肇廟



肇廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 肇廟はフエの皇城(阮朝王宮)内で、太廟の北側、内務府の南側に南向きで位置している(『大南一統志』巻之1、京師、城池、肇廟)。嘉隆3年(1804)3月に太廟・皇考廟(興廟)とともに建立され(『大南寔録正編』第1紀、巻之23、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年3月庚辰条)、同年9月に完成した(『大南寔録正編』第1紀、巻之25、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年9月条)。はやくも嘉隆13年(1814)5月には阮誠を責任者として修復が行なわれており(『大南寔録正編』第1紀、巻之48、世祖高皇帝寔録、嘉隆13年5月己丑条)、明命3年(1822)2月にも修復が行なわれた(『大南寔録正編』第2紀、巻之14、聖祖仁皇帝寔録、明命3年2月壬戌条)

 ここに祀られている肇祖とは広南国阮氏初代太祖仙王(位1558〜1613)の父阮淦(1468〜1545)のことである。阮淦はヴェトナム黎朝の臣下である。阮淦の曾祖父である阮公笋は、紅河デルタの南に位置する清化(タインホア)の出身で、黎朝建国をたすけた開国功臣の一人である。開国功臣は清化出身者が多かったことから清化集団と称され、彼らやその子孫は黎朝期において絶大な影響力を保った。

 阮淦は阮澄の子である。阮淦は黎朝に仕えており、右衛殿前将軍・安清侯となったが、統元5年(1526)に莫登庸(1483頃〜1541)が昭宗にかわって恭皇を即位させ、統元6年(1527)に簒奪して黎朝を滅ぼし、莫朝が樹立した。阮淦は子弟を引き連れて哀牢(ラーンサーン)に逃れ、その王の支援を得て岑州に拠点を構えた。豪傑らが数千人、象30匹を得て、莫朝に抵抗し、大正元年(1530)清化に出兵し、莫朝の将軍玉軸を雷陽県にて撃破した(『大南寔録前編』巻1、太祖嘉裕皇帝寔録、前紀、考肇祖靖皇帝)

 さらに大正2年(1531)莫朝の将軍阮敬を東山県で破って千名を斬首し、嘉遠県に進撃して渡河を行ない、莫朝の将軍黎伯驪と連戦して大勝したが、長雨による洪水により哀牢(ラーンサーン)に撤退を余儀なくされた。元和元年(1533)に昭宗(位1532〜48)を迎えて黎朝を復活させ、功績によって尚父太師・興国公となる。黎朝内外の実権は阮淦が握った(『大南寔録前編』巻1、太祖嘉裕皇帝寔録、前紀、考肇祖靖皇帝)

 永福県出身の鄭検が阮淦に謁見すると、阮淦は鄭検(?〜1570)に長女玉宝(?〜1586)を娶らせた。大正8年(1540)に乂安(ゲアン)に進出すると多くの豪傑が帰順した。大正10年(1542)には再度清化に出兵し、大正11年(1543)には荘宗が親征して乂安にて莫登昌(莫登庸の次男)と交戦して勝利をおさめた。このように黎朝復活の兆しが現われつつあったが、これを恐れた莫朝側は宦官を忠という将軍に仕立てて黎朝に降伏させた。忠は荘宗を毒殺しようとしたが果たせず、次に阮淦を招いて毒入りの瓜を献上し、阮淦を毒殺した。この時78歳(『大南寔録前編』巻1、太祖嘉裕皇帝寔録、前紀、考肇祖靖皇帝)。阮淦の勢力は娘婿の鄭検が継ぐことになる。後に阮朝が成立すると、嘉隆5年(1806)に「貽謀垂裕欽恭恵哲顕佑宏休済世啓運仁聖靖皇帝」の諡号を奉られた。


肇廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



皇城図・『大南一統志』巻1より肇廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 肇廟は正殿である正楹と、前殿である前楹に分かれ、双方を屋根で繋いでいる(『大南一統志』巻之1、京師、城池、肇廟)。このように前殿と正殿を回廊で繋ぐ方式(二棟連棟形式)はヴェトナム建築の一特徴となっている。

 廟の北・東・西に小塔があった。また廟の東側に神庫、西側に神厨がある。北側の塀に2門あり、東は集慶門、西は衍慶門である。南の塀にも2門あり、東側は元祉門、西側は長裕門である(『大南一統志』巻之1、京師、城池、肇廟)。また嘉隆3年(1804)10月には廟の左右に長廊を建造し、それぞれに貯祭器を設けた(『大南寔録正編』第1紀、巻之25、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年10月辛酉条)


衍慶門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



集慶門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



神庫跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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