砲厰



午門(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。かつて午門の外側左右に左将軍厰・右将軍厰がそれぞれ位置していた。

 砲厰はかつて京城(フエ旧市街)に位置した、要するに砲台である。とくに午門の前に位置した左大将軍厰・右大将軍厰は午門の外側、金水池の左右に位置していた。

 明命元年(1820)5月に将軍厰が建てられた(『大南寔録正編』第2紀、巻之3、聖祖仁皇帝寔録、明命元年5月辛巳条)。同年6月には鋳砲場が設けられた(『大南寔録正編』第2紀、巻之9、聖祖仁皇帝寔録、明命2年6月条)。

 明命6年(1825)に砲厰は護衛・警蹕を司った。同年に世廟に安置される九鼎が鋳造されたが、そのうち高鼎・仁鼎・章鼎には銃砲が刻まれている。明命14年(1833)にさらに城壁にそって砲台が設けられ、南正台・南明台・西成台・北定台・北中台に設置された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、砲厰)

 砲厰は成泰8年(1896)に撤去された。ただし大将軍厰の銅砲9位は午門の南に安置された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、砲厰)


大砲(広徳門前)(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)



大砲(体仁門前)(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

大砲

 大砲は体仁門(ガン門)・広徳門から北に京城(フエ旧市街)へ入って、午門へ行く途中に位置する。体仁門前には5基、広徳門前には4基ある。

 いずれも嘉隆2年(1803)に鋳造されたものである(『大南寔録正編』第1紀、世祖高皇帝寔録、嘉隆2年正月乙亥条)。これらの大砲は左将軍厰・右将軍厰にあったものであるが、成泰8年(1896)に左将軍厰・右将軍厰が撤去された際に現在地に移された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、砲厰)


 概ね全長4mの先込式の銅砲であるが、その砲尾にはそれぞれ銘文がある。

 砲尾のものは「命嘉隆十五年歳次丙子吉月日 名神威力無敵上将軍第九位第★」とある。すなわち「嘉隆15年(1816)歳(ほし)は丙子(ひのえね)に次(やど)る吉月日に命じて神威力無敵上将軍と名づく。第九位の第★」となる。「★」印のところは、それぞれ一から九まであり、それぞれの大砲によって異なっている。

 大砲は9基あるが、それぞれ第一から第九まで「春」「夏」「秋」「冬」「木」「火」「土」「金」「水」と名付けられている。また銘文にある通り、嘉隆15年(1816)に「神威力無敵上将軍」と名付けられ、神格化された。


第五砲の砲尾(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 砲尾よりもやや上部には篆体による銘文がある。銘文は以下の通りとなっている。

 歳甲午東巡戊
 申還師嘉定辛
 酉仲夏克復旧
 京壬戌仲夏大
 軍北巡七月奏
 捷是歳班師告
廟献俘国賊頓清
 癸亥春命銷収
 獲色銅鋳巨砲
 者九此其第★(←一から九までの各数字)
 臘月匠工告竣
 特命銘文為記
嘉隆三年吉月日

 すなわち「歳(ほし)は甲午(1774)東巡す。戊申(1788)師を嘉定に還す。辛酉(1801)仲夏、克って旧京を復す。壬戌(1802)仲夏、大軍北巡し、七月、捷を奏ず。是の歳、師を班(かえ)し、廟に告げて俘を献ず。国賊頓(にわ)かに清し。癸亥(1803)春、収獲の色銅を銷(とか)すことを命じて、巨砲を鋳するもの九、此(こ)れ其(そ)の第★なり。臘月、匠工竣を告ぐ。特に銘文を命じて記すことをなす。嘉隆三年(1804)吉月日」となる。

 この砲尾の銘文には、広南阮氏が西山朝に滅ぼされた後、嘉隆帝が復興して銅砲を鋳造するまでの歴史を述べている。大略すると、「甲午年(1774)に亡命先から軍を進めてヴェトナムに戻り、戊申年(1788)に軍は嘉定(現ホーチミン)に帰った。辛酉年(1801)仲夏(5月)には勝利して旧京(フエ)を復し、壬戌年(1802)仲夏(5月)に大軍は北部に侵攻し、7月に勝利を報告した。この年に軍隊は戻り太廟に捕虜を献上し、国賊つまり西山朝は滅亡した。癸亥年(1803)春に獲得した銅を溶かして大砲を9基鋳造し、臘月(12月)に工匠は完成を報告した。そこで銘文をつくって記録した。嘉隆三年(1804)吉月日」となる。大砲は嘉隆帝が広南阮氏滅亡後、苦難の末に西山朝を滅ぼしてヴェトナムを再統一したことの記念碑的存在なのである。


第五砲砲尾の銘文(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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