奉先殿



奉先殿の廟門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 奉先殿はかつてフエの皇城(阮朝王宮)内の興廟の北、彰徳門・西台の東側に位置した廟である。前楹(前殿)は桁行11間、正楹(正殿)は桁行9間で両側に庇が二面つく。ヴェトナム建築の一特徴である二棟連棟形式(前殿と正殿を回廊で繋ぐ方式)となっており、前楹(前殿)と正楹(正殿)の中央は回廊で繋がれて部屋となっている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、奉先殿)


奉先殿跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



1930年の奉先殿(『PHA THUAN AN HUE -La Citadelle et ses Palais-』〈THE GIOI,2007〉口絵より部分転載)



皇城図・『大南一統志』巻1より奉先殿部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 奉先殿は主に阮朝の皇后を祀る廟所であり、内部は中央に世祖高皇帝(嘉隆帝)・皇后の神御(位牌)が安置される。太廟・世廟同様に「左一」「右二」と、太祖を中央に奇数代・偶数代を交互に配置する昭穆の制をとった。左一は聖祖仁皇帝(明命帝)・皇后の神御(位牌)、右一は憲祖章皇帝(紹治帝)・皇后の神御(位牌)、左二は翼宗英皇帝(嗣徳帝)・皇后の神御(位牌)が安置される(『大南一統志』巻之1、京師、城池、奉先殿)

 祭祀は朔望(1日と15日)と慶節(祝日)ごとに行なわれており、それぞれの忌日ごとの祭祀は別廟(世廟か)で行なわれた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、奉先殿)。祭祀する対象の範囲は世廟に近いが、世廟は国家的のいわばパブリックな廟所であるのに対し、奉先殿は宮廷における家廟という位置づけになる。すなわち世廟は内廷の女性は参加することはできないが、奉先殿は家廟であるから参加が可能になっているである。


奉先殿の後門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 奉先殿は嘉隆13年(1814)3月に建立されたが、当初は皇仁殿といい(『大南寔録正編』第1紀、巻之48、世祖高皇帝寔録、嘉隆13年3月己亥条)、現在地とは東西方向に真逆である顕仁門街路の北、つまり太廟の北に位置していた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、奉先殿)

 嘉隆14年(1815)3月に皇后の梓宮(しきゅう。遺体安置所)となり(『大南寔録正編』第1紀、巻之50、世祖高皇帝寔録、嘉隆14年3月辛卯条)、皇后の神主(位牌)は皇仁殿に安置された(『大南寔録正編』第1紀、巻之50、世祖高皇帝寔録、嘉隆14年3月乙巳条)

 嘉隆18年(1820)嘉隆帝が崩ずると梓宮となった。当初嘉隆帝を継いだ明命帝は、父の梓宮を中和殿(宮城の中殿。後に紫禁城の坤泰宮)とする意向があったが、群臣の反対により皇仁殿が梓宮となった(『大南寔録正編』第2紀、巻之2、聖祖仁皇帝寔録、明命元年2月条)。なお明命帝は皇仁殿にて諒闇し、ここで伝国金宝と万年嗣位の袍を受けている(『大南寔録正編』第2紀、巻之1、聖祖仁皇帝寔録、嘉隆18年12月条)。以後、翌年の明命元年(1820)3月に天授陵に埋葬されるまで(『大南寔録正編』第2紀、巻之2、聖祖仁皇帝寔録、明命元年3月戊戌条)、嘉隆帝の梓宮となり、明命帝も、明命元年(1820)10月に宮城(後に紫禁城の慈寿宮に移るまでここで居住していた(『大南寔録正編』第2紀、巻之4、聖祖仁皇帝寔録、明命元年10月辛卯条)

 嘉隆帝が崩ずると、その側妾らを住まわせるため、皇仁殿の後方に長廊を構えて居住させていたが、明命元年(1820)5月、黎文悦(?〜1828)の進言によって、子を産まなかった側妾は2年間の俸給を与えて親元に帰させている(『大南寔録正編』第2紀、巻之3、聖祖仁皇帝寔録、明命元年5月己未条)

 明命10年(1829)11月に奉先殿に改称され(『大南寔録正編』第2紀、巻之63、聖祖仁皇帝寔録、明命10年11月条)、明命12年(1831)5月に修復が行なわれており(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年5月丁卯条)、明命18年(1837)に現在地に移転された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、奉先殿)

[参考文献]
・石原彩子・中川武・西本真一・中沢信一郎・白井裕泰・高野恵子・土屋武・柳下敦彦・富樫洋之・佐々木太清「奉先殿の平面計画について」(『学術講演梗概集F-2』1997、1997年7月)


奉先殿の廟門(右)と障壁(左)(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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