池上院



池上院山門(平成19年(2007)7月5日、管理人撮影)

 池上院大日寺(ちじょういんだいにちじ)は南丹市八木町池上に位置(外部リンク)する天台宗の寺院です。皇慶(977〜1049)によって建立され、定朝によって阿弥陀如来像が造立されました。古代・中世の史料上では「池上房」「池上寺」「大日寺」とも称され、鎌倉時代の衰退の後、暦応2年1339)頃に円観(1281〜1356)によって再興され、神護寺領吉富荘との関連から中世には神護寺の末寺となっていました。近世には比叡山の末寺に復帰し、明治からは穴太寺の住職が池上院を兼知しました。


谷阿闍梨皇慶 〜その@〜

 池上院は皇慶(977〜1049)の住した寺院である。皇慶は天台宗延暦寺の僧で、台密の大成者の一人で、川流を形成した覚超(?〜1034)に対して、谷流を形成。この二派はその後台密十三流の祖となった。

 皇慶の伝記史料は比較的多いが、それらのすべては大江匡房(1041〜1111)撰の『谷阿闍梨伝』がもととなったものである。『谷阿闍梨伝』は大江匡房が皇慶滅後60年後の天仁2年(1109)4月に撰述した皇慶の伝である。日時が明示されているのは、叡山入山時と示寂のみであり、その大半は皇慶にまつわる霊異譚となっており、その記述態度は『続本朝往生伝』・『神仙往生伝』を撰述した大江匡房好みの霊異端が中心でとなっている。


 皇慶の俗性は橘氏で、橘広相(837〜90)の孫である。皇慶を懐妊している間、母は臭い野菜や肉類を嫌って嘔吐してしまったという。幼い頃からよく話をしており、7歳の時に比叡山に登った。この時雲母坂より登ったらしく、不実柿(みならがき)に到ると「ここは何の処か」と聞き、人よりその名を知ると「何の実あるや」と聞いたという。また雲母坂の途中の水飲に到ると、「何の湯を飲むや」といい、大嶽(如喜峰)に到ると、そこが俗に「大竹」と称していたから「何の小竹生えん」と聞いたという(『谷阿闍梨伝』)

 法興院十禅師の静真(生没年不明)に依止阿闍梨とし、東塔阿弥陀坊に住した(『谷阿闍梨伝』)。静真は明靖(生没年不明)の弟子であり(『日本往生極楽記』延暦寺明靖伝)、この僧のもとで密教を学び、両界三部・別尊秘密・護摩潅頂・梵字悉曇など根源を究明し、仏法を極めたという。また山林斗薮を好み、諸国を遍歴した(『谷阿闍梨伝』)

 長徳年間(995〜99)、伊予国(愛媛県)にて藤原知章(?〜1013)を護持し、普賢延命法を行った。皇慶と藤原知章とともに一夜、夢で普賢菩薩が六牙の白象に乗って道場に来たのを見ており、そこで歓喜天が杯を捧げて、「われ護法のために一時も離れず」といい、さらにそれより前に皇慶が重病となっており、帝釈天は「汝の病もっとも重し。禁戒に違うといえども、毎日桑落(酒) 一杯を服すべし」と半升の器を示したという(『谷阿闍梨伝』)

 藤原知章は「相府家司知章」と記されるように(『小右記』長和元年5月24日条)、藤原道長の家司であり、多くの受領を勤めた。11世紀になると、地方では国分寺ではなく、国司と個人的関係によってその地に赴いた僧が、国衙周辺の新たに設定された寺院において、修法を行なっている。これは「国司随身の僧」と称され、『朝野群載』にも国司が私的に随身すれば、政務の遂行に便があるとして「智僧・験者一両人」をあげている。「国の為に祈祷を致し、我の為に護持をなす」とあり(『朝野群載』巻22、諸国雑事上、国務条々事)、国司の護持僧と解される。「国司随身の僧」として仁慶(生没年不明)や慶雲(生没年不明)がおり、仁慶は比叡山を離れて京洛に住み、さらに遠国に赴いては修行し、さらに国司に随ったという(『大日本国法華経験記』巻之中、仁慶法師伝第52)。慶雲は国司季孝の持僧であり、一院を建立するために写山に登り、そこで性空(917〜1007)にあって、性空を国司に推薦し、書写山に法華三昧堂を建立したという(『性空上人伝記遺続集』法花堂国司季孝朝臣建立事)

 さらに国司随身の僧の典型というべきは、皇慶の師静真である。皇慶と藤原知章との関係は、もとは静真が藤原知章の随身の僧であったことによるらしい。説話ではあるものの『今昔物語集』に静真は「清尋」として登場している。それによると、藤原知章が伊予守に補任されるとともに縁があることによって下向し、別の房を新しく造って住み、修法もその屋内にて執行した。知章が静真を貴き者として国人に宿直させ、食物なども別に行う者を定めて帰依していたから、伊予国の人も静真を敬ったが、房の付近に人がいると、静真は蝿を追い立てるように人々を罵り追い払ったという(『今昔物語集』巻第15、比叡山僧長増往生語第15)。このように国司随身の僧は、あくまで国司との間の個人的な関係によるものであって、その一国全体に関する修法を期待されているものではないことを注視すべきである。さらに静真や慶雲でみたように、国司随身の僧は国分寺や在地の有力寺院とは無関係にその居住の地を定めることができ、また「国司」の安穏を祈祷するものであって、それを国全体に寄与するという意識は全く乏しかったことが窺える。

 さらに皇慶が修した普賢延命法は不空訳『仏説一切諸如来心光明加持普賢菩薩延命金剛最勝陀羅尼経』(大正蔵1136)を所依経典とする寿命の延長を目的とした修法である。円仁が普賢延命像1鋪を請来しているが(『入唐新求聖教目録』)、修法として実施されたのかなり後世になってからのことで、普賢延命法は公式には承保2年(1075)10月に賀陽院内にて行なわれたのが最初とされるが、それ以前の延久4年(1072)2月9日に宇治殿にて大原律師(長宴。皇慶の弟子)が実施している(『阿婆縛抄』第220、普賢延命法日記)。すなわち皇慶はこれらに先んじて修法したものであり、公式の修法より70年前に普賢延命法が実施されたことを示しており、後に比叡山の四箇大法に数えられる普賢延命法修法の初見史料である。また普賢菩薩は『法華経』普賢菩薩勧発品に、法華経信仰者を保護すると説かれているため、夢に白象上の普賢に相対した霊験が逍遥され(『大日本国法華経験記』叡山西塔蓮房阿闍梨伝)、人々は普賢影向(ようごう。現前すること)を期待した。

 また皇慶は禁戒となっていた飲酒(おんじゅ)を、歓喜天・帝釈天の勧めにより行ったというが、飲酒は過失・犯罪の原因となるとして、仏教ではこれを戒め、「飲酒戒(不飲酒戒)」として五戒の一つに数えられていた。『四分律』巻16では釈迦の言として「凡そ飲酒は十過失あり。何等十なるや。一は顔色悪し。二は力少なし。三は眼視不明。四は瞋恚(いかり)の相を現わす。五は田業資生の法を壊す。六は疾病を増致す。七はますます闘諍す。八は名なくして悪名を称して流布す。九は智恵減少す。十は身壊し命終え三悪道に堕つ。阿難よ是れ飲酒と謂う者は十過失あるなり。」とあり、また『梵網経』でも誡めた。仏戒のみならず日本の令制でもかたく誡めており、僧尼令(飲酒条)でも「凡そ僧尼、飲酒・食肉・服五辛するは、三十日苦使せよ。もし疾病の薬分となしてもちいる所は、三綱その日限を給え。もし酒を飲みて酔い乱れ、及び人と闘打せば、各還俗せよ。」とし、また貞観8年(866)にも改め禁止された(『類聚三代格』巻第3、貞観8年6月4日官符)。天台宗でも最澄がその遺誡で「また我が同法、飲酒することを得じ。もしこれに違わば、我が同法に非ず。また仏弟子に非ず。早速擯出(ひんしゅつ。追い出す)して、山家の界地をふましむことを得じ。もし合薬となさば、山院に入ることなかれ」(『叡山大師伝』)といい、薬として用いることも禁じていた。

 このように皇慶は仏法・国法・宗法でも禁じていた飲酒を霊験と絡めて堂々と行っており、また国司随身の僧として、国分寺の官僧とは一角を距てていた。皇慶のような僧の登場は、平安時代における僧侶の立場の中に、一つの画期であった。


池上院五輪塔(平成19年(2007)7月5日、管理人撮影)

谷阿闍梨皇慶 〜そのA〜

 静真とともに伊予国に赴いた皇慶であったが、静真が示寂する前、兄弟子の覚運(953〜1007)が「尊師没して後、誰を以て師と為さん」と問いかけると、静真は「この少僧に問うべし」と皇慶に後事を委ねた。静真が示寂するとその遺言通り、覚運は年下の皇慶に師事した。皇慶は入宋を志して大宰府に向かうため、藤原道長邸に赴き、道長に対して「求法の為に遠行すべし」と述べた。この時道長邸にいた覚運は皇慶が去る時、地に跪き、自らその笠を取って門に送迎した(『谷阿闍梨伝』)

 九州に到着すると東寺の景雲阿闍梨に師事し、東密の潅頂大法を受けた(『谷阿闍梨伝』)。これによって皇慶は東密においても、空海→真雅→源仁→益信→寛平法皇→寛蓮→寛照→長憐→景雲→皇慶と、真言宗広沢流の法系を継承した(『血脈類聚記』)。寂照(962頃〜1034)ととも船上の人となったが、数千匹の鳩が船上に集まり、これを追い払っても飛び立つことはなかった。何人かを泊地におろしたが飛び立たず、試しに皇慶をおろしてみると鳩は直ちに飛び去った。そのため鳩を使とする八幡菩薩がわが国の人師国宝を惜しんだものと解釈されたという(『谷阿闍梨伝』)。この時、皇慶・寂照・延殷(968〜1050)が入宋のため大宰府に赴いていたが、『詞花和歌集』の詞書に「唐土へ渡り侍けるを人の諌め侍ければよめる 寂昭法師」(『詞花和歌集』巻第6、別、第181番歌詞書)とあるように、寂照に慰留があったにもかかわらず長保2年(1000)に一人渡宋したことが知られる。また延殷も朝廷によって留められ、結局寂照のみが入宋したという(『元亨釈書』巻第5、醍醐寺延殷伝)。皇慶にも何らかの慰留があった可能性がある。

 その延殷であるが、顕教・密教ともに優れた人物であり、皇慶を「但真言師」と名付けて侮蔑していたが。後にその徳に感じ入り、弟子となって行動を共にするようになった。皇慶らは肥後国背振山にて一夏修練した。この時皇慶は地神を驚き起す偈を誦し、手を地に置くと大きな地震が起こり、皇慶は延殷に「成仏に至る。慎みて人に語るなかれ」と述べたという(『谷阿闍梨伝』)


池上院本堂(平成19年(2007)7月5日、管理人撮影)

池上院の建立

 皇慶は万寿年間(1024〜28)に丹波国に赴き、源章任(生没年不明)によって「公家の奉為(おんため)」に十臂毘沙門法を修した(『谷阿闍梨伝』)。源章任は、近江守源高雅の第二子であり、高雅は敦成親王家の別当、藤原道長の家司を勤めた人物であった。章任の母は従三位藤原其子で、後一条天皇の乳母であったため(『続本朝往生伝』但馬守章任伝第35)、天皇の乳兄弟として、父の出自からは異例の出世を遂げた。近衛少将・右馬頭をへて美作・丹波・伊予・但馬の国司となり、家は大いに富んで、「珍貨蔵に盈(み)ち、米穀地に敷きて、庄園家地は天下に布き満てり」と称されるほどであった(『続本朝往生伝』但馬守章任伝第35)

 章任は天皇・摂関家と密接な関係があり、丹波国受領となったのはそれらの縁故によるものであったことが推測される。章任はまた「堂塔を建てず、仏事をひろめず、性はなはだ悋惜にして、刺史たる時は、貪を以て先となす」(『続本朝往生伝』但馬守章任伝第35)と評された人物であったにもかかわらず、受領した丹波国において十臂毘沙門法を皇慶に修させたのは、この法会が単なる供養・逆修といった法会ではなく、源章任が後一条天皇のミウチ人であることから、「公家の奉為(おんため)」に御願に准ずる修法を実施することによって、天皇の玉体安穏(後一条天皇の乳母が自身の母であり、自己の栄衰は天皇の双肩にかかっているから)を祈祷したことによる。修法を実施した皇慶が、天皇の「叡夢」によって阿闍梨の補されたが(『谷阿闍梨伝』)、このことは朝廷が修法の実施を既知していたものであり、しかも公的ではなく、章任といったミウチ人を通じた半ば私的なものであったことを意味する。

 皇慶が修した十臂毘沙門法であるが、この修法についてはほとんど知られていない。当然十臂毘沙門天なるものは諸経典中にはみえないのだが、毘沙門天は四天王の北方の神(すなわち多聞天)から独立したものであるから、「十臂毘沙門」とは「十臂の多聞天」のことと思われる。実際、金剛智『吽迦陀野儀軌』巻中(大正蔵1251)によると、十臂の多聞天について、「先ずその体様、色は赤、衣は紺。袈裟は青。目は白。牙は上下方三寸指、正手印は彼の根本護身の印。左方第二手は宝塔を捧げ、次手は鈷杵鈴を持ち、次手は金鏨を持ち、次手は箭と索を持ち、右の第二手は宝鎌を持ち、次手は大刀を持ち、次手は弓を持ち、次は独鈷と鉾を持つ。須弥の上に居り、山の下に鬼形あり。左方膝立て。右方に膝臥す」とみえるとうように、経軌上の位置付けは明白であり、皇慶の弟子長宴が師の講義を筆記した『四十帖決』に長久3年(1042)4月の講義として、「師いわく、毘沙門身呪印は、(中略)規君伝にいわく、身呪は四天王結界の結界を用う云々と。あるいは台蔵中、多聞又印これを用う云々」(『四十帖決』巻第7、毘沙門)とあるように、皇慶は毘沙門天と多聞天を意識的に同義としていることが窺える。

 それ以後、年々池上房にて所持の仏舎利を礼拝すると、大光明を放って室中を照らしたという。さらに定朝に三尺(90cm)の阿弥陀如来像を造立させ、寛印法師を屈請して講説させた(『谷阿闍梨伝』)。このように皇慶は住房として池上房を造立し、さらに平安時代を代表する仏師である定朝に阿弥陀如来像を造立させている。寛印は延暦寺楞厳院の僧で「霊山院過去帳」にみえるように恵心僧都源信の弟子である。後に諸国を遍歴して丹後国に到り(『続本朝往生伝』砂門寛印伝)、丹後国の迎講を最初に行なったのは寛印供奉であるとされる(『古事談』巻第3)

 池上房が建立された南丹市八木町は、京都市のほぼ中央部、亀岡盆地の北端に位置し、町の西部を大堰川が南流する。古代では丹波国船井郡に属しており、『倭名類聚抄』に船井郡の郷として、「刑部」「志麻」「船井」「出鹿」「田原」「野口」「須知」「鼓打」「木前」があり(『和名類聚抄』巻第8、郷里3、丹波郷第103)、うち八木町周辺は刑部に該当する。古代における刑部郷に関する史料は乏しくその実態は明らかではないが、残存する小字のうち室橋の榎坪・諸畑の六ノ坪といった地名から、この地が条里施行地域であった可能性がある(南丹市教育委員会2010)。また刑部郷は、丹波国何鹿郡の刑部首夏継が自身の先祖を彦坐命と称している(『日本三代実録』巻8貞観6年3月4日庚寅条)ことから、刑部氏の本拠地とみる説がある(西岡1956)

 丹波国の国衙が置かれた場所について、亀岡市千代川説と八木町屋賀説があり、いずれか、あるいは双方間で時代によって移転したともされ、決定的な定説はないが、いずれにせよ現在の池上寺までは3kmほどの位置である。池上寺が位置する池上の地は、南北に流れる大堰川の東側に位置するが、大堰川と池上の間には南北約3kmにおよぶ筏森山系があり、小さな八木盆地と大堰川との間を隔てている。東側には小さな宮山川があるものの、水の採取は困難であり、耕作地域としては不向きであった。そのため奈良時代には3kmほど北に位置する、山系が途切れる隘路を横切って大堰川より水を引いて水路をつくっている。池上の北1kmの野条、さらに500m北の室橋より幅1.5mにおよぶ水路が検出されている。しかし普段は筏森山系によって遮られている大堰川も一旦氾濫すると八木盆地に流れ込み、田地や水路を破壊し、大きな被害をもたらした。このことは近代の亀岡ダム建造、圃場整備まで断続的に続いており、平安時代においても池上などの地は衰退しつつあった。

 皇慶にとって池上坊は、丹波守藤原知章を通じた、あくまで国司と国司随身の僧という個人的関係にすぎなかった。本来一過性であるはずの池上坊に対して本格的経営に乗り出すのは長暦3年(1039)以降となる。

 第27世天台座主慶命が長暦2年(1038)9月7日に示寂すると、智証派の明尊大僧正が天台座主をのぞみ、慈覚派の僧侶がそれに反対して騒動を起した。第3世天台座主円仁(慈覚大師)を祖とする慈覚派と、第5世天台座主円珍(智証大師)を祖とする智証派の対立は、円仁示寂後、円珍が天台座主となった時すでに萌芽をみせており、円珍は、後世の慈覚(円仁)派と智証派の対立を心配して、門徒を諫める遺誡を遺したが、慈覚派と智証派は永祚元年(989)の智証派の余慶の天台座主就任未遂騒動以来決裂して、智証派は叡山をおりて園城寺を根拠とするようになった。それ以降、慈覚派は智証派の天台座主就任を固く拒んだ。この事件はその後の園城寺戒壇設立要請とともに両者の火種となり、武力衝突を繰り返すようになった。

 長暦3年(1039)2月18日、慈覚派は僧綱についた高位の僧から山上の老少にいたるまで3,000余人が祇陀林寺に集会し、大挙して藤原頼通の高倉第に向った。高倉第は門を閉じていたため、僧たちは門前で出来もしないことを訴え続けた。これを制止させようとして矢を放ったため、僧2・3人にあたり、四散したが、その中で一部が出雲少院定清が首班となって大僧都教円(980〜1047)を捕えて人質とし、西坂(雲母坂)麓に向ったが、随願寺にて教円を解放した。朝廷は検非違使に定清を捕縛・投獄した。その尋問によって3月9日、大僧都頼寿(999〜1041)・少僧都良円(?〜1050)・皇慶を召喚して罪状を審問した(『扶桑略記』第28、長暦3年2月18日条)。この時罪に科せられんとした皇慶は、「まさに乙丸を召すべし」といったという(『谷阿闍梨伝』)

 皇慶が「乙丸」といった者は、性空にも仕えたとされる護法童子で、数十里先に遣わされても一日で帰還したといい、常に性空に従っていたという(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝(悉地伝)』)。乙丸と皇慶はある日の薄暮に出会ったが、乙丸の身体は肥えており、頭は禾(かふろ)のようであり、視線や雰囲気は鬼神のようであったという。皇慶は「どこより来たるや」と聞くと、童子は「多年、播磨国書写山性空上人に仕う。彼の山の蒼頭(下人)、上人の中食の上分を偸(ぬす)む。忿満に堪えず、拳を以てこれを殴れば、その人委(にわ)かに頓す」といい、性空のもとを立ち去ったことを述べた。以後、遠所への使でも素早く戻って報告し、4・5日かかる道であってもすぐに戻ったという。ある時、同僚の僧が暴謔で、順番に顎を殴りつけていたが、乙丸の番になると「恐れらくは大故に及ばん」といって乙丸は断ったが、同僚は強いたため、乙丸がわずかに拳を下したところ、血を吐いてほとんど死ぬところであった。皇慶はこれにより乙丸を追放したが、去る時乙丸は「背振山の地震は、堅牢地神の出なり。われこの事を見て、怪を慕い来る所なり」と述べたという(『谷阿闍梨伝)

 護法童子の説話はともかくとして、この騒動は皇慶が以後池上房に住する契機となった(獅子王1956)。皇慶が国司随身の僧として仕えた源章任は、長元4年(1031)10月の段階では丹波守であったが(『栄花物語』巻第31、殿上の花見)、長久元年(1040)11月には「伊予前司」となっており(『春記』長久元年11月8日条)、解由の関係からみれば、丹波守を辞するのは長暦2年(1038)以前でなければならないことになる。すなわちここにおいて皇慶と池上房の間は、国司随身僧としての立場をはなれて本格的経営にあたったことを意味している。

 長久4年(1043)9月3日、皇慶の弟子の長宴は、丹波国池上房にて皇慶の講義を受けているが(『四十帖決』巻第12、潅30)、以後長宴は池上房の皇慶のもとを度々訪れて講義を受けた。池上房の建立には、皇慶が受領・在庁官人らから国衙に奉仕する僧として迎えられ、経済的な保護を受けたことが前提であったが(上島2003)、長期滞在する皇慶にとって池上房は経営可能な拠点である必要があった。実際、平成10年(1998)から実施された発掘調査によると、10世紀から11世紀にかけて室橋・野条では幅3mの南北に打通する水路が造営されており、国衙による再開発が行われていた可能性を示唆する。

 承安4年(1174)に吉富荘が後白河院法華堂領として立荘された際に作成された絵図の写しとみられる「丹波国吉富荘絵図写」によると、現在の池上院の位置に「池上寺」が描かれており、池上院の西側には「池上寺在家」の記載がみられ、その北には「在役僧/此内正員六人」の記載がみられる。周辺には「田」「畠」の記載があり、この地が池上院に宛てられた田畑であり、その支配は池上院の僧「正員六人」が「役僧」として監督していたものであろう。この「在役僧/此内正員六人」の地は、現在の野条に該当する。このように丹波国司による池上院造営と、池上院の経営母体の確立が計られたが、11世紀に行われた再開発も、野条は遺物の検出状態から12世紀後半には再度埋没したとみられている(京埋セ2007)

 寛徳2年(1045)10月19日、皇慶は死期が近づこうとしていることを知り、丹波池上房から比叡山に移り、同25日に到着した(『四十帖決』巻第7、金剛王14)。皇慶は臨終におよんで門弟に法華経を書写させている。永承4年(1049)7月26日、東塔井房にて遷化した。73歳(『谷阿闍梨伝』)。皇慶の墓所は近世の伝承によると、比叡山東塔神蔵寺にあったという(『谷阿闍梨伝』書写識語)


「丹波国吉富荘絵図写」部分(『日本荘園絵図聚影』4、東京大学出版会、1988年6月より一部転載)。「池上寺」が描かれ、その下には「国八庁」と国衙らしいものが描かれる。



南丹市八木町室橋付近(平成19年(2007)7月5日、管理人撮影)。古代の刑部郷の地であり、中世には吉富荘の北西地にあたる。

吉富荘と池上院

 皇慶以降の池上房について、詳細はわかっていないが、久安元年(1145)12月には阿闍梨寛季のによって、成願寺の末寺となっている(「成勝寺年中相折帳」書陵部所藏祈雨法御書建久二年五月裏文書〈平安遺文5098〉)。これ以降、池上付近の地は次第に荘園化されていた。これが吉富荘である。

 吉富荘は源義朝の私領であった宇都郷(京都市京北町)より始まったもので、平治の乱(1159)の敗北により没官されて平家の所領となった。これを平家の縁戚であった源成親が伝領し、さらに神吉・八代・熊田・志摩・刑部等の郷を加えて、一円の庄号(吉富荘)とし、成親は後白河法皇御願の法華堂に寄進したのであった(「僧文覚起請文」神護寺文書〈平安遺文4892〉)

 ところが成親の失脚、平家の没落が相継ぎ、所領を回復した源頼朝は寿永3年(1184)4月8日に宇都荘を神護寺に寄進した(「源頼朝寄進状」神護寺文書〈平安遺文4150〉)。しかし頼朝は宇都荘が吉富荘へとなっていく中で、郷の増加によって一円の荘園となったものであり、人領を押領して成立したものである以上、平家時代の痕跡を廃して、父義朝時代の状態として宇都荘の寄進のみに留めたのであった(「源頼朝書状」神護寺文書〈平安遺文4149〉)。しかし神護寺の文覚は後白河院に働きかけ、元暦元年(1184)5月19日にはさらに新荘部分も併せて神護寺に寄進された(「後白河院々庁下文」神護寺文書93)。後に文覚の配流とともに吉富荘は没官されたが、嘉禄元年(1225)6月に幕府の寄進により神護寺領に復帰した(「足利直義御教書」神護寺文書203)

 文覚が関連した各地の荘園には文覚開発伝承がのこされているが、室橋には室橋堂(文覚堂)があり、文覚池など文覚に関する伝承が多くのこる。実際に応永13年(1406)の「吉富新荘刑部郷預所方散用状」(摂津吉田文書)によると、「下桶宮」「池祭」「本溝敷」といった用水・潅漑関係の用途が除分として設定されている(飯沼1986)。池上院大日寺は神護寺領吉富新荘内にあって、極めて衰退したらしく、後世の伝説ではあるが、寛元年間(1243〜47)に大日寺を神護寺の末寺とする企てがあり、文覚(実際には寛元年間にはすでに示寂している)が大日寺の僧達を騙して神護寺に登らせ、その間に宝物・財貨を掠奪して去ったという(「丹波国船井郡寺院明細帳」25、池上院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)

 池上院は鎌倉時代後期までに衰退し、円観(1281〜1356)によって再興された。この再興はまず池上院が有する刑部郷池内田畠の知行の免除から行われたようであったが(「池上寺寺僧良澄・印成起請文」古田券〈八木町史編さん事業事務局2009所引〉)、池上院が位置する刑部郷は建武5年(1338)閏7月4日に足利尊氏によって神護寺領吉富新荘に寄進された(「足利尊氏寄進状」尊経閣古文書纂社寺文書神護寺文書〈『大日本史料』6編3巻〉)。そのため刑部郷に包括された池上院の再興は暦応2年(1339)頃に吉富荘を領する神護寺の支援下になされたものであり(「恵鎮円観書状」来迎寺文書〈八木町史編さん事業事務局2009所引〉)、天台宗の円観と真言宗の神護寺は、当初は円滑であった。池上寺の僧が平岡例講料米のため年貢免除を申請し、それを神護寺が受け入れたことについて、暦応3年(1340)3月13日に円観は礼を述べている(「恵鎮円観書状」来迎寺文書〈八木町史編さん事業事務局2009所引〉)

 しかし池上寺内において、吉富荘を有する神護寺側の僧と、円観らが属する比叡山側の僧の対立が発生したらしく、観応元年(1350)に比叡山側は久安4年(1148)の摂津権守景国の寄進状を証拠として裁決を求めたが、康応元年(1389)7月18日に神護寺側の言い分を認める裁決が出た(「足利義持下知状」神護寺文書257)。明徳年間(1390〜94)に今度は池上寺僧の快尊・祐澄が池上寺を比叡山の末寺にしようとして神護寺に対して反旗を翻した(「池上寺寺僧良澄・印成起請文」古田券〈八木町史編さん事業事務局2009所引〉)。結局明徳2年(1391)6月26日にもとのまま池上寺および池内田畠は神護寺に安堵された(「丹波国守護山名氏清遵行状」池上院文書〈上島2000所引〉)。比叡山は応永16年(1409)に再度訴えたが、応永18年(1411)7月12日に、やはり神護寺領とする裁決が下されている(「足利義持下知状」神護寺文書257)

 伝承によると、池上院はその後禅宗の管轄となり、再度天台宗に復帰したとはいえ、火災のため什物・文書など一切残らなかったという(「丹波国船井郡寺院明細帳」25、池上院〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。近世、池上の地は篠山藩領となり、170石を数えた(『旧高旧領取調』)。篠山藩の記録によると、大日寺の境内は21間四方、弓場が付属しており、それの長さは28間、幅3間あった(『笹山御領分三郡寺院書』)


[参考文献]
・西岡虎之助「神護寺領荘園の成立と統制」(同『荘園史の研究』下、岩波書店、1956年5月)
・獅子王円信「谷阿闍梨皇慶の密教について」(『日本仏教学会年報』21、1956年)
・仲村研「丹波国吉富荘の古絵図について」(同『荘園支配構造の研究』吉川弘文館、1978年7月)
・西口順子「いわゆる「国衙の寺」について」(千葉乗隆博士還暦記念会編『日本の社会と宗教』同朋舎出版、1981年)
・『古絵図の世界』(京都国立博物館、1984年7月)
・飯沼賢司「丹波国吉富荘と絵図」(『民衆史研究』30、1986年5月)
・寺山薫「丹波国吉富庄と刑部郷・志万郷の世界」(『郷土史八木』6、1993年11月)
・足利健亮「丹波国府をめぐる諸説」(亀岡市史編さん委員会編『新修亀岡市史 本文編第1巻』京都府亀岡市、1995年1月)
・谷口悌「八木町遺跡地図 町内遺跡詳細分布報告書」『八木町文化財調査報告書』第3集、八木町教育委員会、1997年)
・上島亨「池上院と神護寺・丹波国府」(『郷土史八木』10、2000年3月)
・黒川直則「有頭荘・吉富本荘・吉富新荘」(『講座日本荘園史8 近畿地方の荘園V』吉川弘文館、2001年12月)
・齋藤圓眞「寂照をめぐって」(『天台学報』44、2001年度)
・上島亨「丹波国府と吉富荘」(水本邦彦編『街道の日本史32 京都と京街道』吉川弘文館、2002年10月)
・『南丹市室橋遺跡第一一次』(京都府埋蔵文化財センター、2007年6月)
・八木町史編さん事業事務局編『神護寺領丹波国吉冨荘故地調査報告書』(南丹市教育委員会、2009年3月)
・『南丹市文化財調査報告第11集 室橋遺跡』(南丹市教育委員会、2010年3月)


室橋の通り堂(平成19年(2007)7月5日、管理人撮影)。文覚が新庄用水をつくった際に、ここで見たという伝承がある。



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