世廟



世廟門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 世廟はフエの皇城(阮朝王宮)の太和殿の右、興廟の前方に位置する廟所で、南向きに建てられている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)。初代嘉隆帝(位1802〜20)以後の歴代皇帝を祀る場所で、歴代広南阮主を祀る太廟とは中央軸に対して東西対象に位置する。このような儒教的序列によるシンメトリー制はいかにも中国的であり、阮朝が小中華を標榜した現れとなっている。

 世廟は明命2年(1821)3月に起工され、阮徳川(1758〜1824)らが建立を指揮した。この時大鐘も鋳造されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之8、聖祖仁皇帝寔録、明命2年3月甲寅条)。世廟建立以前には、広南阮氏歴代を祀った太廟、嘉隆帝の父興祖を祀った皇考廟(後の興廟)、嘉隆帝周囲の物故者を祀った皇仁殿(後の奉先殿)があり、本来ならば皇仁殿が世廟の役割を果たすべきであったが、世廟建立に先立って明命帝(位1820〜41)と群臣が議論した結果、皇仁殿が中国明・清の奉先殿に似ていることが指摘されたため、新たに世廟が建立されたのである(『大南寔録正編』第2紀、巻之8、聖祖仁皇帝寔録、明命2年3月甲寅条)

 完成したのは明命3年(1822)正月のことで(『大南寔録正編』第2紀、巻之13、聖祖仁皇帝寔録、明命3年正月甲寅条)、早くも明命4年(1823)5月には修理が実施されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之21、聖祖仁皇帝寔録、明命4年5月条)


世廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



顕仁閣からみた世廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 世廟は太廟同様に、一堂に多数の部屋を設け、「左一」「右二」と、太祖を中央に奇数代・偶数代を交互に配置する昭穆の制をとった。

 中央には嘉隆帝・承天皇后・順天皇后の神龕(位牌)を安置し、左一には明命帝と皇后、右一は紹治帝と皇后、左二には嗣徳帝と皇后、右二は建福帝、左三は同慶帝を祀った(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)


世廟内部(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



皇城図・『大南一統志』巻1より世廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



世廟門前の麒麟像(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 世廟の前庭の前方中央に顕臨閣がある。旅行ガイドブックなどでは顕臨閣を「菩提寺」としているが、正しくは廟の前門で、寺院とするのは誤りである。

 顕臨閣の左右に低い塔層があり、東側を峻烈門といい、上層に鐘楼があった。西側は崇功門といい、上層に鼓楼があった。崇功門はもとは豊功門といったが、紹治元年(1841)に改称された。塔層の外の東西に建物を建てており、嘉隆帝のヴェトナム統一の功臣がこの従祀廟に祀られている。塀の南側には世廟門があり、世廟の庭の東西に麒麟が2匹ある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)。世廟の門外の道は石畳となっており、明命13年(1832)2月に舗装されたものである(『大南寔録正編』第2紀、巻之78、聖祖仁皇帝寔録、明命13年2月甲午条)


顕臨閣(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



崇功門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



峻烈門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 世廟の東西にそれぞれ堂が建てらており、東は更衣殿、西は土公祀廟があったが、後に更衣殿は撤去された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)。明命5年(1824)5月には従祀廟が建立された(『大南寔録正編』第2紀、巻之27、聖祖仁皇帝寔録、明命5年5月条)

 塀の東側に啓迪門、西側に崇成門があり、後方の塀の東側の門を顕祐門、西側の門を篤祐門といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)


土公祀廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



従祀廟跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



更衣殿(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



崇成門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



啓迪門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 顕臨閣の前には九鼎が並べられた。鼎は古代中国で用いられた三つ足の金属祭器のことであり、九鼎とは中国の伝説上の帝王である禹が九牧(9州の長官)より貢納された銅を用いて鋳造した鼎で、王権の象徴である。それぞれ九州(全国)の象徴をかたどっており、そのため九鼎と称した。その後殷時代をへて周の時代でも継承され、周が秦に滅ぼされると1つは泗水に沈み、残り8つは秦の手中に入ったという(『史記』巻28、書、封禅書第6)

 このように九鼎は天子の王権の象徴であったが、阮朝においても九鼎は鋳造され、日・月・山・川・花・草など万物の形が陽刻された。いずれも明命17年(1836)に鋳造されたもので、中央は「高」の鼎で重さは2.5t、高さは153cm、口径は101cmある。左一間は「仁」の鼎で、重さ2.5t、、高さ144cm、口径101cmある。右一間は「章」の鼎で、重さ2t、高153cm、口径101cm、左二間は「英」の鼎で重さ2.7t、右二間は「毅」の鼎で重さ2.5t、左三間は「純」の鼎で重さ1.3t、右三間は「宣」の鼎で重さ2t、左四間は「裕」の鼎で重さ2t、右四間は「玄」の鼎で重1.9tであった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、世廟)

[参考文献]
・八尾隆生「収縮と拡大の交互する時代 16-18世紀のベトナム」(『岩波講座 東南アジア史』岩波書店、2001年8月)


顕臨閣背後の九鼎(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



篤祐門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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