実相院



実相院四脚門(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)。17世紀の建立。

 実相院(じっそういん)は京都市左京区岩倉上蔵町121に位置(外部リンク)する天台宗寺門派系の単立寺院です。平安時代から鎌倉時代にかけて近衛家関係の門跡寺院として草創され、室町時代に将軍家の庇護を受けて発展し、大雲寺を末寺として大きな勢力を得ました。近世期には義尊・義延入道親王といった文芸優れた門跡を輩出し、園城寺三門跡の一つとして権威があり、享保6年(1721)に承秋門院旧御殿より移築された客殿(現本堂)は、数多くの障壁画とあいまって宝永度御所建築を知る上で貴重な存在となっています。


草創以前

 寺伝によると実相院は静基(1214〜59)によって開創されたとされる。実相院は門跡として開創されたものであるが、門跡とは皇族など皇族や上級貴族の子弟のみが代々入寺・相続する特定の格式を有する寺院もしくは住持の称号である。寛平法皇(宇多上皇)が仁和寺に入寺して以来、門跡は古代・中世に数多くつくられ、とくに中世期には天台座主・興福寺別当・園城寺長吏など大寺の長官職を独占した。

 門跡とは本来「一門の祖跡」、祖師の法燈を継承する寺や寺院を意味する一般的名辞であり、門跡寺院の前提としては、一派が師資相承することを原則としていた。実相院もまた、鎌倉時代に静基によって建立されたということになっているが、それ以上に円珍以来の智証門徒の法脈を継承し続けていることが重要であった。よって開創とされる静基以前の相承系譜が、門跡としての実相院を形成する上で大きな比重を占めることになる。


 実相院が建立されるまでの師資相承は、円珍(814〜91)から康済(828〜99)・増命(843〜927)・京意(859〜?)・敬一(868〜949)と円珍の門弟が続き、敬一からは運昭(885〜?)・行誉(893〜970)・余慶(919〜91)と続いた(『諸門跡譜』実相院)。この余慶の時代、比叡山上において円仁の門弟一派である慈覚門徒と、円珍の門弟一派である智証門徒との間での諍いが激化した。智証門徒は訣別して、比叡山を降りて大雲寺観音院に拠点とし、後に園城寺を根拠とする天台寺門派が登場した。

 余慶の後、観修(935〜1000)・心誉(941〜1029)・行円(985〜1047)・頼豪(1002〜84)・行勝(1049〜1124)・勝運(1053〜1157)・公顕(1110〜93)・覚朝(1159〜1231)と続き、その後静基となったとされる(『諸門跡譜』実相院)

 ところが、実相院は静基が開創されたとされる13世紀より以前から存在していたようであり、『小右記』には「阿闍梨大僧都心誉〔寺・実相坊僧正、〕」として(『小右記』万寿3年5月5日条)、心誉(941〜1029)が「実相坊」を号していたことが知られる。

 この実相坊についての詳細は不明であるが、園城寺の子院であり、その初祖に位置付けられているのが崇寿(生没年不明)である。崇寿は運昭(885〜?)の弟子であり、貞元3年(978)12月18日に余慶より阿闍梨潅頂を受けている。崇寿の弟子に穆算(944〜1008)がいるが(『寺門伝記補録』巻第15、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、阿闍梨崇寿伝)、前述の心誉はもともと穆算の弟子であり(『寺門高僧記』巻2、心誉権僧正伝)、潅頂付法のみを観修より受けたにすぎず、三部大法は慶祚(955〜1020)より受けていた(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、権僧正心誉伝)

 現在園城寺には実相坊が現存していないため、その詳細な場所についてはわかっていない。園城寺には「園城寺境内古図」という鎌倉時代から南北朝時代の絵図がある。これは「北院」「中院」「南院」「三別所」「如意寺」の5幅に分かれており、北院・中院・南院に分かれていた中世園城寺の境内および三別所と呼ばれる近松寺・尾蔵寺・微妙寺、および如意寺を描いたものである。縦長画面を巧みにとった構図で描かれており、建造物は立体的に表現される。中世園城寺の様相を示す史料として名高い。園城寺の寺誌である『寺門伝記補録』には、「園城寺境内古図」のうち、「中院」「北院」「南院」の図像や名称を解説した「三院図説」という項目がある。

 「園城寺境内古図」のうち「南院幅」には「万日護摩堂」なる桁行3間の入母屋造桧皮葺の建物が描かれているが、「三院図説」によると、万日護摩堂は北向きで、門内に小さい堂があり、護摩堂は実相房頼豪阿闍梨の旧跡であるという(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、三院図説)。「園城寺境内古図」は、基本的に子院・子坊は描かれておらず、それを示すものはないが、子院に関連する代表的な建物のみ描かれることがあるから、南院の護摩堂は実相坊に関連するものとみてよい。護摩堂の頼豪(1002〜84)は、系譜上では行円より付法されたことになっているが、もとは心誉の弟子であった(『寺門伝記補録』巻第15、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、阿闍梨頼豪伝)






 このように子院・子坊の継承については伝法潅頂の相承よりも、本師と弟子の関係が優先的であったことが知られ、教学的にはより重要なはずである伝法潅頂の相承や、三部大法の受業よりも、本師と弟子の関係が、大きな意味を有している事が窺える。そのことは上にあらわした「実相院成立以前関係潅頂付法系図」「実相院成立以前関係師弟系図」を比較してみると、潅頂付法が実際に門弟との系図であらわした場合、著しく異なっていることがわかる。これは律令制度下の寺院が、いわば大規模な共同生活における修道を主としていたのに対して、平安時代における子坊の発生が、セクト的な小拠点を中心としてグループごとの分散的修道生活へと変化させたことにもある。しかも平安時代中期以降になると寺院自体が貴族化しているから、有力氏族の師弟が出家生活を送る上では、大規模な共同生活における修道に放り込まれるよりは、小拠点を中心としてグループに属する方が、出家する側も檀越側も好ましいものであった。

 頼豪以降の実相房についてはわかっていない。園城寺は比叡山との抗争のため、永保元年(1081)以降、応徳元年(1084)、保安2年(1121)、長寛元年(1163)と13世紀まででもたびたび焼かれており、実相房もまた焼失していたらしい。前述の鎌倉時代から南北朝時代にかけての「南院幅」には「万日護摩堂」が描かれているから、実相房も再建されているらしいが、継承の様子については1世紀ほどわかっていない。心観(生没年不明)なる人物が実相院にいたらしいが、常陸国(茨城県)の人で、覚猷(1053〜1140)より大治元年(1126)12月26日に潅頂を受けたということ以外(『伝法潅頂血脈譜』覚猷下、心観尻付)、わかっていない。

 実相院が再度史料上に現われたのは円忠(1180〜1234)からである。円忠は近衛基通(1160〜1233)の子で、静恵法親王(1164〜1203)の入室の弟子であった。建久8年(1197)、19歳で真円(1117〜1204)より唐院にて潅頂を受け、元久3年(1206)に土御門天皇の護持僧となり、嘉禄2年(1226)に第44世園城寺長吏に補任された。文暦元年(1234)11月8日に示寂した。55歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正円忠伝)。この円忠と前後して実相院に入っている人物に尊任(生没年不明)がいる。尊任も円忠と同じく近衛基通を父としており、正治3年(1201)10月16日にやはり真円より潅頂を受けている(『伝法潅頂血脈譜』真円下、尊任尻付)

 次に実相院に入ったのが、やはり近衛基通の子である静忠(1190〜1263)である。兄の円忠の入室の弟子となり、一身阿闍梨の宣旨を蒙り、自身は西院と号した。承元2年(1208)11月16日に三部大法職位を覚朝(1159〜1231)より受け、受法後は20人に法を授けた。嘉禎元年(1235)に第48世園城寺長吏に補任され、寛元3年(1245)3月10日には後嵯峨天皇の護持僧となった。建長8年(1256)4月には平等院執印に任じられたが、弘長3年(1263)10月に示寂した。74歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正静忠伝)

 このように実相院は近衛基通の子が入院する子坊となっており、恐らくは京都における園城寺の里坊の一つとして成立したようである。実相院となった円忠・静忠はいずれも聖護院に入っており、この時点では後に実相院が聖護院と互する門跡寺院となる片鱗もみえなかったであろうが、摂家門跡としてその基礎が築かれたことが知られる。


実相院客殿(右)と玄関(左)(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)。宝永5年(1708)に承秋門院御所として建造された建物を、享保6年(1721)に移築したもの。

実相院門跡の発展

 実相院は当初紫野今宮の北上野村に位置したという。その後、今出川小川の地に移転したが、移転前の地は引き続き実相院が所轄していたという(湯本、著作年未詳)

 寺伝によると実相院は静基(1214〜59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185〜1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159〜1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である。

 静基の後に実相院門跡となったのが増忠(1233〜98)である。増忠は近衛家実(1179〜1243)の子で、静忠僧正の弟子である。弘安8年(1285)12月7日に園城寺長吏に就任した。永仁6年(1298)に示寂した。66歳。実相院文書で最も古い文書は、実相院文書に包括される大雲寺関係の文書を除くと、この増忠時代のものであり、永仁6年(1298)6月14日に宗円を三部阿闍梨とした上で伝法潅頂を授けたものである(「増忠授宗円伝法潅頂印信」実相院文書)

 次の門跡は静誉(1249〜96)である。彼は鷹司兼平(1228〜94)の子であり、近衛家実の孫にあたる。また増忠の甥でもある。建長元年(1249)2月26日に誕生したが(『岡屋関白記』建長元年2月26日条)、母は産褥のため翌月に卒した(『岡屋関白記』建長元年3月6日条)。叔父の増忠の入室の弟子となり、文永7年(1270)12月16日に仙朝(1202〜78)より伝法潅頂を受けた(『伝法潅頂血脈譜』仙朝前大僧正下、静誉尻付)。正応4年(1291)9月8日に第65世園城寺長吏に準補された。永仁4年(1296)7月5日に示寂した。49歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正静誉伝)

 次の増基(1282〜1352)は鷹司基忠(1247〜1313)の子で、静誉の甥にあたる。後実相院と号した。増忠の入室の弟子となり、覚助法親王(1250〜1336)より伝法潅頂を受法した。元亨4年(1324)正月に第72世園城寺長吏に補任され、同年6月5日に辞職した。観応3年(1352)7月21日に示寂した。71歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正増基伝)。花園天皇・後醍醐天皇・光厳天皇・光明天皇・崇光天皇の5代の護持僧であった(『諸門跡譜』大僧正増基伝)

 増基の時代は南北朝の戦乱期にあたり、その間実相院門跡は躍進を遂げることになる。建武の新政後、後醍醐天皇の足利尊氏の対立と戦闘において、比叡山が後醍醐天皇側についたため、比叡山の不倶戴天の敵ともいうべき園城寺は必然的に足利尊氏方についた。そのため建武3年(1336)正月16日には比叡山の大衆二万人の攻撃によって焼き払われてしまった(『太平記』巻第15、三井寺合戦並当寺撞鐘事)

 そのため室町幕府の成立とともに園城寺は幕府の庇護を受けることになり、建武3年(1336)8月3日に足利尊氏より園城寺と諸門跡への違乱を停止する命が下されている(「足利尊氏御内書」実相院文書)。また同年9月3日に光厳上皇は実相院に大雲寺および大雲寺領荘園の知行を安堵している(「光厳上皇院宣」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)。それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331〜38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?〜1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる。

 また増基の時代に南滝院門跡を兼帯した。南滝院門跡は近衛家に関連する摂家門跡であり、その創始は不明であるが、記録上では静珍(1239〜1301)からはじまる。静珍は近衛基輔(1198〜1245)の子で、近衛道経(1184〜1238)の孫にあたる(『伝法潅頂血脈譜』円順下、静珍尻付)。同じく近衛家の門跡である南滝院門跡と実相院門跡は近しい関係にあった。静珍に入室した人物の中に覚如(1271〜1351)がおり、『慕帰絵詞』には南滝院内で談笑する僧侶の様子が描かれている。静珍より伝法潅頂を受けたのが道珍(1270〜1309)である。道珍は鷹司基忠の子であり(『伝法潅頂血脈譜』静珍下、道珍尻付)、増基の実兄にあたる。護持僧に任じられ、さらに第69世園城寺長吏に補任され、永仁6年(1298)3月13日に静珍より伝法潅頂を受けた(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正道珍伝)。そのため道珍は静珍より南滝院門跡を相続したらしい。道珍は延慶2年(1309)8月12日に40歳で示寂しているが(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正道珍伝)、南滝院門跡は弟の増基が相続したらしい。

 増基は光厳上皇より実相院門跡諸領ならびに南滝院領を安堵されているが(「光厳上皇院宣案」実相院文書)、北朝・幕府のために武家祈祷・長日如意輪供をあわせて実施していたらしい(「南滝院門跡増仁譲状」実相院文書)。観応3年(1352)7月17日に増仁(131〜68)へ南滝院の坊舎・所領・本尊・聖教・道具等を譲与している。この時増基は増仁への譲与は一時的なものであり、南滝院へはいずれ鷹司師平(1310〜53)の子孫が入室すべきものとしている(「実相院増基坊舎所領并聖教等譲状」実相院文書〈『大日本史料』6編11冊〉)。しかし増基の願いとは裏腹に、南滝院は実相院門跡の事実上の得分・末院化してしまい、同様の運命をたどった大雲寺とは異なり、中世末期には廃絶してしまう。紫野今宮の北上野村に位置した実相院はその後今出川小川の地に移転したというが(湯本、著作年未詳)、この移転先は「北小路堀河」に坊舎を構えた南滝院の地であり(「実相院増基坊舎所領并聖教等譲状」実相院文書〈『大日本史料』6編11冊〉)、そのことは実相院が末院化した南滝院の得分は、かえって実相院の基礎となっていたということに留意すべきであろう。

 一方の実相院門跡は一旦は静深(1309〜?)が相続した。静深は近衛経平(1287〜1318)の子で、康永元年(1342)12月24日に増基より伝法潅頂を受けた(『伝法潅頂血脈譜』増基前大僧正下、静深尻付)。貞和2年(1346)9月23日に第83世園城寺長吏に補任された(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、権僧正静深伝)。実相院門跡として順風であった静深は、観応の擾乱において、観応元年(1350)に足利直義のもとにはしったため(『園太暦』観応元年12月26日条)、事実上失権し、実相院門跡は増基に戻った。

 増基は観応3年(1352)7月21日に71歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、前大僧正増基伝)。増基の実相院門跡は、すでに南滝院を相続していた増真(生没年不明)が増基の置文のまま相続し、同年9月17日に足利尊氏より相続を安堵された(「足利尊氏御判御教書」「後光厳天皇綸旨」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文2・3〉)


京都市上京区実相院町(平成24年(2012)12月15日、管理人撮影)。この地は実相院文書にみえる「北小路堀河」の地であり、かつて南滝院門跡の位置した地であり、後に実相院門跡が継承した。

実相院門跡相続の変容

 実相院は室町時代に入ってから、多数の荘園を獲得したらしく、各地で相論となる要因を形成した。もともと実相院領として光厳上皇に安堵されていたのは近江国野洲荘・同国栗太荘・摂津国八多荘・播磨国有年荘・越後国紙屋荘・伊賀国音波荘のみであったが(「光厳上皇院宣案」実相院文書)、実相院の門跡としての急激な地位の上昇によって、それまで他領であった地を獲得していったらしい。そのため旧領主との間で軋轢が発生しており、それが濫妨・押領の形で噴出した。

 その一例が狭山荘である。もとは内膳司領であったらしいが、建武年間(1334〜38)には山城国狭山荘(京都府久世郡久御山町)にて、実相院と内膳司の間で相論となっており、建武4年(1337)11月29日に光厳上皇より奉膳信通の濫妨を止めさせ、実相院に所務を全うさせている(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編4冊〉)。この判決に対して内膳司は提訴していたが、暦応3年(1340)正月27日に光厳上皇は内膳司の訴えを退け、実相院に領させている(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編6冊〉)。しかし内膳司側は不服であったらしく、清実らが濫妨を行っているが、結局、康永元年(1342)7月6日に光厳上皇により内膳司の濫妨を止めさせ、実相院に狭山荘の知行を安堵している(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編7冊〉)

 もう一つの例として摂津国新御位田をあげてみる。摂津国新御位田はもとからの実相院領・南滝院領ではなく、「新御位田」の名称が示す通り、増基が高位に昇るにあたって給されたものであったとみられ、観応3年(1352)7月17日に増仁へ相続され、給主(現地で所領の管理を任される代償として年貢課役を上納する)は幸珠であった(「実相院増基坊舎所領并聖教等譲状」実相院文書〈『大日本史料』6編11冊〉)。ところが増基の時代より濫妨が発生しており、観応2年(1351)に小原五郎四郎らの濫妨に関して裁決が下されたものの、翌観応3年(1352)4月に三宅出羽左衛門尉・芥河右馬允らがかわって濫妨したことから、増基の私領から実相院領へと移管されたらしく、実相院雑掌の慶重が解状を幕府に提出し、同年8月24日に幕府は違反者は罪に科せしむことを摂津守護赤松光範(1320〜81)に命じている(「足利義詮御判御教書」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文1〉)

 増仁もまた鷹司基忠(1247〜1313)の子で、増基の実弟で入室の弟子である。後宝昭院と号した。元亨4年(1324)2月19日に増基より伝法潅頂を受けた。一身阿闍梨・護持僧となり、康永4年(1345)に第81世園城寺長吏に補任され、貞和4年(1348)に再任された(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、法務前大僧正増仁伝)。応安元年(1368)5月18日に増仁は良瑜に南滝院門跡を譲与しており(「南滝院門跡増仁譲状」実相院文書)、応安元年(1368)6月11日に示寂した。67歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、法務前大僧正増仁伝)

 また実相院門跡を相続した増真は、南滝院門跡を相続した増仁が後見したらしく、観応3年(1352)9月17日に増真が実相院門跡を継承したことを幕府が安堵した際には、宛先が南滝院の増仁となっている(「足利尊氏御判御教書」実相院文書〈『大日本史料』6編16冊〉)。また文和3年(1353)2月10日にも増真は幕府より実相院門跡および所領を安堵されている(「光厳上皇院宣」実相院文書〈『大日本史料』6編17冊〉)。ところが増真はその後夭折したらしく、延文5年(1360)5月25日に幕府が南滝院門跡増仁に対して実相院門跡を安堵しているように(「足利尊氏御判御教書」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文4〉)、増仁が実相院門跡を兼帯した。

 増仁は実相院門跡・南滝院門跡のみならず、その管領下にあった大雲寺をも差配していたらしく、延文元年(1356)4月10日に増仁は己有に対して美濃国志津野荘の知行を安堵しているが(「南滝院増仁御教書案」実相院文書)、もともと志津野荘は大雲寺領であり、少なくとも建武3年(1336)の段階までは大雲寺領として安堵されていた(「光厳上皇院宣」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)。すなわち増仁の門跡の兼帯や管領は、それぞれの資財・寺領の集約をもたらし、これらを差配できることを意味する。実際、志津野荘は康暦2年(1380)までに実相院門跡領に再編成されている(「実相院門跡良瑜御教書」実相院文書)

 静深(1309〜?)は近衛経平の子で、康永元年(1342)12月24日に増基より伝法潅頂を受けた(『伝法潅頂血脈譜』増基前大僧正下、静深尻付)。貞和2年(1346)9月23日に第83世園城寺長吏に補任された(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、権僧正静深伝)。実相院門跡として順風であった静深は、観応の擾乱において、観応元年(1350)に足利直義のもとにはしったため(『園太暦』観応元年12月26日条)、事実上失権した。


実相院庭園(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)

実相院の絶頂期と移転

 次に実相院門跡を相続したのが良瑜(1330〜97)である。良瑜は二条兼基(1267〜1334)の子で、法輪院准后と号した(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、法務前大僧正良瑜伝)。もとは静助と称した(『実相院室系譜』良瑜)。大僧正・法務・護持僧に任じられる。貞和5年(1349)11月5日に如意寺にて増仁より伝法潅頂を受けた。貞治2年(1363)3月6日に第84世園城寺長吏に補任され、その他熊野三山・新熊野検校に任じられた(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、法務前大僧正良瑜伝)

 良瑜は応安元年(1368)5月18日に師の増仁より南滝院門跡を譲与され(「南滝院門跡増仁譲状」実相院文書)、同年6月の増仁の示寂とともに実相院門跡の事実上のトップとなった。そのため同年閏6月5日に播磨国有年荘の知行を郷法印に(「実相院門跡御教書案」実相院文書)、美濃国志津野荘(岐阜県郡上市八幡町)・吉田荘(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の知行を梅案に承認している(「実相院門跡御教書案」実相院文書)。実相院はこれら知行を安堵する代わりに、負担すべき課役を以て利潤をあげる領主でもあり、郷法印・梅案といった領家たちの上位にある本家として荘園を掌握していた。

 このうち吉田荘はもとは近衛家領であり、建長5年(1253)の時点で「美田庄」としてみえ、庄務権のない所領であった(「近衛家所領目録」近衛家文書〈鎌倉遺文7631〉)。康安元年(1278)8月9日に領家職は隼人佐行定に安堵され、子々孫々の相伝が認可された(「前大僧正某(増仁)寺領安堵状」大興寺文書〈『岐阜県史』史料編 古代・中世1〉)。この行定について不明であるが、その後吉田荘の領家職は土岐頼雄(?〜1380)に伝領されたらしい。また本家も近衛家から同家ゆかりの実相院へと移管された。しかし土岐頼雄は年貢を庇護してた大興寺に寄進しようとしたらしく、貞治3年(1364)6月20日に実相院の増仁より、領家職は安堵されながらも、年貢の大興寺への寄進は禁止された(「前大僧正某(増仁)寺領安堵状」大興寺文書〈『岐阜県史』史料編 古代・中世1〉)

 本家である実相院から年貢の寄進を禁止された頼雄は、貞治5年(1366)4月27日に吉田荘領家職を大興寺へ寄進する挙にでる(「沙弥祐康(土岐頼雄)寺領寄進状」大興寺文書〈『岐阜県史』史料編 古代・中世1〉)。これに対して本家の実相院は、先に述べたように応安元年(1368)閏6月5日に梅案に吉田荘を安堵しており(「実相院門跡御教書案」実相院文書)、双方の対立の要因となった。応安7年(1374)に吉田荘の四箇郷が土岐頼雄によって押妨された時、幕府に訴え出たのは、実相院が認めた領家職であったとみられる梅案ではなく、実相院領吉田荘雑掌の定勝であった。同年11月28日に実相院の主張は幕府に全面的に認められ、幕府は美濃守護土岐頼康(1318〜88)に下地を同荘雑掌に引き渡すよう命じているが(「室町将軍家御教書案」実相院文書〈『大日本史料』6編41冊〉)、この裁定で相論が決着つくことなく長期化し、定勝は再度訴え出て、永和元年(1375)9月8日に幕府は美濃守護土岐頼康に対して、頼雄が吉田荘を押妨することを禁止させた(「室町将軍家御教書案」実相院文書〈『大日本史料』6編44冊〉)。この幕府の命を受けて美濃守護土岐頼康は実相院雑掌に吉田荘を宛てがっているが、先の裁定の際に大興寺の文書に根拠があったとしながらも、度々奉書が下されていることから遵行している(「美濃守護土岐頼康施行状案」実相院文書〈『大日本史料』6編44冊〉)

 これら相論の過程において、実相院は吉田荘の領家職を梅案から実相院雑掌に移管して直務をはかったらしく、康暦元年(1379)4月13日に幕府は大興寺の押妨を停止させ、吉田荘四箇郷の領家職を雑掌に宛うよう美濃守護土岐頼康に命じており(「斯波義将奉書」実相院文書)、また康暦2年(1380)10月4日に実相院が梅案に交付した実相院門跡領のうち、以前含まれていた吉田荘は入っていない(「実相院門跡御教書案」実相院文書)。この相論は結局史料上では康応元年(1389)まで続いており、同年3月2日に頼雄の子康行が守護となって幕府の命を遵行して実相院雑掌に沙汰したとしたものの(「美濃守護土岐康行遵行状案」実相院文書)、一ヶ月後に幕府より再度大興寺の押妨を止めて実相院雑掌に引き渡すように命じていることから(「室町将軍家御教書案」実相院文書)、大興寺の押妨は続いたらしい。

 応安2年(1369)3月23日に室町第における五壇法に際して、覚雄僧正が老病により辞退したため、将軍足利義満に請じられ、五壇法を修している(「柳原家記録」161、五大成下〈『大日本史料』6編30冊〉)。応安3年(1370年)正月24日に後光厳天皇の厄災を祓うため禁中にて金剛童子法を修し(『後愚昧記』応安3年正月24日条)、その功により翌応安4年(1371)正月21日に牛車宣旨を受けた(『後愚昧記』応安4年正月21日条)。応安3年(1370)12月27日に園城寺長吏に再任された(『諸門跡譜』実相院、良瑜准后)。さらに同月29日には武家執奏により大僧正の上に班位される宣旨が下された(『後愚昧記』応安3年12月29日条)。明徳元年(1390)10月26日にも園城寺長吏に三任された(『諸門跡譜』実相院、良瑜准后)。明徳4年(1393)12月24日に准三宮の宣旨が下された(『実相院室系譜』良瑜)。応永4年(1397)8月21日に示寂した。68歳(『寺門伝記補録』巻第14、僧伝部戊、長吏高僧略伝巻下、法務前大僧正良瑜伝)

 増珍(1361〜1413)は今小路良冬(1320〜?)の子で、二条兼基の孫、良瑜の甥にあたる。もとは道淳と称した。従兄弟の二条良基(1320〜88)の猶子となる(『諸門跡譜』実相院、増珍大僧正)。康暦2年(1380)10月10日、良瑜より伝法潅頂を受け(『伝法潅頂血脈譜』良瑜准三宮下、道淳尻付)、至徳元年(1384)12月21日に園城寺長吏に補任され(『諸門跡譜』実相院、増珍大僧正)、明徳4年(1393)8月28日に大僧正に任じられ(『実相院室系譜』増珍)、応永15年(1408)5月9日に園城寺長吏に再任された(『諸門跡譜』実相院、増珍大僧正)。応永20年(1413)正月30日に53歳で示寂した(『実相院室系譜』増珍)

 このように実相院門跡はもとは近衛家関連の門跡であったものが、近衛家の門流の鷹司家、また同じく摂家である二条家へと門戸が拡大されていったが、次の増詮(1384〜1459頃)の時代に足利将軍家も門跡に連なることになる。

 増詮は二代将軍義詮の次男足利満詮(1364〜1418)の子で、三代将軍義満の猶子となった(『諸門跡譜』実相院、増詮大僧正)。応永15年(1408)10月8日に増珍より伝法潅頂を受けた(『伝法潅頂血脈譜』増珍前大僧正下、増詮尻付)

 応永19年(1412)10月16日に足利義持より増詮に対して実相院門跡領三河本神戸郷を守護使不入の地とし、段銭以下の諸公事を免除しており(「足利義持御判御教書」実相院文書〈『大日本史料』7編17冊〉)、また応永20年(1413)正月9日に実父の足利満詮より山城国枇杷荘を充てがわれている(「足利満詮御内書」実相院文書〈『大日本史料』7編17冊〉)。後に増詮は当時の事を回想して、越中国万見保・丹後国加悦荘・山城国枇杷荘・遠江国苫野郷・近江国西今村之内河村屋敷分・相模国白根四ケ村・宇治両別所は養徳院(足利満詮)・妙雲院(満詮室)より寄進されたものであり、とくに養徳院のものは譲状がないため不審に思う者がいるかもしれないが、他の門跡や寺領にもそのような類はあるのだから、疑うべきではない。ただし三河国神戸郷については、私が入室したばかりの頃、鹿苑院殿(足利義満)より特別に料所として拝領されたものであると述べている(「実相院門跡領目録」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文7〉)

 応永20年(1413)11月3日に僧正に任じられ(「口宣案」実相院文書〈『大日本史料』7編18冊〉)、同年12月27日に園城寺長吏となり(『諸門跡譜』実相院、増詮大僧正)、応永21年(1414)2月21日に大僧正に任じられた(「口宣案」実相院文書〈『大日本史料』7編19冊〉)。また応永27年(1420)10月に園城寺長吏に再任(『諸門跡譜』実相院、増詮大僧正)。応永35年(1428)4月15日にも園城寺長吏に任じられ、都合三度長吏となった(『諸門跡譜』実相院、増詮大僧正)。嘉吉2年(1442)6月17日に准三宮となり、封戸を賜った(「後花園天皇宣旨」実相院文書)

 義命(1420〜?)は将軍足利義教の猶子であり(『建内記』嘉吉3年2月2日条)、増詮の入室の弟子である(『伝法潅頂血脈譜』義運前大僧正下、義命)。正長元年(1428)9月には増詮は義命の極官を望んでいるが、義命の俗兄の義俊(道朝法親王の弟子)が無位無官であったことから、沙汰やみとなった(『薩戒記』正長元年9月12日条)。永享8年(1436)4月14日に師より伝法潅頂を受けた(『伝法潅頂血脈譜』義運前大僧正下、義命)。権僧正・園城寺長吏に補任され(『諸門跡譜』実相院、義命権僧正)、嘉吉3年(1443)には禁中不動法を修したが(『建内記』嘉吉3年2月2日条)、文安年間(1444〜49)に師の命令に背いたため、実相院門跡を退出したという(『諸門跡譜』実相院、義命権僧正)。その事情について、史料は沈黙して語らない。

 次の増運(1434〜93)の時代に実相院は再度近衛家門跡に戻る。増運は関白太政大臣近衛房嗣(1402〜88)の子である。宝徳3年(1451)4月23日に増詮より伝法潅頂を受け(『伝法潅頂血脈譜』義運前大僧正下、増運尻付)、長禄3年(1459)12月20日に将軍足利義政より実相院門跡の相続と所領を安堵されているから(「足利義政御判御教書」実相院文書)、この頃実相院を相続したらしい。園城寺長吏・准三后・一身阿闍梨となり、享徳4年(1455)閏4月に長吏を辞職した(『諸門跡譜』実相院、増運大僧正)。応仁元年(1467)9月20日に後花園天皇の戒師となった(『諸門跡譜』実相院、増運大僧正)

 応仁の乱に際して、京都の寺社の多くがそうであったように、実相院もまた極めて大きな影響を受けることになる。開戦前夜、東軍が有する花の御所と、西軍の一色邸は目と鼻の先にあったため、一色邸に隣接した実相院を東軍の武田信賢が占領し、西軍の一色義直が防備を固める正実坊と、小川をはさんで対峙した。応仁元年(1467)5月24日に東軍の大和の成心院が正実坊を攻撃し、西軍を撤退させ、実相院には東軍細川家の香川・安富といった讃岐勢と、武田家の軍勢が防衛した。西軍の初期計画では西軍の本陣(後の西陣)・正実坊・実相院・一色邸と防衛ラインを形成し、花の御所への拠点とする作戦であったが、早々に破綻したため、26日に一万五千人の大軍で実相院・正実坊を攻撃するも、東軍の必死の防戦のため西軍の大敗で終わった(『応仁記』)。7月17日に西軍は大軍をもって再度実相院を攻撃し、守勢となった武田信賢の兵らは門戸を開いて打って出て、勝利を収めた(『萩藩閥閲録』168、益田織部家来益田五郎兵衛高友〈『大日本史料』8編1冊〉)

 実相院と西軍本陣(西陣)とは数百メートルしか離れておらず、開戦初期から激戦地となっているため、実相院は末寺大雲寺が位置する岩倉へと移転することになる。実相院は大雲寺の子院の成金剛院の地に移転した。この移転は実相院と大雲寺との関係に抜本的な変化をもたらすことになる。

 乱後、増運は聖護院門跡も兼帯しているが、文明10年(1478)8月5日に聖護院門跡の兼帯を停止することを願い出ている(『兼顕卿記別記』文明10年8月5日条)。文明11年(1479)3月5日から2ヶ月ほど兄近衛政家とともに奈良に下って寺社参詣している(『後法興院記』文明11年3月5日条)。同年10月23日には政家の子を弟子とし、足利義政の猶子としている(『後法興院記』文明11年10月23日条)。明応2年(1493)11月26日に石蔵にて示寂した。60歳(『後法興院記』明応2年11月26日条)


実相院客殿と庭園(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)

中世末の実相院の混乱

 増運を継いで実相院門跡となったのが義忠(1479〜1502)である。応仁・文明の乱の発端の一つとなった将軍継嗣問題の一方の当事者である足利義視の子で、将軍足利義教の孫にあたる。兄の義材は第10代室町幕府将軍となっている。明応2年(1493)に兄義材は明応の政変で京都より追放されたが、その後も京都に留まり、明応3年(1494)4月21日に新将軍義澄に謁見し、近衛政家の猶子となったが(『後法興院記』明応3年4月21日条)、実相院は当時困窮しており、明応5年(1496)5月24日に寺領の北岩倉郷内福田庵分田畠山林屋敷の売却を幕府に願い出ている(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書)

 将軍義澄は管領細川政元と対立し、実相院近郊の岩倉金龍寺に引き籠もってしまっていた。復帰の説得に赴いた政元に対して、義澄は7箇条の条件を提示した(『後法興院記』文亀2年8月6日条)。文亀2年(1502)8月6日、義忠は足利義澄のもとに挨拶に赴いたところ、、義澄の命を受けた細川政元によって捕えられ、付近の阿弥陀堂に連行されて殺害された。これは義澄が提示した復帰条件7箇条の一つであったという(『後法興院記』文亀2年8月6日条)。8月9日には実相院領は収公され、将軍夫人日野氏領となった(『後法興院記』文亀2年8月9日条)。出家している義忠が殺害されたのは、義澄もまたもとは天龍寺の僧侶であったのを還俗して将軍となっていたためで、義忠は京都にいる唯一の将軍継承の可能性がある人物であったからである。

 永正4年(1507)6月に永正の錯乱で細川政元が暗殺されると、幕府は混乱に陥り将軍足利義澄は近江に退避、前将軍義材(義尹)は大内家の軍勢とともに京都に戻って将軍職に復帰した。そのため実相院も門主が入室することになった(「室町幕府奉行人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編2冊〉)。実相院門跡となった義恒(生没年不明)は全朋親王の王子で、直仁親王の孫、亀山天皇の曾孫にあたる。後明浄院と号した。園城寺長吏・准三宮となるも、後に還俗したという(『京都府寺誌稿』)

 新門跡入室にともなって永正6年(1509)10月9日に実相院門跡領が安堵されることになったが(「室町幕府奉行人連署奉書」実相院文書)、同時に収公された所領も返還された。返還された所領は伊勢国山田御厨・丹後国賀悦荘(「室町幕府奉行人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編2冊〉)・山城国大工田(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』2621〉)・北岩倉福田庵(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』2622〉)・小川敷地(「室町幕府奉公人連署奉書案」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』2622〉)であった。しかし実相院の所領が没収されていた間に権利関係は実相院が掌握するところから一旦離れていたこともあり、相論が発生する。

 例えば山城国大工田は沙汰人の左衛門太郎の子が逐電してしまったため、山本兵庫助が郎従の跡と号して、土屋与次とともに押領している。永正7年(1510)8月16日に幕府より押領を停止して門跡に所務を全うさせている(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編2冊〉)。山本氏は岩倉の小倉城を根拠としており、実相院とは目と鼻の先ほどの距離である。山本氏は細川家の混乱中にも時勢を見極めつつその時の権力者と結びついて、在地の勢力を伸ばしつつあった。

 山本氏同様、実相院門跡の一時的退転を好機として、勢力を伸ばそうとした一派があった。それが実相院末寺の大雲寺である。実相院が大雲寺を管領したのは前述したように建武3年(1336)からのことであるが、以後、大雲寺内の自治を完遂しようとする衆徒と、支配を強めようとする実相院門跡が対立し、嘉吉3年(1443)には大雲寺衆徒の頼尚ら9名が門跡別当の命により、無礼を働かない旨を神仏にかけて起請している(「頼尚等連署起請文案」実相院文書)。しかし門跡側はこの起請文を不審があるとしたため、6月23日に頼尚ら4名が忠誠を誓う申状を提出しているが、尭仙坊尚賢は違例(病気)と称して署判しなかった(「大雲寺衆徒申状」実相院文書)。さらに応仁・文明の乱以降、実相院は大雲寺境内に移転し、実相院門跡は大雲寺および同領の直務支配に乗り出し、これによって大雲寺の自治を死守しようとする衆徒らとの軋轢が多くなった。

 永正12年(1515)に実相院門跡と大雲寺衆徒の対立はピークに達し、大雲寺寺僧・地下人は自専(自治)を行って、門跡の下知に従わなかったらしい。そのため同年6月5日に幕府は大雲寺寺僧・地下人に対して自専することを禁止し、これに背く者は名を連ねて注進するよう命じている(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編5冊〉)。永正13年(1516)12月24日には大雲寺衆徒の尭仙坊父子が闕所(財産没収)となり(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)、翌永正14年(1517)7月25日に尭仙坊に同意する者は罪科に処し、名を連ねて注進するよう命じるとともに、大雲寺衆徒の円乗・侍従も尭仙坊に与力したため、実相院門跡境内より追放された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)

 大永8年(1528)閏9月8日に堺幕府足利義維より実相院門跡に対して大雲寺ならびに寺領が安堵されており(「足利義維奉行人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』3981〉)、天文6年(1537)10月6日に幕府からも大雲寺領を実相院門跡に安堵されている(「山城守護細川晴元奉行人飯尾為清書下」実相院文書)。これによって実相院門跡による大雲寺の支配は完成したが、今度は在地の山本氏による押領が続いた。

 天文3年(1534)10月14日に山本修理亮が実相院門跡領・大雲寺領を押妨するを停め実相院に安堵している(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』3282〉)。実相院は天文22年(1553)に山本五郎兵衛尉より1石5斗を借米し、年利5割の契約で同年秋に返済したが、山本は未だに弁済していないとして田地2段を押妨したため、永禄2年(1559)2月3日に糾明のための使者を山本に送ったが、2月10日に山本の使者がやって来た後も進展しなかったため幕府に訴え、同年2月28日に山本に対して田畠を返還する命令が出された(「室町幕府奉行人連署奉書」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文17〉)

 天文16年(1547)に兵火のため実相院が炎上してしまっている(『諸門跡譜』実相院)。中世を通じて不安定であった実相院の所領運営であるが、織豊政権下にようやく安定の兆しが出た。天正元年(1573)11月22日に明智光秀より実相院門跡に対して知行が安堵されており(「明智光秀安堵状」前田家所蔵文書実相院及東寺宝菩提院文書1〈『大日本史料』10篇18冊〉)、天正3年(1575)11月6日に西院の10石を実相院領として給付された(「織田信長朱印状」実相院文書)。山本氏もまた信長政権下ではその一員となっており、天正3年(1575)11月10日に山本一族が大雲寺領押妨に対して実相院門跡に謝罪している(「斉藤平右衛門尉定信等起請文」実相院文書)。天正13年(1585)11月21日には羽柴秀吉より北山の地180石を寄進された(「羽柴秀吉朱印状写」実相院文書)


実相院庭園(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)

近世期の実相院門跡

 慈運(1589〜1614)は大炊御門経頼(1555〜1617)の子で、近衛晴嗣(前久、1536〜1612)の猶子である。しかし慶長19年(1614)3月20日にわずか26歳で示寂してしまい(『実相院室系譜』)、その後義尊が入室した。

 義尊(1601〜61)は足利高山(1572〜1605)の長子で、足利義昭の孫にあたる。母は古市播磨守胤栄(1439〜1505)の娘(1583〜1658)で、高山の卒後、後陽成天皇の女房となる(『実相院室系譜』)。義尊の同母弟に円満院常尊(?〜1671)がいるが、義尊の母は後陽成天皇との間に道晃法親王(1612〜78)を産んだ。義尊は後陽成天皇の宮中で育てられたが、慈運の危篤におよんで慈運の実父大炊御門経頼と積善院尊雅の推薦で、慶長19年(1614)3月18日に西京にある実相院の里坊に入寺した(『実相院室系譜』)。元和6年(1620)5月11日に法眼に叙せられ(「口宣案」実相院文書)、寛永元年(1624)8月6日には法印に叙せられ(「口宣案」実相院文書)、同年10月25日には権僧正に任じられた(「口宣案」実相院文書)。寛永4年(1627)3月1日には僧正に(「口宣案」実相院文書)、寛永8年(1641)10月18日には大僧正に任じられた(「明正天皇口宣案」実相院文書)。正保4年(1647)6月24日に園城寺長吏に補任され、承応2年(1223)9月25日には再補、万治元年(1658)8月23日にも三任し、同日護持僧に補せられた。万治4年(1661)正月14日に示寂した。61歳(『京都府寺誌稿』)

 次の門跡となったのが義延入道親王である。義延入道親王は後西天皇の第4皇子で、寛文11年(1671)6月30日に親王宣下を受け、同年6月30日に実相院に入室、得度した。天和2年(1682)正月26日に園城寺長吏・護持僧に補任された(『京都府寺誌稿』)。しかし遊興などの不行状が幕府に知られ、元禄4年(1691)8月18日に実相院門跡を罷免させられ、また坊官の岸之坊と宇多内蔵允父子も門跡の悪事に荷担したとして追放となった(『通誠卿記』元禄4年8月18日条)。同月16日には岩倉の岸之坊の旧宅に移され、隠居した(『通誠卿記』元禄4年8月26日条)。また閏8月には坊官の蔵井坊とその子佐野主水、義延の側近の寺侍筒井隼人も幕府の命により追放となった。(『通誠卿記』元禄4年閏8月4日条)。宝永3年(1706)4月1日に勅免となり実相院門跡に復帰するも、6ヶ月後の10月19日に示寂した。45歳(『京都府寺誌稿』)

 義延入道親王薨去後、実相院門跡は5年ほど空位となる。次の門跡に定められたのが岑宮(1710〜03)である。岑宮は霊元天皇の第15皇子で、正徳2年(1712)6月21日に実相院門跡となることが決定したが、翌正徳3年(1713)4月29日に示寂した。わずか4歳であった(『京都府寺誌稿』)

 義周入道親王(1713〜40)は伏見宮邦永親王(1676〜1726)の子で、正徳5年(1715)7月7日に実相院門跡となることが決定され、享保10年(1725)霊元上皇の猶子となる。同年11月11日に親王宣下を受け、同月13日に実相院に入室した。享保13年(1728)5月13日に園城寺長吏に補任されたが、元文5年(1740)5月27日に示寂した。28歳(『京都府寺誌稿』)

 この義周入道親王の時に客殿(本堂)が移築されている。客殿はもとは宝永度の承秋門院(1681〜1720)の大宮御所の旧殿であったが、享保5年(1720)に承秋門院が崩じたため、同年4月14日にその旧殿の「車寄」「公卿之間」「玄関」の下賜を希望した。7月28日に許可が下りたものの、承秋門院の一周忌後にすべきとの旨が達せられた。8月11日に地形と門を移築し直し、石垣建造も行うため、入札したところ、2貫816匁4分4厘で津西屋四郎兵衛が落札した。翌享保6年(1721)2月13日に移転開始願いをし、同16日に許可が下りたため、3月8日に移転業務を沢屋利兵衛が銀3貫363匁にて落札し、4月8日に坊官の松尾刑部(芝之坊英村)・北川原伊織(後の蔵井坊敬豊)両人を立会人として移転に着手し、6月21日に棟上げした。また6月23日には玄関・附属部屋(使者の間)を古材を用いた新造のため入札が行われ、大文字屋太兵衛が1貫150匁1分にて落札し、10月16日に建造が開始された(『京都府寺誌稿』)

 客殿は入母屋造桟瓦葺で東向きの建物で、南側に入母屋造桟瓦葺の正面軒唐破風附の玄関・使者の間が附属する(京都府教育委員会1983)。客殿は承秋門院の御車寄の建物を前後逆にしており、本来入口であったところを逆に上段に作り直している(田島達也「御所伝来の障壁画と狩野派」〈『近世京都の狩野派展』所収〉)。客殿の東西を四室に直列配置し、さらに北東に一室を設ける。南側は玄関・使者の間が附属するが、玄関・使者の間に対して廊下を夾んで西側に附属する三室は後補である(京都府教育委員会1983)

 実相院には数多くの障壁画が残されており、実相院客殿が承秋門院御所を移築したものであるから、これら障壁画が承秋門院御所を飾っていたものと考えられがちであるが、実際に御所の障壁は絵画ではなく、金唐紙で装飾されていたという(京都文化博物館2004)。このうち狩野洞春(?〜1723)の「南天に鵯図杉戸」は中井家文書との記録に符合することから、承秋門院御所造営当初からあったことが裏づけられている。さらに「唐人物図襖」16面については、中井家文書の図面との比較により、東山院御所の摂家休息所にあった障壁画と合致し、かつ承秋門院には「公卿の間」がないことから、東山院御所との関連性が考えられている(京都文化博物館2004)。また使者の間にある狩野永敬(1662〜1702)筆の「花鳥図」は現在襖8面と壁貼付2面に改装されているが、本来、壁貼付は4枚の襖を改装したものであり、原型は12面の襖であった。また現在御車寄には永敬筆の「仙人図」14面がある。これらも承秋門院御所の障壁画ではなく、いずれの場所から持ち込まれた物であるか、詳細はわかっていない(京都文化博物館2004)

 また明和元年(1764)12月に大徳寺金龍院より建具・畳などを購入し、これらを資材として書院を建立したが、明治初年に取り壊している。また書院と同時に数寄屋が移築されたが、明治4年(1871)9月に売却された。これは薮内紹智(あるいは金森宗和とも)好みで地の選定まで関わっていたという(『京都府寺誌稿』)

 また寺町石薬師下ル町に位置した里坊は、享保元年(1716)に購入したもので、もとは興福寺喜多院の里坊であった。享保4年(1719)11月に奏上して正式な里坊となり、延享4年(1747)11月に増築し、宝暦2年(1752)4月には桜町天皇の旧御殿を拝領した。天明8年(1788)2月の天明の大火で全焼し、寛政元年(1789)9月に再建した。明治維新後の明治4年(1871)12月18日に売却処分したが、代金は一切行方不明となってしまい、旧臣が復籍のための資金にしたといわれる(『京都府寺誌稿』)

 次の実相院門跡となったのが、増賞入道親王(1734〜70)である。有栖川宮職仁親王(1713〜69)の王子で、元文6年(1741)2月13日に実相院門跡への入室が決定され、延享2年(1745)に桃園天皇の猶子となった。延享3年(延享3)5月8日に親王宣下を受け、同月16日に実相院に入室・得度した。しかし宝暦2年(1752)7月19日に聖護院門跡への移室が決定され、同年12月25日に聖護院門跡へ入室して実相院を去った(『京都府寺誌稿』)

 それから26年間、実相院門跡は空位となっていた。安永7年(1778)8月20日に閑院宮典仁親王 (1733〜94)の王子である健宮(1778〜80)が実相院門跡への入室が決定された。安永9年(1780)には同母兄が光格天皇として践祚したが、健宮は同年3月27日に薨去してしまい、実相院へは入室しなかった。岩倉山に門跡格として葬られた(『京都府寺誌稿』)。こうして実相院門跡は再び空位となった。

 次の実相院門跡の入室が決定されたのは15年後の寛政7年(1795)3月25日で、近衛経煕(1761〜99)の子の義海(1788〜1832)である。享和元年(1801)3月25日に実相院門跡に入室・得度し、大僧都法印の位を得た。享和3年(1803)正月21日に権僧正、文化3年(1806)正月26日に大僧正となる。文政9年(1826)12月29日に護持僧に任じられ、文政12年(1829)7月21日に護持僧を辞するも、文政13年(1830)12月22日に園城寺長吏となる。天保3年(1832)3月11日に示寂した。41歳(『京都府寺誌稿』)

 次の門跡の相続が決定されたのが天保3年(1832)4月6日で、二条斉信(1788〜1847)の子の義賢(1828〜58)が入室することになった。弘化3年(1846)4月6日に相続が再度決定され、同年11月26日に得度し、大僧都法印に任じられた。弘化5年(1848)正月27日に権僧正となり、嘉永2年(1849)11月27日に大僧正となったが、安政5年(1858)8月1日に示寂した。31歳(『京都府寺誌稿』)。以後門跡が選定されて入寺することはなく、静基より25世にわたる門跡の系譜は途絶えた。


実相院客殿(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)

近世実相院の寺内組織

 実相院は門跡寺院であるという事情があり、近世期には門跡が選任されず、空位であった時期の方が長かった。そのため門跡を支える世襲のスタッフとして坊官・諸大夫・寺侍がいた。石高612石であり(『雲上明覧大全』)、実相院には石座(いわくら)御殿貸付所という役所が置かれ、金融の業務にあたっていた。借り手は上下賀茂社の神官や洛中の町人・地侍のほか、領地の近江国穴生村、山城国神足村も借り手であった。また下鴨社の競馬の費用捻出に関わっており、これらを元手に収入にしていた(管2003)

 坊官の筆頭にあげられるのが芝之坊である。芝之坊はその由来については明らかではないが、文明5年(1473)6月11日に武田政信が実相院門跡と山城北岩蔵郷尚茂書記の遺跡を分領した際に、武田側から出された請文の宛先が「芝御坊」となっており(「武田政信請文」実相院文書〈『大日本史料』8編6冊〉)、文明11年(1479)10月23日に近衛政家のもとに実相院から派遣されてきた使者が「実相院芝坊」であった(『後法興院記』文明11年10月23日条)。この人物は芝坊成伝といい、門跡のことを「御屋形」と称しており(「正木荘芝坊成伝遵行状」実相院文書〈『大日本史料』8編14冊〉)、増運が門跡となった時に、ともに実相院に入った坊官であったらしい。徐々に権威を増していき、文明年間(1469〜87)以降は実相院門跡坊官における事実上トップの地位にあり、被発給文書の宛も「実相院門跡雑掌」とならんで「芝坊」が最も多くなり、実相院・大雲寺内においては「芝庁法印御房」と称された(「大雲寺寺務代当栄他連署書状」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文19〉)。天正年間(1573〜92)に史料上に現われたのを最後に(「村井貞勝・明智光秀連署書状」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文20〉)、一旦芝坊は断絶したらしい。その名跡を江戸時代になってから再興した。

 芝之坊再興初代となったのが、松井兼林(1634〜1711)である。松井兼林は義尊の御家人であった柴田兼勝の子で、宝永3年(1706)12月29日に義延入道親王の遺言によって芝之坊松井家を相続した。兼林が正徳元年(1711)8月8日に卒すると、子の英村(1682〜1743)が継承し、その後、定昇(1715〜1782)、定民(1749〜1825)と続き、敬村(1780〜1791)の後は定民の子澄昇(1791〜?)が継ぎ、澄昇の子が親定(1820〜?)である(『地下家伝』巻29、実相院門跡、芝之坊)。親定の時代、幕末の混乱期にあたり、実相院日記に詳細に現われた。これについては管宗次『京都岩倉実相院日記』(講談社、2003年3月)に詳しい。維新後については不明であるが、明治17年(1884)に旧臣松尾氏より実相院に先代門跡元服の由緒ある建物の寄進を受け、代価に金1,000円を貸し付け、建物は客殿の背後に移築している(『京都府寺誌稿』)

 次席の坊官である岸之坊に関して、その初期の史料は管見にふれない。江戸時代前期から存在したらしいが、元禄4年(1691)8月18日に義延入道親王の不行状の悪事に荷担したとして、岸之坊と子の宇多内蔵允が追放となっている(『通誠卿記』元禄4年8月18日条)。その後しばらく廃絶していたらしいが、正徳5年(1715)7月25日に三好長宥(1683〜1771)が坊官に取り立てられた。長宥は三好長久の子で、三好長慶の5代の孫にあたるという。彼以降、長員(1723〜66)、長繹(1749〜89)、長幸(1772〜1820)、澄宥(1804〜30以降)、長敬(1825〜?)、長経(1823〜?)と続き、明治にいたった(『地下家伝』巻29、実相院門跡、岸之坊)

 やはり坊官である蔵井坊は、岸之坊同様、江戸時代前期から存在したようであるが、詳細はわかっていない。当初佐野家の名跡であったらしいが、元禄4年(1691)閏8月4日に義延入道親王の不行状の責任をとらされ、蔵井坊とその子佐野主水が追放となっている(『通誠卿記』元禄4年閏8月4日条)。享保6年(1721)4月8日に承秋門院旧殿を実相院に移転する際、松尾刑部(芝之坊英村)とともに北川原伊織なる人物が立会人となっているが(『京都府寺誌稿』)、これが後の北河原敬豊(1667〜1743)とみられる。北河原敬豊は享保7年(1722)4月15日に坊官に取り立てられ、以後、伯敬(1702〜75)、伯良(1747〜1808)、伯秀(1771〜1822)、澄伯(1790〜1854)、伯豊(1823〜?)と続き(『地下家伝』巻29、実相院門跡、岸之坊)、明治にいたった。

 実相院には他に諸大夫として入谷家、侍として片岡家がある。他に侍として柏村家・辻家もあったが、両家は一代で途絶えた(『地下家伝』巻29、実相院門跡)


安永8年(1779)頃の実相院。『都名所図絵』巻6、北岩倉大雲寺より(『新修京都叢書11 都名所図会』〈光彩社、1968年1月〉368頁より一部転載)

明治以降の実相院

 実相院は明治4年(1871)までは無住であったが、近世期同様坊官が運営を行っていた。しかし明治4年(1871)1月22日に門跡号が廃止され、明治政府が建設しようとしていた療病院の建設に寄与するため、実相院の建物の大半を京都府に献上し、実相院・証光寺は大雲寺に統合されることになった。同年10月10日に旧臣下家救済のため歴代門跡所蔵品97点を売却した。また同年12月18日に京都寺町通石薬師にあった里坊を売却したが、代金は一切行方不明となってしまい、旧臣が復籍のための資金にしたとされる(『京都府寺誌稿』)

 ところが療病院はついに建造されることなく、献納した建物は不要となってしまっていた(『京都府寺誌稿』)。そこで明治5年(1872)11月に大雲寺の正教院の石座密道が自費をもって払下げられ(「愛宕郡寺院明細帳」393、実相院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)、「院室留守居代」として寺務にあたり、同年6月に正式に住職となった。明治17年(1884)に旧臣松尾氏(芝之坊)より先代門跡元服の由緒ある建物の寄進を受け、金1,000円と引き替えに客殿の背後に移築した。明治18年(1885)5月18日に旧来門跡と称していた寺院に限り、門跡号を使用することが認められた(『京都府寺誌稿』)

 石座密道は明治20年(1887)頃から愛信講・朝日講を組織したが、運営が失敗に終り、そのため明治26年(1893)に罷免となって実相院を追放された。そのため香川県寒川郡の長尾寺住職の高田俊興、園城寺万徳院の和田慶玄が事務取扱として寺務を引き継ぎ、明治27年(1894)10月に高田俊興が正式に住職となった。また近世期には実相院の本堂は大雲寺観音堂を代用していたが、大雲寺と離れたため、明治28年(1895)に客殿内に仮壇を設け、本尊を安置し、客殿を本堂とした。明治29年(1896)8月に一時期住職を辞職したこともあったが、その後再住した(『京都府寺誌稿』)



[参考文献]
・湯本文彦『京都府寺誌稿62 実相院』(京都府、年次不明)
・『岐阜県史 通史編 中世』(岐阜県、1969年3月)
・『京都府古文書等緊急調査報告書 天台宗寺門派実相院古文書目録』(京都府教育委員会、1982年3月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』(平凡社、1989年7月)
・管宗次『京都岩倉実相院日記』(講談社、2003年3月)
・杣田善雄『幕藩権力と寺院・門跡』(思文閣出版、2003年12月)
・『近世京都の狩野派展』(京都文化博物館、2004年9月)
・『実相院の古文書(テーマ展「実相院の古文書」釈文(抄録)附)』(京都市歴史資料館、2009年1月)
・『室町最期の将軍-足利義昭と織田信長-』(滋賀県立安土城考古博物館、2010年10月)


実相院庭園(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)



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