物語集』を頂点として鎌倉時代に多くの説話集が編纂された。これらは編者の仏教的世界観が組みこまれており、必ずしも伝えられた説話そのものであるわけではない。例えば光明山寺の麓に位置する蟹満寺の縁起は、平安時代中期の『大日本国法華経験記』にいたってはじめて蟹満寺の縁起に組み込まれるのであり、それ以前の『日本霊異記』『三宝絵詞』にいたってはただの蟹の恩返し程度の説話にすぎない。
 しかしながら説話集は史料の間の同時代人の考え方を補完する意味があり、また説話集でなければその時代の様相・雰囲気というものはつかむことができないほどである。また説話集にみえる寺社は、人々の間でどのように寺社を信仰してきたかをみることができる貴重な史料である。光明山寺と同じ旧山城町に位置した高麗寺も同時代史料上では『日本霊異記』にみえるのみであるから、その重要性の一端を知ることができよう。

 この光明山寺も説話の舞台となっている。鎌倉時代に成立した『十訓抄』には以下のような説話がみえる。


 光明山という山寺に、老いた尼僧がいた。どのようなことがあったのか、日吉の明神が憑き悩まし、さまざまな詫宣などが聞えてきた。
 ある僧は尼僧を嫌っており、尼僧のみうちとけなかった。心つきなくおぼゆる上に、奈良では日吉山王は崇め奉らないという風習があったので、(憑依が本当か)試してみようと思って、この尼僧に向ってこういった。
 「本当に大明神が現われたのだったら、私のいうことを判断してほしい。私は極楽(往生)を願う志がある。どのような行が必ず往生の業であるのでしょうか?。この事は(私は)凡夫の心が暗いので、判断が難しいのです。」
 尼僧はこういった。
 「お前が私を試そうとする志は気にくわないが、いいかげんでも往生の業という事、どうして教えないようなことがあろうか。生ずる所行というものは何にでもある。衆生の宿執はさまざまであるから、仏の教えも色々あるのだ。いずれも愚かでなければ、さしてそのこととは定められない。信をいたし功をつめば、できることなのだ。ただしこの事に、どの行にも必ず深くすべきことが二つある。」
 この僧は(これを聞いて)思うに、どれほどのものかと、いいかげんがてらに言ったのを、このように実に判断したことに、貴い気持ちとなり、「私はもとより西方の行者です。はやく(二つのことを)うけたまわって、深く信じましょう。」といった。
 尼僧は再度教えて、「二の事というのは、慈悲と質直である。これを両方備え合わせていなければ、どのような行をつとめようとも、往生を遂げることは極めて難しい」と申された。僧は両手を合わせえ、「二つの事を両方備え持つと言うことは、長らく絶えています。どのようにすればよいのでしょうか?」といった。「二つの事を備え合わせることが難しければ、せめて慈悲はおそろかであっても、質直であろうと思いなさい。心貴高くなければ、浄土に生ずることはけっしてない。」と仰せられた。
 そのため『維摩経』には、「質直、これこそが浄土である。」と説かれている。法華経には、「柔和質直者」といい、また「質直以柔軟」とものべて、寿量品のいくほどならぬ偈の中に、二所までも教えておられる。また八幡大菩薩はかたじけなくも「正直のものの首にやどらむ。」とお誓いになるにあわせて、
  ありきつゝきつゝみれどもいさぎよき
  ひとのこゝろをわれわすれめや
とお読みになっていることは心強いことである。こういうわけだから二世の望みを兼ねて遂げるという事、なおいいがかりをつけることはあってはならない。


北方より光明山寺跡をのぞむ(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影) 

光明山寺と古河荘の境相論

 建長6年(1254)10月30日、東大寺末寺光明山寺の住僧は、古河荘雑掌藤左衛門尉安定が新たに非法を行い、刃傷を企てた、と訴えている(「関東御教書案」東大寺文書〈鎌倉遺文7816〉)

 この古河荘園とは、近衛家領で、東大寺末寺の光明山寺とは境界を接していた。これ以降、光明山寺と古河荘は58年にもわたって境相論を繰り広げることとなる。弘安8年(1285)8月には興福寺衆徒は光明山寺との境論争の報復のため、東大寺領の福田庄・岩室庄が興福寺衆徒によって顛倒されている(「東大寺注進状案」東大寺文書4ノ44〈鎌倉遺文15649〉)

 この争論に東大寺東南院僧正は朝廷に訴え、文永7年(1270)5月3日には光明山寺と古河荘の境相論について、亀山天皇は勘状を進るよう命じている(「亀山天皇綸旨案」東南院文書4ノ8〈鎌倉遺文10627〉)。それによったか、同月26日にはの永久政所下文(1117)のままに四至の内は光明山寺領とし、田畑は建久検注帳のままに古河荘の領掌と裁定された(「後嵯峨上皇院宣案」東南院文書4ノ8〈鎌倉遺文10656〉)

 せっかく解決したにもかかわらず、再度問題が発生した。それは南境の川について、双方で異なる見解があったからである。永久政所下文(1117)のままに四至の内は光明山寺領とされたものの、南境が「伊保戸河に限る」とあり、その「伊保戸河」の所在地が不明であり、古河荘側は現在の井口河がそれであると主張したのである。そのことを古河荘側が訴えたところ、光明山寺が南境であるはずの「大堀」がないということいわずに隠していた上に、その「大堀」が南堺であるということは、建久の検注帳の里坪に符合していたのであった。そのため光明山寺が乱妨することを停止させ、古河荘が係争地を進退・領掌することと正応2年(1289)6月1日に裁定されてしまったのである(「後宇多上皇院宣案」東大寺文書4ノ41〈鎌倉遺文17030〉)。これに驚いたのが光明山寺の本寺の東大寺で、同月中には東大寺三綱は6月1日に古河荘に与えられた院宣を召し返し、伊保戸河をもって寺域南境とするよう提訴した。このようななかで同月25日には光明山寺の住僧の教尊阿闍梨が殺害されるという事件が発生した。殺害の容疑者とされた光蓮(矢具島三郎入道)は、その6月25日には幕府の命令によって長講堂領伊賀国栢野荘に行っていたとアリバイを証明している(「光蓮(矢具島三郎入道)請文案」東大寺文書4ノ44〈鎌倉遺文17113〉)

 さらに訴訟の最中は作物に手を出さないというのが通例であるにもかかわらず、同年9月14日に光明山寺一和尚の頼基は東大寺に対して、15日早朝に古河荘の先手をうって刈取り作業を行おうことを告げていた。この田畑は灯油仏聖等の料田として光明山寺が平地を開発してつくったもので、その地が古河荘との係争地となっていた。しかし18日に古河荘の庄民は青田刈りをしてしまい、さらに晩田も刈り取るとの風聞が流れたため、東大寺衆徒は訴訟の最中は暫時双方とも押取することを停止するように要請している。東大寺は神人末人ら22人を遣わして、提訴中は理由無く刈り取ってはならないとのことを庄民に触れ回ったところ、庄民の激昂を買い、暴行されて黄衣をはぎ取られてしまい、東大寺衆徒は下手人を拘禁するよう願い出ている(「東大寺衆徒奏状土代」東大寺文書4ノ42〈鎌倉遺文17168〉)

 その後、東大寺は永仁元年(1293)までに再度訴訟したが、決定的な裁決は得られず、東大寺は延慶2年(1309)に東大寺八幡宮神輿の強訴をした。そして応長2年(1312)正月5日、伏見上皇の院宣によって、光明山寺側の全面的勝訴となり(「伏見上皇院宣案」東大寺文書4之41)、この相論は終結した。


東方より光明山寺跡をのぞむ(平成19年(2007)3月11日、管理人撮影) 

光明山寺の廃寺化

 南北朝時代の動乱に際して、光明山寺もその激流に巻き込まれている。
元弘元年(1331)9月2日には付近の笠置山攻略の五畿内五ヶ国の軍勢7,600余騎が、光明山の後を廻って搦手に向っている(『太平記』巻第3、笠置軍事)。建武2年(1335)7月17日、東大・興福二寺の合戦に際し、光明山寺々僧が東大寺に味方することを約している(「光明山寺返牒」東大寺文書4之92)

 光明山寺は東大寺末寺として活動していたが、15世紀までに興福寺の末寺となっている。嘉吉元年(1441)成立の『興福寺官務牒疏』には興福寺末寺として光明山寺が書き上げられている。明応4年(1495)に光明山に関が建設された(『大乗院寺社雑事記』明応4年正月9日条)のを最後に、光明山寺は歴史上の舞台より姿を消した。貞享元年(1684)に著された『雍州府志』に光明山寺が廃絶して村名のみ残ることが記されており(『雍州府志』寺第5、光明山寺)、この頃までに廃絶したと思われるが、この間約200年間、光明山寺に何があったのかわかっていない。


[参考文献]
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・堀池春峰「高麗版輸入の一様相と観世音寺」(『古代学』6-2、1957年 8月)
・堀池春峰「大和・中川寺の構成と実範」(『仏教史学』6-4、1957年10月)
・佐藤哲英『念佛式の研究 中ノ川実範の生涯とその浄土教』(百華苑、1972年4月)
・黒川直則「光明山寺と古河荘」(『山城町史 本文編』山城町、1987年)
・吉田清『源空教団成立史の研究』(名著出版会、1992年5月)
・網野善彦・石井進・稲垣泰彦・永原慶二編『講座日本荘園史7 近畿地方の荘園U』(吉川弘文館、1995年3月)
・畠山聡「中世東大寺の別所と経営−山城国光明山寺を中心にして」(『鎌倉時代の政治と経済』東京堂出版、1999年4月)
・蓑輪顕量『中世初期南都戒律復興の研究』(法藏館、1999年6月)
・『光明山寺(京都府山城町埋蔵文化財発掘調査報告書第28集)』(山城町教育委員会、2001年3月)
・横内裕人「高麗続蔵経と中世日本―院政期の東アジア世界観」(『仏教史学研究』45-1、2002年7月) 


『都名所図絵』巻5、綺田蟹満寺・高倉宮社(『新修京都叢書11 都名所図絵』〈光彩社、1968年1月〉343頁より一部転載) 



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