弘宗宣皇帝応陵



応陵(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 応陵は京城(フエ旧市街)から南に直線距離で9km、香江沿岸付近の香水県居正社の順道山の山中に位置する。ミンマン通りを南下してホンアン寺付近の三叉路を左に行ったところにある。啓定帝(1916〜25)の陵墓で、ガイドブックなどでは「カイディン帝廟」と称される。


応陵の坊と碑亭(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



応陵の碑亭と花表柱(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



応陵の花表柱と石像(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



応陵の碑亭前の石像(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 啓定帝は同慶帝の長子で、母は坤儀皇太后である。咸宜元年(1884)9月1日に降誕した。父同慶帝はわずか在位4年で崩じ、跡を継ぐべき啓定帝は幼少のため、育徳帝(位1883)の子成泰帝(位1889〜1907)が即位した。成泰帝はフランスの圧力で退位すると、成泰帝の子維新帝(位1907〜16)が即位したが、この間に啓定帝は成泰18年には奉化郡公に封ぜられ、楊品社に邸宅を構えた。これが後の安定宮である。また維新3年(1909)には奉化郡公から奉化公へと格上げになった(「聖徳神功碑」)

 維新10年(1916)維新帝がフランスの植民地化に反対する運動に呼応したため廃位となった。このため保護政府(フランスのインドシナ総督)は啓定帝を擁立して、啓定帝が即位することした。彼自身は皇族としての自覚はあったものの、帝位への野心はなかったという(「聖徳神功碑」)

 啓定元年(1916)4月17日、太和殿にて即位した。啓定帝はフランスに擁立されたこともあり、フランスに対して融和的であり、フランスを訪問してその影響を大いに受けた。フランスに近い啓定帝の即位によって、反フランスの温床となっていた官人や文紳勢力を弱めるため、安南保護国官吏任用方法としての科挙を廃止し、公文書は漢字ではなくラテン文字を使用してベトナム語を表記するクオック・グー表記が用いられた(「聖徳神功碑」)

 啓定10年(1925)2月に病に倒れ、9月15日には重病と化し、20日に建中楼にて崩じた。41歳。遺体は乾成殿に安置された(「聖徳神功碑」)

 啓定帝の陵墓である応陵は、啓定帝の生前より着工されていた。工事は工部が主体となって行っていたが、その費用は税金によって賄われ、啓定帝の遺体は啓定10年(1925)12月18日に玄宮に安置された(「聖徳神功碑」)

 保大元年(1926)9月26日に子の保大帝(位1926〜45)によって撰述された聖徳神功碑が建てられている(「聖徳神功碑」)


応陵の碑亭と啓成殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



応陵の啓成殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



応陵の啓成殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



啓成殿内部(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



啓成殿内部(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



啓成殿内部の啓定帝像。この下に啓定帝の亡骸が安置される(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



壁面の日本製ビール瓶を用いたモザイク。「TOKYO」の文字がみえる(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



壁面のモザイク(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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