壬生寺縁起 上

[底本]
・『続群書類従』第27輯上(続群書類従完成会、1925年11月)


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壬生寺縁起上

  目録
一壬生寺草創并本尊出現の事
二御堂供養の事
三當寺行幸の事
四本尊開帳の事
五宗平當寺再興の事
六政平當寺造營付飢饉を救ふ事
七當寺造營惣供養の事
八本尊の錫杖來由の事
九當専撞鐘を鑄る事付政平瑞夢の事
十當寺鎭守六所大明神の事
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  第一壬生寺草創并本尊出現の事
夫諸佛菩薩の利生方便いづれ健劣なしといへ
ども。機に隨ひ時に隨ふ時は其優劣なきにし
もあらず。たとへば諸の藥草各其功能をそな
へ侍れど。病に應じて用捨あるがごとし。各
其功能をそなふといへども又貴賤なきにしも
あらず。三世十方の諸佛の中彌陀をもて第一
ととき。又觀音の弘誓海のごとくなるも。地藏
重深の慈悲には及ばずと説り。是を思ふに
地藏菩薩の悲願は諸佛諸菩薩に超給へる事仰で
信ずべきをや。爰に洛下宣風坊の邊〔亦ハ號小三井寺ト。亦ハ號地藏院。亦ハ號寳幢三昧寺。〕
の本尊地藏菩薩の像は第六十六
世一條院の御宇正暦二年庚寅。定朝法橋一刀
三禮の懇精をもて彫刻し奉る所なり。坐像御
長三尺。其出現の權輿を尋るに。本願三井寺
の快賢僧都。俗姓は藤氏大織冠十三世之孫。
粟田關白道兼公の族なり。出塵の後三井寺に
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登り。智證大師の門葉と成て天台の教門其玄
奥を究むといへども。慈母洪恩のむくいがた
き事を思ひて。後に寺を出。京華に母をかへ
り見。唱導を事として緇素を引導す。すなは
ち此所に一宇の坊舍を營造し。定朝に命じて
造らしめ本尊となん仰ぎ奉りける。彫刻の願
を發してより御衣木を加持し。佛匠は一刀三
禮すれば。願主は一香三拜し。共に無二の信
心凝し侍るゆへにや。相好圓備して恰も生身
にむかへるごとし。允に是大權薩&M005190;の示現な
れば。威光高位に燿き。冥顯の二應掲焉とし
てすでに今七百餘歳。上一人より下萬民に至
て。利生を蒙るもの翰墨の記す所言詞の及ぶ
所にあらず。されば住職の僧侶聯綿として常
に丹心を抽で。天長地久四海泰平の祈願をな
す所の道場となん成侍りける。

第二御堂供養の事
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おなじ御宇寛弘二年乙巳御堂の供養す。此時
寺を小三井寺となん名付侍りける。導師はや
がて本願僧都是をつとむ。門弟の上綱供奉
琳巌。〔異名云ハ六郎禪師。〕權少僧都覺増。中將阿闍梨性尊。
三位法眼基尊。宰相禪師定尊。是等を初めと
して職衆數輩なり。大法會の儀式大行道の次
第。伽陀聲明の妙音天にひゞき。舞歌音樂の
雅聲にひゞく。上界の諸天も降臨し。十方の
諸佛もまさに來現し給ふかとぞ見えたりけ
る。見聞隨喜の緇素男女も本願僧都をもて生
身の地藏菩薩のごとく仰ぎたうとみあへりけ
る。

  第三當寺行幸の事
第六十六世一條院の御宇寛弘二年御堂供養成
就してよりこのかた。本尊の靈應朝野にあま
ねく日を逐てあらたに。年を累ねていちじる
くをんましヽヽける。白河院叡情を凝して信
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敬せさせ給ひ。たちまち靈夢を感ぜさせおは
しまし。承暦年中后宮群臣をひきゐてまふで
させ給ふ。此時寺を地藏院となん名付させ給
ひける。其後第七十四世鳥羽院御歸依淺から
ず。天承年中御幸ならせ給ふ。宜なる哉。兩
朝の聖主尊崇のあまり輦車を此寺にめぐらさ
せ給ふこと。本尊の威徳寺院の眉目かぎりな
き物ならし。

  第四本尊開帳の事
一條院正暦二年の草創より以往。本尊の御厨
子に御帳をたれてたやすく拜し奉ることを制
す。是ひとへに難遭希有の想を生ぜしめんが
爲になん。然るに第七十六世近衞院の御宇
天養元年六月十七日二條院降誕せさせ給ふ。此
日より同二十四日に至て一七日の間開帳せし
む。是は後白河院の勅命に依て二條院御誕生
御願成就の御よろこびの爲なり。此帝は後白
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河の長子。御母は贈皇火后懿子。贈太政大臣
經實公の御女なり。勅使は萬里小路中納言。
當寺執行中觀法印壽八十九歳。さしも久修練
行の功つもりいとたうとき人になん有ける。
仙院も御幸成て御所願成就の御よろこびを申
させ給ふ。本尊安置の後。今此時に至て百五
十餘歳になん成侍れば。花洛洛外はいふに及
ばず。邊土遠境の道俗貴賤袖をつらね踵をつ
いで詣のゝしる有樣。いける佛の世に出給ふ
もかくやとぞおぼえける。

  第五宗平當寺再興の事
第八十四世順徳院の御宇建保年中。和州前吏
平朝臣宗平といふ人あり。三重左衞門俊平が
子なり。是も和州の前史なりしが。豊後國
三重庄を領知し侍ればしかなん名づけける。此
俊中本より此本尊を信仰して樣々利uを蒙り
侍りければり此宗平も父の業を繼でおなじく
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信仰し奉りける。俊平が行迹は別卷に記し侍
ればこゝに略し侍りぬ。然るに宗平建保元年
心を發して。五條坊門壬生より此坊城に移し
て伽藍建立の敷地を定め。佛閤塔娑甍をまじ
へ。堂舍僧房軒をならぶ。今坊城に移すとい
へども元の名を改めず壬生寺とはいへる也。
再興供養の導師は勸修寺別當前大僧正成寳。
讃衆等皆門弟の名徳修行せらる。起立塔婆の
供養。導師は前法務大僧正親嚴。職衆等は
東寺一門の上綱是をつとめらる。此外種々の善
根佛事皆本尊稱揚讃歎の外他事なし。或は
法華般若等の諸大乘經を開講演説し。顯密の行
法ながく退轉せず。阿彌陀堂におゐては不斷
念佛三昧を修せしむ。すなはち結衆供料の爲
又は諸堂の佛餉燈油など。悉その用途をはか
りて田園を寄附す。かくのごとく檀信の深厚
なる事。佛世の須達にもをさヽヽ劣るまじく
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見え侍りける。

  第六政平亦當寺造營付飢饉を救ふ事
建保年中宗平再興より四十歳を經て。八十八
世後深草院の御宇正嘉元年二月廿八日。東火
の餘焔西に及で一寺悉く灰燼となる。されど
本尊はつゝがましまさず。だうは礎のみぞ殘
れりける。大檀越和州前吏朝臣宗平の息左金
吾校尉政平。二代の跡を逐て伽藍修造の興行
をなす。頗往古の建立に超過せり。本堂は五
間四面。本尊地藏菩構并に四天の像を安置し
奉る。阿彌陀堂三間四面半。丈六の彌陀の像
を安置し。釋誹堂二間四面。釋迦の像を安置
す。其外藥師如來の像一躯。阿彌陀如來の像
二躯。地藏菩薩の像二躯新たに造立して別殿
に安置し奉る。寳塔には大日如來釋迦文殊普
覺各一體を安置し奉る。大門は八足にして南
にたてり。十輪門と號す。熊野の發心門にむ
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かへりとか。たけ一丈の金剛力士を置り。此
時地藏院の名を改めて寳幢三昧寺と號す。其
額は菅規爲長卿の筆跡なり。其外五部の大乘
經二百四十八卷。法華經十二部九十六卷。わ
きては先考先妣追福の爲に無量義經。觀普賢
經。阿彌陀經。般若心經各六部を書寫す。已
上の善根すべて自他兼濟の願ならずといふ事
なし。是等の大願二筒年を經て悉く成就し。
正嘉二年八月廿八日本尊御遷座あり。種々の
供養允に善美こゝに盡せり。或は梵唄説法八
音四辨をのべ。舞樂歌謠。間者隨喜感歎す。
又萬燈の照輝赫奕として佛日の無窮にてらさ
ん事をなん表し侍りける。抑此所土地濕多く
して。動もすれば泥水涌出して礎石をまふく
るに堅固ならず。是に依て他所より土壤をは
こびて地形をきづく。其比天下大に旱魃して
人民餓死する者おほし。政平是を憐み。かつ
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は伽藍建立結縁の爲。かつは飢をたすけんは
かりごとに。簀にて土を運ばしむるに。其大
小に隨て米錢をあたへて。おほくの飢人を救
ふ。呼是無遮平等の大施。自然廣大の利uな
るべし。

 第七當寺造營惣供養の事
第八十八世後深草院の御宇正元元年。〔正嘉三年改元。〕
當寺惣供養あり。其儀式最嚴整にして大曼荼羅供
を修せらる。導師は仁和寺菩提院大僧正
行遍。〔號參河僧正。〕職衆は東寺一門徒三十口當寺僧侶
二十餘輩。誠に希代の勝會無雙の善行なり。
大檀越ならびに結縁の道俗男女。現世には諸
の障難を除きて長生の壽域にあそび。當來に
は薩&M005190;の引導によつて無爲安樂の妙果を極め
ん。しかのみならず十二口の供僧に課せて長
時の勤行怠慢なく。香花燈明の供養をのべて
國家太平公武安全の祈願をなさしむ。
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  第八當寺本尊錫杖來由の事
當寺本尊地藏菩薩出現の來由は既に上に記し
をはりぬ。持物の錫杖の來由を尋るに。本尊
落慶の折から持物の錫杖いまだ成就せず。あ
る時辰の一點より午の時に至りて本尊のあた
り霧ふかくおほひて異香四方に薫ず。あやし
み思へる處に。午の中分に及んで霧はるゝに
隨ひて本尊を拜し奉れば。忽ち御手に錫杖を
携へもち給ふよそほひ。恰も生身のごとし。
本願僧都隨喜感激して三七日の間一心に敬禮
して。錫杖の來所を示し給はん事を祈給ふ。
一夕夢らく。やごとなきざふの枕上に現じて
告て宣く。汝しらずや此錫杖は。むかし釋尊
&M000499;羅陀山にして延命地藏經を説給ひし時。無
數再聲聞菩薩諸天人民悉く集る。其時我此六
輪の錫杖を持して大地より涌出しき。時に
釋尊慇懃六道の衆生濟度の事を付囑し給ふ。其
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時の錫杖すなはち是なりと示し給ふ。僧都夢
さめていとたうとく有がたく覺えて。まさに
佛の在世にあつて&M000499;羅陀山にいたれる心ちな
んし侍りける。抑此錫杖の功徳諸の經論に詳
に見え侍ればこゝにしるさす。其全體を見る
に。五佛具足の妙塔衆生本有の曼陀なり。
六輪の音を聞ば立地に三毒を滅し。五佛を拜し
奉れば本有の佛性あらはれずといふ事なし。
此錫杖一見一聞の人は。往生淨土の良因を植
て竟に菩提の善果を成熟せしめんことなんぞ
疑はん。

 第九當寺撞鐘を鑄る寄付政平瑞夢の事
第八十九世龜山院の御宇弘長二年閏七月十五
日。左衞門尉政平當寺の堂前にして撞鐘を鑄
させ鐘樓にかく鑄工は土師宗貞なり。凡諸の
經論の中に。鐘の功徳を説事往々に見えたり。
中にも當願衆生一聽鐘聲脱三界苦得證菩提と
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説れば。一たび鐘聲を聞も永く菩提の因と
なん成侍れば。なをざりの功徳にはあらざる
也。又増一阿含には若打鐘時一切惡道諸苦得
停止といへり。是に依て&M028367;膩&M003302;(咤)王の殺書の罪
によつて千頸魚の中に入。劔輪其身をまとひ
身分をくだく苦をうけたりしも鐘の聲を聞て
劔輪すなはち空に有て苦受停息すといへり。
是によつて伽藍造畢の後。第八十八世後深草院
の御宇正元元年己未二月十九日鐘鑄あるべ
きよし催す所に。本尊地藏菩薩政平に託して
夢中に告て宣く。六道能化の靈場精舍有堂有
塔無鐘無樓進檀施力成來際縁とあらたなる示
諭を蒙る。是を思ふに。たとひ一人の力にた
ふとも。衆人をすゝめて未來の縁を結ばしむ
る功徳勝れたる事を示し給ふにこそと。長弘
壬戌七月十五日に至り。四年を經て諸人
を勸化して少施をかろしとせず。菩薩の値遇
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を専とすればにや。緇素男女貴賤貧富をえら
ばず。分に隨ひ財物を施入して。程なく其功
を成ぜしむ。中にも當寺の檀越官務有家殊に
志を抽で。採銅所に下知して十六斤六兩の赤
銅を贈り。金鐘鑄冶の大願遂に成就し侍りけ
る。こゝにおいて結縁の諸人鐘をならして隨
喜感歎をなす。されば梵鐘一聲を聞ては無明
長夜の眠をさまして諸行無常の理をさとる。
終に常住寂滅の果位に至らんこと。是此鐘の
功徳なるをや。又正嘉元年五月廿九日鑄工宗貞
に課せて鰐口一口を鑄させ。本尊の御前に
掛。左金吾政平みづから三箇の逸音を鳴して
薩&M005190;の尊聽を驚し奉り。一切衆生の悉地をぞ
祈奉りける。

  第十當寺鎭守の事
常寺草創の初は。日吉十禪師を勸請し奉りて
鎭守とす。是即本地垂跡内證外用の利uをつ
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かさどり給ふ故なるべし。山王上七社の中。
第六は十禪師權現。本地すなはち地藏菩薩な
り。今崇るところの六所權現は第八十五世
後堀河院の御宇嘉祿年中に甲斐法橋覺玄といへ
る人別願として往昔より勸請し奉る。
日吉十禪師に加へて神社を勸請し奉るに依て。
六所權現とはいへるなり。第一は八幡。第二は
熊野。第三は稻荷。第四は祇園。第五は天滿宮
なり。神職は中原廣保を以て神事をつかさど
らしむ。其後第八十八世後深草院の御宇
正元元年四月廿三日戊刻ばかり。鎭守權現參詣の
少人に託して種々の御託宣あり。其神詞に云
く。鳥居内瑞籬邊閑寂。而社檀寳前神樂風流
等希有也。何况於法施哉と。是に依て山寺の
衆僧評議をなして。ことさらに當時の禮奠不斷
の法施おこたることなくつとめおこなふ。
むべなるかな天照太神は我託宣をやめて西天
(278頁下段)
の教に讓ると告給ひ。釋迦世尊は
惡世中現大明神廣度衆生と説給ふ。さればにや往古より
已來兩部習合の正道國家に行はれて。神社に
は佛閥を建て本地の妙容を顯はし。佛寺には
神祠を立て乖跡の威徳をあがむる事になん成
侍りける。當神主圖書權助中原朝臣榮定其外
諸堂の預に課せて。毎年五月十三日祭祀執行
ふ事恒例となる。






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