龍翔寺跡(後宇多天皇遺髪塔)



後宇多天皇遺髪塔外観(平成19年(2007)7月15日、管理人撮影)

 京都市右京区太秦安井には「LIFE」というスーパーがあり、北側は太子道通に面しています。その「LIFE」の太子道通に面した東側には、小さなお堂があり、白壁でできた塀に囲まれています。これは宮内庁治定・管理の後宇多天皇遺髪塔です。

 この「LIFE」がある地には延慶2年(1309)に建立された龍翔寺(りょうしょうじ)という寺院がありました。龍翔寺は室町時代後期に大徳寺山内に移転しましたが、建立当初は「LIFE」を含めた一辺3町(300m)四方ほどの広大な地域に、総門・普光塔・祥雲庵といった建造物が林立していた京都十刹の一つでした。現在太秦安井に残存する龍翔寺の遺跡は、わずかに普光塔の後身である後宇多天皇遺髪塔があるにすぎません。


勧請開山の大応国師南浦紹明

 龍翔寺は、絶崖宗卓(?〜1334)が師の南浦紹明(1235〜1308)を勧請して開山とした寺院である。山号は瑞鳳山という。勧請開山とは、実際に建立した僧ではなく、その弟子や法系に属する僧が、既に没している師僧を開山に擬することをいう。この龍翔寺も、勧請開山となった南浦紹明が示寂した後に建立された寺院である。南浦紹明の伝記は示寂後に弟子僧らが編纂した『円通大応国師塔銘』に要約されており、『続群書類従』9上に翻刻されている。

 南浦紹明は、姓は藤原氏。駿河国安倍郡(静岡県静岡市・清水市)にて嘉禎元年(1235)誕生した。故郷の建穂寺の浄弁のもとで学んだ。15歳の時、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213〜78)のもと剃髪・受戒し、「紹明」の法号を得た。この「紹明」は、五山派では「じょうみん」と訓じ、大徳寺では「じょうみょう」という。
 正元元年(1259)に中国の宋に渡り、咸淳元年(1265)6月に浄慈寺の虚堂智愚(1185〜1269)のもとで参禅した。その年8月に虚堂智愚は径山(きんさん)に遷り、南浦紹明もこれにしたがい、咸淳3年(1267)秋に日本に帰国したが、その間に悟って虚堂智愚に認められた。建長寺の蘭渓道隆は帰国した南浦紹明を典蔵(蔵主)とした。文永7年(1475)秋に大宰府に移り、興徳寺の住持となった。南浦紹明はここで嗣法の書と入院の語を曇侍者に付して宋の径山の虚堂智愚のもとに送った。すなわち南浦紹明はここで虚堂智愚の法を嗣いだことを表明したのである。虚堂智愚はこれを大いに喜び、「わが道東なり。」といった。その翌年には崇福寺に移り、ここに住むこと33年にも及んだ(『円通大応国師塔銘』)

 嘉元3年(1305)に後宇多上皇の詔を奉って入京し、上皇と問答した。これによって上皇は南浦紹明に帰依し、南浦紹明を万寿寺の住持とした。また後宇多上皇は東山の地に嘉元寺を造営し、南浦紹明を第一祖とした(『円通大応国師塔銘』)。この嘉元寺について他に知られることはないが、応永27年(1420)12月付の根外宗利の消息(書簡)によると、後宇多天皇は南浦紹明を祖として嘉元寺を造営したが、南浦紹明は幾ばくもしないうちに建長寺の住持となって去り、翌年に示寂してしまった。この嘉元寺は、はからずして台徒(延暦寺の僧)によって破却され、元亨4年(1334)に通翁鏡円(1267〜1334)と宗峰妙超(1282〜1337)が延暦寺・園城寺・東寺・南都諸宗が論戦を行なうことによって日本で禅宗が確立されて以降も再建されなかったという(『正法山誌』第4巻、詩偈、根外跋)。また康永4年(1345)付の山門申状によると、叡山は、禅寺造営について叡山末寺とすることを主張した上で、「さからうと創建は不可能であり、嘉元寺はその事例である」と恫喝している(『後鑑』巻13上、貞和元年7月3日条)。このように嘉元寺は南浦紹明が去った後に叡山によって破却されてしまっている。

 徳治2年(1307)末、関東に赴き鎌倉の正観寺に居したが、平崇演(北条貞時)によって建長寺の住持となった。翌年の延慶元年(1308)春には後宇多法皇が手づから詔を下して存問する栄誉をうけたが、その年の12月29日、たちまち微疾によって示寂した。享年74歳。南浦紹明は自らの示寂を前年に預言していたという。得度した弟子は1000余人にもおよんだ。後宇多上皇は南浦紹明の示寂を聞いて哀しみ慕うことがやまず、勅して「円通大応国師」と諡(おくりな)し、西京に寺を建立して龍翔寺といい、南浦紹明の遺骨を寺の後山に塔した。この塔を普光塔といった。南浦紹明の遺骨は弟子達にさらに分配され、建長寺の天源庵、崇福寺の瑞雲庵に納められた(『円通大応国師塔銘』)

 南浦紹明の法嗣は主だった者だけでも通翁鏡円・絶崖宗卓・峰翁祖一(1275〜1358)・宗峰妙超・即菴宗心(生没年不明)・秀崖宗胤(生没年不明)・可翁宗然(?〜1345)・物外可什(生没年不明)・月堂宗規(1285〜1361)・滅宗宗興(1310〜13)がいる。このうち宗峰妙超は大徳寺開山となり、その法嗣で妙心寺開山の関山慧玄(1277/97〜1360)の法系へと繋がった。この法系は現在の臨済宗禅僧すべての法系に繋がることから、南浦紹明(大国師)・宗峰妙超(大国師)・山慧玄の3人を「応灯関(おうとうかん)」という。


柳殿御所と龍翔寺建立以前の太秦

 風光明媚で広大な閑地がある太秦周辺は、中世になると離宮が林立した。後嵯峨上皇の皇子である高峰顕日も仁治2年(1241)に「城西離宮」で誕生し、しかも「城西離宮」は後の龍翔寺であるという(『前住相模州巨福山建長興国禅寺勅諡仏国応供広済国師行録』)。「城西離宮」がのちの龍翔寺であったかということは定かではないが、龍翔寺の敷地は柳殿御所を中心として成立している。

 柳殿御所は、後鳥羽天皇の母である七条院藤原殖子(1157〜1228)の御所であった。承元3年(1209)3月2日に後鳥羽上皇は母の住む大柳殿にて蹴鞠を行い、これを記録した『御鞠記』1紙を鎌倉将軍源実朝に賜っている(『吾妻鏡』巻第18、承元3年3月21日条)。その後「柳殿御相伝系図」によると、後鳥羽天皇の后である修明門院藤原重子(1182〜1264)、後鳥羽天皇皇女の嘉陽門院礼子内親王(1200〜73)、同母弟の道助入道親王(1196〜1249)、「順徳院□□御所」と号した「姫宮」(順徳天皇准母の春華門院昇子内親王か)、「三条坊門御姫君」である「姫宮」が継承したという。また「女院」すなわち嘉陽門院礼子内親王が薨去して「女院御跡」を継がせるべき人がいない間、嘉陽門院に仕えた女房であった春日局が柳殿を管理した。のちに越前国行部荘(生部庄)を沙汰した時、准后御所に柳殿を奉ったという。

 この「春日局」についてはよくわかっていないが、延慶3年(1310)6月2日には嘉陽門院礼子内親王の菩提を弔うために遺領の長門国阿内包光名地頭職を龍翔寺に寄進した「尼久智」なる女性がいる(「尼久智地頭職寄進状案」大徳寺文書162)。この長門国阿内包光名地頭職を寄進した「尼久智」は文保2年(1318)5月に作成された「祥雲庵常什証文等目録」(大徳寺文書459)に「九通 春日局寄進状同契約状并包光名注文」とあることによって、柳殿御所を管理した「春日局」と長門国阿内包光名地頭職を龍翔寺に寄進した「尼久智」は同一人物であることが知られる。嘉陽門院礼子内親王墓は現在スーパー「LIFE」の南に位置し、中世には龍翔寺境内にあり、江戸時代には単一でこの地にあったことは名所図絵などより確認される。春日局が龍翔寺に寄進を行なったのは嘉陽門院礼子内親王墓が龍翔寺境内に取り込まれることによって永代供養を目論んだようである。


宮内庁治定礼子内親王墓(平成19年(2007)7月17日、管理人撮影) 

広智禅師絶崖宗卓と龍翔寺の開創

 絶崖宗卓(ぜつがいそうたく)は南浦紹明の法嗣である。親しく長年にわたり南浦紹明のもとに参禅し、豊前国万寿寺を開創し、筑前国崇福寺・京都万寿寺・相模国浄智寺に遷り住んだ(『延宝伝灯録』巻第20、京兆南禅絶崖宗卓禅師伝)

 延慶元年(1308)に師南浦紹明は示寂したが、絶崖宗卓は、師の南浦紹明に帰依した後宇多上皇の信任を受けることとなる。南浦紹明示寂のわずか3ヶ月後の延慶2年(1309)3月6日、後宇多上皇は離宮である柳殿御所を南浦紹明の塔頭の敷地として永代寄附した(「後宇多天皇院宣案」大徳寺文書)。塔頭とは現在では禅宗寺院内に建てられた子院のことをいうが、本来は祖師の墓所のことである。禅宗では高僧の示寂後、遺骨を埋葬し卵塔を建て、法嗣がその地の周辺に居住し、師に生前同様の奉仕をする風習があった。後宇多上皇は帰依していた南浦紹明の塔頭として自身の居住していた離宮を門弟の絶崖宗卓に託して寺院としたのである。これが龍翔寺である。

 さらに後宇多上皇は同9月11日、柳殿と新御領を龍翔寺の寺家に付属させ(「後宇多天皇院宣案」大徳寺文書)、龍翔寺の寺院としての独立性を確保させたのである。このように龍翔寺は柳殿御所の寄進を受けて建立されたのである。南浦紹明の塔所(墓所)は普光塔と号した。後にその左隣には元亨4年(1334)に崩御した後宇多上皇の遺髪が納められた後宇多院塔が造営された。龍翔寺が後世廃寺となった後も普光塔と後宇多院塔は存続していたが、現在では後宇多院塔が「後宇多天皇遺髪塔」として残るのみとなっている。

 龍翔寺を開創した絶崖宗卓は、師の南浦紹明を勧請開山とし、自身は第2世にとどまった。南浦紹明を勧請開山としたことは、龍翔寺が南浦紹明の塔所(墓所)として建立された経緯としては当然のことではあるが、以後南浦紹明の法嗣達がたびたび龍翔寺に参詣する要因を築きあげることとなる。

 絶崖宗卓は後宇多天皇の信任と庇護を得て、文保年間(1317〜18)頃に後宇多天皇の勅により南禅寺第4世住持となったが、2・3年で退院(ついいん。寺院を退居すること)した。元亨3年(1323)12月14日、絶崖宗卓は花園天皇の召され、宗峰妙超に伴われて仙洞に参じ、『碧巌録』について問答した。この時花園上皇は「いかなるかこれ仏法の大意」と絶崖宗卓に問い、絶崖宗卓は「紫羅帳の裏、真珠を撤ず」と答えたが、花園上皇はさらに「ただ与麼(よも。何か)□また別にあるや?」と問いかけ、絶崖宗卓は「陛下問うところを離れず」と答えた。しかし花園上皇はこの返答を不満とし、宗峰妙超に打ち明けたところ、宗峰妙超は花園上皇の批判が正しいことを示した(『花園天皇宸記』元亨3年12月14日条)。元弘3年(1333)に鎌倉浄智寺の住持となって関東に下向したが、建武元年(1334)6月27日に浄智寺にて示寂した。勅によって「広智禅師」と諡された。法嗣に明室宗哲・巌叟本中がいる。


後宇多天皇遺髪塔(平成16年(2004)10月30日、管理人撮影) 

龍翔寺寺領の確立

 文保2年(1318)8月4日、柳殿旧殿の龍翔寺敷地は、四辻入道親王寄附状と若宮避状が後宇多上皇によって確認され、同所を重ねて寄進されている(「後宇多法皇院宣案」大徳寺文書162)
 元応元年(1319)10月17日に中原季量が実検したところによると、龍翔寺の境内敷地は東側は南北92丈(276m)、西側は南北111丈(333m)、南側は東西92丈(276m)、北側は東西101丈(303m)の規模があった(「中原季量実検注進状案」大徳寺文書)
 絶崖宗卓は元応元年(1319)11月25日、通翁鏡円に宛てて、龍翔寺の重宝として径山和尚(虚堂智愚)の像、南浦紹明の国師号宸翰1通、径山祖翁(虚堂智愚)の法衣1頂、南浦紹明の黒衣1頂、文書等数巻、墨跡等数通、頌軸1冊を列挙し、火事で失う恐れがあるため、宝蔵造立の間は仁和寺の倉蔵に預けていることを述べている(「龍翔寺流通物送状」大徳寺文書460。下図版参照)

 年未詳だが、「龍翔寺重書紛失状」(大徳寺文書162)によると、龍翔寺の寺領田畑は32ヶ所に及んでいた。以下寄進年ごとに列挙する。
 延慶二年(1309) 柳殿敷地
 延慶三年(1310) 長門国阿内包光名
 元応元年(1319) 鳥羽下三栖庄得友名1町7段
 嘉暦二年(1327) 暦田4段
 元徳元年(1329) 弾正田6段大 又号木島田
 元徳元年(1329) 三条坊門屋敷1町
 元徳元年(1329) 山科小野庄内水田1町
 元徳二年(1330) 右京栖霞田2段
 元徳三年(1331) 法金剛院惣門前田地7段
 元亨二年(1332) 山城国薪庄内僧道顕持仏堂敷地
 正慶二年(1333) 和気戸田3段
 正慶二年(1333) 仁和寺湯田2段半
 永和二年(1358) 尾張国中島郡飯柄郷
 貞治二年(1363) 西京敷地 在鷹司靭負、大膳亮寄進
 応安三年(1370) 尾張国中島郡内益田保内田畠5町6段
 応安四年(1371) 西院庄内5段 一乗院殿御寄進
 応安四年(1371) 西院領院地内2段
 応安四年(1371) 沢堂田1段
 応安五年(1372) 尾張国智多郡荒尾郷内田地荒野3町2段
 応安六年(1373) 尾張国中島郡内草部保内田地7段
 寄進年未詳    蓼倉田9段大
 寄進年未詳    鴫河尻2段 在鳥羽御庄内、
 寄進年未詳    堀河尻1段 在紀伊郡
 寄進年未詳    六角堀河以東北角敷地
 寄進年未詳    六角堀川以東々角敷地
 寄進年未詳    西京木辻敷地 寺家買得之、
 寄進年未詳    伊勢国鈴鹿神戸内恒吉名田畠在家等
 寄進年未詳    摂津国住吉郡2段
 寄進年未詳    主殿町敷地
 寄進年未詳    近江国朝日郷内2段半
 寄進年未詳    丹波国八田庄内国恩寺

 このように多数の寄進によって龍翔寺が形成されていくのであるが、『徒然草』で有名な兼好法師も元徳2年(1330)4月27日に山城国小野庄の内1町を「当寺(龍翔寺)に帰依するに依り」龍翔寺に売寄進している(「沙弥兼好田地寄進状」大徳寺文書2190)

 このように龍翔寺の発展は一見順調であったようにみえるが、延文3年(1358)8月4日に後光厳上皇は大徳寺の徹翁義亨に対して、大徳寺・龍翔寺・円福寺の寺領が失墜し、仏閣が荒廃していることを聞いて驚きを表明し、この3寺の復興と四海の安全の祈祷を命じている(「後光厳院綸旨案」大徳寺文書162)ように、その情勢は不安定なものであった。また永和4年(1360)2月13日に龍翔寺は全焼しているが(「龍翔寺住持以下連署申状」大徳寺文書162)、まもなく再興し、焼失した寺領関係の文書も認められている。龍翔寺は至徳3年(1386)7月10日に山城国十刹の官寺第10位に列せられた(『竜宝山大徳禅寺志』第1冊、編年略記、至徳3年丙寅条)


絶崖宗卓自筆の「龍翔寺流通物送状」大徳寺文書(『大日本古文書 大徳寺文書之一』〈東京帝国大学文学部史料編纂所、1943年5月〉より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている) 

宗峰妙超と『祥雲夜話』

 龍翔寺の建造物には、南浦紹明の塔所(墓所)としての普光塔と、後宇多上皇遺髪塔があったことは前述の通りである。そのほかにも南浦紹明の法嗣の松岩宗友の塔所(墓所)である松岩宗友塔がその北に位置していたといい、近世にはそこを「大徳寺屋敷」と呼んでいたという(『雍州府志』巻10、陵墓門)

 龍翔寺の建造物としては、他に祥雲庵がある。この祥雲庵にて宗峰妙超と光和尚の問答が行なわれており、その問答を記したのが『祥雲夜話』である。この『祥雲夜話』とは宗峰妙超の語録の一つで、別名『破一尊宿夜話』とも『破尊宿夜話』ともいい、宗峰妙超の禅風を知る格好の文献となっている。詳細は平野宗浄『日本の禅語録6 大燈』(講談社、1978年7月)に『祥雲夜話』の現代語訳があるから、それを参照されたい。ここでは簡略な内容の記述にとどめよう。

 祥雲庵に光和尚なる僧がいて、南浦紹明の弟子であった。光和尚は生死に耽溺する発言をしたということを聞いた宗峰妙超は、兄弟子である光和尚を批判した。そこで宗峰妙超は正和2年(1313)12月26日の夜に祥雲庵の光和尚のもとを訪れた。ここで頓悟・見性を第一とする宗峰妙超と、戒律・講経を重要視する光和尚の間では激しい論争が行なわれ、両者の論争は決裂したという。

 宗峰妙超は「大灯国師」の国師号で知られる禅僧である。播磨国の人で、書写山円教寺に上った後、高峰顕日のもとで修行。南浦紹明から嗣法した。のちに「正中の宗論」にて一躍脚光を浴び、のち大徳寺開山となったが、この頃は韜光庵に居住する一禅僧に過ぎなかったのであり、祥雲庵にて夜話を行なった正和2年(1313)の段階で32歳であった。

 光和尚についてほかに知られることはないが、「先師(南浦紹明)の塔(墓所)を守って7年間は庵を出ない」と誓っていたが、正和3年(1314)元旦に先師の御影堂(普光塔か)に入り、焼香する時に誤って灯明をひっくり返してしまい、頭から油かぶってしまった。その後病気となって伊予国(愛媛県)で示寂したという(『祥雲夜話』)

 この『祥雲夜話』は、一休宗純(1394〜1481)の門下が盛んに書写を行なっていることから、『祥雲夜話』は一休宗純にも多大な影響を与えたとされる。とくに一休宗純が戒律・講経よりも頓悟・見性を第一とするところや、一休宗純が兄弟子の養叟宗頤(1376〜1458)を批判するのは宗峰妙超が兄弟子である光和尚を批判するところは、この『祥雲夜話』の影響を受けたからであるという(平野1977)


一休宗純の龍翔寺修造

 室町時代中期になると、龍翔寺は徐々に衰退の様相をみせはじめる。
 この頃になると龍翔寺の経営は完全に行き詰まり、永享8年(1436)3月16日には経費節減のために仏事法会のために振る舞われる酒やあつもの(スープ)を減らしたり、寺内の用務をつかさどる行者を1人のみとするといったことが行なわれている(「龍翔寺規式壁書」大徳寺文書)

 五山禅僧の瑞渓周鳳(1391〜1473)の日記の抄録である『臥雲日件録抜尤』宝徳2年(1450)9月11日条によると、瑞渓周鳳は龍翔寺に関する話題を記している。『臥雲日件録抜尤』はあくまで抄録であるから、瑞渓周鳳が何を契機として龍翔寺に関心を寄せたのかはわからないが、そのころから龍翔寺荒廃の様子が禅林の話題となっていて、他派(瑞渓周鳳は相国寺派の僧)の人々も注目していたとする説がある(今泉1998)。その龍翔寺の荒廃を見かねて救いの手をさしのべたのが一休宗純である。

 一休宗純といえば、アニメ「一休さん」でお馴染みの人物で、不羈奔放・風狂破戒の行動で知られる大徳寺派の禅僧である。一休宗純は派祖の南浦紹明を追慕しており、その門人達には南浦紹明の「紹」字をつけることが多かった。例えば実子の岐翁紹禎、一休宗純の頂相を描いた絵師没倫紹等、奥村本『狂雲集』を書写した祖心紹越がそれにあたる。

 このように一休宗純は、南浦紹明を追慕しており、龍翔寺修造もこのような背景によって行なわれたが、龍翔寺修造以前の康正2年(1456)に一休宗純は薪(現京都府京田辺市)の妙勝寺に南浦紹明の木像を修造している(『東海一休和尚年譜』康正2年丙子条)。妙勝寺は元亨2年(1332)11月に僧道顕が龍翔寺に薪村の田畑を寄進し、薪村の持仏堂を龍翔寺の末寺としたことにはじまる。のちに持仏堂が妙勝寺になり、一休宗純は妙勝寺の傍らに酬恩庵(一休寺)を構えたが、現在では妙勝寺は寺址を示す標が酬恩庵に残るのみとなっている。

 さて一休宗純による龍翔寺修造であるが、『臥雲日件録抜尤』長禄2年(1458)2月19日条によると、瑞渓周鳳は南禅寺栖真院の性勗より聞いた話として、一休宗純が龍翔寺に詣でて、偈を詠み、21貫500文を布施して、修理料にあてたという。『臥雲日件録抜尤』にみえるこの時詠んだ偈というのが、一休宗純の詩文集である『狂雲集』に「感龍翔寺廃」としてみえる。
   常住物誰用己身   常住物 誰か己身(こしん)に用いん
   山門境致剪松イン  山門の境致 松&M026032;(しょういん)を剪(き)る
   殿堂只与花零落   殿堂はただ花と与(とも)に零落す
   廃址秋風二月春   廃址の秋風 二月の春
 この偈の大意について「寺の什物は誰が私したのか、境内の松竹も切りとられている。仏殿も法堂も花が散るように壊れてしまい、廃墟には春の二月というのに秋風が吹く」と理解されている(柳田1987)。最後の「廃址の秋風 二月の春」の句について五山文学の雄であった瑞渓周鳳は、「廃址秋風の句、意に似たりて未だ通ぜず(廃址秋風の句は意味が通っているようにみえるが、通っていない)」とケチをつけている。
 また『東海一休和尚年譜』寛正2年(1461)辛巳条によると、一休宗純は春に嵯峨に遊び、西京を経由して龍翔寺に参詣した。荒涼として僧少なく、堂宇は傾いていた。昭堂(普光塔)は大徳寺が管理していたため問題はなかったのであるが、庫院は荒廃が最も甚だしく、僧の威儀をただす太鼓の音は沈黙していた。一休宗純はこれを嘆いて、銭数千緡(びん)によって修造を行なったという。1緡(びん)は1貫文にあたるため、「千緡」は「十緡」の可能性を指摘される(今泉1998)。両史料の年代は3年食い違っているが、どうやら『臥雲日件録抜尤』の方が正しいようで、『東海一休和尚年譜』は年代の錯簡とみられる。

 龍翔寺の衰退に心を痛めて修築を行なったのは一休宗純だけではなかった。関山派の雪江宗深(1408〜86)もまた、自身は中風のため半身麻痺の状態であったこともあり、侍者に命じて龍翔寺の祖塔(南浦紹明の塔所の普光塔)に代参させていた。しかし祖塔が荒廃していることを知り、経費を奉って修築を行なっている(『正法山六祖伝』衡梅雪江深禅師伝)


太秦の龍翔寺跡付近地図(『太秦村誌』1924年8月より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている) 

紫野への移転

 龍翔寺は一休宗純の修造以降もさらに経営状態は悪化し、享禄2年(1529)6月から翌年7月までの1年間の支出総額は25貫文で、この期間の龍翔寺の収入は20貫文であったから、5貫の赤字となっている。龍翔寺の文安3年(1446)の段階では収入は121貫文あったから、龍翔寺の収入は83年間で6分の1まで減少(インフレ・デフレを考慮しない場合)したことになる(竹貫1993)

 大永7年(1527)2月13日に柳本賢治率いる丹波勢・三好政長率いる阿波国人衆の連合軍と細川高国軍が桂川原で衝突して合戦となった(桂河畔の戦い)。このとき太秦一帯は戦火に巻き込まれたが、これは衰退する龍翔寺にさらになる打撃を与えることとなり、龍翔寺は破却されて荒野となってしまった(「龍翔寺領敷地田地証文」大徳寺文書2194)。この時、開山塔・昭堂・方丈・庫裏といった建造物、本尊釈迦像・開山木像・後宇多天皇の椅子・御帽子・『虚堂録』の版木90余枚といった什物のことごとくが失われてしまった。そのため享禄3年(1530)の後宇多法皇忌は大徳寺にて行なわれている。

 このように灰燼と化した龍翔寺であったが、寺領が残存していたため復興への道が模索された。しかし太秦付近は土一揆や法華一揆でもたびたび被害を受け、この地に再興することは困難な状態に置かれることとなる。そこで龍翔寺の再建の地として紫野の大徳寺近隣地が選ばれたのである。大徳寺の開山宗峰妙超は、龍翔寺開山の南浦紹明の法嗣であり、かつ宗峰妙超が龍翔寺を訪れていることは幾度も言及した通りである。また、これ以前(20年ほど前)の文亀3年(1503)には開山南浦紹明二百年忌が龍翔寺にて催されたが、この時大徳寺は経費総額の30%を出費している(竹貫1993)

 大徳寺は龍翔寺再興のため、天文8年(1539)5月28日に紫野の白毫寺寺地を買得を希望し、それは幕府に聞き入れられた(「室町幕府連署奉書案」大徳寺文書2194)。それを受けて6月2日に白毫寺敷地内の東西10丈(50m)、南北16丈(80m)の地を龍翔寺の境内地とするため購入(「納所賢光等敷地売買券案」大徳寺文書2194)、11月24日にも東西7丈(35m)、南北16丈(80m)の土地を再度白毫寺より購入した(「納所賢光等敷地売買券案」大徳寺文書2194)。さらに翌年の天文9年(1540)3月11日には龍翔寺旧領が安堵された(「幕府奉行連署奉書案」大徳寺文書2194)。この龍翔寺の復興と大徳寺近隣地への移転に尽力したのが、天啓宗イン(西〈上〉土〈下〉+欠。UNI6B45。&M016138;)(1486〜1551)である。天啓和尚は越前国(福井県)の人とも(『延宝伝灯録』巻第32、京兆大徳天啓宗&M016138;禅師伝)、能登国(石川県)の人ともいう(『龍宝山大徳禅寺世譜』)。俗姓は不明である。天文7年(1538)9月17日に大徳寺第94世となった(『龍宝山大徳禅寺世譜』)。天啓和尚は再興なった龍翔寺の住持となり、龍翔寺を支えることとなる。

 大応国師(南浦紹明)塔はそのまま太秦安井の地に残り、大徳寺が管理していた(『龍宝山大徳禅寺世譜』)。また再興された龍翔寺の輪番住持は毎年7月には後宇多法皇廟参読経を行なうため太秦安井の旧跡を訪れていた(『嵯峨行程』)。この廟参は御神塔開扉の許可が出なくなる明治18年(1885)まで行なわれていた(貴船1924)。その後大徳寺による後宇多法皇廟参読経は再興され、現在も行われている。

 宝暦3年(1753)の「西京安井龍翔寺敷地絵図」(大徳寺蔵)によると、敷地の南よりに東面して薬医門形式の表門がたち、その奥に東面して梁行7間、桁行5間の庫裏、その西奥に南面して梁行5間半、桁行6間の客殿があり、両者を廻廊が連結した。客殿の西に嘉陽門院の墓所が、さらにその北方に大応国師(南浦紹明)の塔所が所在し、塔所は寄棟造の3間禅宗様仏堂であったという(川上1968)。また後宇多天皇遺髪塔は近世末期の見聞によると、石塔であったという(『山陵考』蓮華峰寺御塔)。明治以降も大徳寺の境外仏堂という扱いであり、観音堂として残存していた。170坪の敷地に桁行4間半、梁間3間半の堂があり、内部は土間・板間・仏間などに区切られていた(京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち京都府庁史料『山城二区八郡仏堂明細帳』)。その後仏堂・建物がすべて失われてから満5年を経過しているという理由で、昭和6年(1931)1月8日に仏堂明細帳から削除される事務手続きがとられているから(京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち京都府庁史料『社寺明細帳附録23号』1頁)、その少なくとも5年以上前までには有名無実となっていたらしい。

 紫野に再興された龍翔寺の住持は、任期1年の輪住制をとり、毎年8月に交代していた。龍翔寺は文化13年(1816)秋に焼失したが、ほどなく再興された(『龍宝山大徳禅寺世譜』)。しかし明治の排仏毀釈によって大徳寺塔頭の三玄院が廃寺となっていまい、後年三玄院が再興された時には龍翔寺の敷地と建物は三玄院の所有となり、龍翔寺は廃寺となっていた総見院の跡に新しく建物を造立して移転した。

 現在の龍翔寺跡は宮内庁が治定・管理する後宇多天皇遺髪塔がわずかに残るのみである。スーパー「LIFE」が龍翔寺の境内地跡の大半を占めるが、その場所がかつて龍翔寺であったことを示すものは現在では何もない。スーパー「LIFE」は日々多くの人で賑わいをみせるが、その故地が龍翔寺であったことに想いを馳せる人はおそらくはいない。


[参考文献]
・貴船繁次編『太秦村誌』(1924年8月)
・八代国治『国史叢説』(吉川弘文館、1925年)
・川上貢『禅院の建築』(河原書店、1968年1月)
・市川白弦・入矢義高・柳田聖山校注『日本思想大系16 中世禅家の思想』(岩波書店、1972年10月)
・平野宗浄「大燈国師破尊宿夜話の研究」(『禅文化研究所紀要』9、1977年11月)
・平野宗浄『日本の禅語録6 大燈』(講談社、1978年7月)
・平野宗淨校訂『増補龍寳山大徳禅寺世譜 付索引』(思文閣、1979年8月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・柳田聖山訳注『大乗仏典 中国・日本編26 一休・良寛』(中央公論社、1987年)
・竹貫元勝『日本禅宗史研究』(雄山閣出版、1993年1月)
・今泉淑夫校注『一休和尚年譜2(東洋文庫642)』(平凡社、1998年10月)
・竹貫元勝『新日本禅宗史』(禅文化研究所、1999年7月)
・布谷陽子「七条院領の伝領と四辻親王家」(『日本史研究』461、2001年3月)


大徳寺山内別山龍翔寺山門(平成16年(2004)11月10日、管理人撮影)



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