雲林院



雲林院(平成24年(2013)1月1日、管理人撮影)

 雲林院(うりんいん。「うじいん」「うじい」「うんりんいん」とも)は京都市北区雲林院町に位置(外部リンク)する臨済宗大徳寺派の寺院です。淳和天皇の離宮紫野院が前身で、仁明天皇から常康親王(?〜869)に伝領され、遍照(816〜90)によって元慶別院として天台寺院となりました。約200m四方の広大な寺地を誇り、以後雲林院菩提講が行われ、『大鏡』『栄花物語』『源氏物語』『枕草子』など、多くの文学の舞台となりました。中世に衰退し、近世に廃絶後、宝暦3年(1753)大徳寺の江西宗寛(1671〜1726)によって復興しました。


雲林亭と常康親王

 雲林院の地はもとは平安京北部に広がる曠野であり、平安京から北方に大宮小路が伸び、この地を通過していた。そのため遊猟地として最適であり、離宮が営まれることになる。

 この地に離宮を営んだのは淳和天皇であり、当初は紫野院と称した。天長6年(829)8月20日に山城国愛宕郡(京都市東部)の公田4段100歩(4,297平方メートル)を紫野院に充当している(『日本紀略』天長6年8月20日条)。以後たびたび淳和天皇は紫野院に行幸しており、天長7年(830)4月13日に鴨川に禊をした後、紫野院に行幸し、釣台にて魚を見ており(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長7年4月丙辰条)、同年10月5日にも北野に行幸の後、紫野院に御している(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長7年10月乙巳条)。天長8年(831)8月16日には紫野にて雅楽寮に音楽を奏でさせており(『類聚国史』巻78、献物、天長8年8月辛巳条)、同年10月14日にも北野の行幸した後、紫野院に御し、扈従する親王以下に酒肴を賜い、雅楽寮に音楽を奏でさせている(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長8年10月戊寅条)。天長9年(832)4月11日に紫野院に行幸した淳和天皇は、釣台に御しており、陪従する文人に命じて詩を詠ませており、淳和天皇自身も詩をなした。この時、紫野院を改めて雲林亭と改称している(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長9年4月癸酉条)

 天長9年(832)4月14日には皇后正子内親王が雲林亭に行幸し、周囲の耕作する様子を見ている(『日本紀略』天長9年4月丙子条)。雲林亭はやがて雲林院と改められたらしく、同年9月26日には淳和天皇が北野に行幸して鷹狩を双岡(京都市右京区花園付近)から陶野(京都市右京区嵯峨野付近)に行ない、さらに雲林院に行幸している(『類聚国史』巻32、遊猟、天長9年9月乙卯条)

 淳和天皇は譲位後も雲林院を訪れており、承和元年(834)10月5日に雲林院に行幸し、北郊で遊猟している(『続日本後紀』巻3、承和元年10月壬午条)。雲林院には淳和上皇の近臣の藤原関雄(805〜53)によって草書で壁に揮毫されている(『日本文徳天皇実録』巻5、仁寿3年2月甲戌条)。淳和上皇が承和7年(840)に崩御すると、雲林院は仁明天皇に伝領したらしい。承和11年(844)8月13日に仁明天皇は北野に行幸し、雲林院にて池を見ており、群臣に宴を賜った後、日暮れに宮中に還御している(『続日本後紀』巻14、承和11年8月癸巳条)

 仁明天皇が崩御すると、雲林院は常康親王(?〜869)に伝領された(『日本三代実録』巻49、仁和2年4月3日壬子条)。常康親王は仁明天皇の第7皇子で、仁明天皇の皇子の中でも特に愛されたが、仁明天皇が崩御すると悲嘆のため、仁寿元年(851)2月23日に落髪して僧となり(『日本文徳天皇実録』巻3、仁寿元年2月丙寅条)、法号を唯静とし、斉衡2年(855)には光定(779〜858)を戒和上として比叡山戒壇院にて受戒している(『延暦寺故内供奉和上行状』)。このような常康親王のもとで雲林院は寺院化しており、貞観10年(868)8月27日に惟喬親王(844〜97)によって母紀静子(?〜866)の追善のため法華経と観普賢経が雲林院に納められている。これは惟喬親王・常康親王ともに母が紀氏出身であったという縁によるものであった(『菅家文草』巻第11、願文上、為弾正尹親王先妣紀氏修功徳願文)

 貞観11年(869)2月16日、常康親王は雲林院を遍照(816〜90)に付嘱し、これを寺院として天台宗の教義を習学することを希望した(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)。遍照は良峰安世の子で桓武天皇の孫にあたり、すなわち仁明天皇(常康親王の父)とは従兄弟にあたった。遍照も常康親王同様、仁明天皇の崩御に際して出家しており、常康親王の遍照に対する親近感などが醸成されたとみられる。常康親王は貞観11年(869)5月14日に薨去したといい(『一代要記』)、空也はその子とされる(『本朝皇胤紹運録』常康親王下、空也)

 元慶8年(884)9月10日、遍照は朝廷に対して、雲林院と常康親王についての事因を述べた上で、雲林院を元慶寺の別院とし、院中の雑事については遍照の門徒中から仕事に堪え得る者を選んで担当させることを願い出ており、その通り裁可された(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)。元慶寺は遍照が陽成天皇の降誕に際して建立された寺院であり、先に年分度者を受けていた。

 仁和2年(886)4月3日には勅によって雲林院にて毎年3月21日の仁明天皇の忌日に金光明経を転読させるとともに、夏安居の期間中は法華経を講じることとなった。これは遍照の奏上によったものであった。遍照は奏上の中で、雲林院には所有する田畠が多数あり、財力に不足はないとした上で、金光明経の転読と夏安居中の法華経を講じることを願い出ていたが、勅がなければ将来的に断絶する恐れがあるとしていた(『日本三代実録』巻49、仁和2年4月3日壬子条)

 この奏上は雲林院発展のための布石であった。わずか4ヶ月後の仁和2年(886)8月9日に遍照は再度奏上しているが、今度は4月に裁可された夏安居中に法華経を講じることについて(これを「安居講」と呼んでいた)、他の諸寺の安居講は、これをもって階業の夏講としているのにもかかわらず、ただ雲林院の僧侶のみは同じような労がありながらも、この階業に預かることができないと主張しており、安居講を夏講に相当させるよう奏請し、これも裁可された(『類聚三代格』巻第2、仁和2年8月9日官符)

 「夏講」とは、諸国講読師となるための試験である講師五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)の一つである。当時の僧官の頂点は全国の僧侶・寺院を統轄する僧綱であったが、僧綱に任用されるためには諸国講読師がその登龍門であった。諸国講読師に任用されるための複数の試験は「階業」と称されており、いわば雲林院の安居講は、他の諸寺同様に講師五階の夏講に相当させるよう奏請したのであった。


雲林院観音堂(平成24年(2013)1月1日、管理人撮影)。宝暦4年(1754)の建立。

雲林院文学圏

 雲林院を伝領した常康親王のもとには多くの歌人が集まっていた。前述したように惟喬親王・遍照がその代表格であり、また『古今和歌集』には遍照の子の素性(?〜910頃)が「雲林院のみこのもとに花見に北山の辺に参れりける時によめる」ものとして以下の歌を掲げている(『古今和歌集』巻第2、春哥下、第95番歌)
  いざけふは春の山邊にまじりなん くれなばなげの花の影かは

 また『古今和歌集』内には遍照と幽仙(846〜900)に「雲林院のみこの舎利会に山に登りて帰りけるに、桜の花のもとにてよめる」という同一の詞書を有するものがあり、遍照は、
  山かぜにさくらふきまきみだれ南 花のまぎれに君とまるべく
とあり(『古今和歌集』巻第8、離別哥、第394番歌)、幽仙は、
  ことならば君とまるべくにほはなん かへすは花のうきにやはあらぬ
とある(『古今和歌集』巻第8、離別哥、第395番歌)。このように遍照と幽仙は常康親王が発願した舎利会に屈請されて法会に赴いたことが知られる。

 常康親王は仁明天皇より最も愛されたが(『日本文徳天皇実録』巻3、仁寿元年2月丙寅条)、仁明天皇の崩御とともに藤原氏を外戚とする文徳天皇が即位し、紀氏を母とする常康親王の政治的展望は失われた。遍照も仁明天皇の崩御とともに出家したが、仁明天皇在位中は秘書官長たる蔵人頭であったが、仁明天皇の崩御は彼の政治的展望が絶たれることを意味した。

 また前述したように、惟喬親王もまた雲林院にて法会を営んでいるが、惟喬親王も常康親王同様、紀氏を母としていた。惟喬親王は文徳天皇の庶長皇子であったが、皇太子の座は惟仁親王(後の清和天皇)のものとなり、彼も政治的敗者となった。惟喬親王にも遍照に贈った和歌があり(『古今和歌集』巻第2、春哥下、第74番歌)、常康親王を中心とする文学グループの存在が考えられている。これを「雲林院文学圏」という(蔵中1967)

 常康親王薨去後の雲林院文学圏は、遍照が中心となるも、遍照の僧としての政治的累進とともに、その位置付けは変化がみられる。遍照が権僧正となり、陽成天皇の護持を行ない、さらに旧知の光孝天皇が即位すると、宮中と密接な関係を構築するに到った。さらに寛平2年(890)に遍照が示寂すると、その実子素性が雲林院文学圏を引き継いだが、その頂点は寛平8年(896)の宇多天皇の雲林院行幸であった。

 寛平8年(896)閏正月6日、宇多天皇は子の日の宴のため、雲林院に行幸した。その扈従する者は皇太子(後の醍醐天皇)・本康親王(?〜901)・貞純親王(873〜916)・貞数親王(875〜916)・源能有(845〜97)・藤原時平(871〜909)・源光(845〜913)・菅原道真(845〜903)・藤原高藤(838〜900)・藤原有実(847〜914)・源真(源昇カ)・源貞恒(857〜908)・源希(864〜902)といった錚々たる殿上人を中心としたものであった。この日、雲林院主の由性(842〜915)が権律師に任じられ、弘延・素性には度者それぞれ2人を賜った(『扶桑略記』第22、寛平8年閏正月6日条)。またこの時、宇多天皇は船岡山の頂上に登っており、皇太子以下が騎乗して付き従った(『紀家集』巻第14断簡、寛平八年閏正月雲林院子日行幸記)

 この雲林院行幸を回想し、宇多天皇は以下のような詩文を詠んでいる(『紀家集』巻第14断簡、寛平八年閏正月雲林院子日行幸記、閏月戊子日遊覧雲林院因題長句)
   是家本自帝王院   この家もと自ら帝王の院
   今者変為帥□宮   今は変じて帥□宮となりぬ
   池面□□泉似布   池の面(おもて)□□泉(たき)は布に似たり
   青苔満地竹林風   青き苔は地に満ちて竹林の風
   世地惟異物無□   世地これ異にして物□無し
   気味交廻花是同   気味は交(こもごも)廻りて花はこれ同じ
   煕和在眼迷□界   煕和 眼(まなこ)にあり 迷いて低界す
   閑□□寧観惣空   閑(しずか)に□□寧観 すべて空(むな)し


雲林院地蔵堂(平成24年(2013)2月10日、管理人撮影)。江戸時代には「草堂地蔵」として知られ、現在は子安地蔵と称される。

村上天皇御願宝塔

 天暦7年(953)2月18日、村上天皇は雲林院に御願の小多宝塔を建立し、その中に仏像を安置することを詔した(『扶桑略記』第25、天暦7年2月18日戊辰城)。この多宝塔建立事業に関連して、天徳2年(958)には伊賀国の玉瀧杣より造立材木が切り出されており(「橘元実伊賀国玉瀧杣施入状案」東南院文書3ノ4〈平安遺文271〉)、玉瀧杣の材木を東大寺・修理職・冷泉院・雲林院の造立事業のため切り出したことによって、同杣の樹木は涸渇したという(「太政官符案」東南院文書3ノ4〈平安遺文272〉)

 天徳4年(960)2月24日には雲林院多宝塔の心柱を建てており、勅使が派遣されて読経などの法会が行われ、調布100端を布施とした(『扶桑略記』第26、天徳4年2月24日甲午条)。この多宝塔は着工から足がけ十年をへて、応和3年(963)3月19日に塔供養が行われ、村上天皇は雲林院に行幸した(『扶桑略記』第26、応和3年(963)3月19日辛未条)。この時の願文によると、多宝塔内部には五仏像を安置し、風鐸を飾り、風とともに音がなるようにしていた。また旧造の普賢菩薩像も安置していた(『本朝文粋』巻第13、願文上、供養塔寺、村上天皇供養雲林院御塔願文)。なおこの時これは雲林院塔会の試楽(祭礼などに行われる舞楽の予行演習を天覧すること)が実施されていた(『新儀式』第4、臨時上、行幸神泉苑観競馬事)

 多宝塔建立以前に「この院の堂舎・鐘楼、みなことごとく具足す。某所に無きは、塔婆のみ」といわれていたから(『本朝文粋』巻第13、願文上、供養塔寺、村上天皇供養雲林院御塔願文)、この多宝塔の完成によって雲林院は名実ともに寺院としての完成した。雲林院は御願寺となり、『新儀式』には申請によって料物を充当し、また所司をへずに院の仰せを奉り造作した御願寺に分類されている(『新儀式』第五 臨時下 造御願寺事)。このような御願寺に分類された寺院には『新儀式』には雲林院と御堂宝塔があげられているが、あるいは「御堂宝塔」とは雲林院の多宝塔のことかもしれない。

 雲林院は東西73丈、南北73丈(219m)、東西73丈(219m)の規模を誇ったといい(『古今栄雅抄』第6冊、古今和歌集巻第五)、もと離宮であっただけあって、景勝地でもあった。『古今和歌集』には遍照が雲林院の木陰で佇んで詠んだという、
  わび人のわきてたちよるこのもとは 頼むかげなく紅葉散りけり
の和歌があり(『古今和歌集』巻第5、秋哥下、第292番歌)、また承均(生没年不明)が雲林院にて桜の花が散ったのを見て詠んだ、
  さくらちる花の所は春ながら 雪ぞふりつつきえがてにする
という和歌がある(『古今和歌集』巻第2、春哥下、第75番歌)。他にも同じ承均には、
  いざさくら我もちりなむ ひとさかり有りなば人にうきめみえなん
という雲林院の桜を詠んだ和歌があり(『古今和歌集』巻第2、春哥下、第77番歌)、前述した第394番歌・第395番歌とともに、雲林院が桜・紅葉の名所であったことを窺わせる。

 常康親王には『洞中小集』という家集があったことから(『菅家文草』巻第7、書序、洞中小集序)、「洞」とは、常康親王の邸宅を中心とした一帯とした雅号のようなものであり、後に雲林院に西院が形成されると、西院は「西洞」と称された。雲林院の庭園は多くの漢詩文に詠まれており、寛平8年(896)の宇多天皇の行幸に関して菅原道真は「従来勝境、風情に属(あた)る」「青苔の地に心中の色有り」「瀑布泉に耳下の声を遺(のこ)す」と詠んでいるように(『菅家文草』巻第6、詩6、行幸後朝憶雲林院勝趣戯呈吏部紀侍郎)、優れた庭園があったことが知られる。さらに源道済(?〜1019)は「雲林院の西洞、天下の奇地なり。木は地の異勢を孕むといえども、なおいまだ人の潤色を加えざるがごとし」と評価しているように、まるで人の手が加えられていないかのような庭園であったという(『本朝麗藻』巻下、山水部、冬日於雲林院西洞同賦境静少人事詩)。実際平成12年(2000)に雲林院跡の東側の発掘調査が行われているが、直径30m以上に及ぶ池水跡が検出されており、池に面して正面8.4mの泉殿らしき建物跡が検出されている(京都府京都文化博物館2002)

 雲林院には多くの文人らが集まっているが、それは法会のみならず、遊興も含まれていた。前述した寛平8年(896)の宇多天皇の行幸においても、「酒を把(と)りて空しく論ず、深浅の戸」(『菅家文草』巻第6、詩6、行幸後朝憶雲林院勝趣戯呈吏部紀侍郎)と歌われたように、酒宴を含んだものであったし、藤原周光(1079〜1158以降)も雲林院にて「詩は口業に応じて情(こころ)なお動くがごとし。酒はこれ声聞にして酔いて迷わんと欲す」と詠んでいるように(『本朝無題詩』巻第10、山寺下、冬日雲林院即事)、雲林院を訪れた目的は詩と酒宴をもってする遊興のためであった。


雲林院弁財天社(平成24年(2013)2月10日、管理人撮影)

雲林院菩提講

 雲林院が景勝地であり、多くの貴顕が集まったことは前述したが、同時に多くの法会が行われる舞台ともなった。その中でも特に有名なのが雲林院菩提講である。

 雲林院菩提講は『大鏡』の序において、190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹が出会い、説法を聴きに集まった老若男女に対して昔話をする舞台となっている(『大鏡』第1巻、序)

 雲林院においてこのような講が行われた最初は、仁和2年(886)4月3日に勅によって始められた安居講である(『日本三代実録』巻49、仁和2年4月3日壬子条)。これは夏安居の期間中に法華経を講じるものであり、前述したように後に階業の夏講に充てられた(『類聚三代格』巻第2、仁和2年8月9日官符)

 雲林院菩提講の始源については諸説あり、『今昔物語集』によると、菩提講を始めた聖人は鎮西(九州)の人であり、盗みを行うこと7度に及び、獄に7度拘禁されたが、そのたびに再犯したため、検非違使の協議によって河原で足を切られることになった。しかし人相見がこの盗人の顔をみて、執行人に対して、「この人は私に免じて足を切らないで欲しい」というと、執行人は「この盗人は7度獄に拘禁されたが再度逮捕されたから、今度は検非違使の協議で足を切ることになったのだ」といった。人相見は「これは必ず往生すべき相を持った者なのだ。だから尚更切るべきではない」といった。しかし執行人は「このような悪人はどうして往生ができようか」といい、切ろうとすると、人相見は盗人の足の上に自分の足を上げて、「この足に替えて私の足を切りなさい。必ず往生すべき相がある人の足を切らせておいて、私が見過ごしておけば、罪業を逃れることはできない」と叫んだため、執行人は検非違使のもとに赴き、報告した。検非違使は「そのようなやむを得ない人相見を言うことであれば、これを用いないことは穏便ではない」といい、検非違使別当は「そうであれば解放しなさい」といい、盗人は解放された。その後盗人は深く道心が起こり、髻を切って法師となり、日夜に阿弥陀の念仏を唱えて、極樂に往生することを願い、雲林院に住して菩提講を始めた。臨終の際に、「年来悪を好んだとはいえ、思い返して善に生きたから、このように往生することができた」といい、人々はみな頷いたという(『今昔物語集』巻第15、本朝付仏法、始雲林院菩提講聖人往生語第22)

 菩提講始源説話は他にもあり、藤原宗忠(1062〜1141)が記するところによると、菩提講は恵心僧都こと源信(942〜1017)が結縁のために始めたものであり、その後無縁聖人が行き来し、夢によって菩提講をはじめたとか、菩提心をおこして雲林院にてはじめたともいわれている(『中右記』承徳2年5月朔日条)

 雲林院近郊の紫野の西側には船岡山が位置する。船岡山と蓮台野はかつて「五三昧(ござんまい)」と称された京都の共同墓地の一つ、千本に属しており、近世の地誌には「千本」の名称自体が船岡山に千本の卒塔婆を建て、千本閻魔堂を建立したことにはじまるという(『都名所図絵』巻第6、千本焔魔堂)。平安時代には京域の遺体は、平安京外の共同墓地に埋葬されるか、あるいは土葬・火葬されるか、風葬ないしは死体遺棄された。平安京における都市人口の増加は、墓地の拡大をも意味し、雲林院に対する当時のイメージの変化をもたらすことになる。

 雲林院の菩提講は、六波羅蜜寺の菩提講とともに平安時代を代表する迎講の一つであり(『栄花物語』巻第15、うたがひ)、この名声とともに雲林院の院域にはさらに仏寺が建立された。その最初期のものは雲林院慈雲堂であり、ここへは寛弘7年(1010)に藤原道長が詣でている(『御堂関白記』寛弘7年閏2月1日条)。また長和2年(1013)に雲林院付近の寺院を詣でた藤原実資は、大弐寺・貞光寺なる寺院名を記録している(『小右記』長和2年8月22日条)

 万寿2年(1025)4月4日には皇后藤原セイ(女へん+成。UNI5A0D。&M059413;)子の梓宮を雲林院西院に移している(『左経記』万寿2年4月4日条)。この西院こそが「西洞」であるが、賀茂社の四至内にあったという(『左経記』万寿2年4月4日条)。天永2年(1111)2月26日には藤原仲実(1064〜1122)によって雲林院の北西に3間4面の桧皮葺の堂、10間2面の僧坊、8間2面の車宿、中門・大門が建立され、丈六の阿弥陀像が安置された(『江都督願文集』)。雲林院内の念仏寺は寛和年間(985〜86)に建立され(『山城名勝志』巻第11、念仏寺、沙門願蓮勧進状)、また仁治3年(1242)に近衛家実(1179〜1243)の葬儀が雲林院西林寺にて行われており(『平戸記』仁治3年12月28日条)、このほかにも吉茂堂(『水左記』承保4年9月15日条)・雲林院小堂中の多宝塔(『中右記』長治2年7月7日条)などが知られる。

 雲林院の菩提講は実際に参会した藤原宗忠の記録によると、菩提講は西洞の御堂にて行われ、講師は高座に登り、まず三帰十戒を授け、次に読経を行ない、巳刻(午前9時)に終了し、最後に堂中にいる老若男女が「南無」の声を挙げて終わるというものであった(『中右記』承徳2年5月朔日条)

 雲林院には多くの仏堂があり、菩提講以外にも多くの法会が行われていたようである。延久3年(1071)3月15日には観学会が行われている(『朝野群載』巻第3、記、観学会之記)

 他にも、長保元年(999)3月10日以来行われていた検非違使庁の結縁経が廃絶したが、建保6年(1218)5月20日に雲林院にて検非違使庁の結縁経が復活している(『古今著聞集』巻第2、釈教第2、別当兼光使庁の結縁経を再興の事并びに顕俊定嗣等供養の事)。これは雲林院に「雲林院聖教」と称する一群の聖教典籍が多数存在したことも無縁ではないとみられ(『門葉記』巻15、七仏薬師法5)、実際に東寺観智院聖教中には、保延元年(1135)10月2日に雲林院にて最仁が受けた旨の識語がある『七仏倶胝仏心大准提陀羅尼法』がある(『七仏倶胝仏心大准提陀羅尼法』識語〈東寺観智院金剛蔵聖教目録1〉)

 雲林院菩提講は徳治3年(1308)4月に念仏寺を修造するために願蓮が勧進を行っているが(『山城名勝志』巻第11、念仏寺、沙門願蓮勧進状)、この記事を最後として史料上から姿を消した。


京都市北区雲林院町周辺(平成24年(2013)2月10日、管理人撮影)。雲林院はこの地を中心に200m四方の規模を誇った。奥のマンション建設にあたって、平成12年(2000)に発掘調査が行われ、雲林院の遺構が確認された。

雲林院別当職

 雲林院を司る職掌として、雲林院別当職が存在した。その初例は康保元年(964)2月22日に雲林院別当に任じられた藤原伊尹(924〜72)であるが(『公卿補任』康保元年条、参議正四位下藤伊尹尻付)、これは俗別当であり、僧侶の手によって別当職が掌握されたのはその100年ほど後のことになる。僧による雲林院別当の初例は、寛治元年(1087)12月30日に官牒によって雲林院別当に補任された松禅(1032〜?)であるが、それ以前は前律師尊叡が同院の別当であり、延暦寺僧の松禅はその譲りを受けて別当職に補されたのであった(『朝野群載』巻第6、太政官牒、寛治元年12月30日官牒)。すなわち、尊叡以前にも僧の別当がいた可能性がある。

 雲林院は鎌倉時代に比叡山無動寺の末寺であったらしく、弘安3年(1280)に全継阿闍梨の門人2人が雲林院に狼藉を行ったため、雲林院所司は葛川明王院に全継阿闍梨の葛川参詣停止を求めているが、この時「当寺といい、葛河といい、ともに無動寺の御領なり」と述べ、雲林院が無動寺の末寺であったことが知られる(「山城雲林院所司等訴状」近江葛川明王院文書〈鎌倉遺文13898〉)。近世期の伝承には、雲林院が無動寺大乗院に属していたという伝えがあるが(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、山城国、雲林院)、実際、文和2年(1353)2月25日には慈静が雲林院別当職・長寿院師跡などを尊玄(1334〜96以降)に譲っており、尊玄は延文元年(1356)9月6日に雲林院別当職を尊円法親王(1298〜1356)に委ねているが、尊円法親王示寂後の延文4年(1359)9月6日に尊玄は改めて雲林院別当に補任された。翌延文5年(1360)5月16日に尊玄は無動寺別当に補任されていることから(『華頂要略』巻第32、門下伝、脇門跡第4、般若院、尊玄大僧正)、無動寺の末寺でありながらも、それは別当職を通じて掌握されたものであり、任命に関する権限のいくつかは青蓮院が有していたらしい。実際青蓮院では、建暦3年(1213)2月の慈円(1155〜1225)の置文により、雲林院別当職は青蓮院が歴代管領するものとみなされていたという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、山城国、雲林院)

 尊玄は足利義満の召喚にも関わらず、参上しなかったため、義満の怒りを買い(「足利義満書状」猪熊信男氏所蔵文書)、応永3年(1396)12月15日に尊勝院忠慶(1364〜?)にすべての職掌・所領を譲らされ、その中には雲林院も含まれていた(『華頂要略』巻第32、門下伝、脇門跡第4、般若院、尊玄大僧正)。これ以降、尊勝院は般若院を兼任することとなり、それに含まれていた雲林院別当も尊勝院が兼任する例が多くなった。応永6年(1399)6月9日に忠慶は正式に雲林院・長寿院等の別当に補任されているが(『華頂要略』巻第35、門下伝、諸院家第2、尊勝院、忠慶僧正)、以後、尊勝院主歴代が雲林院別当を兼任する例が続き、その例として重慶(1409〜?)(『華頂要略』巻第35、門下伝、諸院家第2、尊勝院、重慶僧正)・光什(?〜1533)(『華頂要略』巻第35、門下伝、諸院家第2、尊勝院、光什大僧正)がいる。

 雲林院別当職は安居院が競望しており(『伺事記録』天文10年10月10日条)、尊勝院との相論は将軍にも披露されたが(『大館常興日記』天文10年10月10日条)、この競望はそれが始めてのことではなかったらしく、永正6年(1509)の先例によって尊勝院(慈承か)に雲林院別当職が安堵された(『伺事記録』天文10年10月10日条)


雲林院庫裏(平成24年(2013)1月1日、管理人撮影)

雲林院と大徳寺

 雲林院は中世より急激に衰退することになる。かつては73丈(219m)四方、4町(4ha)にも及ぶ広大な寺地を有し、しかも寄進によってさらに寺地が増加していた。平安時代後期には多くの貴族の私堂が雲林院に立ち並んでいたが、雲林院の衰退はその私堂の林立にこそあった。

 雲林院には11世紀前半の段階で、大弐寺・貞光寺といった、個人名に由来する子院名が多く見出される(『小右記』長和2年8月22日条)。これらは当然雲林院の意向と無関係に建立されたものではなく、雲林院が積極的に堂宇の建立を推し進めていった結果であるらしい。寛治4年(1090)4月2日に陰陽大夫行則が小堂を建立するために雲林院の北中坊(不明であるが、京都市上京区新ン町付近の100m四方の地が該当するか)の地を充てがわれていたが(「雲林院政所敷地充行状案(山城雲林院北中坊敷地文書うち)」大徳寺真珠庵文書851-1)、その後行則は清水寺付近に一堂を建立したため、雲林院側はこれを返却させ、雲林院の都維那覚賢が同地を求めたため、康和3年(1101)3月29日に改めて与えられている(「雲林院政所敷地充行状案(山城雲林院北中坊敷地文書うち)」大徳寺真珠庵文書851-2)。すなわち、雲林院は堂宇建立を希望する者に限って、雲林院の寺地より建立地を提供しており、そのことは雲林院に堂宇を林立させるとともに多くの法会が行わることに繋がり、一時の隆盛を築き上げていた。雲林院が寺地を提供した理由は不明であるが、経済的な援助を期待していたのか、あるいは講に代表される宗教的な高まりをさらに推し進めようとしたのかもしれない。平成12年(2000)に雲林院跡の東側の発掘調査が行われているが、諸施設が整えられた区域と、あまり用いられなくなった施設・空間があったことが指摘されており(京都府京都文化博物館2002)、そのことも関係するのかもしれない。

 この北中坊の地には後にそれぞれ3間2面の板堂・寝殿・雑舎が雲林院寺主の覚厳によって建立され、弟子の任秀が伝領したが、任秀は長承2年(1133)6月11日に弟子の小童牛に譲っている(「僧任秀堂舎并敷地譲状案(山城雲林院北中坊敷地文書うち)」大徳寺真珠庵文書851-3)。その後小童牛の義娘の「尼めうゑ」に与えたが、それは実娘の越前尼に相伝の後、再度尼めうゑのもとに返された。尼めうゑは文治4年(1188)11月18日に大夫入道に売却し、その代金を堂宇移建費用とする旨を表明している(「尼めうゑ敷地売券案(山城雲林院北中坊敷地文書うち)」大徳寺真珠庵文書851-4)

 すなわち雲林院が堂宇建立のために提供した寺地は、個人由来の堂宇となってしまい、それは個人の縁故者へと伝領し、それが長い年月を経る内に売却されて、雲林院の寺地は全く無関係の者の手に渡ってしまうことになる。

 こうして雲林院の手から失われた土地のかなりを占める部分は、後に大徳寺の寺地形成において大きな役割を果たすことになる。大徳寺の寺地のうち、「雲林院屋敷の地」という田畠の地があり、間口が11丈(33m)、奥行きが26丈(78m)あった。これは妙仙が相伝した私領であったが、弘安6年(1283)8月に嫡男の平資信に譲渡しており(「沙弥妙仙譲状(山城雲林院田畠手継券文うち)」大徳寺文書456-3)、資信はこれを正応3年(1290)4月9日に銭16貫文で教円に売却した(「平資信売券(山城雲林院田畠手継券文うち)」大徳寺文書456-2)。教伝は永仁4年(1296)4月10日に同地を銭12貫文で藤原有女なる人物に売却している(「僧教円売券(山城雲林院田畠手継券文うち)」大徳寺文書456-1)

 また雲林院の辺の菩提講東塔の中の北よりの地26丈(78m)は、後の大徳寺の寺院敷地として宗峰妙超(1282〜1338)に寄進されたものであった。宗峰妙超は正和4年(1315)にそれまで住していた雲居庵を去って紫野に移り、庵をつくって大徳寺と号したという(『大徳開山興禅大燈高照正燈國師年譜』正和4年乙卯条)。紫野には雲林院・知足院などが立ち並んでおり、宗峰妙超の庵周辺にはこれらの由来地が多く散在していたとみられる。宗峰妙超は元亨4年(1334)5月6日付の請文で、この地の乾角(北西)に位置する寄進者の墳墓(不明)については、動かさずに、後々の門弟にいたるまで菩提を供養させることを誓っている(「宗峰妙超請文」大徳寺文書3208)。この地は大徳寺が寺院として確立する過程において根本寺地となり、元弘3年(1333)10月29日には東西66丈(198m)、南北90丈(270m)の地が大徳寺寺地として承認された(「後醍醐天皇綸旨」大徳寺文書48)。以後、断続的に雲林院の旧寺地、あるいは周辺地が大徳寺に施入されることになり、雲林院の衰退と反比例をなした。

 雲林院の中世末期の詳細はわかっていないが、大徳寺が応仁・文明の乱で焼失していることから、付近にあった雲林院も焼失したとみられる。同じく古代以来紫野周辺に位置した知足院・紫野坊もまた姿を消した。江戸時代前期には荒廃して、かろうじて一小堂が残存していた(『雍州府志』巻4、寺院門上、愛宕郡、雲林院)。千手観音を本尊としていたが、雲林院に安置されていた草堂地蔵の方が著名であった(『菟芸泥赴』第6、雲林院)。貞享元年(1684)10月26日に失火のため焼失し、延焼して周辺5・6町が焼失している(『百弌録』)。かつての本尊千手観音は醍醐寺成身院に移座されたという(『山城名勝志』巻第11、雲林院)

 雲林院を大徳寺塔頭として再興したのが江西宗寛(1671〜1726)である。かつての広大な寺地の西端の一部分に過ぎないものの、現在の雲林院に至るものである。江西宗寛は京都出身で、天英宗五(1635〜97)の法嗣である。正徳5年(1715)8月15日に大徳寺住持(第291世)となり、6月26日に再住開堂した(『龍宝山大徳禅寺世譜』江西)

 宝永3年(1706)秋、江戸の檀越である冬木氏により、江西宗寛を開山として再興し(『龍宝山大徳禅寺世譜』龍宝摘撮、雲林院)、翌宝永4年(1707)7月29日には江西宗寛は、この地が宗峰妙超が中興した道場であって、格別の地であるから、雲林院に乱行・不律の者がいたとしても、大徳寺側が罰してはならないと述べており(「雲林院宗寛証文」大徳寺文書985)、江西宗寛が雲林院を宗峰妙超が再興したとしているのは、宗峰妙超が雲林院の付近に住して、後の大徳寺のもととなったことによるものであり、正確な事実を著わしているわけではないが、雲林院の大徳寺における特殊な位置付けを表明するとともに、塔頭としての自立をはかっている。

 江西宗寛はその後、福泉庵を創建し、春渓庵を雑華庵と改めた。享保5年(1720)に東海寺輪番住持(第53世)となるものの、享保11年(1726)11月10日に示寂した。56歳(『龍宝山大徳禅寺世譜』江西)。辞世の偈に「五十六年、報縁おわり、出生入死、ともに超然す。虚空撲落して須弥倒れ、驚き起きたる泥牛、梵天にのぼる」がある(『龍宝山大徳禅寺世譜』脱偈録、江西寛公)。元文2年(1737)11月に桜町天皇より法恵通明禅師の勅諡号を賜った(『龍宝山大徳禅寺世譜』江西)

 江西宗寛示寂後、雲林院第2世となったのが竺伝宗紳(生没年不明)である。竺伝宗紳は江西宗寛の法嗣で、福泉庵も兼住し、徳禅寺前住位を得た(『増補正燈世譜』龍泉門下梅隠派、江西宗寛下、竺伝宗紳尻付)

 雲林院第3世となったのが実参義諄(1664〜1743)である。実参義諄は豊後国(大分県)の出身で、江西宗寛の法嗣である。享保16年(1731)10月11日に大徳寺住持(第321世)となり、雲林院・福泉庵・雑華庵を兼任した。寛保3年(1743)に7月19日に示寂した(『龍宝山大徳禅寺世譜』実参)

 雲林院第4世には英巌義俊(1701〜60)が就任した。英巌義俊は豊後国(大分県)の出身で、実参義諄の法嗣である。宝暦3年(1753)12月13日に大徳寺住持(第364世)となり、宝暦4年(1754)4月10日に再住開堂した。雲林院・福泉庵・雑華庵を兼住した。宝暦10年(1760)5月25日に示寂した(『龍宝山大徳禅寺世譜』英巌)

 英巌義俊示寂後、雲林院主は不在であったらしく、寛政・享和年間(1789〜1804)に廃院となり、ただ観音堂のみが残ることになった。寛政年間(1789〜1801)には大徳寺塔頭の黄梅院が管領し、文政年間(1818〜30)からは同じく大徳寺塔頭の龍光院が管領した(『龍宝山大徳禅寺世譜』龍宝摘撮、雲林院)

 雲林院が廃院となると、庫裏・客殿・書院などは寛政9年(1797)正月に取り壊された(京都府教育委員会1965)。うち客殿は桁行9間、梁間5間の建物であり(京都府教育委員会1965)、寛政5年(1793)に焼失した孤篷庵の再建に際して移築され(『龍宝山大徳禅寺世譜』龍宝摘撮、孤篷庵)、本堂として用いられた。この建物は寛政9年(1797)6月に棟上された(「孤篷庵本堂棟札)

 雲林院にただ一堂のみ残された観音堂は、正面3間、側面2間で桟瓦葺宝形造の建物である。棟札によると宝暦4年(1754)の建立であり、棟梁は林村の彦右衛門が務めた(京都府教育委員会1983)

 明治以降も雲林院は龍光院が管理していたが、藤田寛道(1926〜1985)が昭和49年(1974)に雲林院住職に就任し、昭和58年(1983)に雲林院を修復して、寺院としての雲林院を再興させた。


[参考文献]
・『重要文化財孤篷庵本堂・忘筌及び書院修理工事報告書』(京都府教育委員会、1965年)
・杉山信三『藤原氏の氏寺とその院家』(奈良国立文化財研究所、1968年3月)
・蔵中スミ「素性小考(一)〜(五)」(『帝塚山学院短大研究年報』15〜20、1967年12月-1972年12月)
・柴田実「雲林院の菩提講」(『古代文化』26-3、1974年3月)
・田中徳定「雲林院の菩提講と無縁上人」(『駒沢国文』20、1983年2月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・小山利彦「源氏物語における雲林院と紫野斎院」(平安文学論究会編『講座平安文学論究』13、風間書房、1998年)
・勝田至「「京都五三昧」考」(『日本史研究』409、1996年9月)
・三橋正『平安時代の信仰と宗教儀礼』(続群書類従完成会、2000年3月)
・『雲林院跡(京都文化博物館調査研究報告第15集)』(京都府京都文化博物館、2002年)
・前田慶一「諸国講読師制度の成立と展開」(『南都仏教』84、2004年11月)
・川上貢『禅院の建築(新訂)』(中央公論美術出版、2005年8月)


孤篷庵玄関と本堂(平成23年(2011)10月25日、管理人撮影)。孤篷庵本堂はもとは雲林院の客殿で、宝暦4年(1754)頃に建立されたものを、寛政9年(1797)に孤篷庵に移築したもの。重要文化財。



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