妙光寺



妙光寺庫裏(左)と玄関と方丈(右)(平成20年(2008)5月11日、管理人撮影)

 妙光寺は、京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺院です。仁和寺街道の西側の福王子の交差点300mほど北側に位置しています。山号は正覚山。弘安8年(1285)に無本覚心(1207〜98)によって開創されました。妙光寺は京都十刹の一つで、御室焼の陶工・仁清のものと伝えられる墓があります。


開山無本覚心@ 〜若き日の修行〜

 妙光寺の開山は無本覚心(1207〜98)である。心地覚心とも称され、「法灯国師」の国師号を賜っている。
 無本覚心の伝記は『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』1巻に現わされている。編者は無本覚心の法嗣で由良西方寺の住持聖薫である。彼は願性の筆録や、慈願上人の撰述した縁起、無本覚心の平素所持した記録、護国紀などを参照して編年体によって記述している。無本覚心は禅のみならず、密教・念仏といった多様性があるのだが、このは『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』では無本覚心の純禅的な部分を強調するあまり、これらの多様性は省かれてしまっている。『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』は『続群書類従』9上に所載されている。無本覚心の記述についてここでは主として『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』によったが、無本覚心の伝はほかに『紀州由良鷲峰山法灯円明国師之縁起』があり、『和歌山県史』中世史料2に翻刻されている。

 無本覚心は信濃国近部の人であり、または神林の人ともいわれる。俗姓は恒氏で、または常澄ともいわれる。母は子が無かったため、戸に観音霊像を隠して子を祈り求めた。ある時観音大士が親ら手に灯を燃やして母に授けるという夢を見て、目覚めると妊娠していた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』前記)。承元元年(1207)に誕生した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』承元元年丁卯条)。15歳の時に近部の神宮院主に読み書きを習っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』承久3年辛巳条)

 嘉禎元年(1235)無本覚心は29歳の時、奈良東大寺にて得度・受戒した。その時の度牒には「嘉禎元年10月20日、東大寺戒壇院において受具す」云々とあり、戒牒には「信州近部県神宮寺の童行の覚心。本州本県の人の事。俗姓は恒氏、年29歳。当寺の住持僧の忠学律師に投じて、度牒を賜い、剃髪受具するものなり。嘉禎元年10月20日、左大史丹治吉成給す。」とあった。無本覚心はこの2通の度牒・戒牒を平生随身していたという。ついで高野山に登り、伝法院主の覚仏阿闍梨・禅定院住持の退耕行勇禅師(1163〜1241)・道範阿闍梨(1184〜1252)・金剛三昧院の前別当である願性(?〜1276)に密教の経典・儀軌を学んだ(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禎元年乙未条)

 無本覚心の師となった退耕行勇は、日本臨済宗の祖である明庵栄西(1141〜1215)の法嗣で、荘厳房ともよばれる。師の栄西がそうであったように、彼もまた禅密兼修の傾向が強かった。退耕行勇は、建久10年(1199)4月23日に持仏堂での源頼朝百箇日御忌辰に際して導師となったことをはじめてとして(『吾妻鏡』建久10年4月23日甲申条)、鎌倉と密接な関係を結んでいる。源頼朝の室北条政子が、頼朝の供養のため高野山に金剛三昧院を建立すると、退耕行勇はその開山となった。
 第3代将軍源実朝(1192〜1219)の退耕行勇への信任はきわめて篤く、公的仏事から仏教に関する私的な諮問にまで及んでいる。建暦3年(1213)3月30日に源実朝は寿福寺に参詣しているが、この時結城朝光(1167〜1254)が進上した大師伝絵を持参して、退耕行勇に銘字の誤謬を訂正させている(『吾妻鏡』建暦3年3月30日辛未条)
 建保5年(1217)5月12日、寿福寺長老であった退耕行勇は将軍家御所に参じて、所領の相論について、将軍源実朝に訴えた。このことはすでに幾度にも及んでいたため、実朝の機嫌を損ねてしまい、(源実朝は)大江広元を通じて、「三宝の御帰依は甚だしく重いとはいえ、政道の事についてしきりに執申するというのは、僧徒の行いではない。早くこれを停めて、専ら修練されるべきである」といった。退耕行勇は心中これを恨み、泣いて寿福寺に帰って閉門してしまった(『吾妻鏡』建保5年5月12日己丑条)。15日に源実朝は寿福寺に入って退耕行勇の欝陶の事について慰めた。退耕行勇はことさらに恐れ申した。両者はしばらくの間禅室にて仏法の談話に及んだ(『吾妻鏡』建保5年5月15日壬辰条)。この説話は『沙石集』にもみえ、実朝に叱責された後寿福寺に70日間篭っていた退耕行勇のもとを実朝が訪れ、実朝は退耕行勇の足元に跪いて涙を流し、退耕行勇もまた涙を流して互いに語り合ったといい、この話を寿福寺の老僧や実朝に仕えていた老人が語っていたという(『沙石集』巻第9ノ13、師ニ礼アル事)。このように蜜月であった源実朝との関係は、源実朝の暗殺によって突如終りを迎えることとなる。文暦元年(1234)には正式に金剛三昧院長老職についているが、師栄西を嗣いで東大寺勧進上人となり、暦仁元年(1238)10月8日に東大寺大仏殿ににて千僧供養を行っている(『東大寺続要録』供養篇、本、大仏殿千僧供養事)

 延応元年(1239)退耕行勇は相模国(神奈川県)鎌倉の亀谷山寿福寺の住持となった。無本覚心は退耕行勇にしたがって寿福寺に赴いた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』暦仁2年己亥条)。翌2年(1240)には退耕行勇の命によって堂司に帰り、寿福寺の綱維を掌握した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』延応2年庚子条)。しかし翌年の仁治2年(1241)7月に師の退耕行勇が示寂しており(『延宝伝灯録』巻第6、相州稲荷山浄妙寺退耕行勇禅師伝)、無本覚心は寿福寺を去ったようである。 


鎌倉寿福寺境内(平成17年(2005)1月17日、B氏撮影) 

開山無本覚心A 〜諸師遍歴〜

 仁治3年(1242)、無本覚心36歳の時、山城国深草極楽寺の道元(1200〜53)から菩薩戒を受けた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』仁治3年壬寅条)。道元が無本覚心に授けた戒脈の原本は散佚したが、奥書の写本が豊後泉福寺に現存している。

 それから4年間の無本覚心の消息はつかめないが、宝治元年(1247)無本覚心41歳の時、上野国(群馬県)世良田長楽寺にて夏安居(げあんご)を過した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』寛元5年丁未条)。夏安居とは、夏期3ヶ月間(4月16日〜7月15日)に修行者たちが一ヶ所に集団生活し、外出を避けて修行に専念することをいう。仏教発祥の地インドでは、春から夏にかけて約3ヶ月間の雨季の間は外出が不便であり、またこの時期に外出すると草木や虫を踏み殺してしまうことが多いため、この制度がはじまったといわれる。

 無本覚心は長楽寺の住持釈円栄朝(?〜1247)に「法姪の礼」をつくした。無本覚心はここで釈円栄朝に「仏教の大意、いかが用心せん」と問い、釈円栄朝は「忍辱精進し、一塵財も蓄えざれ」と答えた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』寛元5年丁未条)
 釈円栄朝はもとは密教を学んでいたが、明庵栄西に従って禅を学んだ。この経歴は無本覚心の師退耕行勇の経歴に酷似している。後に上野国長楽寺の開山となったが、多数の東方の道俗が釈円栄朝に帰依したという。宝治元年(1247)9月26日に示寂したが、その時長楽寺の寺内がはなはだしく明るくなったため、寺の傍らの民家は寺を見て失火だと思い急いで寺の内に入ってみると、釈円栄朝が丈室で坐して示寂しているのを見たという(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、長楽寺栄朝伝)
 無本覚心が釈円栄朝の参禅したのは、釈円栄朝の師が明菴栄西であり、すなわち釈円栄朝は無本覚心の師退耕行勇の法弟にあたるためであったことが要因の一つであったと思われる。つまり「法姪(ほうてつ)の礼」というのは、無本覚心は法系上では釈円栄朝の姪(おい)にあたるからなのである。しかし無本覚心と釈円栄朝の関係は両者が出会った宝治元年(1247)の9月に釈円栄朝が示寂してしまったことによって、わずか1年にならないうちに終わってしまう。そのため無本覚心は、翌宝治2年(1248)に甲斐国(山梨県)の心行寺に滞在した。夏には寿福寺の悲願長老こと蔵叟朗誉(1194〜1277)が心行寺に夏安居のために来訪した。無本覚心は大殿の後ろにて竹床に坐し、昼夜坐禅した。ある夜、胸中より多くの小蛇が出てくる夢を見、目覚めた後に心の迷妄がにわかに解け、これまで学問的に理解してきたものが最善の法ではなかったことを知った(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治2年戊申条)

 夏末(夏安居の終り)に京都に赴き、草河勝林寺の真観上人こと天祐思順(生没年不明)に謁して、彼のもとで日々仏法最奥の宗義について論じ、あきらかに手がかりを得ることが出来た(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治2年戊申条)
 天祐思順は、はじめ天台宗を学んでいたが、入宋して北澗居簡(1164〜1246)に参禅して、印記を受けた。在宋13年間の後帰国して、洛東に勝林寺を創建して居住したものの、晩年には門を閉じて面会謝絶したという(『延宝伝灯録』巻第1、京兆草河勝林寺天祐思順禅師伝)。また『沙石集』にみえる天台僧と問答した「真観老人」(『沙石集』巻第3の4、禅師ノ問答是非事)とは天祐思順のことである。


『訂補建撕記図会』巻之下、由良開山法灯禅師興聖寺ニ掛錫セラルの図(『曹洞宗全書』17史伝下〈曹洞宗全書刊行会、1938年1月〉79頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

開山無本覚心B 〜入宋〜

 宝治3年(1249)正月16日、無本覚心は入宋の志がおこり、勝林寺を去った。天祐思順は2偈を送って激励している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐10年庚戌条)。無本覚心に入宋を勧めたのは、かつて釈円栄朝のもとで学んでいた円爾(1202〜80)であり(『東福開山聖一国師年譜』建長元年己酉条)、また円爾は「あなたが無準師範(1178〜1249)に参じたら、必ずや悟るところがあるでしょう」といい、紹介状を与えたという(『本朝高僧伝』巻第20、浄禅3之2、紀州鷲峰山興国寺沙門覚心伝)。円爾と無本覚心の関係は、単に釈円栄朝に関連したものというだけではなく、無本覚心が退耕行勇示寂後の仁治3年(1242)から宝治元年(1247)までの間のある時期に円爾に参じていたという説がある(中尾1988)

 同宝治3年(1249)2月には願性の支援によって紀伊国由良浦(和歌山県由良町)より九州にむかい、3月28日博多津より宋にむけて出帆した。到着後、径山に赴いたものの無準師範はすでに示寂しており、かわって癡絶道沖(1169〜1250)のもとに参じたが、機縁は適わなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治3年己酉条)。淳祐10年(1250)、荊叟如カク(王へん+玉。UNI73CF。&M020926;)(生没年不明)に謁して道場山(浙江省)にて夏安居を過した。夏末に四明(浙江省)の阿育王山に赴いて2年間滞在したが明師に巡り会うことはなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐10年庚戌条)。淳祐12年(1252)天台山に登り応真に礼した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐12年壬子条)

 宝祐元年(1253)2月28日、無本覚心47歳の時に大梅山に登って法常禅師(752〜839)の塔(墓所)に拝礼した。この時日本人僧の源心なる者に会い、無本覚心は同参の誼によって、「久しくこの方に参じているが、明眼の知識に遇うことはないか」と問うた。源心は「無門和尚は一代の明師である。ただちに赴いて参見すべきである」と答えた。そこで護国寺に赴き、無門慧開(1183〜1260)に面会した。
  無門慧開「我が道裏に門はない。どこから入ってきたか?」
  無本覚心「無門のところより入りました」
  無門慧開「お前の名はなんだ」
  無本覚心「覚心」
 無門慧開は「心は即ちこれ仏。仏は即ちこれ心。心仏如々(もとのまま)にして、亘古亘今(永久)なり」という偈を送り、印可を与えた。無門慧開は「お前が来るのがはなはだ遅かったのではないか?」といい、扇子をあげて「見たか?」と問いかけた。これによって無本覚心は言下にして大いに悟った。9月28日のことであった。無門慧開は『対御録』2冊と袈裟1頂を無本覚心に与えた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年癸丑条)。このように無門慧開は無本覚心に袈裟を授けているが、妙光寺には無本覚心が無門慧開より授けられた伝法衣であるとの伝承がある九条袈裟が現存する。墨書で「入宋覚心」「仏法僧宝」「永仁二年(1294)十二月十日」の3銘があり、無本覚心が帰朝の際に宋から舶来された可能性が濃厚であるとされる(切畑1979)

 宝祐2年(1254)3月27日、無本覚心は再度護国寺に赴いて、無門慧開に帰国の意志を伝えた。無門慧開は達磨・寒山拾得の掛軸画賛3幀を与えた。29日には『月林録』『無門関』を授けられた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条)。『無門関』は、『碧巌録』『従容録』とともに著名な中国宋代の公案書であるが、中国では伝本を絶って失われてしまい、日本において盛行したため、現在にまで伝えられることとなる。日本にはじめて請来したのは、無門慧開から直接与えられた無本覚心その人である。無本覚心の帰国後、「沙門相心」によって西方寺(興国寺)から「正卯仲春」に開版されたが(建仁寺大中院本『無門関』刊記)、この「正卯仲春」が正応4年辛卯(1291)5月であるとすると、『無門関』の開版は無本覚心存命中に行なわれたということになる(川瀬1970)。なおこの「正卯仲春」について、近世における臨済宗屈指の学僧無著道忠(1653〜1744)は正和4年乙卯(1315)とみている。『無門関』は無本覚心の指導法に多大な影響を与えており、とくに多く用いたのが「趙州無字話」であった。また有名な「趙州狗子話」も法嗣の恭翁運良(1267〜1341)に対して用いている(『越之中州黄竜山興化護国禅寺開山勅諡仏林恵日禅師塔銘』)

 無本覚心は礼して退き無門慧開と別れた。無本覚心は商舶に乗って帰国の途についたが、行程の半ばで風波が激しくなり、無本覚心は観音小像1幅を所持していたが、この時周囲の勧めによって念じたところ、にわかに瑞相があり、月輪が帆檣に現われて上下すること再四、風波がやすまり、博多津に到着することができたという。時に6月上旬であった。宋に滞在すること都合6年であった。そのまま船で葦屋津を出発して紀伊湊に到着して上陸した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条)。その後、『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』によると、無本覚心はその後高野山の禅定院(金剛三昧院)にのぼり、「勇公」は即日、無本覚心を第一座にしたとあるが、退耕行勇は1241年に示寂しているから誤りであるとされ(新野1971)、また建長7年(1255)には禅定院の第一座となっていることから(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建長7年乙卯条)、無本覚心が禅定院(金剛三昧院)の首座(第一座)となったのは第5代長老の廻心房真空(1204〜68)の時であるから(『金剛三昧院住持次第』第五長老真空廻心房条)、無本覚心を第一座としたのは退耕行勇ではなく真空であったらしい。

 建長8年(1256)2月13日、無本覚心は師の無門慧開に書簡と水晶の念珠1連・金子1塊(12銭重)を贈っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建長8年丙辰条)。翌年には3月13日付の無門慧開の返書が無本覚心のもとに届いている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正嘉元年丁巳条)。のちの文応元年(1260)9月1日にも前年の宋開慶元年(1259)8月15日付の無門慧開の書簡を受け取っているように、師弟の交流は無本覚心帰国後も続いた。


興国寺本堂(平成18年(2006)11月24日、管理人撮影)。由良興国寺は西方寺の後の姿であり、無本覚心・願性によって建立された。室町時代には十刹に列せられている。現在臨済宗妙心寺派。 

開山無本覚心C 〜西方寺建立〜

 正嘉2年(1258)無本覚心は禅定院住持を罷め、由良鷲峰に遷り、功徳主の願性の要請によって、西方寺の開山住持となった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正嘉2年戊午条)。この願性は俗姓を葛山景倫といい、関東の武士であった。源実朝に仕えており、入宋の命令を受けて九州に渡宋のため滞在していたが、承久元年(1221)実朝が暗殺されたこと聞いて剃髪し、高野山に登った。西入なる者が実朝の頭蓋骨を入手し、将軍の母である鎌倉二品禅定尼真如(北条政子)が西入の恋慕追福の志を視て、由良荘の地頭職を賜った。松葉入道行円なる者が実朝の夢告を鎌倉に告げ、それによって願性は金剛三昧院を修理して別当職に補せられた。願性は紀伊国海部由良荘に実朝の頭蓋骨を安置する廟を建立し、田園を寄進して寺院とした。これが西方寺であり嘉禄3年(1227)10月15日のことであった。寺号は栂尾明恵(1173〜1232)の選定により、道元が扁額の篆字を書した。本尊阿弥陀像1鋪は、毘沙門堂明禅法印(1167〜1242)が開眼供養した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禄3年丁亥条)。文永元年(1264)8月9日に紀伊西方寺別当願性は寺務を無本覚心に譲り、由良荘を高野山金剛三昧院に寄進した(「葛山五郎入道願生寄進状」紀伊金剛三眛院文書〈鎌倉遺文9142〉)。さらに願性は文永3年(1266)正月27日に西方寺五箇条規式・造寺縁起などを誌して西方寺の寺規を整備していった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永3年丙寅条)。西法寺は熊野詣の路次の途上に位置しており、後世には無本覚心の名声と相俟って、熊野に詣でる者は鷲峰山(西方寺)に道をとり必ず無本覚心に礼謁しようとし、そうでなければ無意味であるとされるほどであった(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、鷲峰覚心伝)。西方寺は熊野信仰をベースに遁世僧・民間宗教者の参詣する寺院として機能していたとされる(原田1988)

 弘長4年(1264)正月1日より15日間、無本覚心は愛染明王法および五大尊法を修して山内の粛清を祈った。願性の檀命によるものであった。4月8日申時(午後3時)には聖達禅人(後鳥羽上皇)の亡魂が行者了智に託宣して、正月の修法を感謝するとともに、無本覚心の老母が信濃国に健在であることを伝えた。無本覚心は15歳の時に神宮院主に謁見して読み書きを習って以来、孝道を守ろうとしたとはいえ、仏法の為に世俗の愛情を割愛し、そのため親孝行することができなかった。日本・宋を遍歴して、仏法の大事を究明してきたため、親の労苦に報いようとしたものの、母の生死すらわからなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘長4年甲子条)。文永3年(1266)無本覚心は神託によって母に会いに信濃国にむかった。母に会うと由良に連れ帰った。旅の間無本覚心は緇衣(僧侶の衣服)を脱いで直衣(平常の服)を着て母堂の後ろを付き従った。2人は熊野に詣でた後由良に戻ったが、無本覚心は修禅尼寺を造営して母の法号を妙智とした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永3年丙寅条)
 文永4年(1267)4月、無本覚心の母妙智が示寂し、寺の東南の結界地に墳墓を設けて葬った。この地には無本覚心のの姉妹も葬られており、母の妙智の墳墓には宝篋印塔が、2姉には五輪塔が安置された。無本覚心は祭祀を怠ることはなく、裸足にて墓前に詣でて供諷し、これを日々の定式とした。大卒塔婆を建て、自ら梵漢の種子を書いて、育てられた恩に報いた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永4年丁卯条)

 文永5年(1268)鎌倉寿福寺の住持が空席になったため、無本覚心が住持に招かれたが、無本覚心は固辞して赴かなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永5年戊辰条)

 建治2年(1276)願性が病となったため無本覚心は始終周囲を離れず、臨終に際してつきっきりで看病したが、看病むなしく同年4月23日、願性が寺の南の大坊にて示寂した。願性と無本覚心が嘉禎元年(1235)に高野山にてはじめて出会って以来43年の歳月が流れていた。願性は鏡1面を無本覚心に遺したので、12月17日丑時(午前2時)、浜宮が神体を新宮に奉遷する際、無本覚心は願性が遺した鏡1面を神殿に納めた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建治2年丙子条)。また弘安6年(1283)には西方寺の宝塔を創建し、4月23日の願性の諱日(命日)をもって落慶している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安6年癸未条)


熊野大社本宮(平成17年(2005)8月17日、管理人撮影。参考までに…。) 

開山無本覚心D 〜妙光寺の草創〜

 弘安4年(1281)、亀山上皇は三たび詔書を遣わして無本覚心を京都勝林寺に住まわせ、再度召して禅について尋ねた。無本覚心の回答に感心した天皇は皇居を改めて禅寺とし、「禅林」の勅額を賜った。天皇は無本覚心を開山第一祖としようとしたが、「貧道(僧の卑称)は無徳で王者の師となるには堪えられません。ましてや主上の寺院を創ることができましょうか」と謝絶した。しかし天皇は詔命によって許さなかったので、無本覚心は天皇を倦まずに教導したが、老齢のため応酬に堪えられなかった。そこで無本覚心は徒弟らと協議し、密かに遁走して南の西方寺に帰ってしまった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安4年辛巳条)

 弘安8年(1285)、無本覚心79歳の時、内大臣花山院師継(1222〜81)が長男右少将忠季(生没年不明)の追修のため、北山仁和の別業を改めて妙光禅寺と号した。忠季の弟心性(別称は空岩)と弟の師信(1274〜1321)は父師継の命にしたがって、寺にて無本覚心を迎えることとし、無本覚心を開山とした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安8年乙酉条)。花山院(かざんいん)家は、摂政藤原師実(1042〜1101)の子家忠(1062〜1136)を祖とる公家で、家忠が邸宅花山院を伝領したので家号となった。花山院家は妙光寺開基の師継とその兄定雅(1218〜94)の時に2家に分裂し、師継系の家は師信の子信賢(1301〜32)が南北朝の争乱の際に南朝に仕えていたため、南朝と命運をともにした。妙光寺には後醍醐天皇が幕府の追求を逃れて三種の神器とともに妙光寺に行幸したとの伝承があるが、花山院家と南朝の関係からみると、この伝承が自然的に発生したであろうことが頷ける。

 妙光寺の徒衆は力をつくして妙光寺を造営し、さらに無本覚心の寿塔を建立した。この寿塔は後に改めて霊光院といった。しかし無本覚心は西方寺に留まったままで京都に来なかったため、徒衆は無本覚心がやって来て妙光寺の寿塔に留まることを望み、使を鷲峰(西方寺)に遣わした。西方寺では衆議が行なわれ、「前年に天皇のお心に背いて密かに西方寺に帰っておいて、今また寿塔のために上京し、かつ重ねて徒弟の私とするのであれば、礼においては不遜である」としたため、再三妙光寺の使はむなしく戻るだけであった。ある時、師はにわかに侍僧に告げて、「私は京北(妙光寺)に行って衆の望みを慰めたい」といったため、西方寺の衆は留まることを強いることができず、旅の支度を急いだ。しかし京北(妙光寺)の不平はやまなかった。議論して「今回も師(無本覚心)を請うたが、師がもし来られなかった場合、われわれは衣鉢を師に返還するにこしたことはない。塔院を破却したところで、鷲峰(西方寺)の徒に何の幸いがあろうか。北京(妙光寺)の徒に何の不幸があろうか」として、翌朝に請状の使を遣そうとして議席が夕刻に及んでいたところ、西門を急にコツコツと叩く音がして、行僕(あんぼく。行者従僕のことで、寺院の下まわりの勤めを行なう者)が声高に「鷲峰の老師が来臨された」と報告した。議席の衆は驚喜感泣し、多日の鬱憤が釈然と晴れた。(妙光寺)の衆は皆「師の慈悲の心が(われわれ妙光寺の衆の気持ちを)が感じられたのだ」といった。花山院師信は亀山上皇・後宇多天皇に奏上して、嵯峨亀山の皇居に輦車(手押し車)にて宮中に入り、天皇に謁見した。その後恩賜を蒙って南の西方寺に帰った(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安8年乙酉条)


『都名所図絵』巻6、妙光寺(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉401頁より一部転載)。図の印金堂とは開山塔のことで、寛永年間(1624〜44)に開山塔を再興したものであるが、内部に印金が貼られたことから「印金堂」の名で呼ばれて近世期には有名であった。昭和になってから荒廃して破却された。 

無本覚心と曹洞宗・時宗・律宗・萱堂聖

 無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持っていたが、他宗派との接点が非常に多いことでも知られる。つまり無本覚心は禅宗という枠組みにとらわれない広範囲の宗教者であったことを物語っている。無本覚心の基本伝記はこれまで引用してきた『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』であるが、前述したようにこの年譜は無本覚心の生涯を純禅的な部分を強調するあまり、他宗派との交流を削除してしまっている。また他宗派側でも、基本伝記にはみえず、むしろ後世に記された史料にみえることが多く、無本覚心と他宗派の交流が実際にあったかどうか、実証を困難にしている。


 曹洞宗と無本覚心の関係は、仁治3年(1242)に無本覚心が道元より菩薩戒を受戒した時よりはじまるが、その後の関係は瑩山紹瑾(1268〜1325)を通じて説かれることが多い。
 瑩山紹瑾は、道元下4世で、曹洞宗の教団確立につとめ、後世には道元を高祖、瑩山を太祖として併せて両祖とされた。この瑩山紹瑾にも「法灯(無本覚心)が南紀の興国寺(西方寺)にいる時、師(瑩山紹瑾)は赴いた。(無本覚心は瑩山紹瑾を)一見して大いに称賛し、(瑩山紹瑾はここに)留まって冬を過した」(『日本洞上聨灯録』巻第2、能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師伝)とあるように、無本覚心参禅説話があるが、多くの瑩山紹瑾諸伝が触れていないため、積極的に両者の関係を見出すことは難しい。しかしながら、無本覚心の法嗣である恭翁運良・孤峰覚明(1287〜1361)は実際に瑩山紹瑾のもとに参禅しており、その後も無本覚心の法脈である法灯派と曹洞宗の関係は続くこととなる。


 時宗の一遍智真(1239〜89)と無本覚心の邂逅について、それぞれの基本伝記である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や『一遍聖絵』・『一遍上人絵詞伝』にはみえない。そのようななかで一遍の異伝では無本覚心との説話が度々みえる。

 建治元年(1275)一遍は熊野に詣でた後、紀州真光寺(西光寺か)に赴き、心地(無本覚心)にまみえた。無本覚心は「念起即覚の語」を示すと、一遍は和歌で、「唱うれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏」と示したが、無本覚心は「未徹在」といった。建治2年(1276)4月、一遍は再度熊野に詣でたが、路傍にたまたま律僧に出会った。(中略)一遍はなおも冥慮を仰がんとを欲して、証誠殿に詣でた。神は「三心のさはぐり有るべからず。凡そのこの心は善き時も悪き時も迷なる故に、出離の要とはならず。ただ南無阿弥陀仏が往生するぞ」といい、「西へゆく道にな入ぞ苦しきにもとの実りのあとを尋よ」という和歌を得た。ここにおいて一遍は解他力深義を領し、自力意楽を捨てた。再び紀州由良に戻って無本覚心にまみえて、和歌を呈した。「捨て果てて身は無きものと思いしに寒きぬれば風ぞ身にしむ。」 ついに印可を受け、手巾・薬篭を得た(『一遍上人行状』)

 弘安10年(1287)3月に一遍は兵庫に至り、結縁しようとする道俗の人々は一遍の周囲に群を形成していた。光明福寺の住持は和歌を呈した。同郡の宝満寺には由良の法灯国師(無本覚心)が在住していた。一遍は参謁しすると、(無本覚心は)念起則覚の話を掲げた。一遍は和歌で心のうちを述べたが、禅師は「未徹在」といって斥けた。一遍はまた和歌を述べると、禅師は手巾と薬篭を一遍に附属して印可とし、「この2物は信を表わしている。後人の標準としなさい」といった。一遍は踊念仏をした(『一遍上人年譜略』弘安10年条)

 この両伝記とも、無本覚心にまみえた年が建治元・2年(1275・1276)と、弘安10年(1287)と大幅に隔たっており、邂逅した場所も、紀州真光寺(西光寺か)と兵庫宝満寺(写真下)と異にしていることから、一遍と無本覚心との関係説話には疑問が持たれるところであるが、これらの説話について禅と念仏を結びつけるために五山禅僧によってつくられた説話とみられている。一遍は法語のなかに無本覚心の得法の機縁の語を引いており、一遍が無本覚心のことを知っていたことは事実であったという(原田1988)。また時宗四条派の祖である浄阿真観(1276〜1341)もまた無本覚心に参禅したという説話がある。
 浄阿は諸国を修行していたが、紀伊由良に到って心地(無本覚心)にまみえ、座下にあって禅法に励むこと6年間、端座して修行した。ある時無本覚心にむかって「長年修行しているとはいえ、いまだに一分の鼻孔すら得られません。なおも修行すべきでしょうか。又(何か)示されることはないのでしょうか」といった。無本覚心は「長年の工夫で得られなければ坐禅すべきではない。また法性というものは教外別伝であって、言説をもってのべるべきではない。ただ熊野に参詣して祈請しなさい」といった。そこで浄阿は熊野本宮に参詣して祈請してみたが効果はなかった。翌日に熊野新宮に参詣すると、夜夢に念仏の形木を賜って「この札を賦して衆生に利益しなさい。名は一阿弥陀仏と付けなさい」という神託に預かった。そこで由良に下向して無本覚心にまみえ「熊野に詣でて念仏の法を得ました」といった。無本覚心は「いかなるか念仏」と問いかけ、浄阿は「南無阿弥陀仏」と答えたが、無本覚心は「よしとするには不足である。また参詣しなさい」といった。また浄阿は熊野に参詣して下向した。無本覚心は「いかなるか念仏」と再度問いかけると、「南無阿弥陀仏」と答え、無本覚心は「よし」といった。それより浄阿は念仏を勧進して諸国を修行した(『浄阿上人伝』)
 この説話について、浄阿を祖とする四条派が、対立する遊行派の七条道場に対する正当性を主張するため、浄阿の師の一遍と同じ宗教的体験をした説話が形成されたとされる(原田1988)


 律宗では久米多寺の道爾(1254〜1324)に無本覚心参禅説話がある。

 道爾は由良法灯国師(無本覚心)の道風を聞いて、興国寺(西方寺)のむかった。無本覚心はあらかじめ衆徒に「三日の後に嘉賓(よい客)がやって来るだろう」といった。禅爾がやって来たということを聞いて、無本覚心は歓喜し、禅爾に対して慇懃に接し、誠実に対応したため、禅爾は宗旨を理解することが出来た(『延宝伝灯録』巻第34、泉州久米田寺円戒禅爾法師伝)


 高野聖のうち萱堂聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を祖とする説話がある。

 紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままにしているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山(無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)


兵庫県神戸市長田区東尻池町の宝満寺(平成19年(2007)11月10日、管理人撮影)

開山無本覚心E 〜報恩寺・護国寺の造営と示寂〜

 無本覚心は晩年、紀国造氏の帰依を受け、報恩寺を造営した。紀国造氏とは、紀伊国名草郡を本拠として日前・国懸両神社の神主を務めた氏族で、『古事記』・『日本書紀』にも「木国造」「紀伊国造」として記載がみえる古代以来の豪族であった。この紀伊国造が報恩寺の造営した経緯は以下のようなものであった。
 紀国造氏は文永年間(1264〜75)神宮境内の執務の事について、国造前官である妙蓮(宣親、1216〜74)と、当職である淑文(生没年不明)の父子間で仲違いがあり、公に訴訟をおこしたが決裁つかず、亀山天皇が妙蓮の母である尼浄心(神祇権少副兼経の娘)に詔して、「妙蓮はお前の子であり、淑文はお前の孫である。不正をおもんねることを容認してはならない。孫・子のどちらが正しいのであろうか」と下問した。尼浄心は「国造の職は、素盞雄御尊(すさのおのみこと)以来、代をたがえて今に至っています。社務を譲って補された後、大小の事は当職の与奪に属しているのです。たとえ父であり前官であるからといって、その子の当職を越えるべきではありません。これはすなわち神自らの恥辱とはならないのです」と奏上した。この奏上を聞いた天皇は尼浄心のことを「この尼は賢くて正直である」と感嘆・称賛した。そのため子の淑文が理を得たがて、父妙蓮は志を失うこととなり、妙蓮はそのため境内三井川の西岸に隠居した。文永11年(1274)3月24日、妙蓮は59歳にて死去したが、憤激の念がやまず、魔となって人に託し、ほとんど家の世継が絶えなんとした。そのため淑文は報恩寺を造営して、冥福を祈ることとした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応4年辛卯条)。弘安7年(1284)紀三井報恩僧寺の大殿を造営した。檀越は紀国造前官の淑文(法諱は心浄)、当職の淑氏(法名は心法、生没年不明)の父子であった。父子は無本覚心に弟子の礼をとった。3月15日に上棟し、7月21日に落成した。師が賛をし、淑文も作文してともに喜んだ(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安7年甲申条)

 紀国造淑氏の母である儀国覚禅尼は、久しく無本覚心に参じて衣法を受け、宗旨を領していた。そのため無本覚心は儀国覚禅尼を評して「この道人は生死を離れている」と称賛していた。正応2年(1289)に儀国覚禅尼の母の13回忌が報恩寺にて執り行われ、浄侶に命じて大乗経5部200余軸を書写させて読経などを行なっており、7月27日には無本覚心を招いて説法した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応2年己丑条)。正応4年(1291)3月19日午刻、無本覚心は衆のために陞座(しんぞ。法堂にあがって説法すること)した。白日の青空であったが、突然地に雷鳴がなり、寺の東南嶺に宝珠1顆が降って大地が震動し、その音は40里(120km)まで聞こえるほどであった。無本覚心はこの宝珠を山門に鎮め、淑文は「雨珠記」を作文した。4月5日には報恩寺にて梵漢種字経文などを卒塔婆に書き、妙蓮の怨魔の邪念を救っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応4年辛卯条)。なお紀国造淑文はこの1年内に没したらしく、翌正応5年(1292)に無本覚心は「題淑文遺像」という文を記している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応5年壬辰条)

 永仁5年(1297)5月2日、思遠庵の卵塔が棟上された。無本覚心はこの住持幹事心開となっている。5月3日には護国寺が棟上され、6月18日に落慶され地鎮祭が行なわれた。無本覚心は自ら筆をとって梵漢字を書き、師の無門慧開和尚を勧請開山とした。この護国寺は西湖行在霊洞護国寺を模倣したもので、そのため無門慧開を勧請開山として、自身は2世となったのであった。大殿に十一面観音立像を安置し、無本覚心が開眼供養を行ない、観音の背に種字(梵字)を記した。また母の妙智のために愛染明王像を造営し、上地堂に安置して寺門を鎮め安んじた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』永仁5年丁酉条)

 永仁6年(1298)4月11日、無本覚心は病に罹った。この時無本覚心は92歳で当時としては非常に高齢であったことから、多くの僧俗が機縁を結ぼうと彼のもとを訪れて絶えることはなかった。月末に一旦病が和らいだため、同月24日に「西方寺規法七箇条」を記して遺誡とした。10月13日、朝から夕方まで僧俗と面会していたが、子時(午後11時)に威儀を正して寂然として端座したため、侍僧は「師は終りを告げるのですか」と問いかけると、無本覚心は「諾(そうだ)」とのみ答えて示寂した。享年92歳。護国寺の思遠庵に塔(葬る)された(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』永仁6年戊戌条)


文化9年(1812)刊『紀伊名所図絵』巻之5、海士郡、紀三井寺(部分) 

普化宗の伝説と無本覚心@

 以上みてきたように無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持ち、また一遍との交流を通じて時宗とも関係があった。また開山となった西方寺が熊野詣参詣路の途中にあって多くの参詣者を集め、託宣する者も多くいたであろうことは、無本覚心の母の説話からもみてとれる。そのようななかで、無本覚心は日本における普化宗(ふけしゅう)の祖として尊崇されており、妙光寺の門にも「本朝普化古道場」の看板が掛けられている。

 普化宗とは近世における臨済宗の一末派で、慶長5年(1600)前後に虚無僧(こむそう)らが開創した一宗派であり、明治4年(1871)10月28日に廃宗となったが、間もなく明暗教会として再興されている。虚無僧とは中世・近世に存在した宗教者で、時代劇などでは胸に頭陀袋をかけ、頭には編笠をかぶり、尺八をもつ姿で描かれ、風雨・野宿を厭わず方々を遍歴した。中世には薦僧(こもそう)とも「ぼろぼろ」ともよばれており、『徒然草』にも「ぼろぼろ」が登場する。中世の薦僧は面桶(めんつう)と薦を持ち、尺八を吹いて門付(かどづけ)しており、宗教者というよりはむしろ下級芸能者の要素が強かった。普化宗は主な宗派として寄竹派・金先派・活総派・根笹派・小菊派の「普化宗六派」が知られているが、近世には活総(火下)派・金先(キン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮)派・寄竹派・梅士派・小菊(夏漂)派・根笹(小笹・司祖)派・不智派・養沢派・芝隣派・義文派・隠巴派・宗和派・錐南派・短尺派・野木派・児派の16派が存在していた(『普化宗門掟書』)

 普化宗の祖とされる普化(生没年不詳)は、中国・唐代の風狂の禅僧である。その伝は『祖堂集』(952)・『宋高僧伝』(988)・『景徳伝灯録』(1004)・『臨済録』(1120重刊序)などに記されている。『臨済録』には岩波文庫を含めた多くの訳注本があるからここでは詳細は割愛するが、以下に『祖堂集』・『宋高僧伝』・『景徳伝灯録』にみえる普化の伝記を掲げておく。

 @普化和尚、盤山に嗣ぐ、鎮州に在り。未だ行録を観ざれば化縁の始終を決せず。師は市中で馬歩使に出会うと相撲をとる格好をした。すると馬歩使は五棒くらわせる。師が云う、らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない。師はひごろ日が暮れると墓場にやどり、朝になると市中に遊んで、鈴を持ちながら云うのだった、明頭に来ても打つ、暗頭に来ても打つ。林際和尚がこの話を聞いて侍者に師を探らせた。侍者が来て師に問う、明でもなく暗でもない時は、事はどうですか。師が云う、明日大悲院で斎会がある。侍者はもどって林際に挙似する。すると林際は歓喜して云う、どうしたらこの男に会えるかな。ほどもなく、普化の方から林際にやって来た。林際は歓喜して食事をしつらえ、対座して食べた。師はおかずだけを食べに食べる。林際が云う、普化の食べぶりはロバそっくりだ。すると師は座をおりて、両手を地についてロバの鳴き声をあげた。林際は無語である。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。のちある人がこの話を長慶に提示した。長慶は林際の無語に代わって語を進めて云う、まあそれはそれとしておこう、それから先はどうだ。今度は普化に代わって云う、あなたにこの一問を問われてすっかり酩酊いたしました。林際がまた問う、大悲の菩薩は千百億に分身する。どうか現れたまえ。師は机を地になげうち、舞いの様子をして吽吽といって出て行く。また、林際が上堂し、師が侍立したとき、ある僧が師の面前に立っていた。師は真っ向からその僧を林際の前におし倒した。すると林際は杖で三度たたいた。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。また、林際が師とともに聖僧を観ていたとき、林際が云った、凡夫か、聖者か。師が云う、聖者だ。すると林際は咄とどなった。師は手をうって大笑した。師はある日、手で棺桶をささげ持ち、外城をめぐって人々に告げて云った、わたしは遷化しに行くんだ。人々は雲集してついて 行った。師は東門から出て云う、今日は具合がわるい。二日目には南門で、三日目には西門でそうすると、人々はだんだんと少なくなり、誰も信じなくなった。四日目北門から出ると、もう一人もついて来るものがなかった。師は自分で墓の門を煉瓦で塞ぐと、遷化した(『祖堂集』巻第17、普化和尚伝。古賀英彦「訓注祖堂集」(花園大学国際禅学研究所『研究報告』8、2003年)694〜696頁より引用)

 A釈普化はどこの人であるかわからない。性質は尋常ではなく、かつ多く天真のままで飾ることはなく、行ないは簡放であって言語にとらわれることはなかった。みずから盤山宝積禅師につかえ、密密に指教され深く堂奥に入った。盤山宝積の戒めによって仏道を保任したものの、発狂して常道にそむいた。かつて臨済義玄(?〜867)公とあい見みえたが、これに驢(ろば)の鳴きごえでこたえたので、傍らに侍る者で嘲笑しない者はいなかった。直時に歌舞して、ある時は悲号した。ある人が彼に接すれば、千変万態で、ほぼ同じということはなかった。ある日、棺木を捧げ持って街を巡り戸をめぐって告辞して、「普化明日死ぬぞ」といった。その時これを視た者は譏ってはならないことを知った。趙州の人は普化に従い送って城の東門に出たが、普化は声をあげて、「今日は具合がわるい」といい、二日たって南門から出た。人はまた従い送ったが、普化はまた、「明日がまさに吉である」といい、このようにして西門・北門に出てまた戻ってきた。人は煩わしくなり怠ってしまった。ある朝、郊野に坐して禅定に入るようであった。禅宗の著述する者は、普化のその発言や悟り(が普通の禅僧とは異なる)ため、普化を(禅僧の中から)排斥して散聖科(世俗を捨てた道人)の項目の中に入れた。そのこころは正員ではないからである(『宋高僧伝』巻第20、感通篇第6之2、唐真定府普化伝)

 B鎮州の普化和尚ははどこの人であるかわからない。盤山に師事して密かに真訣を受けたが、偽って狂い、出る言葉には決まった定式がなかった。盤山が順世(示寂)するにおよんで北の地に遍歴して衆生を教え導いた。ある時は城市で、ある時は墓地で一鐸を振って、「それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する」といっていた。ある日臨済が僧を遣わしつかまえて、「そのどれでもなく来たらどうする」といわせた。(普化は)「明日は大悲院でお斎(とき)にありつける」といった。(普化は)人を見れば(身分の)上下関係無く皆鐸一声を振るっており、時の人は「普化和尚」と号した。ある時は鐸を持って人の耳のあたりでこれを振い、ある時は人の背中にくっついて、振り返る者がいたら即時手を伸ばして「我に一銭を乞う」といい、食事時でなくても食にありつければ食べた。かつて夕暮れ時に臨済の院に入って生野菜と飯を食べた。臨済は「この男は大いに一頭のロバに似ている」というなり、師(普化)はロバの鳴き真似をしたため、臨済は絶句してしまった。〔割書略〕 師(普化)は馬歩使が出て叱咤するのを見て、師(普化)もまた叱咤して相撲しようとした。馬歩使は人に(普化を)五棒討たせたが、普化は「らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない」といった。師はかつて街の道路の間にて鐸をゆらして「どこか行くところを探しているが、得られない」と唱えていた。時に道吾がこれに遭遇し、ひっつかまえて「お前はどこに行こうとしているのだ」と問いかけたが、師は。「お前はどこから来たのか」といったので、道吾は絶句してしまった。師は手をひいて去っていった。臨済はある日河陽・木塔の二長老とともに僧堂内にて坐って、「普化は毎日街市の中で狂ったようなまねをしているが、これは凡夫なのだろうか、聖人なのだろうか」といったが、言い終わらぬうちに師(普化)が入ってきた。臨済はそこで「お前は凡夫なのか、聖人なのか」と問うた。普化は「お前もまた私が凡夫なのか聖人なのかいえ」といった。そこで臨済は一喝した。普化は三人を指さしながら「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅、臨済は小僧っ子だが片目はそなわっている」といった。臨済は「この賊め」といい、師(普化)も「賊め、賊め」といって去っていった。普化は唐の咸通年間(860〜74)の初め、まさに示寂しようとして、市に入って人に「一衣の僧衣を施してくれ」といった。ある者は披襖を与え、ある者は布裘を与えたが、皆受けとらず鐸を振って去った。時に臨済は人に命じて一つの棺桶を送り与えた。師(普化)は笑って「臨済の小僧っ子は饒舌だ」といってこれを受け取った。そこで告辞して「普化は明日東門に去って死のう」といい、郡の人を率いて城を出たが、師(普化)は声をあげて「今日は具合がわるい」といい、二日目には「南門で死ぬぞ」といって人はまた付き従ったが、また「明日に西門の方角から出ると吉だ」といったので出る人は稀となってしまった。出ては帰ってくるので、人の意はようやく怠るようになった。四日目に自ら棺を持って北門から外に出て鐸を振って棺に入って逝去した。郡の人は走って城から出、棺の蓋をあげて視てみると、すでに見えなかなっており、ただ鐸の声が漸く遠くなるのを聞いたが、その理由はわからなかった(『景徳伝灯録』巻第10、鎮州普化和尚伝)

 以上のように普化と普化宗を結びつけるようなものは、普化の時代に近しいものからはみられないのであるが、鐸を市中にて鳴らして唱導する説話や、後世の禅僧からは禅僧とはみなされずに「散聖」とみなされていたことは、普化が市中にて唱導する聖(ヒジリ)のような類の僧であったことを示している。このように普化の説話からは積極的に普化宗の祖とみなし得る史料はないものの、後代の普化宗において、普化が伝説的始祖とみなし得ることができる要素を包括していたことが窺える。 


『人倫訓蒙図彙』巻2、尺八(『人倫訓蒙図彙(東洋文庫519)』〈平凡社、1990年6月〉81頁より一部転載) 

普化宗の伝説と無本覚心A

 普化宗と普化の関係説話は、安永8年(1779)山本守秀編『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』3巻にみることができる。『虚鐸伝記国字解』は、『虚鐸伝記』なる本を山本守秀が注釈したものとされる。この『虚鐸伝記』自体も詳細は不明で、『国書総目録』第2巻に宮内庁書陵部に所蔵される(池底叢書27)とあるが実見していないため詳細は不明である。『虚鐸伝記国字解』は一部が「虚鐸伝記」として『古事類苑』宗教部1に引用されており、以降それによる。

 遁翁がいうところによると、普化禅師は唐の人である。釈尊の教を継ぐこと38世にあたり、当世一大(一代)の知識(師家)である。鎮州にあっては自ら狂逸に甘んじて、鐸を振るい市に遊び、人に対するごとに「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打。四方八面来旋風打、虚空来連架打。(それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する。四方八方から来れば旋風のように応じ、虚空から来れば釣瓶打ちで片づける)」といっていた。ある日、河南府の張伯なる者がこの語を聞いて、大いに普化禅師の碩徳を慕い、普化に遊び従うことを要望したが、禅師は許さなかった。張伯はかつて管(楽器)をたしなんでおり、禅師の(鳴らす)鐸の音を聞くにおよんで、にわかに管をつくってこれを模倣した。つねにその音を愛好し、あえて他の曲を吹くことはなかった。管(楽器)をもって鐸の音としたのであるから、そのため名付けて「虚鐸」としたのである。代々その家に伝わること16世である。
  張伯・張金・張範・張権〔字は大量〕・張亮・張陵・張冲・張玄・張思・張安・張堪・
  張廉・張産・張章〔字は子操〕・張雄
 (張雄の)孫の参は、壮年にして既にこの音に熟達し、かつ人となりは仏教をたしなんでいた。(張参は)舒州霊洞護国寺に到り、禅を寺僧に学んでいた。日本僧の学心(無本覚心)なる者もまたここに遊学していた。同じく学んでともに唱和し、(無本覚心と)張参はよき友であった。ある時無駄話をしていて、話は代々虚鐸を伝えて今もなおその曲(が伝わっていること)に及び、この調(しらべ)を愛好して、一たび演奏すれば甚だ巧みであった。学心(無本覚心)は一賞しては三歎して跪き、「奇かな妙かな。世の中の多くの管(楽の中)に、いまだこのような清調を聞いたことがない。賞すべきにして愛すべきものである。伏して請い願うところは、一曲を教授して妙音を日本に伝え(て欲しい)」といった。そこで学心(無本覚心)のために再度演奏し、これを学心に学ばせた。日が過ぎていき、(無本覚心の)禅は熟達し曲も習得したので、張参に別れを告げて、舒州を去って明州に出航した。南宋の理宗帝の宝祐2年(1254)、船で日本に帰った。この時は後深草天皇の建長6年であった。これより学心は、ある時は高野山に入り、ある時は洛陽城(京都)に出て、さまよっては年月を経ていたが、一寺を紀州(和歌山県)に造立して、西方寺と名づけてついにここに住んだ。世の中はその碩徳(無本覚心のこと)を大禅師と号した。弟子は日々ますます増えていったが、門徒中に寄竹なる者がいた。禅(に対する)心はことさらに切であり、師(である無本覚心を)を敬うことはますます甚だしかった。学心〈無本覚心)もまた寄竹と昵懇であるころは他の弟子と異なっていた。ある時学心(無本覚心)は「宋にいる時、虚鐸の音を伝え得ており、今もなおよくこれを演奏することができるが、これを長くお前に授けて、この伝を継がせたい」と告げた。寄竹は躍り上がって(喜び)拝謝し、この音を伝えられて熟達すると愛好した。日を経ないうちに他の弟子の国作・理正・法普・宗恕の4人もまたこの管(楽)を学び、世の人は「四居士」と称した(『虚鐸伝記』上)

 上の文は前述の『虚鐸伝記国字解』であり、この部分は阿野中納言公縄(1728〜81)が遁翁なる者の語るところを記録したものといい、『虚鐸伝記国字解』の編者山本守秀は「初巻本文と19ヶ条は、阿野家より再伝して山本守秀が久しく護持してきたものである。しかしながら楠正勝が虚無僧の始であり、その主意を記しているとはいえ、ただ虚鐸の由来だけで、その詳細は略されている。これは(阿野公縄が)虚鐸のことに関わっていないためである」(意訳)と述べているように(『虚鐸伝記』上)、楠正勝伝承と虚鐸関連の記載を求める山本守秀にはこの伝承内容は不満であったらしい。このことから『虚鐸伝記』自体は山本守秀による創作ではないことは明らかであるが、この無本覚心と普化宗を結びつける伝説のもととなったものが一体何であるのかは判然としない。

 普化宗と無本覚心との説話はほかにも宝暦2年(1752年)頃の『普化宗問答』にも示されている。『普化宗問答』は宝暦2年(1752)1月に岩山高康(生没年不明)が一月寺の隠居に虚無僧のことに関する疑問を箇条書きにして問いただしたものであり、『国文東方仏教叢書』第1輯、宗義に活字化されている。『古事類苑』宗教部1に引用される「普化宗門之掟」と文章が類似するから、あるいは同種異本なのかもしれない。

 開山は金先古山禅師である。金先という者は、人王第88代の聖帝深草院の治天である建長年間(1249〜56)頃、紀州由良興国寺開山法灯国師(無本覚心)が入唐して帰朝する時、普化禅師の四居、宝伏・国佐・理正・僧恕が同船して我が朝に来たのである。宝伏居士は暫く山城国宇治の付近に居を定め、普化の禅を流布しようと庵室をつくって行住坐伏の法容、ひとえに普化の遺風を慕っていた。居士は専ら尺八を吹いており、(このことは)始祖(普化の)振鐸の話に準拠したものであった。ある時仲秋(8月)の夜、河辺にて一曲を演奏した。その夜は夜空に雲がなく、河の水を(月が)照らすことは、金竜が波に踊るのに似ていた。ここにおいてにわかに水辺を起こし、筆端をそめて「一天清光満地金竜躍波」との語句を記した。その頃、金先という頭陀(托鉢修行僧)がいて、宝伏の行なう法会に参加して、ともに尺八を演奏して、各地を行脚修行して所々をめぐって東に下り、下総国小金の宿にとどまって歳月が過ぎていった。しかし宝伏居士は年月を経て没してしまったため、金先がその法統を継いだが、妙音はまた奇なるものであり、聞いて五惑六欲への迷いを照らして本来無一物(であることを悟らせ、これによって)順縁(順当な善い縁で仏道に入ること)を結ぶ者が多かった。ここに一宇を造立し、宝伏の記した語句よって山号を金竜山と号し、寺号を一月寺とした。この時の執権北条経時は金先の碩徳を尊んで、造立の大檀那として営なみ、金竜山一月寺といった。この開山はすなわち金先禅師であり、金先を菰僧の基とした(『普化宗問答』菰僧始祖并開山之事)

 以上のように、普化宗始源説話には無本覚心が何らかの形で登場するのであるが、『虚鐸伝記国字解』と『普化宗問答』にみえる無本覚心の位置は、積極的な伝播者であるとする前者と、無本覚心の帰国に宝伏・国佐・理正・僧恕が随行しただけであるとする後者では異なっている。前者は普化宗諸派のうち、寄竹派に伝わった説話と思われ、後者は金先派に伝わった説話のようであり、これらの差異に含まれない無本覚心のキーワードは一見して、普化宗にもとから伝わった伝承であるようにみえる。しかし両者はいずれも近世に成立した記録であって、無本覚心の伝記史料である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』および『紀州由良鷲峰山法灯円明国師之縁起』には虚鐸・尺八のみならず、普化に関連する説話はみられないのであるから、無本覚心と普化宗の関連説話は歴史上の事実を反映したものであるとは見なしがたい。

 無本覚心と普化宗の関係は、無本覚心開創の興国寺(西方寺)が虚無僧の本寺であったことから生まれた伝承とみられ、興国寺(西方寺)は近世には普化宗寺院の本寺として一月寺をはじめとしたキン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮派13ヶ寺、鈴法寺をはじめとした括総派10ヶ寺、明暗寺をはじめとした寄竹派8ヶ寺、心月寺をはじめとした小菊派6ヶ寺、理光寺をはじめとした小笹派2ヶ寺、慈常寺をはじめとした梅地派13ヶ寺と、妙心寺派の寺院でありながら普化宗寺院52ヶ寺を末寺としていた(『普化宗雑記』上、日本国中宗門本寺連名寺号国所附)。興国寺は(西方寺)は近世には当知行13石で、妙心寺派における「日本四処道場」のひとつに数えられていたが、近世初期の段階では末寺として確認される歓喜寺・円満寺・長楽寺・法心寺・海雲寺のわずかに5ヶ寺であった(『正法山妙心禅寺末寺并末々帳』〈『大日本近世史料 諸宗末寺帳』上172頁〉)。しかし後には紀伊・山城・伊勢・志摩4ヶ国に末寺100ヶ寺を有する規模となっており(『寺院本末帳87(禅宗済家妙心寺派下寺院帳2)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中2165頁〉)、とくに51ヶ寺を有する普化宗の勢力は興国寺(西方寺)末寺の中にあっては一大勢力として異彩を放っていた。すなわり無本覚心と普化宗の関係説話は、無本覚心を開山とする興国寺(西方寺)が近世において普化宗寺院を末寺として獲得するにあたって、普化宗と無本覚心の関係説話が生み出されたものであるようである。

 もっとも前述したように、無本覚心は萱堂聖の祖とみなされており、念仏と深い関係もあったことから、普化宗の直接的始祖でないにせよ、何らかの形で関係があることは否定できない。 


東福寺門内の明暗寺(平成19年(2007)10月29日、管理人撮影)。普化宗寺院であった明暗寺は、明治に廃寺となったが、後に旧跡を東福寺塔頭善慧院にうつして現在に至っている。 

中世における妙光寺

 無本覚心には多くの法嗣がおり、このうち何人かが妙光寺の住持となっている。法嗣で妙光寺入寺が確認されるのは高山慈照(1263〜1340)・東海竺源(1269/1270/1271〜1344)・孤峰覚明・無住思賢(生没年不明)の4人である。

 高山慈照が妙光寺に遷っているのをはじめとして(『日本国京師建仁禅寺高山照禅師塔銘』)、東海竺源は建仁寺の住持を退いて妙光寺に退居し、病が軽かったにもかかわらず、ここを終焉の地にしようと医者を拒絶して康永3年(1344)10月16日に示寂し、建仁寺東北の隅にある大中庵(写真下)に葬られている(『謹具東海和尚行実』)
 孤峰覚明は、貞和年間(1345〜50)の初めに鷲峰山(興国寺)の住持となっていたが、辞して妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、その中には足利尊氏(1305〜58)・直義(1306〜52)兄弟もいた。(尊氏・直義兄弟は)後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、孤峰覚明を開山第一祖にしようと、孤峰覚明に再三要請していたが、孤峰覚明は拒絶して夜にひそかに遁走した(『孤峰和尚行実』)
 無住思賢は紀伊国の興国寺の住持・妙光寺の住持を歴任し、後に聞修寺を開創して第一世となっている(『延宝伝灯録』巻第15、相州聞修寺無住思賢禅師伝)

 無本覚心の法嗣のみならず、法孫も妙光寺住持を務めている。東海竺源の法嗣在庵普在(1280〜1358)は妙光寺の住持を3年つとめたが、後に備前国常興寺に遷っている(『日本南禅寺仏恵広慈禅師在庵大和尚行業』)。ほかに高山慈照の法嗣に「妙光禅慧」なる人物がいた(『日本国京師建仁禅寺高山照禅師塔銘』)

 なお法灯派以外で妙光寺の住持となった者には、エン(「焔」の右+炎。UNI71C4。&M019395;)慧派の斗南永傑(生没年不明)がいる。斗南永傑は、「図南」とも表記され、妙光寺の住持となった「南斗祖傑」(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)は斗南永傑をさすらしい。入元しており、中国人より詩文を送られたり(『滄海遺珠』巻2、楊宗彝、謝斗南禅師慧竹杖)、『書史会要補遺』には「釈永傑、字は斗南、日本人なり。書は虞永南(虞世南)を宗とす」と名筆として名があげられたりした(『書史会要補遺』外域)。事件に連坐して配流されたともいい、『大理府志』によると、「雲南には“日本四僧塔”があり、龍泉峰の北澗の上に位置している。逮光古・斗南があり、その他の名はわからない。みな日本国の人である。元末に大理に配流された。みな詩や書を善くしたが、死んでしまった。郡の人は憐れんで葬った。」とあり、実際に今も雲南省大理には「日本四僧塔」がある大理的日本四僧塔与到大理的日本僧人。しかし妙光寺の住持になっていることから、斗南永傑は日本に帰ってくることができたらしい。

 このように妙光寺は無本覚心の法嗣および門下(法灯派)によって住持されてきたが、至徳3年(1386)7月10日、幕府が五山の座位を定めた際に妙光寺が京師十刹の第8位に列せられたことによって、妙光寺は室町幕府管轄下の寺院に組み込まれた。官寺の住持の任期は概ね3年であったものの、応永28年(1421)に五山・十刹の住持の任期は2夏3年(満2年)に定められた。また幕府管掌下にある禅宗官寺の住持任免権は、幕府が掌握しており、住持任命の辞令は幕府が発給した。これが「公帖(こうじょう)」であり、「台帖」「公文」「鈞帖」ともよばれた。

 公帖は、同門の先輩・所属する門派の本庵塔主の推挙によって僧録に提出され、蔭凉軒主が希望者の名を列記した書立(かきたて)を作成して将軍に披露される。将軍から蔭凉軒・鹿苑僧録に戻され、それを幕府奉行人が公帖を作成・清書し、将軍が花押して発給されるというシステムになっていた。妙光寺を例にしてみると、永享7年(1435)7月10日、妙光寺および丹波安国寺長老の退院の事が公表されると(『蔭涼軒日録』永享7年7月10日条)、同月26日、妙光寺塔頭の普済庵は永玉西堂を住持に推挙した(『蔭涼軒日録』永享7年7月26日条)。28日には妙光寺新住持として永玉西堂の公文(公帖)が発給された(『蔭涼軒日録』永享7年7月28日条)。その2年後の永享9年(1437)7月15日に妙光寺住持(おそらく永玉)が退院すると(『蔭涼軒日録』永享9年7月15日条)、今度は雲洞院(霊洞院か)が煕闡西堂を推挙(『蔭涼軒日録』永享9年7月24日条)、同月26日に妙光寺新住持の公帖が発給された(『蔭涼軒日録』永享9年7月26日条)。その2年後にはほぼ同様の手順で文玖西堂が妙光寺新住持となっている(『蔭涼軒日録』永享11年7月7日・9日条)

 その後、公帖が発給されて妙光寺住持となったものには、原韶西堂(『蔭涼軒日録』長禄4年7月19日条)・信庵永周(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・永ギン(門がまえ+言。UNI8ABE。&M035608;)西堂(『蔭涼軒日録』寛正3年8月13日条)・貞萼西堂(『蔭涼軒日録』寛正5年6月晦日条)・祖陞西堂(『蔭涼軒日録』寛正5年9月3日条。『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項の「南斗祖傑」と同一人物か)・等仲光倫(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・曇萼桂瑞西堂(『蔭涼軒日録』延徳3年12月4日条)・堅滝(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・希三宗サン(王へん+粲。UNI74A8。&M021270;)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・禅正(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・正瑛(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・玉成慈セン(王へん+旋。UNI7487。&M021203;)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・宗承(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・寿チョウ(大かんむり+周。UNI595D。&M005944;)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・虎泉慈隆(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)が確認される。


建仁寺塔頭大中院(平成19年(2007)10月29日、管理人撮影)。無本覚心の法嗣である東海竺源を開山とする。現在の建造物は文化年間(1804〜18)に景和・全室の2僧が再建したもの。 

妙光寺の荘園所領

 妙光寺は荘園所領についても多くの荘園を有したのであろうが、それらについての詳細はわかっていない。わずかに康正2年(1456)5月28日に妙光寺領加賀国豊田荘から4貫470文を内裏造営の段銭として定められていることから(「康正二年造内裏段銭并国役引付」)、加賀国豊田(といた)荘(石川県金沢市)を有していたことが確認されるのみである。また文明10年(1478)4月7日には足利義政によって妙光寺の寺領と塔頭末寺領等を安堵されているが(『妙光雑記』〈『大日本史料』8編10冊407頁〉)、この時の寺領もどれほどのものであったのかは不明である。なお永享12年(1440)に妙光寺は「安堵の礼」のため蔭凉軒に参上しているが(『蔭涼軒日録』永享12年9月24日条)、何を安堵されたのか不明である。

 この豊田荘であるが、文明10年(1478)6月15日に、妙光寺領加州豊田領家代官職の事について、妙光寺が中村次郎右衛門俊貞への借銭が多かったことから引き替えとして代官職に任命したが、「一乱」のため職務を停止した。そのため中村次郎右衛門俊貞は処務を全うするため幕府の奉書を求め、結果、契約の趣旨のままに職務を続行することとなった(『親元日記(政所賦銘引付)』文明10年6月15日引付)。さらに9月30日には妙光寺領加州豊田領家代官職の事について、旧借によって中村次郎右衛門俊貞の父に代官職を一回契約したが、なおも代官職を希望したため、幕府は旧借においては妙光寺は2倍にして返済し、代官職については職務を全うし、算用の事は糾明すべきであるとされた(『親元日記(政所賦銘引付)』文明10年9月30日引付)

 豊田荘がある加賀国は、長享2年(1488)の加賀一向一揆以来、100年近くにわたって一向一揆の支配する国となり、本願寺が国主とみなされるほどの勢力を有した。そのようななかで豊田荘に関する所領問題も、本願寺証如(1516〜54)のもとに持ち込まれている。天文6年(1537)8月7日、妙光寺の代官高畠神九郎は年貢納入の口添えを証如に依頼したが、証如は「豊田村領家職」は北野社領であるとして断っている(『天文日記』天文6年8月7日条)。9月1日には高畠神九郎方より以前申していた妙光寺領豊田荘の事について、豊田村のうち桜田村は北野社領ではない、との旨を書状で証如のもとに送ってきている(『天文日記』天文6年9月1日条)。さらに同月12日にも高畠甚九郎(神九郎)方より、妙光寺領のことは2度にわたって申し述べた通り相違ない、という書状も送ってきている(『天文日記』天文6年9月12日条)。高畠神九郎の主張が認められ、10月13日には妙光寺に対し書状にて寺領を管領させており、妙光寺の使僧は祝着のためと申して絹を証如に贈っている。また妙光寺領が紛れ無きものであることを武家の御判の奉書があり、豊田領家の長田村・東西桜田が妙光寺領であることが相違ないとした(『天文日記』天文6年10月13日条)。それでも高畠神九郎は不安に思ったのか、豊田領家長田村・東西桜田村が妙光寺領であるとする証拠の知行申付けの折紙を証如に対して所望したため、証如は折紙を高畠神九郎のもとに送っている(『天文日記』天文6年10月15日条)。このような妙光寺および高畠神九郎の再三努力にもかかわらず、中世の終焉とともに、豊田荘は妙光寺の手から離れてしまうことになるのである。


妙光寺方丈を東側よりみる(平成20年(2008)5月11日、管理人撮影) 

近世の再興と三江紹益

 妙光寺は応仁の乱にて焼失したとされる。もっとも前述したように、応仁の乱以降も妙光寺の活動はみえているから、どれほどの損害があったかはわからないが、近世初頭までには荒廃していたらしい。なお天正3年(1575)に織田信長が茶人・数寄者17人とともに茶会を妙光寺で開いたという記述がたまにみられるが、「妙覚寺」の誤りである(『信長公記』巻8、お茶会の事)

 妙光寺は寛永年間(1624〜44)に再興されたが、この再興に尽力したのが、三江紹益(1573〜1650)と打它公軌(?〜1647)である。

 妙光寺が荒廃していることを嘆いて、最初に妙光寺の再建に着手したのは建仁寺霊洞院住持の才林慈俊(?〜1638)である。才林慈俊は檀越の打它公軌に相談して、妙光寺再建に着手した。寛永14年(1637)8月12日には両者の間で妙光寺に関する取り決めがあり、妙光寺は霊洞院と打它家の両者が預かること、打它家が代々檀越となること、妙光寺の住持は代々霊洞院に相談して決定すること、妙光寺敷地内には他宗の寺院は小寺であっても建てさせないことが取り決められた。さらに打它公軌は茂兵衛なる者から山林を銀10枚で購入し、それを妙光寺に寄進している(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永14年丁丑条。京都市歴史資料館写真帳妙光寺文書Z8うち。以下同じ)。この時購入した山林は、妙光寺の北にあたり、1町(100m)四方の山であった。このうち西の方3分の1を驚月庵に永代に付し、のちには良亭(公軌)の遺骨・祖父の宗貞の遺骨をおさめた石塔を建て、打它一門の墓に定めた(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安元年戊子9月13日条)

 打它公軌は江戸時代初期の歌人で、号は良亭で、代々糸屋十右衛門を名乗った。彼は木下長嘯子(1569〜1649)の門人として著名であった。打它公軌の父春軌(?〜1643)は敦賀の豪商で、日本海の米を大坂に廻して財をなした成り上がり富商であったとみられているが(小高1957)、公軌が歌道修行を志した際に父は48,000貫の大金を持たせて京都にむかわせたという。京都では烏丸三条下ル町に居を構え、のちに聚楽(堀川西下立売上付近)に引き篭った(『町人考見録』巻上、糸屋十右衛門)。打它公軌は豊富な財力をもって妙光寺を再建し、父が没するとここ葬っている。打它公軌は妙光寺を再建した際、妙光寺の傍らに驚月庵を造営しており、造営のはじめの年の8月15日の夜に3首を歌が詠まれている。そのうちの一首が「めつやいさ此世の外はしらくものたつ名みつてふ月の秋風」(詠人知らず)である(『挙白集』巻第2、秋哥)。この年は寛永14年(1637)8月15日であったといい、その日の夜は曇っているばかりか申刻(午後3時)より明けるまで雨が降っていたともされる(『難挙白集』中、挙白集不審、秋風)

 また打它公軌の師木下長嘯子は、もとは木下勝俊という名の大名であり、関ヶ原の合戦や弟木下利房との紛争のため改易となり、その余生を歌人として過していた。木下長嘯子は大名の格式から在家には赴かなかったものの、銀座者大坂屋徳順の子が東山長楽寺に庵を結んだところ、町人の身としてはじめて長嘯子を招くことができた。公軌はこれをうらやんで長嘯子を招くための庵をつくったという(『難挙白集』中、挙白集不審)。また公軌は亀屋何某(長崎問屋亀屋栄仁)の味噌屋肩衝茶入を金1,000枚で購入したが、その時この代金を車に積んで白昼引き周り、受け取りにいったという(『町人考見録』巻上、糸屋十右衛門)。また子の打它景軌(1648頃〜70)も歌人で、父公軌の意向によって多くの公家や歌人との交際を広げていた。このように打它公軌・景軌父子は豪奢な生活をしていたが、島津・細川といった西国大名に貸した金が焦げ付いて破産し、京都を去った。景軌の子光軌は相馬家に仕えて代々歌学の家となっていたが、6代目になって脱藩、捕縛・処刑されて公軌流の打它家は断絶した(小高1957)。打它家は他に敦賀に残った家があり、公軌流が断絶した後も妙光寺の檀越として、妙光寺の経営を支えた。

 寛永15年(1638)8月21日に才林慈俊が示寂したため、三江紹益が妙光寺再建事業を継承した(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永15年戊酉条)。三江紹益の俗姓は奥村氏で、建仁寺塔頭常光院の明室宗ゴ(日へん+午。UNI65FF。&M013780;)の弟子となった。常光院は五山派でありながら関山派(妙心寺派)の法系につらなる塔頭であった。明室がほどなく示寂してしまったため、三江紹益は建仁寺において関山派の法系が途絶えることを惜しんで、妙心寺南化玄興(1538〜1604)に参禅し、印可を受けることとなる(加藤1970)。三江紹益は妙光寺の住持になった翌年の寛永16年(1639)10月3日に再建落成の法会を行い、供養拈香は三江紹益自身がおこなった(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永16年己卯条)

 三江紹益は妙光寺の住持を3年務め、その後は弟子の雲庵覚英(?〜1682)を妙光寺に派遣した(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安元年戊子9月13日条)。三江紹益は慶安3年(1650)8月23日に示寂したが、示寂の1ヶ月前の7月14日には霊洞院の所領のうち11石5斗4合を妙光寺に永代寄進している(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安3年庚寅条)。雲庵覚英が住持であった寛文6年(1666)には打它景規が山門を再建している(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛文6年丙午条)

 寛永年間(1624〜44)に再建された妙光寺の建造物は、現在では客殿・玄関・庫裏・表門・書院(数寄屋)・茶室しか残されていないものの、近世中期の寺観は『都名所図絵』(下図)に描かれている。

 客殿(方丈)・庫裏(厨)は現状の配置と同じであり、客殿の東には山門・仏殿(本堂)が直線上に配置されており、客殿(方丈)の南には腰袴の鐘楼があった。また後山には開山堂があり、堂内四方に印金を貼っていたため、「印金堂」と称されて著名であった(京都府教育委員会1983)。この印金堂は人麻呂の尊像を安置した人丸堂であるともいい、堂の内陣に印金を張ったから「鳴滝印金」と世に称されたという(『町人考見録』上、糸屋十右衛門)。承応3年(1654)には妙光寺に人丸社を建立したというが、人丸社の建立は父公軌が行なったとする見解(小高1957)の方が正しいようである。画家・俳人の与謝蕪村(1716〜83)も印金堂を訪れ、「春月や印金堂の木のまより」(『蕪村句集』)や、「寒月や開山堂の木の間より」(『新五子稿』)の俳句をのこしている。さらに印金堂は安永9年(1780)に刊行された『都名所図絵』に紹介されて著名となり、それを受けてか文化8年(1811)には印金堂の開帳が行なわれた(『正覚山妙光禅寺紀年集』文化8年辛未条)。妙光寺の塔頭には歳寒庵・応供軒・紫金庵・普済院・三光院(藻虫庵)・驚月庵があった。万治3年(1660)3月11日に後水尾上皇が仁和寺に御幸した際には、上皇一行が杖を携えて妙光寺へ6〜7町(6〜700m)程の距離を山越えし、妙光寺の山上にて風景を見物している(『隔メイ記』万治3年3月11日条)

 19世紀になると、妙光寺の建造物は幾度か改修が行なわれ、文政9年(1826)には客殿の小屋組を取替工事の際に、板屋根であったところを瓦屋根に改めている(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政9年丙戌条)。また天保14年(1843)には諸堂が修理され(『正覚山妙光禅寺紀年集』天保14癸卯条)、弘化3年(1846)には山および諸建物が修理されている(『正覚山妙光禅寺紀年集』弘化3年丙午条)


『都名所図絵』巻6、妙光寺(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉400頁より一部転載)

近世妙光寺の住持達

 妙光寺は近世期、建仁寺の末寺として朱印石高14石6斗7升であり(『寺院本末帳63〈禅宗済家東山建仁寺本末帳〉)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中1848頁〉)、妙光寺の住持は建仁寺の塔頭、とくに霊洞院の僧侶が就任することが多かった。しかしながら檀越打它家の意向も重視されていた。元禄3年(1690)11月2日付の打它十右衛門雲泉(?〜1721)の書状によると、妙光寺塔頭の驚月庵と山薮の一式が打它十右衛門雲泉に預けられているように(『正覚山妙光禅寺紀年集』元禄3年庚午11月2日条)、妙光寺は打它家の檀那寺としての位置づけが寺側の意識内にもあり、妙光寺では開山法灯国師無本覚心の遠忌と、中興の打它良亭(公軌)の遠忌が重要視された。

 妙光寺の住持の中には、その後霊洞院などの建仁寺塔頭の院主となったり、本山建仁寺の住持を務める者も輩出した。例えば、元禄9年(1696)に妙光寺の住持となった東明覚ゲン(さんずい+元。UNI6C85。&M017186;)(1679〜1758)は、享保17年(1732)に朝鮮修文職に就任している(『正覚山妙光禅寺紀年集』享保17壬子条)。享保20年(1735)3月24日には建仁寺の公帖をうけて建仁寺住持となり、驚月庵の建物を移して居間書院とした(『正覚山妙光禅寺紀年集』享保20乙卯3月24四日条)。さらに元文元年(1736)には李氏朝鮮との外交事務の監察・往復書翰の管掌・外交文書の起草を担当する対馬の以酊庵の輪番住持(第59世)となり、同3年(1738)までその職にあった(『正覚山妙光禅寺紀年集』元文元年丙辰条)。翌元文4年(1739)10月29日には建仁寺に再住した(『正覚山妙光禅寺紀年集』元文4年己未10月29日条)

 また文化元年(1804)に第63世妙光寺住持となった全室慈保(?〜1862)は、文政元年(1818)4月15日になってからようやく秉払(ひんぽつ。首座が住持に代って払子を取り、法座にのぼって説法すること)している(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政元年戊寅条)。本来ならば秉払を遂げてからまず諸山住持となり、その後十刹ついで五山の住持へと累進するのが通例であるのだが、妙光寺は十刹寺院であるとはいえ、このような例が散見される。先に十刹の妙光寺住持となってから秉払した例をこの寺に限ってみてみると、雲庵覚英(1658)・乙檀覚酉(1677)・全室慈保(1818)・了堂慈穏(1840)・徳峰慈ゲツ(王へん+月。UNI73A5。&M020867;)(1875)の5例が数えられる。全室慈保は秉払した翌年の文政2年(1819)には成興寺・真如寺の公帖を受け、十刹・諸山の公帖を受けた僧である西堂(本来は他山の前住を意味する)となっている(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政2年乙卯条)。文政5年(1822)に全室慈保は霊洞院に転住したが、妙光寺の住持職は全室慈保の生徒である静庵慈怙(?〜1831)が継いでいる(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政5年壬午条)。また寺伝によると、俵屋宗達の風神雷神図屏風(建仁寺蔵)は、もとは妙光寺の什物であり、全室慈保が文政12年(1829)に建仁寺に移る際に風神雷神図屏風を持っていって、それ以来建仁寺の所蔵となったという(相見1960)。全室慈保はその後霊洞院を中心に長きにわたって活動し、嘉永6年(1853)に霊洞院の客殿を改築したのも全室慈保であったという(京都府教育委員会1983)

 このように妙光寺の住持は、師のあとを受けて就任し、秉払して諸山・十刹の住持となる資格を得て、諸山・十刹の住持となって西堂を称し、霊洞院のような建仁寺の塔頭、あるいは本山建仁寺の住持となり、対馬以酊庵の輪番住持となったりし、妙光寺を退いたり示寂した際には、自身の弟子が妙光寺の住持となることが恒例化していた。

 近世期において最後の妙光寺の住持となったのは天章慈英(1817〜71)である。天章慈英は杞憂庵とも竺堂とも号した。はじめ浄土宗の讃誉知肇(1774〜1843)の門に入り、法諱を英肇海といった。摩島松南(1797〜1839)・仁科白谷(1796〜1845)に学んだが、やがて禅宗に改めて全室慈保のもとで修行をつんだ(藤原1958)。文久2年(1862)に妙光寺住持の了堂慈穏が霊洞院に移ったため、妙光寺の住持となった(『正覚山妙光禅寺紀年集』文久2年壬戌条)。天章慈英は勤皇僧として有名であり、幕末・維新時には公家の大原重徳(1801〜79)のブレーンであった。大原重徳は文久2年(1862)勅使として江戸に下向し、攘夷決行を幕府に迫ったが、大原重徳が江戸に下向するよう画策したのが天章慈英であったため、天章慈英の名は天下に轟いた。その名声を慕って長州藩士の品川弥二郎(1843〜1900)や土佐浪士の田中顕助(光顕。1843〜1939)などの志士が妙光寺を訪れて教えを乞うたという(岩井1939)
 明治維新がなって後の明治4年(1871)7月9日夜、妙光寺塔頭の歳寒庵にて読書中であった天章慈英を何者かが襲撃し、斬殺して去った。犯人はついにわからなかったが、天章慈英のもとに好物の黒砂糖を持ってきていた村人が下手人として疑われ、獄死するという事態になったともいわれる(岩井1939)
 


妙光寺方丈内部(平成20年(2008)5月11日、管理人撮影) 

陶工仁清@

 妙光寺には陶工仁清の墓と伝えられるものがある。仁清は江戸前期の京焼の陶工で、俗姓は野々村清右衛門。優れたろくろ技法による優美な成形と、華麗な色絵を得意とした。仁和寺御室門前に窯を開き、仁和寺の「仁」、俗名清右衛門の「清」をとって明和3年(1766)頃以降「仁清」を称した。仁清に評価する評価の高さは、日本陶磁の国宝5点のうち2点が仁清のものであることからも明らかである。しかしながらその生涯については詳細な生没年すらわかっていない。

 妙光寺にある伝仁清墓(写真下)には「天和二年壬戊年/吟松庵元竜恵雲居士/三月五日」とのみ陰刻されており、「仁清」であるとうかがえるものではない。伝仁清の墓の横には雲庵覚英禅師が埋葬されており、妙光寺の過去帳によると、「雲庵覚英は、才林俊禅師に嗣法し久しく三江和尚に侍ってその印記を受けている。妙光寺第55世となり、天和2年(1682)2月19日に示寂して妙光の後山に葬られた。この年3月5日には恵雲居士も逝去した。(恵雲居士は)丹波国の人で、姓は野々村。雲庵和尚に参じて恵雲の号を賜り、吟松庵元竜と諡された。その遺志により雲庵の墓の側に葬られた」とある(『正覚山霊名簿』世代並法源同門篇、拾九日条。相見1961所引)。また仁清はたびたび妙光寺に出入りしていたといい、「寛文7年(1667)に打它景軌の同伴により、御室に出入りしている仁清が(妙光寺に)来臨した。丹波国の人である。雲庵が出て対話し、唐扇一柄を贈られ、麺を酒の肴とした」(『霊洞院本妙光紀年集』寛文7年丁未条。相見1961所引)とあり、延宝3年(1675)2月13日には霊泉(打它十右衛門雲泉)の同伴によって仁清が法号授与の礼をのべるために妙光寺に来て、茶碗1個・銀子3匁を寄進し、吸物を酒の肴とした(『霊洞院本妙光紀年集』延宝3年乙卯条。相見1961所引)。このように仁清と妙光寺の関係は妙光寺側の資料にみえるのであるが、これらの記事はいずれも仁清没後かなりの時代を経た史料にみえるのみであって信憑性は低く、妙光寺と仁清の関係はおろか、現在仁清の没年をこれによって確定することはできない。仁清の没年は通説では妙光寺側の記録にみえる天和2年(1682)ではなく、元禄7・8年(1694〜95)前後とみられている。 


妙光寺境内の伝仁清墓碑(平成20年(2008)5月11日、管理人撮影) 

陶工仁清A

 仁清の出自は詳しいことは全くわかっていない。丹波国野々村に比定する説があり、南丹市美山町大野には野々村仁清の生家と伝わる家(写真下)があるが、伝承の域を出ないものであり、家の建築年代も江戸時代中期を溯ることはないようである。ただし仁清の本名が当時の諸記録から姓は野々村、名は清右衛門であったことはほぼ間違いない。なお金森得水(1786〜1865)の『本朝陶器攷証』(1857撰、1893刊)には「元丹波国野々村桑田郡の産にて、其姓名不分」(『本朝陶器攷証』巻2、山城国仁和寺村御室焼物仁清之義)とあるが、金森得水が『本朝陶器攷証』を撰述するにあたって情報源としたのが全国各地をめぐる伊勢の御師(おし)であったことから、伊勢の御師が仁清の口伝を同地より得た可能性は否定できない。仁清が丹波出身であるかどうかはともかくとしても、仁清が尾張国瀬戸に長らく滞在して茶入焼の稽古をしていたということを仁清が尾形乾山(1663〜1743)に話していることから(『陶磁製方(佐野伝書)』瀬戸薬。『日本の美術154 乾山』所引)、若き日の仁清は尾張国瀬戸にて焼物修行をしていたようである。

 その後仁清は仁和寺の門前にて窯を開き、彼の焼物は「御室焼」とよばれていた。その御室焼は正保5年(1648)正月9日に鹿苑寺(金閣寺)鳳林承章 (1593〜1668) のもとに賀茂の関目民部が来て、御室焼の茶入1個を受け取っている(『隔メイ記』正保5年正月9日条)のが初出となっている。

 御室焼開窯の時期について、記録が残っていないため詳細な年月はわかっていないが、諸説ある。伝仁清作の「染付銹絵菊七宝棗形茶入」の箱蓋書付(東京国立博物館蔵)に「一東福門院御好、仁清造、菊絵棗也、堀正意、字杏庵拝領、箱書黒川道祐正筆」とあることから、堀正意(1585〜1642)が没した寛永19年(1642)以前にこの作品が製造されていなければならないとする説(鈴木1956,10)、鳳林承章の日記である『隔メイ(くさかんむり+冥。UNI84C2。&M056277;)記』に御室焼初出記事がみえる正保5年(1648)の前年である正保4年(1647)であるとする説(田中1960)、山川文化財団所蔵の年未詳正月25日付「本多房州宛金森宗和書状」に「御室焼物今日いろゑ(色絵)出来申」とあり、この年未詳の書状を正保4年(1647)ものであるとして、正保4年(1647)には少なくとも焼物で色絵の作品がつくられており、正保4年(1647)正月を溯る少なくとも正保3年(1646)中、あるいはそれ以前とする説がある(河原1974。なおこの書状については慶安2年(1649)のものとみる説(岡1982)もある)。このように御室焼開窯の時期についての説は、寛永19年(1642)以前・正保4年(1647)・正保3年(1646)もしくはそれ以前の3説にわかれているのであるが、このうち後者2説は茶人金森宗和(1584〜1656)と御室焼の関係を前提として踏まえているのである。

 御室焼の指導・斡旋に大きく関わっていたのが金森宗和(1584〜1656)である。金森宗和は飛騨高山城主の金森可重(1558〜1615)の長男であったが、父より勘当され茶人となり、宗和流の祖となった。金森宗和は後世「姫宗和」と称されたように、『槐記』などの記述によって宮廷を中心として活動した茶人とみなされるようになる。
 金森宗和の茶会においては御室焼が頻繁に登場しており、正保5年(1648)3月25日の茶会では茶弁当に入れるための胴が四方形の「仁和寺ヤキ」の水指が用いられている(『久重茶会記(松屋会記)』正保5年3月25日条)のをはじめとして、金森宗和の茶会では毎回のように御室焼が用いられる。金森宗和の茶会記関係の資料は谷晃校訂『金森宗和茶書(茶湯古典叢書4)』(思文閣出版、1997年8月)にまとめられて散見されるが、御室焼の登場はあまりに厖大なため割愛する。

 金森宗和が「姫宗和」と称されたように、宮廷を中心として活動した茶人であり、その指導下にあった御室窯も公家好みの茶器を焼く窯であったとみなされてきたが、近年の研究では、金森宗和の茶器の需要層は、宮廷よりもむしろ武士・商人が多く、幅広い茶の湯需要層を対象としていたことが明らかとなっている(岡1982)。金森宗和は御室焼の焼物を方々に斡旋・販売していたが、御室窯開窯以前から既存の京焼の窯に対して茶器を制作させているが、寛永17年(1640)に粟田口作兵衛に茶入を作らせており(『隔メイ記』寛永17年11月8日条)、正保2年(1645)2月11日には南禅寺金地院の最岳元良(?〜1657)のもとに「フクベ壱ツ」をもたらしているように(『金地日録』正保2年2月11日条。岡1995所引)、御室窯開窯以前には他窯に焼物をつくらせ、方々に斡旋している。このように茶器の斡旋を通じて需要層の好みを熟知していた金森宗和が、仁清との出会によって自身の好みを具体化する窯の築窯に踏み切ったとみられている(岡1991)。承応2年(1653)のものとみられる閏6月7日付の堀利長(1601〜58)宛「金森宗和書状」には「御室焼物を求められているようで、茶入・茶碗はいくつほどいるのでしょうか。仰せになって下さい。焼物している者が昨日来て、注文が多く窯がつまってしまっている、と申しているので早く(注文を)申し付けて下さい。すべてが皆よいものではないのです。数の内にはよいものもあるのです。水指などはいかがでしょうか。」(「金森宗和書状」大和文華館蔵、中村直勝蒐集古文書267号)と御室焼を斡旋しているようすがみてとれる。さらに艶やかな色彩が施された仁清の色絵も、仁清の現存作例では単色釉のみを用いた作品や、釉薬を掛けずに焼き締めただけの作品も多く、また国内において競合すべき他窯との差異をつけるべく、豊富な種類の唐物写茶入生産に力を注いでいたことが指摘されている(梶山2004)


南丹市美山町大野の伝野々村仁清生家(平成19年(2007)9月21日、管理人撮影) 

陶工仁清B

 慶安2年(1649)8月24日、鹿苑寺(金閣寺)鳳林承章は金地院最岳元良・平賀清兵衛(生没年不明)・同吉権(生没年不明)・竜安寺の偏易(?〜1662)とともに仁和寺造営の奉行をつとめていた木下利当(1603〜62)のもとに赴いているが、御室窯にも赴いており、「焼物師清右衛門」に焼物をつくらせている。鳳林承章も自身の好みで水指・皿・茶碗などをつくらせている。また蓋・袋・桐箱・蓋の内張などの仕様や唐物似の丸壷を選びとっている(『隔メイ記』慶安2年8月24日条)。鳳林承章は御室焼を愛好しており、彼の日記『隔メイ記』にたびたび姿をみせる。また金地院最岳元良のもとにもたびたび御室焼が斡旋されており、承応3年(1654)正月1日には大名の桑山一玄(1611〜84)から12月19日付の書状と仁和寺焼(御室焼)の茶碗・皿16個が最岳元良のもと来たが、この内6つが破損していたため、返書を送っている(『金地日録』承応3年正月1日条。岡1995所引)。この桑山一玄も金森宗和同様、御室焼の仲介者であるとみられている(岡1995)が、桑山一玄が仲介した金地院は、「黒衣の宰相」と称された以心崇伝(1569〜1633)の時代に五山禅僧の統轄機関である僧録が移転されてから、僧録を歴代金地院の塔主が務めており、最岳元良も僧録の職務にあたっていた。すなわち禅宗の五山派における政治上の最有力者であり、このような有力者への販路拡大は御室焼の動向を決定づけることとなる。

 仁清は「清右衛門」と称されているが、仁和寺では「丹波焼清右衛門」と表記されており(『御室御記』慶安3年10月19日条)、これが仁清が丹波国出自とする説の数少ない根拠とされているが、記録者の仁和寺の坊官が正確に仁清と丹波焼が何らかの関係があるか否かを認識できたとは考えにくい。さらに仁清は明暦元年(1655)9月26日に仁和寺の庭上にて焼物作成の実演をしているが、この時は「壷屋清右衛門」と称されていた(『御室御記』明暦元年9月26日条)。また翌明暦2年(1656)には播磨掾の官途名を名乗っていたらしく、御室窯跡より出土した明暦弐年銘をもつ破片には「野々村播磨(以下欠損)」とみえる。
 同年12月16日に金森宗和は没しているが、翌明暦3年(1657)正月に「仁清工人」は大徳寺江雪宗立(1595〜1666)に詩偈を求めており(「江雪宗立偈」。根津美術館2004所収)、また同明暦3年卯月(4月)4日作成銘をもつ「色絵輪宝羯磨文香炉」の高台内彫銘には「播磨入道」「仁清作」とあって、「清右衛門」は「仁清」と称しているとともに、「播磨入道」とあるように剃髪していることが確認される。仁清の剃髪の動機については、金森宗和が没していることを要因とする見解がある(田中1960)。なお藤田美術館には同形同銘の「色絵輪宝羯磨文香炉」が所蔵されるが、天保14年(1842)3月に大原野安養寺の住持実玄が記した箱蓋裏書付によると、仁清が若年の時、大原野安養寺の本尊に工業上達の祈願を行なったが、満願したため安養寺と本山御室宮(仁和寺)・槇尾(西明寺)の3ヶ所に香炉を奉納したものであるという(藤田美術館蔵「色絵輪宝羯磨文香炉箱蓋裏銘」)

 このように金森宗和の死は、御室焼がこれまでの金森宗和の斡旋・仲介を中心とした販路から、御室焼自身の名声によって金森宗和に頼らない販路創出への転機となった。仁清はその後作成の焼物の底に「仁清」の字を削銘して、仁清の焼物はブランド化していくこととなる。万治3年(1660)3月11日の後水尾上皇の仁和寺御幸において、上皇が任清(仁清)の焼物を御覧になっている(『隔メイ記』万治3年10月19日条)ように、世間の御室焼に対する評価は高まっていた。黒川道祐(?〜1691)が「近世仁和寺の門前に仁清が製造するものは、これを御室焼と称している。はじめは狩野探幽(1602〜74)と永真(1613〜85)らにその土の上に描かせて、その画様によって焼くものが多かった」(『雍州府志』巻第7、土産門下、服器部、磁器)とも、「近世この(仁和寺)の門前に陶家がいる。仁清と号して諸品の土器をつくっている。今茶人が愛玩するところである。御室焼の茶入・茶碗というのはこれである」(『嵯峨行程』)と、御室窯についてのべているように、京都では御室窯は注視される存在であった。また延宝6年(1678)12月に江戸を旅行した森田久右衛門(1641〜1715)が江戸町中にて御室焼の皿・鉢・茶入が売られているのを目撃しているように、江戸においても御室焼の販路は拡大していた(『森田久右衛門日記(江戸旅日記)』延宝6年12月朔日・2日条)


仁清作、色絵藤花文様壷(陶器全集刊行会編『陶器大辞典』巻2〈陶器全集刊行会、1936年〉別刷図版44頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている) 

陶工仁清C

 寛文7年(1667)閏2月11日、鳳林承章は御室の仁清の子安右衛門と初めて対面している(『隔メイ記』寛文7年閏2月11日条)。仁清の子が史料上に出てくるのはこれが初見であるが、この「安右衛門」は後の長男清右衛門であるとみられている(河原1974)。仁清には4人の息子がいたとされ、延宝2年(1674)12月29日の「金子借用証文写」には請人仁清のほか、借主清右衛門・名代清次郎がみえる(蜷川1947)。また延宝4年(1676)6月の「色絵狛犬彫銘」には一男野々村清右衛門政信・二男清次郎藤長・三男清八郎政貞がみられる(鈴木1957)。このように、仁清が名乗っていた「清右衛門」は嫡男が継いでおり、御室窯の実質的経営は仁清から子の清右衛門に移っていたようである。また藤田美術館蔵の年未詳2月11日付「仁清・清右衛門書状」、および年未詳2月24日付「仁清・清右衛門添状」には仁清・清右衛門の連署がみられる(望月1969)。さらに延宝6年(1678)8月20日に前述の森田久右衛門が京都見学の際に御室窯を訪れて、「同20日、御室焼を見物しに行った。特別に変ったということもなかった。釜(窯)所も見物した。釜(窯)は7つあった。唯今の焼手は野々村清右衛門という。(中略)御室焼は特別変ったことは(なく)釜(も変ったことは)なかった。掛花入は尺八であり、香炉にエビがあった。おし鳥・キジなどもあった」(『森田久右衛門日記(江戸旅日記)』延宝6年8月20日条)と御室窯の様子を見聞しているが、ここでも現在の焼手は野々村清右衛門であるとしており、仁清の姿はみえない。

 ここで仁清がいつ頃没したのかが問題となるのであるが、尾形乾山が「元禄2年(1689)に洛陽北泉渓というところに閑居して陶器の製造を開始したが、京都の西北(乾)の方角にあたる地であるから、故に陶器の銘を「乾山」と記したのである。その時私が細工人として使っていた孫兵衛という者は、押小路焼の親族かつ弟子で、細工焼が巧みな者であるから、仁清の嫡男清右衛門ともども、私に(伝授してくれるよう)頼んだのである。この両人により押小路内窯焼・御室仁清焼の伝を受継いだのである。」(『陶工必用(江戸伝書)』内窯陶器)とのべていることから、元禄2年(1689)の段階では仁清は生存していたものとみなす説が一般的であり、前述した妙光寺に現存する伝仁清墓の銘文のように天和2年(1682)に没したとはみなされていない。

 元禄8年(1695)、加賀藩主前田綱紀(1643〜1724)は将軍徳川綱吉母である桂昌院(1627〜1705)に書棚と香合を献上しようとしており、家老の前田貞親がその準備の統轄にあたっていた。香合は御室焼にすることとなったが、この献上品の準備について側近斎藤吉左衛門が前田綱紀に対して「三ノ丸様(桂昌院)へ(贈る)書棚および香合50を帳簿に記して(品には)白札を付けました。香合の内、黒蒔絵12個、梨子地蒔絵12個ができあがりました。ほかの香合は追々できあがります」と(前田綱紀に)申し上げたところ、「いつ時分(にできあがるのか)」とお尋ねになったので、「焼物香合などは殊の外日数がかかる、といっていたので9月時分にはできあがるでしょう」と申し上げたところ、「その時分では御用に役立たない。そうであるならば、その分は前の品に(するよう)協議しなさい」と仰せられた(『前田貞親覚書』元禄8年7月26日条)。それでも御室焼の完成を待つこととなったが、9月26日に御室焼の香合13個が京都より到着した。葛巻新蔵がこれを(前田綱紀に)たてまつったが、「事の外不出来で御用に役立たないから、どうにか焼き直させなさい」と仰せられたので、(葛川新蔵は)「千宗室(仙叟宗室、1622〜97)方からも“仁清は2代目になってから下手になったのです”との旨が申し伝えられているので、とにかく何方にもよく焼きあがっているものを合せて申しつけなさっては」との旨をお願い申し上げたところ、「とにかく御用に役立たないのであるから、返品しなさい」との旨を仰せられたので、右の通り宗室方へも申し遣し、返品すべきの旨を表納戸奉行へ申し渡した(『前田貞親覚書』元禄8年9月26日条)。結局御室焼の香合は返却され、伊万里焼の香合が注文された。これらのことから、前田家は当初は御室焼の焼成能力を疑っていなかったものの、届いた香合が予想外に不良品であり、その理由が「仁清は2代目になってから下手になった」であったことは、御室窯側において香合焼成時に不測の事態、すなわち仁清の死があったと考えられている(河原1974・岡1990)。この事件が契機となって御室焼の評判は落ち、凋落する契機となった。

 元禄9年(1696)3月10日には仁清の3男野々村清八が2人扶持にて仁和寺坊官に召抱えられている(『御室御記』元禄9年3月10日条)。その後2代目仁清とみられる清右衛門であるが、元禄11年(1698)9月7日に仁和寺が「焼物師清右衛門」に松木10本を拝領しており(『御室御記』元禄11年9月7日条)、窯の燃料とする松を拝領して御室窯の経営を続行していることがみえるが、元禄12年(1699)8月13日に尾形乾山へ与えた伝書に署名(『陶工必用(江戸伝書)』仁清伝書の部、跋)して以降の行動はつかめていない。やがて御室窯も廃絶してしまった。

 仁清の秘伝を受け継いだ尾形乾山は御室焼・押小路焼の技法に加えて自身の技法を大成させ、現在では京焼を代表する陶工の一人に数えられている。尾形乾山は仁清の子の猪八を養子にし、猪八は二代目乾山となって江戸に下り、武家に仕えて陶器を製造したというが(『古画備考』巻35、光悦流、乾山)、その猪八について尾形乾山は、継承した技法は猪八に伝えており、猪八は京都鴨川の東聖護院の宮の御門の境にて窯を開いていると述べている(『陶磁製方(佐野伝書)』内窯焼陶器之事)

 御室小学校の線路を挿んだ南側で、国道130号線の東側に映画監督の伊藤大輔監督(1898〜1981)の邸宅があったが、現在では分割されて数軒の個人住宅が「コ」字形に林立している。その分割時に多くの陶片が出土しており、この地が御室窯跡であると考えられている。現在では邸宅跡の国道130号線に面したやや北側に、「陶工仁清窯址」の石碑(写真下)が、宅地の間をさも片身の狭い思いをしているかのようにして佇んでいる。


「陶工仁清窯址」銘石碑(平成19年(2007)10月29日、管理人撮影) 

その後の妙光寺

 江戸時代の寺院には境内地以外に、寺領として朱印石高を有する場合があった。しかしながら明治新政府は宗教政策の対策として、明治4年(1871)寺院などの土地を境内地・墓地のみに限って認めるものとし、境内地・墓地以外は上知(収公)した。結果、近世までは栄えていた寺院でも、明治期になると急速に衰退する場合があり、極端なところでは境内地の9割近くを失った寺院もあった。妙光寺の検地は明治5(1872)2月15日に行なわれた(『正覚山妙光禅寺紀年集』明治5年壬申2月15日条)

 妙光寺も寺領上知によって衰退の兆しがあったのか、明治7年(1874)には西村吉兵衛のもとへ霊洞院の僧が参向し、同家にて霊洞院の僧は久衛門に対して、打宅氏檀家などのことが中絶すること無いよう依頼している(『正覚山妙光禅寺紀年集』明治7年甲戌条)。このように寺領があてに出来ない以上は、寺領の収入に頼るのではなく、古来よりの檀越の支援を取り付けようとしている寺院側の努力がみてとれる。実際、打它氏は幕末になってから灯明料金として三百匹を寺納するなど、妙光寺に対する経済的支援をおこなっていたから(『正覚山妙光禅寺紀年集』文久2年壬戌条)、妙光寺や事実上の本寺である建仁寺霊洞院もそれをあてにしていたのだが、結局は妙光寺の衰退はとどまることはなかった。そこで妙光寺境内の建造物が売却される事態となった。

 妙光寺の山門は明治18年(1885)2月に京都府に対して建仁寺への移転申請の許可が出たため、明治20年(1887)までに移転が完了している(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「葛野郡寺院明細帳」64)。現在は建仁寺塔頭護国院の山門となっており、護国院は開山塔となっているため、開山塔の山門宝陀閣となっている。

 また法堂・鐘楼(梵鐘はなかった)は大破したため、明治25年(1887)12月9日に金100円(当時)での売却が申請・許可された(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」第3号72葉)。法堂は現在静岡県の鉄舟寺に移転されて現存する。

 戦後多くの寺院がそうであったように、農地解放令によって経済的打撃をうけ、戦後困窮した。開山堂の印金堂も戦後の窮乏期に取り壊されてしまっている。このように完全に衰退し、かつての盛時は見る影もなくなってしまい、寺門を閉ざして参拝謝絶する事態となってしまった。妙光寺は建仁寺末寺であり、臨済宗建仁寺派管長兼任の寺院である。当代の建仁寺派の管長が妙光寺再建をめざし、それをうけた建仁寺の雲水たちが妙光寺を整備しており、平成20年(2008)5月に一週間の期間限定で妙光寺が公開され、本山建仁寺では妙光寺の寺宝を展示した「妙光寺展」が開催された。その後再度寺門は閉じられて妙光寺は第二の再興の途についたが、この名刹が一般に公開される日も、そう遠くはないだろう。


建仁寺護国院(現開山塔)山門の宝陀閣(平成19年(2007)10月29日、管理人撮影)。もとは妙光寺山門で、明治20年(1887)に移築された。 

[参考文献]
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・岩井武俊『維新の史蹟』(星野書店、1939年5月)
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・蜷川第一『京洛の古陶』(河原書店、1947年2月)
・小林太市郎『乾山―京都編―』(全国書房、1947年)
・鈴木半茶「仁清系譜」(『日本美術工芸』141、1950年7月)
・鈴木半茶「御室焼・仁清作品の種々相」(『陶説』38、1956年)
・鈴木半茶「御室焼・仁清の文献研究(その二)」(『陶説』43、1956年10月)
・鈴木半茶「御室焼・仁清の文献研究(その三)」(『陶説』44、1956年11月)
・鈴木半茶「御室焼・仁清の文献研究(その四)」(『陶説』46、1957年1月)
・鈴木半茶「御室焼・仁清の文献研究(その五)」(『陶説』49、1957年4月)
・鈴木半茶「御室焼・仁清の文献研究(終)」(『陶説』50、1957年5月)
・小高敏郎「打它公軌とその子孫ー近世における一町人歌人の行実とその家譜ー」(『国語国文』26-11(通号279)、1957年11月)
・藤原弘道「天章慈英伝」(『仏教大学研究紀要』35、1958年10月)
・光地英学「心地覚心と普化宗」(『印度学仏教学研究』13(7-1)、1958年12月)
・相見香雨「宗達風雷図と妙光寺」(『萌春』81、1960年7月)
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・中ノ堂一信『京都窯芸史』(淡交社、1984年)
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・中尾良信「瑩山禅師と法灯派」(『曹洞宗宗学研究所紀要』1、1988年3月)
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・加藤正俊「関山慧玄の東遊について」(『禅文化研究所紀要』24、1998年12月)
・佐藤秀孝「恭翁運良・孤峰覚明と初期曹洞宗教団」(『禅学研究』77、1999年3月)
・有馬嗣朗「入宋僧と接待所について入宋僧心地覚心と紀伊歓喜寺」(『印度学仏教学研究』96(48-2)、2000年3月)
・岡佳子『国宝仁清の謎』(角川書店、2001年7月)
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・河原正彦「京焼の「陶法伝書」―『陶工必用』・『陶磁製方』・『陶器指南』―」(『学叢』28、2006年)
・京都国立博物館編『特別展覧会 京焼―みやこの意匠と技―』(京都国立博物館、2006年10月)
・『南丹市文化財調査報告書』8(南丹市教育委員会、2008年3月)


妙光寺玄関と客殿(平成19年(2007)10月29日、管理人撮影) 



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