梵魚寺



梵魚寺曹渓門(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。17世紀の建立。

 梵魚寺は大韓民国釜山広域市金井区に位置する曹渓宗の寺院です。新羅の興徳王(位826〜36)によって太和9年(830)に建立され、文禄・慶長の役で焼失。現在の伽藍は17世紀のものが中心ですが、三層石塔・石燈などに新羅時代の遺構が遺っています。


梵魚寺の創建説話@

 梵魚寺の後背に位置する金井山は釜山広域市の北側に位置する山系で、最高峰の姑堂峰(801.5m)をはじめとした山々が聳える。現在、李朝時代の金井山城が山々を囲遶するが、この金井山城の創建時代は統一新羅時代(668〜935)とみなす説がある。

 梵魚寺の創建に関する同時代の史料は存在しない。ただ高麗の一然(1206〜89)が撰述した『三国遺事』によると、義湘(625〜702)が伝教させた十刹の中に、太伯山浮石寺、原州の毘摩羅寺、伽耶の海印寺、毘瑟の玉泉寺、南岳の華厳寺と並んで、「金井の梵魚」とあり(『三国遺事』巻第4、義解第5、義湘伝教)、高麗時代には梵魚寺が義湘が伝教した寺院の一つに数えられていたことが知られる。

 梵魚寺の創建説話は同寺の寺誌『梵魚寺剏建事蹟』にまとめられている。『梵魚寺剏建事蹟』は康煕39年(1700)正月に木版により開版されたもので、版木は梵魚寺(梵魚寺聖宝博物館)に現存する。「事蹟文」と「古蹟」の二部に分かれており、「事蹟文」の識語には「赤虎抄秋、東渓謹識」とあるように、「赤虎」すなわち「甲寅」年秋に東渓なる人物が撰文したことが知られる。開版年に近い甲寅年は康煕13年(1674)となるが、その詳細は明らかではない。また内容は「古蹟」の方が若干詳細なだけであり、すなわち両者には基となった底本があったとみられる。韓国学文献研究所編『韓国寺志叢書14 梵魚寺誌』(亜細亜文化社、1989年6月)に写真版が掲載される。

 創建説話は『梵魚寺剏建事蹟』に以下のように記される。

 太和19年乙卯に新羅の興徳王興徳王(位826〜36)の時、倭人が10万の兵船を率いて東に到り、新羅を攻撃しようとしていた。興徳王は憂い、夢の中に夢の中のような心地となった(『梵魚寺剏建事蹟』)

 神人が空中にあって「大王よ愁わないで下さい。太白山中に一人の和尚がいて義湘といいます。本当は金山宝蓋如来の第七の化身なのです。つねに聖衆一千、凡衆一千、鬼衆一千の合せて三千大衆を率い、つねに華厳を講義し、華厳神衆の四十法体や諸神天王は常にしたがって離れません。また東国の海辺に山があり、「金井」といいます。その山頂には石があり、高さ50尺余(約15m)です。石の上に井戸があり、水はつねに金色をしており、いつも満ちあふれて乾くことなく、また金魚が五色の雲に乗って梵天に浮かび、降りてきてはその中を遊泳しています。大王よ、自らその山に行幸し、金井岩の下にて七日七夜、華厳を読誦すれば神衆が精勤し、弥勒如来が金色の身を現わし、四方天王がそれぞれ兵器を持って化して色身を現わし、毘盧舎那如来が金色の身を現わし、普賢・文殊を率いて香花します。童子四十法体や諸神天王がそれぞれ兵器を持って、海東に向いて圧するならば、倭兵は自然に退くでしょう。」(『梵魚寺剏建事蹟』)

 神人が言い終わると王は驚いて目覚め、朝になるや諸臣を招集してそのことを述べた。使者を遣わして義湘を迎え、自ら金井山に行幸して七日七夜、一心に読経すると大地震があり、広く光を放って、諸仏天王・神衆・文殊・童子がそれぞれ身を現わし、それぞれが兵器をもって海に臨んで賊を討伐し、あるいは弓矢を放ち、あるいは鋭い槍や刀剣で、あるいは石で攻撃し、太鼓が鳴り響き黒風を扇いで兵火となり、波涛がみなぎって地が動くや、倭船が自ら攻撃しあい、兵の多くがことごとく没して残る者はいなかった。王は大いに喜び、義湘を封じて鋭公とした(『梵魚寺剏建事蹟』)

 このように『梵魚寺剏建事蹟』の説話では、倭人(日本)からの攻撃を防ぐため、興徳王の霊夢によって華厳を修すると、倭人が覆滅したことになっている。最も義湘は興徳王より1世紀以上前の人物であるから、義湘云々というのはあくまで仮託説話であり、義湘というのは華厳の名匠を意味する一種の記号のようなものとみてよい。『梵魚寺剏建事蹟』ではさらに建立期の伽藍について述べる。


梵魚寺天王門(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。2010年12月15日に放火により焼失したが再建された。

梵魚寺の創建説話A

 『梵魚寺剏建事蹟』によると、金井山の麓に二層の殿堂をつくり、石像弥勒を彫刻して左右に四天王を補い、それぞれに兵器を持たせたという。弥勒殿の西に3間の毘盧殿を建立して毘盧遮那仏・文殊・普賢・香花童子を安置して、それぞれに兵器を持たせたという。また弥勒殿の東に3間の大蔵殿を建立し、八万大蔵経や華厳経を安置した。また選地は義湘が行ったといい、興徳王が監造させた。燔瓦監役は平章事の柳春雨が、地ならしや石材・木材の搬入は曇順鬼らが行った(『梵魚寺剏建事蹟』)。石造弥勒像は現存しないが、9世紀のものとみられる石造蓮華台座が弥勒殿に現存しており、石造弥勒像の台座であったとみられる。

 上層階は長220丈(660m)、高さ10尺(3m)で、19段の石段が付属する(『梵魚寺剏建事蹟』)。梵魚寺は現在、上層階の大雄殿をはじめとした上階伽藍と、弥勒殿をはじめとした下層伽藍に分かれている。また釈迦如来像は高さ3丈(9m)にもおよび、上階中階には高さ3丈(9m)にもおよぶ釈迦如来像が安置された(『梵魚寺剏建事蹟』)

 弥勒殿の建立は釈暉正悟和尚が、天王殿・仏殿は智衍熊哲和尚が化主となり建立された。
左右に鐘楼があり、それぞれ2層となっており、回廊が付属し、西向に9間、北向9間あった他、9間の食堂があり、いずれも梵能が建立した(『梵魚寺剏建事蹟』)

 梵魚寺には寺田360結、奴婢100戸が寄進され、さらに衆寮(子坊)360房に達したという(『梵魚寺剏建事蹟』)

 現在の梵魚寺の建物は17世紀のものが中心であり、新羅時代のものはおろか高麗時代・李朝時代前期のものすら遺っていない。ただし三層石塔・石燈はいずれも9世紀の様式を有し、このことから三層石塔・石燈は梵魚寺創建時の遺構とみられている。


梵魚寺三層石塔(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。新羅時代(9世紀)に建てられたもの。



梵魚寺石燈(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。新羅時代(9世紀)に建てられた。



梵魚寺幢竿支柱(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。新羅末期・高麗前期(10・11世紀)時代のもの。

梵魚寺の再建

 梵魚寺は万暦20年(1592)の文禄・慶長の乱によって全焼した。戦乱によって経典・仏像もろとも全焼し、田戸・文籍もともに灰燼と化した(『梵魚寺懸板記文』東莱府梵魚寺法堂重修兼丹ワク記)。万暦30年(1602)には数人の僧が簡易の堂宇を建てて再建を図った。弥勒像は半面が庭に露出しているのが発見され、掘り返された。これが東弥勒といわれるもので、崇徳6年(1641)に東弥勒像は金色に荘厳された(『梵魚寺懸板記文』弥勒雕像重修記)。ただしこの木造弥勒像は17・18世紀に新造したものであることから(慶星大学校附設韓国学研究所編2002)、仮託説話とみるべきであろう。

 万暦30年(1602)に大火に逢って再建は一時中座したものの、妙全が万暦41年(1613)秋に海会堂を完成させ、万暦42年(1614)7月に法堂(大雄殿)を完成させた。順治15年(1658)9月に法堂(大雄殿)が破損したため別に再建され、旧材によって南辺に移建し、地蔵殿と称した。康熙33年(1694)3月には寺僧明洽によって重修され、地蔵殿は冥府殿に改称した(『梵魚寺懸板記文』冥府殿重修有功記)


梵魚寺伽藍(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)

 大雄殿は順治15年(1658)に海敏によって重修した。康熙51年(1712)春に重修を開始して、6月に完成した。康熙52年(1713)春に彩色が施されたし(『梵魚寺懸板記文』東莱府梵魚寺法堂重修兼丹ワク記)

 桁行3間、梁間3間の切妻造本瓦葺の建物で、斗きょうは建物前後面のみに組まれており、桁鼻が短いため防風板がつけられる。内部(法堂)には中央後部に2本の柱を立てて来迎壁を設ける。


梵魚寺大雄殿(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。順治15年(1658)再建。



梵魚寺冥府殿(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)。もとは万暦42年(1614)に大雄殿として建立されたが、順治15年(1658)移築し地蔵殿、後に冥府殿となった。

 普済楼は鐘楼として建立され、自修長老らによって康熙38年(1699)に完成し(『梵魚寺懸板記文』東莱府北嶺金井山梵魚寺普済楼創建記)、康熙41年(1702)に彩色修復が行われた(『梵魚寺懸板記文』東莱府北嶺金井山梵魚寺普済楼丹ワク記)。また康熙59年(1720)には曹渓門(一柱門)の石柱、普済楼・大雄殿・毘盧殿・八相殿の石梯(石階)、香積殿・石井堂・禅僧堂の蓋石桶の修復が行われた(『梵魚寺懸板記文』梵魚寺大雄殿仏像毘盧殿仏像香積殿石井曹渓門石柱四附石梯盖石桶記)。梵鐘は乾隆37年(1772)に鋳造されている(『梵魚寺懸板記文』梵魚寺鋳鍾記)

 一柱門は道光21年(1841)春に修復され(『梵魚寺懸板記文』本寺燈燭献水田兼一柱門重建有功記)、冥府殿は光緒17年(1891)に重修した(『梵魚寺懸板記文』冥府殿重修有功記)

 光緒18年(1892)に万下勝林は中国に入って法源寺戒壇に参じて昌寿より受戒した。朝鮮に戻ると随所に戒壇を建造していった。光緒23年(1897)には梵魚寺にも金剛戒壇が建造され、惺月一全に授けられた。惺月は昭和10年(1935)に一鳳敬念に授戒している(『韓国仏教最近百年史』)


梵魚寺観音殿(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)



梵魚寺普済楼(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)



梵魚寺羅漢殿(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)

[参考文献]
・申栄勲編『「国宝」ー韓国7000年美術大系H寺院建築』(竹書房、1984年10月)
・韓国文化財保護協会編『韓国文化財大観3 宝物1 木造建築(一般建築・寺院建築)』(大学堂〈丸善発売〉、1991年2月)
・金奉烈著/西垣安比古訳『韓国の建築-伝統建築編-』(学芸出版社、1991年6月)
・慶星大学校附設韓国学研究所編『梵魚寺聖宝博物館名品図録』(梵魚寺聖宝博物館、2002年)
・尹張燮著/西垣安比古訳『韓国の建築』(中央公論美術出版、2003年12月)


梵魚寺山霊閣(平成25年(2013)3月17日、管理人撮影)



「韓国慶州寺院参詣の旅」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る