智証大師廟



雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)

 智証大師廟は比叡山東塔に位置する智証大師円珍(814〜91)の廟所である。

 円珍は寛平3年(891)2月より死期を感じてか、門弟子らに対して自身の没後について指示している。それによると、葬送の時に木材で棚を造り、その上に棺を置き、薪を棚の下に積んで、火で燃やすように述べ、地面に置いて火葬してはならないと述べた。その理由として円珍は、「汚れ穢れているこの身とはいえ、常に諸尊を観相しており、それらは心内に隠れている。その感化はまだ存在するのだから、どうして自身を軽んずるべきであろうか」と述べている。5月には門弟の猷憲(827〜94)・康済(828〜99)に三部大法を授けて三部阿闍梨位に任じており、秋には天台座主職を辞そうとしていた(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)

 10月27日、円珍は門人に対して、「十方の聖衆が私の房に集まった。お前達は速やかに房を掃き清め、香しい花を並べなさい」といい、叉手(さしゅ。手を胸の高さで組んで拝礼すること)して左右に会釈すること再三に及んだ(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)

 29日、臨終の日の朝、円珍が唐より請来し、書写・校合した『涅槃経疏』15巻を手にとって、「如来は恵みこそが命であり、僧は法こそが身そのものなのである。お前達はこれを憶えておきなさい」と述べた。お斎(昼食)は平常通りに摂り、日没の後、手に定印を結び、念仏を唱えることは普段の倍であった。五更(午前3時)になると袈裟を着け、水で口をすすぎ、右脇を下にして示寂した。78歳。その夜、比叡山のいたるところで往生の証である音楽が天から聞えてきたという(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)

 示寂の二日後に円珍は荼毘にふされ(『日本高僧伝要文抄』第2、智証大師伝)、比叡山南峰の東タ(土へん+垂。UNI57F5。&M005190;)に葬られた(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)


智証大師廟(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)

 円珍示寂よりかなり後代の史料であるが、円珍は示寂直前に「私の命が終わったら影像をつくり、私の遺骨を像の中に納め、これを唐坊に安置しなさい」と述べたという。そこで門弟らは影像を2体作成し、一つは園城寺の唐房(後唐院)に納め、一つは比叡山の円珍の旧院(千手院)に納めたという(『寺門伝記補録』巻第8、、聖跡部丙、唐房記、三尊安置)。このことから、円仁における遺体を埋葬した慈覚大師廟に対する、木造を祀る前唐院のように、円珍においても影像を安置する千手院(王院)と墓廟が相対していたようである。

 天元4年(981)法性寺座主職をめぐっての不和・確執から、比叡山上における慈覚・智証両門徒は争いはピークに達し、争いを避けて智証門徒の余慶(919〜91)は観音院に、同じく智証門徒の勝算(939〜1010)は修学院に逃れた。争いはさらにエスカレートして慈覚・智証両門徒間の衝突・刃傷・放火が相次いだため、正暦4年(993)8月10日、智証門徒1,000人は円珍の影像を背負い比叡山を退去、三井寺に移り、影像を園城寺の唐房に移した(『寺門伝記補録』巻第8、聖跡部丙、唐房記、三尊安置)。これが現在園城寺の秘仏となっている「中尊大師」である。

 現在の智証大師廟は五輪塔形であり、側面に「寛政六年甲寅十月」と陰刻されるように、寛政6年(1794)10月に造られたもので、智証大師九百年遠忌によって盛り上がりをみせた円珍への崇敬がこの頃に廟所の改修という形で現われたものであろう。


智証大師廟内の宝篋印塔(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)

[参考文献]
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、1989年11月)


智証大師廟背後の宝篋印塔・石仏(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)



「比叡山延暦寺東塔の旅」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る