法金剛院



法金剛院山門(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)

 法金剛院(ほうこんごういん)は京都市右京区花園扇野町に位置(外部リンク)する律宗寺院です。山号は五位山。本尊は阿弥陀如来。前身は平安時代前期の天安寺で、天安寺が衰退後、待賢門院(1101〜45)の御願で、覚法法親王(1092〜1153)を導師として大治5年(1130)落慶供養しました。阿弥陀堂を始め多くの堂が建てられましたが、火災によって衰微し、律僧の円覚上人導御(1223〜1311)が融通念仏によって復興しました。


法金剛院の建立

 法金剛院の前身は、天安寺である。天安寺は右大臣清原夏野(782〜837)の山荘が寺院となったものであり、双ヶ丘の麓にあったため双丘寺とも称された。天安2年(858)10月に文徳天皇陵の付近で三昧を修する沙弥20口が同寺に住まわせられたのをはじめとして、天安寺は文徳天皇関連の仏事の場となった。しかし次第に衰退し、12世紀までには事実上の廃寺となっていた。

 待賢門院藤原璋子は藤原公実(1053〜1107)の娘で、父がはやくに没したたため、白河上皇の寵姫祇園女御の養女となった。白河上皇を代父として、鳥羽天皇に入内し中宮となり、崇徳天皇・後白河天皇・上西門院を産んだ。待賢門院が御願寺を建立しようと思い立ったのは大治4年(1129)閏7月か8月のことであったと考えられている(角田1985)。待賢門院別当であった源師時(1077〜1136)の日記『長秋記』によると、同年9月10日に待賢門院の「仁和寺御堂」を建立するための候補地3箇所を占選しており、またこの地を決定することは13日とするのが吉であるとされたため、翌日見に行くことを述べて待賢門院の前より退出した(『長秋記』大治4年9月10条)。翌日、源師時は待賢門院のところに参じ、候補地を見に行くよう命じられたため、中原師能(?〜1129)とともに池田と天安寺に向かった。池田の地は狭かったが、天安寺の東西に川が流れており、また後方に山があり、南は開けていた。師時は優れた地と思い、戻って報告している(『長秋記』大治4年9月11日条)

 13日、待賢門院のもとに参じた師時は、天安寺の指図2枚を渡され、説明するよう求められた。師時は「地形は非常に優れています。ただ天安寺は文徳天皇の御願でしょうか。このように御願の跡地でしたら憚りがあるのでないのでしょうか。人々より聞いて決定すべきではないでしょうか」と答えている。さらに鳥羽上皇のもとに向かうと、上皇より「天安寺の跡地は憚るべきか」と問われ、「その旧跡でなければ何事でしょうか。また持ち主の民部卿が詳細を知っているのではないのでしょうか」と返答している。上皇はさらに「人々より聞いて決定すべきだ。大僧正行尊(1055〜1135)は反対して、諸帝の御骨を安置した地だと言っているそうだ」と述べている(『長秋記』大治4年9月14日条)

 16日には師時とともに池田と天安寺を視察した中原師能が殺害されるという椿事があったが、新御堂選定について協議された。中原師遠(1070〜1130)は「天安寺は文徳天皇の御願です。もとは夏野大臣の家でした。夏野大臣は文徳天皇の寵臣で、常に行幸がありました」と述べたが、師時は「文徳天皇の即位以前に夏野大臣は薨去しています。行幸は仁明天皇のことではないでしょうか。文徳実録には“阿弥筥を双丘寺に置く(右大臣清原の山荘である)”とあり、このようですから夏野大臣が薨去し、その住居を堂舎としたのでしょう。文徳天皇が崩御した時、御陵に近かったため、阿弥陀を置き功徳を修し、また加挙を給したのでしょう。そうでしたら文徳天皇が生きている時のことではなかったのでしょうか」と述べている。この意見を待賢門院が採用して、天安寺の地が決定された(『長秋記』大治4年9月16日条)

 大治5年(1130)2月29日、待賢門院の新御堂(西御堂)が棟上となった。この造営は播磨守藤原基隆(1075〜1132)が当たった(『中右記』大治5年2月29日条)。3月28日には鳥羽上皇と待賢門院が建立中の御堂に御幸し(『中右記』大治5年3月28日条)、鳥羽上皇はさらに5月19日午後にも建立中の御堂を見物している(『中右記』大治5年5月19日条)。5月17日に源師時は待賢門院の命によって仁和寺の御願堂を視察している。師時は「地形優美にして眺望極まりなし」と絶賛した上で、とくに林賢が造営した庭園の滝を称賛した(『長秋記』大治5年5月17日条)

 大治5年(1130)7月10日に大炊殿で起きた火災のため、新御堂の障子が焼損してしまい、幾つかは取り出せたものの、再度作り直しとなってしまっている(『長秋記』大治5年7月15日条)。そのこともあってか、絵仏師の応源(生没年不明)が新御堂の柱絵の制作を希望していたが、造営に当たっている藤原基隆が渋っていた。そのため藤原基隆は待賢門院より詰問され、応源一人のみが柱絵制作にあたることになったが、応源はあえて制作することなく、結局藤原基隆の人選通りとなってしまっている(『長秋記』大治5年7月27日条)

 大治5年(1130)10月9日、新御堂の供養日が決定され(『中右記』大治5年10月9日条)、10月14日に新御堂の寺号が選定された。この寺号は仁和寺宮二人と僧正二人が選定しており、その候補としてあげられたのが宝勝院・殊勝院・蓮華蔵院・法金剛院・蓮華蔵院(重複)であった。それぞれ関白藤原忠通(1097〜1164)と権大納言藤原宗忠(1062〜1141)が読み上げた。このうち法金剛院と宝勝院が候補に残り、藤原忠通の推薦によって法金剛院に決定された(『中右記』大治5年10月14日条)。21日に鳥羽上皇・待賢門院が法金剛院の御所に渡御する予定であったが、造営にあたった藤原基隆の家で五体が備わっていない子が産まれたことから穢れとされ、彼の家に法金剛院の多くの用物があったことから、渡御は延期となった(『中右記』大治5年10月21日条)

 10月25日、法金剛院供養が行われた。午時(午前11時)に鳥羽上皇と待賢門院が御幸し、内大臣以下の公卿が皆参列した。真言供養の讃衆が30人おり、この中に東大寺の覚樹律師(1081〜1139)が故実によって招集された。導師は仁和寺の覚法法親王(1092〜1153)であった。その後、舞楽が行われ、左は安摩・二舞・万歳楽・胡飲酒・散手・蘇莫者、右は地久・新摩鞨・帰徳・林歌・龍王・納蘇利が舞われた。戌時(午後7時)に還御して、造営にあたった藤原基隆、仏師の院覚(生没年不明)、絵仏師の明源(生没年不明)が賞を受けた。ついで大赦が行われたが、伊勢大神宮の訴えに触れた者、徒党を組んで犯罪を行う者、山科山陵(天智天皇陵)の樹木を伐採したものについては例外とした(『中右記』大治5年10月25日条)。この頃の法金剛院の伽藍は、大池を掘り、西側に御堂が位置しており、大門が西面であった。池の東側には御所を作り、御門は東に面していた。規模は1町(108m)四方で、贅を尽くした美麗さであった(『中右記』大治5年10月29日条)

 現在、周丈六の阿弥陀如来坐像(像高224cm)が法金剛院に安置される。かつて法金剛院では阿弥陀如来坐像は大治5年(1130)の西御堂(周丈六)、保延5年(1139)の南御堂(半丈六)、承安元年(1171)の東御堂(周丈六)の3体が造立されており、東御堂の阿弥陀如来坐像には光背中の鏡面に化仏9体を図し、輪光部の鏡面には梵字真言11通を奉っており(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院)、現在の光背にはいずれもその痕跡がみられないことから、南御堂、すなわち法金剛院建立当初の院覚造立ものと考えられている(井上1971)。なお現在本堂の阿弥陀如来坐像の手前に黒塗灯台2基が安置されており、一部後補があるものの、平安時代末期の遺例として貴重である。


法金剛院境内庭園の青女(あおめ)滝(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)

法金剛院の塔供養

 長承2年(1133)9月13日、待賢門院は法金剛院に渡御しているが(『長秋記』長承2年9月13日条)、翌14日に法金剛院の滝を見ながら舟に乗り、再度御堂に渡御した。そこで徳大寺法眼静意を召喚して、滝の高さを5・6尺(150〜180cm)ほど上げるよう指示している(『長秋記』長承2年9月14日条)。滝は大治5年(1130)の段階ですでに完成しており、造営にあたった林賢は滝の傍らに「衣もてなつれとつきぬ石の上に万代をへよ滝の白糸」という和歌を書きつけている。これを見た者は興があるというものから、不作法であるという者がおり、後者の主張をした権中納言藤原長実(1075〜1133)が、「白者(しれもの)の無由事(ゆえなきこと)をする法師つひハ人やにおるとこそきけ」と詠むと諸人は腹を抱えて笑った(『長秋記』大治5年11月1日条)。林賢の滝は自身で「滝の白糸」と詠んでいるように糸落の法によるもので、これは石を幾つかに分けて建てると、水が落ちるときに分かれて糸をくりかけたように落ちるものである(『作庭記』)。このように林賢が自信をもって作庭したものであったが、改作されてしまっている。林賢の石組は2m20cmほどであり、静意はこれを2m10cm高くしている。この改作の功績によって静意は法印の叙任ないしは法金剛院の別当職を望んだところ、鳥羽上皇は両方とも同じようなものであるからとして、三綱を授けている(『長秋記』長承3年閏12月9日条)

 その後待賢門院は法金剛院に塔の建立を志しているが、長承3年(1134)4月20日に4年前に新御堂の柱絵を描くことを希望して拒絶された応源が、塔の絵仏師として勤務することとなり(『長秋記』長承3年4月20日条)、扉絵は絵師信茂が担当した(『長秋記』長承3年4月20日条)。さらに寝殿と対屋(寝殿の東西両脇に伸びる建物)の絵について、色紙型に何らかの書が必要との見解があったため(『長秋記』長承3年4月29日条)、寝殿には『坤元録』、対屋には『文選』の文章が色紙型に書されることとなった(『長秋記』長承3年4月30日条)

 長承3年(1134)4月30日には経蔵と塔の建立地が協議された。右衛門督の藤原実能(1096〜1148)は南側の溝の外の春日小路に北面して建立することを主張し、源師時は回廊を縮小して、溝の内側に東向にして建立することを主張し、安芸守の藤原資盛(生没年不明)は溝の外の山を距て、東向にして建立することを主張した。協議の結果、山の南北面にある窪みを平にして建立することと決定された(『長秋記』長承3年4月30日条)

 長承3年(1134)8月12日に、源師時は息子の源師仲(1116〜72)を連れて待賢門院のところへ参上し、翌日の法金剛院の塔・経蔵の立柱・棟上について、待賢門院に誰がこの事を承ったのか待賢門院に訪ねている。待賢門院はすでに沙汰が終わっており、子細を尋ねて実施するよう伝えている。何も聞いていなかった師時は驚いており、その後陰陽師の賀茂宗憲(生没年不明)に使して、翌日が吉日であることを確認している(『長秋記』長承3年8月12日条)

 8月13日、塔と経蔵の棟上が行われた。塔は御堂の南垣の外に東向に建てられることとされ、経蔵はその西に建てられた。四面に回廊が巡らされた。塔や経蔵の柱には麻が結びつけられ、引っ張って立てた。この時壇はつくられず、礎石のみがあった(『長秋記』長承3年8月13日条)

 保延元年(1135)3月27日、鳥羽上皇と待賢門院が法金剛院に御幸し、御堂供養が行われた。この時の御堂は北斗堂であり、境内地の東北、御所の北に位置した。南向きの建物であった。この建造にあたったのが美作守の藤原顕能(1107〜39)で、仏像は仏師賢円が造立した。鳥羽上皇と待賢門院は新御所にも渡御しているが、この新御所の建造にあたったのが周防守の藤原憲方であり、2年で完成した(『長秋記』保延元年3月27日条)

 保延2年(1136)10月、棟上から2年を経て、ようやく塔が完成に近づいていた。藤原頼長(1120〜56)は伝聞により、同月9日「新御堂」の習礼(儀式のリハーサル)が行われていると、日記『台記』に記しているが(『台記』保延2年10月9日条)、実際には塔供養の習礼であった。

 同年10月15日、法金剛院の塔供養が行われた。同日の内に金泥の一切経供養も行われ、供養僧は108口(人)が屈請された。まず丑剋(午前2時)に中宮(皇嘉門院)が行啓し、午剋(正午)には崇徳天皇が行幸した。輿は東門の外にて控え、天皇が法金剛院に入ると「乱声(らんじょう。雅楽の前奏曲)」が奏でられ、楽行事の藤原教長(1109〜80)・藤原公能(1115〜61)が楽人・舞人を率いて参向し、壱鼓・奚婁(いずれも鼓の種類)があざやかに先行し、池に浮かぶ龍頭鷁首の舟から演奏された。天皇は御所に入って御膳を摂り、その後神殿の西向の階段より腰輿(たごし。二人が手で運び、腰の高さまでとなる輿)にて御堂に向かい、仏像に礼拝し、さらに腰輿にて塔に向かった。この時関白藤原忠通は天皇の下襲の裾を取り持っている(『中右記』保延2年10月15日条)

 この時演奏された雅楽については塔供養の習礼を記録した「法金剛院御塔供養習礼」で知ることができる。まず天皇が御塔に行幸すると「乱声」を奏し、公卿が着座すると再度「乱声」を奏して「振桙」が演奏される。演奏が終わると僧が幄下に集まり、さらに貴徳塩(貴徳か壱徳塩か不明)を演奏した。次に導師・呪願が前に到ると「宗明楽」を演奏した『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)。「宗明楽」は盤渉調の曲で、御願供養の際、導師・呪願を送る曲として用いられていた(『教訓抄』巻第6、無舞曲楽物語、盤渉調、宗明楽)。次に「十天楽」を演奏し、鳥蝶の舞が行われ、塔の壇のもとに到ると退いた(『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)。「十天楽」は、東大寺講堂供養の日に十人の天人が天から下って仏前に花を供えたため、笛師の常世乙魚(生没年不明)が勅によって作曲したとされ(『教訓抄』巻第6、無舞曲楽物語、渡物曲、十天楽)、鳥蝶の舞の「鳥」とは「迦陵頻」のことで、「蝶」とは「胡蝶」のこといい(『教訓抄』巻第7、舞曲源物語、別番様)、それぞれの着ぐるみを着た童子が舞っていた。この時は迦陵頻・胡蝶はそれぞれ8人づつで、迦陵頻は胡蝶が退いた後も舞台に留まって舞い、迦陵頻が終わった後に胡蝶が舞台に登った(『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)

 次に「溢金楽」が演奏された(『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)。「溢金楽」は、「壱金楽」「承果楽」とも呼ばれ、和爾部大田麿(798〜865)が作曲し、舞は犬上是成がつくったというが、鎌倉時代中頃には舞が絶えてしまっていたという(『教訓抄』巻第6、無舞曲楽物語、渡物曲、壱金楽)。次に唄師が舞台に登ると曲を停止し、さらに散花が舞台に登った。この間楽人はそれぞれ左右に分立して「渋河鳥」を演奏している。彼らは南北に相対して舞台に昇り、衆僧の中に加わり行道を行った(『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)。「渋河鳥」は隋の煬帝が作曲した曲がもとになっているとされ、行道の時に用いられていた(『教訓抄』巻第6、無舞曲楽物語、渡物曲、渋河鳥)。次に「裹頭楽」が演奏され、讃衆が舞台に登る。讃衆が舞台から降りる時には「郎君子」が演奏され、さらに「慶雲楽」が演奏された。次に梵音が舞台に登り、降りると「陪臚」が演奏された。「蘇莫者」が演奏され、錫杖衆が舞台に昇り、降りると左は「万歳楽」、右は「地久」を演奏して終了した(『諸寺供養部類』法金剛院御塔供養習礼)

 塔供養が終わると、一切経供養が行われた。導師は忠尋(1065〜1138)が務め、舞は左が安摩・二舞・万歳楽・胡飲酒・蘇莫者・散手・陵王が、右が地久・新靺鞨・胡徳楽・帰徳・納蘇利が行われ、帰徳の時には建立の功労者の昇叙が行われたが、この時大雨であったという(『中右記』保延2年10月15日条)

 三重塔跡は平成7年(1995)の発掘調査によって発見されており、版築基壇をもつ一辺が4.8mほどの建物であった(京都市埋蔵文化研究所1997)。明徳三年(1392)の『相国寺供養記』に述べられていることから、この頃まで残存していたらしいが、文明19年(1487)の見聞記録では塔の基壇が海石で造られていることは述べられているが、肝心の塔は述べられていないから(『蔭涼軒日録』文明19年8月13日条)、この頃までに焼失していたらしい。


法金剛院三重塔跡付近(平成23年(2011)10月4日、管理人撮影)。法金剛院の山門の南側、丸太町通を夾んだJR嵯峨野線の高架下は、かつての法金剛院三重塔跡地にあたる。かつてはこの50m程南が塔跡とみられていたが、平成7年(1995)の発掘調査で塔跡が検出された。



平安時代の法金剛院想像図(左)と法金剛院付近の明治年間の地籍図(右)(森蘊「法金剛院の庭園について」下 〈『建築史』第1巻第1・2号、1939年、64・65頁〉より一部転載)。森氏の想像図は塔が実際よりも南側に推定しているものの、法金剛院の配置をよくあらわす。

伽藍の完成

 保延3年(1137)8月6日に鳥羽上皇が法金剛院に御幸しているが、この時、馬場にて競馬(くらべうま)が行われている(『中右記』保延3年8月6日条)。さらに9月23日には崇徳天皇が法金剛院に行幸し、競馬が行われている(『中右記』保延3年9月23日条)。この時の競馬は『宇槐雑抄』によると、1〜5番(当時の競馬は二人一組で競われ、この単位を「番」とした)実施され、さらに翌24日には6〜10番実施された(『宇槐雑抄』行幸、保延3年9月23・24日条)

 このように法金剛院には馬場が造営されていたことが知られるが、さらに「御堂北門」なる門があり、「件の門、四足に非ず」とあることから、御堂にふさわしいとされた四脚門ではなく、もっと簡素なものであったらしい。さらにその南に馬場殿が位置したが(『宇槐雑抄』行幸、保延3年9月24日条)、馬場殿は南・北・東の三方に庇があり、西面の庇についての記述がなく、かつ簾をかける範囲が北・西面は第2・3間であったことなどから(『宇槐雑抄』行幸、保延3年9月24日条、競馬行幸式)、西向の桁行3間3面(正面3間で正面以外の周囲3面に1間の庇が付く)となるとみられる。

 保延5年(1139)3月22日には法金剛院の南御堂の供養が行われている(『御室相承記』4、高野御室、御堂供養御参事、法金剛院)。南御堂は桧皮葺の9間4面(正面9間で庇が四面に付く)、金色の半丈六の阿弥陀如来像を安置し、その左右には等身の阿弥陀如来像8体が配置された、いわゆる「九体阿弥陀」である。柱には胎蔵・金剛両部曼荼羅が梵字(種子)で描かれ、中尊の後壁には、南壁には九品往生曼荼羅・六観音像・六道衆生が描かれ、北壁には極楽曼荼羅が描かれた。左右それぞれ四面の後壁には、南面に十往生の様子が、北面には九品往生の様子が描かれていた(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院)

 同年11月25日には法金剛院の三昧堂の供養が行われている(『御室相承記』4、高野御室、御堂供養御参事、法金剛院)。この三昧堂は、「瓦葺一間四面堂」とあることから(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院)、本瓦葺の1間(庇が四面に付くため、見た目の上は3間)で、恐らくは宝形造であったかとみられる。四面の扉には法華曼荼羅が描かれ、内部に七宝塔が安置された。この七宝塔には紺紙金泥の法華経1部8巻、無量義経・観普賢経それぞれ1部1巻、金光明経4巻、阿弥陀経・普賢行願品(四十巻本華厳経の巻第41)がそれぞれ1巻納められている(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院)。また『百練抄』には同日のこととして、待賢門院が「万歳の御願」として建立した御堂が供養されたことが記されているから(『百練抄』保延5年11月25日)、三昧堂は待賢門院が自身の崩御以前に逆修のために建立したことが知られ、七宝塔の納入経から、待賢門院の信仰は女性らしく法華信仰を中心としたものであったことが知られる。

 待賢門院は自身の最期の時が近いのを感じたのか、康治元年(1142)2月26日に法金剛院にて出家した。戒師は覚法法親王で、唄師は信正僧正(1096〜1142)であった(『御室相承記』4、高野御室、戒師御参事)。さらに待賢門院は久安元年(1145)8月に法金剛院を覚性入道親王(1129〜69)に譲った。覚性入道親王は鳥羽天皇の第5皇子で、母は待賢門院であった『仁和寺御伝』紫金台寺御室)

 待賢門院は久安元年(1145)8月22日酉刻(午後5時)に三条高倉第で崩御した。鳥羽法皇は臨終の待賢門院のもとで磬を打ち鳴らし、大声をあげて泣き叫んだ(『台記』久安元年8月22日条)。翌23日、入棺した待賢門院のなきがらは、三昧堂に安置され、まるで生きているかのように扱われた。その後石穴内に安置された(『台記』久安元年8月23日条)。覚性入道親王は待賢門院が崩御した後、法金剛院にて郭公が鳴いているのを聞いて感慨深く次のように詠んでいる(『千載和歌集』巻第9、哀傷歌、第588番歌)
 ふるさとに今日こざりせばほとゝぎす誰とむかしを恋ひてなかまし

 前述の通り、待賢門院が崩じた後、法金剛院は覚性入道親王が領することになったが、その後同母妹の上西門院統子内親王(1126〜89)が伝領することになったらしい。保元3年(1158)7月20日に上西門院は七条朱雀の右京大夫信輔の堂に方違しているが、これについて法金剛院が修理するためであるという推測があった(『山槐記』保元3年7月20日条)。平治2年(1160)2月27日には上西門院が法金剛院にて出家しており、戒師は覚性入道親王が、唄師寛遍僧正(1098〜?)がつとめた(『仁和寺御伝』紫金台寺御室)

 仁安3年(1168)7月2日には後白河上皇が法金剛院に御幸しているが、この時には上西門院の御所が法金剛院内部にあった(『兵範記』仁安3年7月2日条)。嘉応元年(1169)の法金剛院の一切経会はこの年は停止されているが、翌年8月19日には実施されている。これは覚性入道親王が停止された年の2月に示寂したことと関連があるとみられている(『御室相承記』5、紫金台寺御室、御入滅事)。承安元年(1171)10月8日、上西門院は法金剛院内部に御堂(東御堂)を建立しており、この日後白河法皇と建春門院(1142〜76)が御幸して供養が行われた(『玉葉』承安元年10月8日条)。この時供養された堂は東御堂であり、桧皮葺の1間四面(庇が四面に付くため、見た目上は3間)で、金色の丈六阿弥陀如来像1体を安置し、同像の光背の中の鏡面に化仏9体を図し、輪光部の鏡面には梵字真言11通を奉っていた。守覚法親王(1150〜1202)が導師であった(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院)

 説話ではあるが、守覚法親王が念誦中に庇より法金剛院の惣門にいる白髪の狂女が現われたが、守覚法親王は騒ぐことなく「何者ぞ」というとただ笑っているだけであったという(『古今著聞集』巻第16、与言利口第25、北院御室老狂女と問答の事)

 かつて西行(1118〜90)は待賢門院を慕っており、親しく交流があった。法金剛院にて紅葉に寄せて懐旧し、以下の歌を詠んでいる(『山家集』中)
  いにしへを恋ふる涙の色に似て袂に散るは紅葉なりけり
 なおこの頃、西行は法金剛院の紅葉を見つつ、上西門院が法金剛院にいることを聞いて、待賢門院がいた時のことを想いだし、次の歌を詠んでいる(『山家集』中)
  紅葉みて君がたもとや時雨るらんむかしの秋の色をしたひて

 養和元年(1181)5月21日、法金剛院は焼失しており(『吉記』養和元年5月21日条)、寿永元年(1182)2月17日に行われた理趣三昧は焼失した堂とは別の堂で実施されている(『吉記』寿永元年2月17日条)。この時焼失した堂は東御堂であったらしい(古藤2002)。また建暦元年(1211)7月6日に道法法親王(1166〜1214)を導師として法金剛院北斗堂の鎮壇が行われている(『御室相承記』6、後高野御室、鎮壇事)

 法金剛院東御堂供養の七僧法会の記事を所載する『北院御室御記』よりの引用として、建久元年(1190)7月12日の刑部の書状に鎮壇の布施に関する質問があり(『法守親王曼陀羅供次第』択良辰行鎮壇)、このことから東御堂の再建は建久元年(1190)以降のことであったらしい。また東御堂供養の七僧法会の際に仏師らに賞を賜っており、大仏師には大褂1領、頭仏師には白布2端、小仏師にはそれぞれ白布1段を賜っている(『法守親王曼陀羅供次第』賜仏師禄有差)


宮内庁治定待賢門院墓(平成23年(2011)9月13日、管理人撮影)

円覚上人導御

 法金剛院を再建したのは導御(1223〜1311)である。導御は鎌倉時代中・後期の律僧で、後代の史料では「道御」と記されるが、本人の自署により「導御」が正しいことが知られる。字は修広で、円覚上人の通称で知られるが、円覚十万上人(当時は「十万人上人」)とも称された。ここで導御の生涯について述べていくが、ここでの記述は主として細川涼一「法金剛院導御の宗教活動」(『中世の律宗寺院と民衆』吉川弘文館、1987年11月)によるところが大きかった。

 導御の出身地は大和国服部郷とも(「円覚上人像賛」)、伊勢国服部郷ともいう(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』〈大覚寺文書〉、および『法金剛院古今伝記』)。そのため元禄16年(1703)に成立した『招提千歳伝記』では、大和国出身であるが、後に伊勢国服部郷に移ったとする折衷案を提示する(『招提千歳伝記』巻上之2、伝律篇、第24世中興第4世道御広和尚伝)

 俗姓は大島氏であり(「円覚上人像賛」、および『法金剛院古今伝記』)、伊勢国服部郷説をとる史料によると、導御の父は伊勢国服部郷殖松村の在庁官人広元の長子であった。広元には30歳すぎても相続すべき男子がおらず、奈良の春日大明神(春日大社)に参篭した。ある時夢に「お前は前世で殺生を業として生物を殺してきたから、子孫がないのだ。だがお前は神妙にしているから、命を代えて一子を与えよう」といい、目覚めると夫人は懐妊していた。産まれた子は今若丸と名付けられた(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』)

 広元は夫人に「春日大明神は私に、この子が懐妊してから十ヶ月以内に貧窮になり命も失う、と言っていたが、今松丸は3歳になり、私も無事ではないか」といって、あざ笑ったため、武甕槌命が御笠山の赤童子とともに広元の家に向かい、神火で広元の三百余宇におよぶ大邸宅を焼き払い、近隣に疫病を流行させたため、広元はたちまち死亡した。そして近隣も疫病のため、広元を埋葬する者がおらず、死体は獣に喰われ、眷属もすべて病死した。母は一人今若丸を連れて放浪したが、神の祟りを受けた者に施しする者はおらず、奈良で今若丸を棄てた。今若丸は梅木坊という僧侶に拾われ、養育された(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』)

 このような、導御が神より命を授けられ、その代償として神が父の命を奪ったとする伝説はともかくとして、諸史料では導御の出家は15歳の時であったとすることは概ね共通している。東大寺にて出家・授戒しており(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』、および『法金剛院古今伝記』)、18歳の時、亡き父のため菅原寺にて如法経供養を行ない、同年内に唐招提寺の証玄(1220〜92)のもとで具足戒を受けた(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』、および『法金剛院古今伝記』)。証玄は唐招提寺中興第2世となった人物であるが、証玄の師で唐招提寺中興第1世の覚盛(1194〜1249)は、西大寺叡尊(1201〜90)の盟友として戒律復興を果たした人物であった。その後導御も律僧として活動していくことになる。なお証玄のもとでの具足戒受戒の年を30歳の時のこととする史料もある(「円覚上人像賛」)

 導御は法隆寺の東院(上宮王院)に入院している。その先代は文応元年(1260)に入院した円照(1221〜77)であったが、「宝金剛院英舜」に東院を譲っている(『東大寺円照上人行状』中)。この「宝金剛院英舜」については、同一史料内に円照とは別人より具足戒を受けながらも、円照に帰依して門人となった人物として、「宝金剛院円覚上人」とあげており(『東大寺円照上人行状』下。同書は『続々群書類従』第3巻〈国書刊行会、1907年9月〉に翻刻され、当該箇所は「宝金剛院園覚上人」となっているが、同本の底本となった花園大学図書館所蔵今津文庫の『法金剛院雑記』(http://www.hanazono.ac.jp/DArchives/e-shoko/html/07210003.html)の箇所には「宝金剛院円覚上人」とある)、また律三大部折本奥書に「導御/法隆寺北室」とあることから(『円覚十万上人年譜考』所引)、両人が同一人物とされている(五来重著作集7)

 導御は法金剛院を含めた多くの寺院を再興したが、とくに「法隆寺律学院(東院)それ随一となす」とみなされたように(『法金剛院古今伝記』)、法隆寺の再興は導御にとって重要なものであった。文永5年(1268)4月に西院西室を改造し、同年11月に食堂の薬師如来三尊像塑像の修理と安置の厨子を造立しており(以上『法隆寺銘文集成』上)、文永8年(1271)3月には東院逆修を勧進した(『法隆寺寺要日記』10月8日条。細川1987所引)。文永年間(1264〜78)には法隆寺の末寺化していた法起寺の講堂を再建しており(「法起寺僧侶申状案」水木直箭氏所蔵文書)、弘安7年(1284)7月に新堂院棟上の勧進を行なっている(『法隆寺銘文集成』上)。導御はこれらの再建を勧進で行っていた。勧進は堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募るものであり、東大寺の再建において重源(1121〜1206)が東大寺大勧進職に任じられ、浄財を募るととともに、工人・職人らを組織して再建に成功した。その後律僧が勧進を得意としており、導御もまた律僧であった。導御はこの勧進によって最終的に48箇寺もの寺院の再建に成功する(「円覚上人像賛」)

 説話では、導御は夢殿に参篭し、父の菩提と別れた母との再会を祈っていた。その時聖徳太子が小童に託宣して、「お前は所願を遂げようとしているが、まず名利を捨てて聚楽(京都)に入り、道俗男女を集めて無遮大会を行い、融通念仏を勧進しなさい」といったため、導御は歓喜して躍り上がり、法隆寺を出て京都に行き、法金剛院で融通念仏を専修することになったという(『法金剛院古今伝記』)

 導御が法金剛院に入ったのは弘安5年のことである(『招提千歳伝記』巻上之2、伝律篇、第24世中興第4世道御広和尚伝)。この頃、法金剛院は衰退していたらしく、弘安8年(1285)4月28日に仁和寺の性仁入道親王(1267〜1304)より甲斐国稲積荘を法金剛院の根本寺領であることによって、修造のために導御に寄進されており(「仁和寺御室性仁親王令旨案」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文15574〉)、また同日には山守が同寺修造の期間に限定して導御に寄進されている(「仁和寺御室性仁親王令旨案」山城仁和寺文書〈鎌倉遺文15574〉。山守の部分は底本には「山守」とあるが、写真帳を精査した細川1987によって改める)。「山守」は山野領有の末端にあって山の番をする職の者をいい、仁和寺・法金剛院間にある双ヶ丘を指しており、山守得分としての山林伐採権を修造の間法金剛院に寄附したものとみられている(細川1987)。その成果は弘安11年(1288)4月10日に法金剛院が棟上されてことからも明らかである(『勘仲記』弘安11年4月10日条)

 導御はすでに法隆寺を結縁勧進によって再興を行っていた。このような導御の手腕を期待して、仁和寺は衰退していた法金剛院の再興を導御の手に委ねたのだが、導御はこれを勧進によって再興を果そうとしていた。導御は法隆寺にいた文永8年(1271)8月1日に十万人の持斎大念仏を発願している(「円覚上人十万人持斎大念仏縁起并十種発願之文(釈迦堂大念仏縁起)」大覚寺文書)


法金剛院蔵「円覚上人像」(北川智編『円覚十万上人年譜考』〈壬生寺、1929年〉口絵より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

融通念仏

 法金剛院において導御が行った融通大念仏会の詳細についてはわかっていないが、導御は清凉寺でも嵯峨大念仏会を催している。弘安2年(1279)3月6日より同月15日に行われた融通大念仏会は、洛中辺土(京都内外)の僧・俗人、男女が問わず人が雲のように集まった。以後毎年恒例となったという(清凉寺本「融通念仏縁起」第10段)。導御の融通大念仏会には多くの人々が集まっていたが、導御は十万人を超えるごとに大斎供養したため、導御は「十万上人」と呼ばれるようになった。これらの事が後宇多院の耳にも達し、「円覚上人」の号を特賜された(『法金剛院古今伝記』)

 この嵯峨大念仏会は大勢の人々が集まっており、その中で多くの出来事があったらしく、それらが説話化していった。その中で母子再会譚を主題とする「嵯峨の大念仏の女物狂」というジャンルが謡曲に登場したが、これは観阿弥(1333〜84)が得意とし、子の世阿弥(1363〜1443)より「殊々得たりし風体なれば、天下の褒美名望を得し事、余もて隠れなし。是幽玄無上の風体なり。」と評された(『風姿花伝』)、後に世阿弥によって『百万』がつくられているが(『申楽談儀』)、『百万』はこれに先行する『嵯峨物狂』を改作したものだという(『能作書(三道)』)。『百万』に描かれる大念仏会は、大勢の人々が集まって念仏を唱和するものであり、導御が行った大念仏会の中世における様相をかいま見ることができる。

 嵯峨大念仏会は生き別れの母子の再会をテーマとする謡曲『百万』を生み出したが、後世、導御もまた嵯峨大念仏会を通じて母と再会できたとする説話を生み出すことになる。それによると、導御はいまだに母に再会できないことを嘆いていたが、善無畏『大日経義釈』の中に「地蔵菩薩を供し礼拝たてまつらば、求むるところの諸願、速やかに満足することを得んとなり」とあることによって、法金剛院を出て嵯峨の釈迦堂(清凉寺)に移った。昼は人々に念仏を勧め、夜は愛宕山に一人で登るということを繰り返していた。ある夜、山に登っていると、清滝川のあたりで一人の僧に出会い、参詣する宿願を聞かれた。導御は余すことなく答えると、その僧は、「その人なら播磨国にいるだろう。急いで訪ねなさい」というや、地蔵菩薩に変化し、雲を穿って空に飛び去っていった。導御は播磨国に行き、6月下旬頃、印南野で雷雨となり、一株の松の下に雨宿りしていると、傍らに失明した老婆がおり、「ああ怖ろしい、雷が鳴った時、3歳で捨てた今若丸を抱きしめていたのに。もし今若丸が死んでいなければ、いくつになっただろうか」とつぶやいた。導御は母に捨てられた時、襟に「伊賀国服部郷の広元長者の一子、今若丸」と縫い込んでおり、導御を拾った師より聞いていた。二人は涙を流して抱きしめあい、導御の弟子達も涙を流して嗚咽した。さらに導御の眼から光が出て、母の眼を照らすと、母の両眼はたちまち見えるようになったという(『嵯峨清凉寺地蔵院縁起』)。さらに近世期には導御と『百万』の母子再会譚は再統合し、『百万』のタイトルは、十万上人(導御)の母であるから、百万とされたという(『謡曲拾葉抄』巻17、百万)

 導御は清凉寺に律宗の子院たる成法身院(地蔵院)を建立しているが、延慶元年(1308)12月10日、導御は梅宮社領高辻名内の田畠1町1段(約1ha強)を成法身院の三宝物領として購入しており(「導御・導禅連署証文」尊経閣古文書纂15〈長福寺文書の研究第116号文書〉)、成法身院経営の安定化をはかっている。この成法身院は、江戸時代に同じく清凉寺子院であった明王院・宝泉院・宝性院・歓喜院とともに真言宗を唱えて大覚寺支配を主張し、明治維新後、浄土宗単独寺院となった清凉寺から離れて大覚寺覚勝院に合併し、そのまま廃寺となった。同院の墓地は覚勝院墓地として清凉寺方丈の背後に残り、導御の墓と伝えられる宝篋印塔や、導御が十万人供養結縁塔として建てた石幢とされるものが残っており、いずれも鎌倉時代末期の遺品とみられている(川勝1972)

 導御は壬生寺の再興も果たしており、元禄15年(1702)に版行された『壬生寺縁起』によると壬生寺にて毎年行われる大念仏狂言(壬生狂言)は導御が創始したものであるという(『壬生寺縁起』、第4、当寺中興円覚上人の行迹并念仏会事)。導御が存命中、壬生寺は平政平によって再興に着手され、正嘉2年(1258)8月28日本尊遷座(『壬生寺縁起』、第6、政平亦当寺造営付飢饉を救ふ事)、正元元年(1259)に惣供養が行われているから(『壬生寺縁起』、第7、当寺造営惣供養の事)、導御が京都で活動を行った時期とは食違いを見せており、しかも大念仏狂言自体が導御の時代よりも2世紀ほど後に史料上にはじめて現われるものであるから、元禄15年(1702)に版行された『壬生寺縁起』に記された説話が必ずしも史実であるとは言い難いが、導御が壬生寺を再興したことは事実と見てよいだろう。

 大念仏会は謡曲『百万』にみえるように、大勢の人々が念仏を唱和するものであったが、これに付随して大念仏狂言が行われるようになる。大念仏狂言は仮面無言劇であり、16世紀には確実に実施されていたらしく、壬生寺・嵯峨念仏狂言・千本焔魔堂で行われた。大念仏狂言は本来は教化の手段として用いたものらしく、現在壬生寺の演目「桶取」では、夫が違う女性のもとに走ったため狂死した妻の霊を慰めるため、円覚上人(導御)の勧めによって両人が出家したというエピローグがかつて演じられていたという。現在も壬生寺・嵯峨清凉寺では大念仏狂言が春になると演じられている。

 嘉元2年(1304)2月、唐招提寺中興第3世長老を務めていた真性(?〜1304)が示寂した。真性は導御と同じく証玄の弟子であり、そのため唐招提寺は一山をあげて導御を長老に招聘した。導御は唐招提寺中興第4世長老に就任したが、法金剛院から出ることなく、すぐに同門の尋算(1228〜1306)に第5世長老を譲った(『律宗瓊鑑章』、および『招提千歳伝記』巻上之2、伝律篇、第24世中興第4世道御広和尚伝)

 導御が再興した寺院は48箇所にもおよんだが(「円覚上人像賛」)、80歳の時の乾元2年(1303)3月24日には勝尾寺に登り、舎利供養を実施している(「導御舎利供養諷誦願文」摂津勝尾寺文書〈鎌倉遺文21401〉)。導御はその後も勝尾寺と交流を持っていたらしいが、勝尾寺で一和尚以下3人が退出する事件がおこると、書簡で憂慮を示しており、しかもその頃痢病(赤痢のような激しい下痢を伴う病気)となり、その後中風(脳卒中などの後遺症による麻痺)になっていたため気力がつきたという(「導御書状」摂津勝尾寺文書〈鎌倉遺文21402〉)

 応長元年(1311)9月29日、導御は法金剛院にて結跏趺坐したまま示寂した。89歳。この時顔色は変わることなく、上空に瑞雲がたなびいて空にそびえ立ち、見る者はこの不思議な出来事に感歎したという。導御が得度した者は90万人に及んだという(「円覚上人像賛」)

 導御の墓は法金剛院の開山塔である法命寺に造営された。法命寺は後に廃絶し、法金剛院の裏手の五位山に法命寺から移した導御の墓とされる宝篋印塔が残る。


法金剛院背後の五位山中の円覚上人墓(平成23年(2011)10月4日、管理人撮影)。塔身は後補であるが、隅飾突起は少なくとも南北朝時代まで溯るもの。

中世の法金剛院

 『徒然草』に「浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり」(『徒然草』第220段)とある文は、異本には「法金剛院」とある。現在妙心寺にある「戊戌」年の梵鐘は、文武天皇2年(697)の現存日本最古の梵鐘であるが、『扶桑鐘銘集』には「法金剛院の鐘、今ここにあり」とあるように、かつては法金剛院にあったものであるという。

 法金剛院では導御示寂後も律僧の活動が継続された。とくに導御の門人とみられる円宗朝海(生没年不明)の十一面観音坐像の造立結縁は有名である。

 朝海は導御示寂2年後にあたる正和2年(1313)9月29日に毎日333体の摺仏供養を開始しており(「十一面観音坐像底朱漆銘」)、これは導御の三回忌をもって行われたことが指摘されており、朝海が導御の門人であった可能性がある(長谷川1971)。さらに正和5年(1316)10月8日に十一面観音坐像(像高70.5cm)の造立を開始している(「十一面観音坐像底朱漆銘」)。これらの造立にあたったのは院派の仏師たちで、法印院エン(さんずい+宛。UNI6DB4。&M017593;)・法眼院吉・覚舜・法橋院聖・観保・定審・院蔵・院救・慶賢・院郎・院舜・観存・快実・院鑑・澄審・定慧の16名が仏師名札に記されている。元応元年(1319)5月21日には荘厳具が備わり(「十一面観音坐像底朱漆銘」)、摺仏供養は同年6月18日に終了している。十一面観音像は同年6月18日に完成した(「十一面観音坐像底朱漆銘」)。昭和4年(1929)の解体修理に際して大量の納入文書が発見されたが、結縁者は1万3千人におよび、当時の高僧である凝然(1240〜1321)・一山一寧(1247〜1317)・約翁徳倹(1245〜1320)らの署名紙片のみならず、すでに物故していた叡尊・証玄・忍性(1217〜1303)の署名紙片も納入されていた。

 十一面観音坐像は、現在本堂の中央阿弥陀如来坐像の向かって右側に厨子内に安置されている。厨子内部には十二天が描かれており、正面向かって左の扉より時計回りに月天・地天・風天・焔摩天・伊舎那天・帝釈天・観音変相図・火天・毘沙門天・羅刹天・水天・梵天・日天が描かれるが、もとはこの順番ではなく、いずれかの時期に順番が入れ替わったものらしい。十二天は陸地の岩と海の彼方の水平線、渦巻く波が動的となっている。このような仏画を内部に描く厨子を春日厨子といい、多くは鎌倉時代末期の制作であるが、作成年代がわかるものとして貴重である。

 法金剛院は観応2年(1351)10月23日に将軍足利義詮より、大般若経を転読して敵の平定を祈るよう命じられている(「足利義詮御判御教書」法金剛院文書〈大日本史料6編15冊531頁〉)。文和2年(1353)10月8日にも、足利義詮は法金剛院に大般若経の転読によって天下泰平を祈祷させている(「足利義詮御判御教書」法金剛院文書〈大日本史料6編18冊391頁〉)

 応安5年(1372)3月28日に仁和寺の法守法親王は、法金剛院の北斗堂の修理料所として丹波国三箇北荘を知行している(「仁和寺宮法守法親王令旨」法金剛院文書〈大日本史料6編35冊295頁〉)。応永7年(1400)3月30日、足利義満は法金剛院を祈願寺としている(「足利義満御判御教書」法金剛院文書〈大日本史料7編4冊522頁〉)

 この頃法金剛院の住持となった人物に教林顕一(?〜1428頃)がいる。顕一は生まれつき英才と称されており、律宗を学んだ。応永17年(1410)10月に唐招提寺にて南山事鈔(道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』)について講義を行っており、この講義に列席する者は、まるで渇きに水を受けるかのようであったという。12月には法金剛院に移り、南山事鈔の残り分を講義した。この時戒円・忠尋らが従って聴講した。その後法金剛院の住持となっていたが、唐招提寺中興第26世長老の恵仁が示寂したため、唐招提寺第27世長老に就任、応永32年(1425)には戒壇にて諸徒のために別受の授戒を行った(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第48世中興第28世顕一林和尚伝)

 文明元年(1469)10月、月のない闇夜に待賢門院陵が盗掘される事件が発生した。実際には地面を掘っても盗掘するまでに到ることなく、盗掘者は去って未遂に終わっていたが、その後法金剛院によって発掘が行われた。5尺(150cm)ほど掘ると一つの銅箱があり、蓋を開けてみると紙のような一枚の銅板があり、法華経などが刻まれており、字は少しも摩耗しておらず、銅板も朽ちていなかった。数日後に石工に盤陀(はんだ)で箱を造らせて、中に銅板を入れ、再度地中に埋納し、その上に石塔婆を建てた(『仁和寺諸院家記(顕証本)』法金剛院、裏書)

 仁和寺の歴代御室のうち、法金剛院に住する者があり、法尊(1396〜1418)は法金剛院に葬られており(『仁和寺御伝』准三后)、承道法親王(1408〜53)は「法金剛院御室」と称されていた(『仁和寺御伝』法金剛院御室)。また永正13年(1516)12月17日に覚道法親王(1500〜27)が法金剛院観音院にて伝法灌頂を受けている(『仁和寺御伝』後禅阿院御室)

 享徳4年(1455)7月2日に法金剛院の敷地と付近の田畠・山野および法華堂などの散在する地について、方々勝手に行う者を停止させ、当知行のままに法金剛院が領掌することを幕府より安堵されていたが(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成433〉)、天文3年(1534)10月4日にはさらに踏み込んで、法金剛院住持職と末寺寺領について、天文2年(1533)11月8日の士順の譲与状のままに珠慶房雲盛に安堵している(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書)。これによって法金剛院の末寺と末寺領が住持の手に掌握されることとなり、荘園からの収入が戦国期の情勢により絶望化しつつある中、かろうじて法金剛院が生き残ることになる契機となった。

 文禄3年(1594)に観音堂が造立され、同年4月18日に十一面観音坐像を移座している。これは戦乱のため十一面観音坐像を仁和寺に避難していたのを、この時になって安置する堂を建立したのである(「十一面観音坐像台座心棒上部墨書」)


法金剛院礼堂と池庭(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)

法金剛院の荘園

 法金剛院には寺院経営のため、多くの荘園を領していた。これら荘園のうち、いくつかは待賢門院時代に施入されたものであるが、これら施入荘園の預所は施入者に留保されることが多く、しかも法金剛院の荘園は領家は法金剛院でありながら、本家は皇室となったため、複雑な経過をたどることが多かった。

 怡土荘は現在の福岡県糸島市に位置した荘園であり、怡土郡の大部分を占める巨大荘園であり、荘田は1,450町(1,450ha)にも及び(「法金剛院所領并末寺目録写」法金剛院文書)、しかも貿易港今津を包括していた。怡土荘の立券時期は不明であるが、天承元年(1131)2月14日に、筑前守が観世音寺の本寺東大寺の訴えにより、「怡土御庄」の留守に対して非法を停止するよう命じており(「筑前国司下文案」東大寺文書4ノ32〈平安遺文2183〉)、国司が「怡土御庄」と敬語をつけていることから、この時すでに皇室御領、すなわち待賢門院御願法金剛院領として成立していたとみられている(正木1978)。文治4年(1188)3月28日、後白河法皇は鎌倉に対して、怡土荘は法金剛院領ではなく、能盛法師が伝領していたが、地頭設置のため知行が困難であると訴えたため、院宣にて地頭廃止を要望している(『吾妻鏡』文治4年4月12日条)。その後鎌倉側は奥州征伐の後に地頭を退去させることを約諾しながら、さらに能盛法師は知行が困難であると後白河法皇に訴えており、法皇は文治6年(1190)3月1日に約諾履行を源頼朝に迫っている(『吾妻鏡』文治6年3月9日条)。能盛が後白河法皇に訴えることが出来たのは、彼を含めた一族の多くが院の近習であり、さらに建久3年(1192)8月27日には守覚法親王が亡き後白河法皇の遺志をついで、能盛の訴えの解決のため源頼朝に御教書を発給しているが(「仁和寺宮守覚法親王御教書」山城仁和寺文書〈鎌倉遺文613〉)、守覚法親王は後白河法皇の第二皇子であり、嘉応2年(1170)4月14日より仁和寺検校と法金剛院別当を兼任していた(『仁和寺御伝』喜多院御室)。父後白河院の遺詔遵守と仁和寺法金剛院領中最大の規模を持つ怡土荘に対する荘務執行権確保を計ったものである(正木1977)。荘園支配は弘安年間(1278〜88)には動揺をみせ、関東御領となって事実上直接的権益を失った。

 周防国田島荘・小俣荘・高墓荘(山口県防府市)は安芸権介藤原実明より法金剛院に寄進されたもので、保延3年(1137)9月に待賢門院庁は法金剛院領・玉祖社地・同社領の三箇所の境に榜示を打つよう周防国司・玉祖社(後の周防国一ノ宮)に求めており(「待賢門院庁下文案」東大寺図書館文書〈平安遺文2375〉)、周防国司はこれを受けて同年12月8日に留守所(国衙)に対して執務を促している(「周防国司庁宣案」京都大学所蔵東大寺文書〈平安遺文2382〉)。建久2年(1191)7月15日には後白河法皇に法金剛院領周防国多島(田島)荘・小俣荘等に関する事項が懸案となっている(『玉葉』建久2年7月15日条)。その後天文2年(1533)の「法金剛院所領并末寺目録写」には「玉祖社田」として128町余が計上されているが(「法金剛院所領并末寺目録写」法金剛院文書)、実態は不明で、貞永年間(1232〜33)には全域が玉祖社の社領化していることから、法金剛院の荘園としては有名無実であったようである。

 河和田荘(福井県鯖江市)は藤原周衡の娘の周子が寄進したことにはじまる。これに中納言源雅定(1094〜1162)の位田を混合して、長承3年(1134)閏12月15日に待賢門院庁が越前国の在庁官人や河和田荘司に立券を命じた。これを法金剛院懺法堂領とし、八丈絹50疋・綿500両を年貢とした。ただし預所は周子の子孫が留保することとなった(「待賢門院庁下文案」仁和寺文書〈平安遺文2310〉)。さらに周子は保延5年(1139)11月に河和田荘を法金剛院領に寄進しており、再度周子の子孫に預所を留保させている(「藤原周子寄進状」仁和寺文書〈平安遺文2417〉)。寿永2年(1183)9月には藤原周子の娘美濃局(待賢門院女房、鳥羽上皇寵姫)のものとなっていた預所が、検非違使友実に妨げられていたため、在庁官人や河和田荘荘官らに友実の濫妨を停止させているが(「後白河院庁下文案」仁和寺文書〈平安遺文4107〉)、たびたび押領されており、元暦2年(1185)4月に源頼朝が、義経追討とともに地頭を設置したから、美濃局が預所を留保し続けることはさらに困難となった(「後白河院庁下文案」仁和寺文書〈平安遺文5088〉)

 法金剛院領の大半は待賢門院の生存中に寄進されたものであり、これを法金剛院領成立の第1期とみなすこともできるが、後代にも寄進されている。その一つが甲斐国稲積荘(山梨県甲府市)である。同地にあった法城寺は法金剛院の末寺であるという伝承があったという(『甲斐国志』巻之44、古蹟部第7、巨麻郡中郡筋、国母郷)

 稲積荘は弘安8年(1285)4月28日に仁和寺の性仁入道親王(1267〜1304)より甲斐国稲積荘を法金剛院の根本寺領であることによって寄進されている(「仁和寺御室性仁親王令旨案」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文15574〉)。これに先んじて導御は法金剛院に入って再興に着手しているが、仁和寺側が勧進によって寺院再興の成果をあげていた導御の手腕に期待したものであった(細川1987)。ところが6年後の正応4年(1291)には地頭が稲積荘の年貢を抑留している。稲積荘では収穫した年貢は一旦地頭の政所に集め、9月から10月に本所へ運び、年末までにはすべて運び終わっているのが慣例であったが、地頭はこの先例を知らないといい、かえって完納していないことを非難したため、導御は同年8月21日に仁和寺御室に訴えた(「導御書状」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文17665〉)。これを受けて同年8月25日、仁和寺性仁入道親王は導御の書状を添えて幕府に訴え出ており(「仁和寺宮性仁入道親王令旨」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文17668〉)、幕府も地頭に速やかに納入するよう地頭に命じている(「関東御教書」弘文荘待賈書目36号〈鎌倉遺文17722〉)。永仁4年(1296)も同様の事件があったらしく、幕府は仁和寺の訴えにより稲積荘の年貢に関する説明を地頭に求めている(「関東御教書」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文19152〉)。康応元年(1389)11月12日にも法金剛院雑掌より稲積荘に関する訴えがあったため、室町幕府は関東管領上杉憲方に計沙汰(はからいざた)を命じている(「室町幕府管領斯波義将奉書」法金剛院文書)


法金剛院池庭(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)

法金剛院の子院・末寺

 法金剛院の末寺には、天文2年(1533)の段階では法命寺・平等金剛院・心浄光院(壬生寺中)・地蔵院(成浄身院)・花蔵院・竹薗寺があり(「法金剛院諸末寺目録」法金剛院文書)、また近世期の子院(塔頭)には法命寺・円融庵・亭子院・東光寺があり、末寺には丹波国船井郡に勝福寺・明王院があったが、いずれも廃絶している。ただ地蔵院のみが塔頭として残存している。

 法命寺は法金剛院における開山塔であり、法金剛院が位置する右京区花園ではなく、右京区太秦に位置していたらしい。「開山」といっても待賢門院の時代ではなく、導御のことであった。その成立年は不明であるが、後宇多院の御願として建立されたものらしく、嘉元2年(1304)頃の4月5日付の院宣によると、法命寺は「法金剛院の辺畔にして、戒律義蔵の道場なり」とあるように、法金剛院付近に建立された律宗の道場であった(「後宇多上皇院宣案」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文21785〉)。また嘉元2年(1304)6月24日に僧仙舜より田地1段を三宝通用料として法命院に寄進されていることから、導御生前にはすでに成立していたらしい。仙舜は亡き子の経尊とその妻の禅尼妙観の菩提を弔うため寄進している。この田地の収穫のうち、5斗は導御の布施に充てられ、残りは不断光明真言料となっている(「仙舜田地寄進状」山城法金剛院文書〈鎌倉遺文21873〉)

 応永16年(1409)8月28日には観音院の田地のうち、6斗を法命寺石塔(導御墓)に寄進されており(「公文法師某寄進状」法金剛院文書)、延徳2年(1490)10月17日には幕府より法命寺がもとのように律院であり、年貢や諸公事物に関する権益を保障されている(「室町幕府奉行人連署奉書案」法金剛院文書〈室町幕府文書集成1670〉)。法命寺は荘園を有しており、美作国田邑荘(岡山県津山市)を「法金剛院開山塔法命寺」名義で有していた。延徳3年(1491)に領家職の取り分四分の一が守護に押領されていたが、同年10月13日に、幕府は法命寺住持に対して押領を斥けることを通達している(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成1781〉)

 法命寺は天文年間(1532〜55)にはかなり衰退していたらしく、飯尾盛就(室町幕府奉行人)によって法命寺が廃絶して売却したとされてしまったが、幕府は実際には百姓に問いただしたところ、(年貢などは)寺納されており、法金剛院の開山塔であるから、廃絶したというのも事実ではないとされた(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成3246〉)。ところが実際にこの頃法命寺は事実上廃絶しており、その所領は本寺の法金剛院が管理するところであったらしい。天文21年(1552)3月4日に幕府は法金剛院と開山塔法命寺の領の諸所に散在する年貢・地子銭などについて、法金剛院の当知行であることを承認しており(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成3709〉)、永禄7年(1564)10月5日にも法金剛院住持の珠栄に対して、法命寺領の諸所に散在する年貢・地子銭・境内山林などが法金剛院の当知行であることを確認している(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成3916〉)。法命寺の廃絶時期は不明であるが、法金剛院の裏手の五位山に法命寺から移した導御の墓とされる宝篋印塔が残る。

 亭子院は法金剛院境内の地の南に位置していた。開創年は不明であるが、もとは右京七条坊門の地の油小路以南にあったらしく、康応元年(1389)5月13日に足利義満より敷地4町(4ha)を寄進されていることから(「足利義満寄進状」法金剛院文書)、この頃に成立したらしい。赤松家の氏寺であり、唐招提寺の末寺であった(「祐盛譲状」法金剛院文書)。文明9年(1477)10月2日に亭子院領の山城国九条院田のうち有弘名1町を敵が退散したため、当知行のままに幕府より安堵されている(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成1046〉)。明応6年(1497)5月に亭子院領の山城国九条院田の有弘名、摂津国粟生村のうち守依名・次郎丸名と洛中の敷地が当知行のままに幕府より安堵されており(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成2058〉)、天文元年(1532)10月16日にも、幕府は亭子院領の山城国九条院田の有弘名および諸所に散在する亭子院領の田畠について、亭子院の当知行のままに安堵するとともに、年貢や諸公事については名主・沙汰人に寺納を厳命しているが(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成3198〉)、名主・沙汰人らはあれこれ理由をつけて年貢を納めなかったため、天文3年(1534)10月16日に幕府は再度厳命するとともに、違反する者は名を連ねて提出するよう命じている(「室町幕府奉行人連署奉書」法金剛院文書〈室町幕府文書集成3282〉)。その後亭子院領は本寺の法金剛院が管理することになったらしく、天文21年(1552)3月に幕府は法金剛院の住持の珠栄の名代に年貢を納めるよう命じている(「室町幕府奉行人連署奉書」亭子院文書〈室町幕府文書集成3710〉)。近世期の様相についての詳細はわかっていないが、明治元年(1868)の段階では、焼失により門だけが残り、有名無実であった(「庚午十月改社寺録」法金剛院〈京都府立総合資料館所蔵京都府庁文書うち京都府庁史料、明3-32-1〉)。そのため明治6年(1873)2月に円融庵・東光寺とともに廃寺となって法金剛院に合併された(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)

 円融庵は五位山の西側の斜面(現在地蔵院がある)に位置しており、創建年は不明であるが、円巌玉周(?〜1710)が元禄11年(1698)冬に法金剛院の五位山の裏に隠遁しており、玉周は円融と号していることから(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第63世中興第43世円巌周和尚伝)、玉周が隠居所として造営したものとみられる。以降法金剛院歴代住持の隠居所となっていたらしく、照洲大千(1685〜1755)もまた法金剛院の住持職を門弟の照興に譲ると、自身は円融庵に隠遁している(『千歳伝続録』照山晃大千州二長老伝)。円融庵には本堂・居間・柴入などの建物があったが(「庚午十月改社寺録」法金剛院〈京都府立総合資料館所蔵京都府庁文書うち京都府庁史料、明3-32-1〉)、明治4年(1871)に建物を法金剛院に合併し(「明治七年廃寺跡御取調書類」塔中廃寺跡取調〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料、明7-21-1〉)、明治6年(1873)2月に亭子院・東光寺とともに廃寺となって法金剛院に合併された(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)

 東光寺は建物が破壊のため取り壊され、明治元年(1868)11月の時点ですでに実態がなかった(「庚午十月改社寺録」法金剛院〈京都府立総合資料館所蔵京都府庁文書うち京都府庁史料、明3-32-1〉)。明治4年(1871)に一般に払い下げ、地券証は法金剛院のものとなった(「明治七年廃寺跡御取調書類」塔中廃寺跡取調〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料、明7-21-1〉)、明治6年(1873)2月に亭子院・円融庵とともに廃寺となって法金剛院に合併された(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)

 勝福寺は丹波国船井郡八木村(京都府南丹市八木町)に位置した。山号を大坂山といい、同地の産神の春日大明神の宮寺であった。桁行9間半、梁間3間の建物があるだけの小寺院である。開創年代はおろか、いつ頃法金剛院の末寺になったのか不明であり、元文5年(1740)の段階では真言宗であったが、特定の寺院の本末関係にはなく(『寺社類集』巻之1、丹波国船井郡、八木村、産神春日大明神)、法金剛院の末寺であった時期も短かったらしい。明治元年(1868)の神仏分離に際して社僧が還俗してしまい(「庚午十月改社寺録」法金剛院〈京都府立総合資料館所蔵京都府庁文書うち京都府庁史料、明3-32-1〉)、明治6年(1873)2月に法金剛院に合併された(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)

 明王院もまた丹波国船井郡八木村(京都府南丹市八木町)に位置した。真言宗の石水寺の子院であり、同寺は真言宗で特定の寺院と本末関係がなかったから、明王院もまたどのようにして法金剛院の末寺となったのか不明である。石水寺は永正7年(1510)創建といい、明王院には桁行5間半、梁間3間の堂と、桁行4間、梁間2間半の籠屋があった(『寺社類集』巻之1、丹波国船井郡、八木村、岩屋山石水寺)。明王院および石水寺は修験関係の寺院であったようであるが、明王院は明治元年(1868)11月の段階で法金剛院の末寺として書き連ねられている(「庚午十月改社寺録」法金剛院〈京都府立総合資料館所蔵京都府庁文書うち京都府庁史料、明3-32-1〉)。結局、明治6年(1873)2月に法金剛院に合併された(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)

 地蔵院は「金目(かなめ)地蔵院」の通称で親しまれており、花園を代表する小堂であった。「協(かなえ)地蔵」「要(かなめ)地蔵」とも称される。待賢門院が法金剛院建立に際して造立された堂の一つとされ、応仁の乱にて焼失したため、法金剛院の塔頭となったという。かつては法金剛院の北東、牛車道と今宮馬場の交叉する地点の南西に位置していた。享保18年(1733)11月22日夜に焼失、安永8年(1779)10月に桁行4間、梁間3間の規模で再興された。当時、地蔵院の本尊の地蔵菩薩坐像は弘法大師(空海)の作と考えられており、境内には六体地蔵・十王堂があった(『拾遺都名所図会』巻之3、協地蔵)。明治32年(1899)9月8日に地蔵院は水害のため倒壊した。場所を法金剛院の本堂の南側100mのところに移転の上、明治41年(1908)11月9日に落成した(『葛野郡寺院明細帳』150、地蔵院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)。昭和45年(1970)に京都市都市計画事業における丸太町通拡張(街路2等大路第1類6号線丸太町通新設事業)に際して取り壊され、かつて円融庵が位置した五位山の西側に移転、仏堂(収蔵庫)を構えた。内部に平安時代後期の地蔵菩薩坐像(像高270cm)があり、定朝初期の様式である可能性が指摘されている(井上1971)


地蔵院(平成23年(2011)10月4日、管理人撮影)



天明7年(1787)刊『拾遺都名所図絵』巻第3、常盤里図の協地蔵(『新修京都叢書7』〈臨川書店、1967年〉383頁より一部転載

近世の法金剛院

 衰退したとはいえ、法金剛院の伽藍は中世まではある程度は残存していたらしく、文明19年(1487)の見聞記録では塔の基壇(『蔭涼軒日録』文明19年8月13日条)、滝について述べられていた(『蔭涼軒日録』文明19年8月19日条)。近世になると様相が一変し、法金剛院の建物は天正・慶長年間の地震で倒壊し、衰退したという。京都は天正13年(1585)11月29日と文禄5年(1596)閏7月13日に大地震に見舞われている。中世にはある程度荘園所領を有していたが、天正13年(1585)11月21日には65石(「羽柴秀吉朱印状写」法金剛院文書)、元和元年(1615)7月17日にも65石が安堵されたのみであった(「徳川家康朱印状写」〈京都府寺誌稿、法金剛院・上品蓮台寺所引〉)。このような衰退の兆しが現われつつある中、法金剛院の堂宇を再建したのが宝囿照珍(1553〜1628)である。

 宝囿照珍は河内国(大阪府)の人で、俗姓を津田氏といった。別号を玉英といい、また光照とも称した(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第59世中興第39世玉英珍和尚伝)。出家して寿徳院の照瑜の門弟となる(『律苑僧宝伝』巻第15、榑桑諸師、招提寺玉英珍律師伝)。元亀3年(1572)通受の受戒をし、天正7年(1579)に唐招提寺の戒壇にて寛順泉奘(1518〜88)を戒師として別受の受戒をした。顕教・密教ともに精通し、とくに戒律に詳しく、講義には四方から学徒が集まったという。徳川家康も照珍の徳風を慕い、しばしば仏法について問われることがあった。文禄2年(1593)に朝廷より泉涌寺長老に任じられた(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第59世中興第39世玉英珍和尚伝)。泉涌寺長老(住持)は天皇の綸旨によって補任されるが、まず当住・維那・蔵司が連署して、吹挙(推挙)状を寺家伝奏の勧修寺家に提出し、伝奏の申請によって天皇の綸旨が発給された。長老となった者は原則として方丈に移り住んだが、終身ではなく任期制であったため、江戸時代前期には3ヶ月から6ヶ月、注記には35日以内に退山することとなっていた。そのため前住の者が多くなり、結果前住の者が輪番で再住する制度となった。法金剛院は泉涌寺の末寺ではなかったが、法末の寺院であったため、多くの泉涌寺長老を輩出した。

 照珍は慶長10年(1605)8月6日に唐招提寺中興第39世長老に任じられた。慶長11年(1606)10月28日に唐招提寺の戒壇にて別受の授戒を23人に行なった(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第59世中興第39世玉英珍和尚伝)

 照珍は当初奈良の伝香寺に住していたが、後に法金剛院に住し、善法律寺・寿徳院・金剛律寺(いずれも京都府八幡市)の住持を兼任した。勅命によって天皇の戒師となるも、宮中に入るたびに粗末な麻の法衣を着けたから、かえって君臣の尊崇を集めることは仏のようであったという。慶長15年(1610)に江戸に赴き、秋会の唱導大徳に予定されていた凝実が示寂したため、照珍が唱導を勤めた。元和元年(1615)11月6日には善法律寺の先代の尭清の三十三回遠忌法要を実施し、金剛寺にて大曼陀羅供会を行い、導師を勤めた(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第59世中興第39世玉英珍和尚伝)

 法金剛院の本堂は照珍によって元和3年(1617)に再建された。桁行3間、梁間3間で、本瓦葺入母屋造の東向の建物である。向拝1間が付属し、正面は双折板唐戸で、両脇と側面前2間は蔀(現在は格子戸)、背面の中間は両開板唐戸となり、他は土壁となっており、全体が低いこともあって、古風な外観の堂である。向拝は陸虹梁で繋いでおり、これは元和期の向拝虹梁の中でもすぐれた部類のものとして評価されている。昭和43年(1968)の移転に際して、礼堂に改められ、北側に釣殿を設けている(京都府教育委員会1983)

 元和3年(1617)に後陽成上皇が崩御すると、照珍は勅によって斂葬の車に同乗した。同年9月8日に新上東門院に十善戒を授け、元和6年(1620)2月に新上東門院が崩御すると導師となった。寛永5年(1628)12月6日に示寂した。76歳。法金剛院の山(五位山)に葬られた(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第59世中興第39世玉英珍和尚伝)

 玉英照珍の示寂後、法金剛院の住持となったのが観圭照岳(観景照巌、1612〜74)である。照岳は京都の人で、俗姓は中原氏といった。同氏の7男であったため、7歳の時に法金剛院の照珍の門下に入り、尊玉と称した。9歳の時に剃髪し、照珍の左右に仕えた。11歳の時に受戒し、13歳で金剛界を、翌年に胎蔵界を受けた。16歳の時、金剛律寺にて照珍より伝法職位を受けたが、翌年師の照珍が示寂してしまい、師の遺言により法金剛院と真言法具・典籍を継いだ。19歳の時に唐招提寺で具足戒を受け、泉涌寺塔頭雲龍院の正専如周律師(1594〜1647)を師として顕教・密教を学んだ。さらに如周に従って醍醐寺の尭円大僧正より真言を学び、槇尾山にて真空律師より梵網古迹などを修学した。26歳の時、法隆寺にて聴講し、30歳の時には比叡山に登っている。33歳の時に雲龍院の師如周のもとに戻り、35歳の時に如周に尭円より学んだ真言を授けるとともに、如周に律宗の奥儀を授けられた(『招提千歳伝記』巻中之2、明律篇、法金剛院観景律師伝)。寛永17年(1640)9月に小島宗真(1580〜1655頃)は法金剛院の扁額を揮毫している(「法金剛院扁額」)。慶安4年(1651年)板倉重宗・永井尚政らは山崎神宮寺を再興し、照岳を住持に招いている。承応3年(1654)東福門院の招きに応じて「四十二章経」を講義し、勅命によって泉涌寺長老に就任した。この冬に雲龍院にて伝法職位を宜陽・玉周らに授けた。延宝2年(1674)に唐招提寺長老への就任を要請されたが、病気のため辞退した。同年12月27日に示寂した。63歳。法金剛院に葬られた(『招提千歳伝記』巻中之2、明律篇、法金剛院観景律師伝)

 照岳の跡を継いで法金剛院の住持となったのは、その門人の円巌玉周(?〜1710)である。玉周は京都の人で、俗姓を速水氏といった。幼くして法金剛院の観圭長老(照岳)に師事し、出家とともに通受の受戒をした。寛文12年(1672)9月に別受の受戒をし、また雲龍院の正専如周律師(1594〜1647)より胎蔵・金剛の両部の法を受けた。照岳の跡を継いで法金剛院の住持となり、勅によって泉涌寺長老となり、紫衣を賜り、入内して天皇の謁見を受けた(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第63世中興第43世円巌周和尚伝)。貞享2年(1685)の後西上皇の斂葬に際して拈香を勤めた(『招提千歳伝記』巻下之2、旧事篇、貞享2年2月22日条)。貞享3年(1686)正月、唐招提寺中興第43世長老に就任した(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第63世中興第43世円巌周和尚伝)

 元禄元年(1688)11月6日に玉周は鐘楼を再建しており、再建工事は大工の中川長兵衛が行った(「法金剛院鐘楼棟札」〈京都府寺誌稿、法金剛院・上品蓮台寺所引〉)。この鐘楼は新たに鋳造された梵鐘とともに再建されたものである。先代の照岳の代に鐘楼再建のため、梵鐘勧進を正保2年(1645)3月より開始したが(「法金剛院梵鐘勧進帳」〈京都府寺誌稿、法金剛院・上品蓮台寺所引〉)、結局照巌生前にはならなかった。玉周が法金剛院の住持となり、法金剛院の檀越の浜岡常義が亡父七回忌の寄進をしたことが契機となって、梵鐘勧進を行ない、数百名の寄進によって鋳造されたものである(「法金剛院梵鐘鐘銘」〈京都府寺誌稿、法金剛院・上品蓮台寺所引〉)。玉周は元禄5年(1692)4月の東大寺大仏開眼供養に唱導として参加した。元禄11年(1698)に唐招提寺の戒壇が完成すると、9月13日より21日まで供養と別受戒会が行われ、玉周は唱導・戒和上を勤めた。この時照戒・恵晃らが受戒した。玉周はこの年冬に公より退き、法金剛院の五位山の裏に隠遁した。円融庵がこれである(『招提千歳伝記』巻上之3、伝律篇、第63世中興第43世円巌周和尚伝)。宝永7年(1710)8月21日に示寂し、法金剛院に葬られた(『泉涌寺維那私記』三国伝律次第)

 玉周の跡を継いで法金剛院の住持となったのが、照山慧晃(1656〜1737)である。慧晃は玉周の弟子であり、博識・広学の人として知られていた(『千歳伝続録』照山晃大千州二長老伝)。しばしば招きを受けて講義を行ったが、因明・倶舎・円覚・起信といった諸経論といったように、精通するところは広かった。仁和寺覚仁二品親王(覚観法親王1672〜1707か)に三論・起信論を講義し、元禄10年(1697)秋には妙心寺の衆僧の招きによって、楞厳経を講義した(『招提千歳伝記』巻中之2、明律篇、法金剛院士順律師伝)。元禄8年(1695)には五位山に太古亭という小庵を造営しており(「太古亭記」〈京都府寺誌稿、法金剛院・上品蓮台寺所引〉)、元禄9年(1696)には観音堂を再建している(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)。泉涌寺長老・唐招提寺長老を歴任し、元文2年(1737)6月8日に示寂した。82歳(『千歳伝続録』照山晃大千州二長老伝)。法金剛院に葬られ(『泉涌寺維那私記』三国伝律次第)、現在も五位山に墓地が残る。著作に貞享元年(1684)に撰した『因明三十三過本作法纂解』や、『枳橘易土集』全15冊がある。

 慧晃の弟子の照洲大千(1685〜1755)も法金剛院住持であり、泉涌寺長老に就任後、中御門天皇の導師を勤めた。法金剛院の住持を門弟の南林照興に譲り、自身は円融庵に隠遁したが、後に唐招提寺の要請によって唐招提寺長老となった。宝暦5年(1755)6月29日に法金剛院で示寂した。71歳(『千歳伝続録』照山晃大千州二長老伝)


法金剛院礼堂(平成23年(2011)10月4日、管理人撮影)。元和2年(1616)の再建。



法金剛院背後の五位山中の宝囿照珍墓(右)・観圭照岳墓(中央)・円巌玉周墓(左)(平成23年(2011)12月18日、管理人撮影)

近代の法金剛院

 明治維新後、上知令の影響によって、塔頭のうち亭子院・円融庵・東光寺は廃寺となって法金剛院に合併している。法金剛院は明治初期の段階では真言宗であり、天龍寺(禅宗)の所轄となっていたが(『葛野郡寺院明細帳』149、法金剛院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)、のちに真言宗天然寺派となり、明治33年(1900)10月2日、唐招提寺末寺となり、律宗寺院となった(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」6号270葉)

 明治30年(1897)9月16日に京都鉄道株式会社の線路地買収に応じて所有地を売却したのをはじめとして(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」6号30葉)。大正10年(1921)5月9日には山林・宅地・畑を(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」15号267葉)、同年12月5日には墓地・山林を(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」16号44・54葉)、昭和5年(1930)12月24日には山林を売却している(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」22号192葉)

 明治41年(1908)11月9日に地蔵院を法金剛院境内の南側に移転しているが(『葛野郡寺院明細帳』150、地蔵院〈〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)、このような逐次的な売却・移転の結果、法金剛院の境内の南側の間隙を縫って国道が通過し、国道に国鉄西院線が平行したため、法金剛院の境内地は南北に分断されてしまった。

 この国道は交通量が激しくなり、道路拡張のため昭和42年(1967)に京都市は「街路2等大路第1類6号丸太町通新設事業」を策定し、分断された境内地の南側を買収した。そのため緊急発掘調査が昭和43年(1968)より実施されたが、これによって創建時の法金剛院の園地の様相が判明し、とくに埋もれていた滝の石組や渓流曲水、池の汀線などの発見は人々を驚かせた。また同年、境内全体を北に寄せることとなり、本堂は北に移転して礼堂となり、国庫補助金を受け新たに収蔵庫を兼ねた本堂が礼堂の西側に造立された。


法金剛院移転以前、昭和44年(1969)頃の法金剛院の本堂(現礼堂)と鐘楼(『埋蔵文化財発掘調査概報1969』〈京都府教育委員会、1969年〉図版より一部転載。

[参考文献]
・湯本文彦『京都府寺誌稿 法金剛院・上品蓮台寺』(京都府立総合資料館蔵)
・北川智編『円覚十万上人年譜考』(壬生寺、1929年)
・森蘊「法金剛院の庭園について」上・下 (『建築史』第1巻第1・2号、1939年)
・薮田嘉一郎「妙心寺鐘伝来考」(『史迹と美術』17(9)、1948年8月)
・毛利久『法金剛院』(法金剛院、1960年9月)
・斎藤孝「法金剛院の諸仏像」(『史迹と美術』31(6)、1961年7月)
・杉山信三「院の御所とその御堂ー院家建築の研究」(『奈良国立文化財研究所学報』11、1962年3月)
・『埋蔵文化財発掘調査概報1969』(京都府教育委員会、1969年)
・『埋蔵文化財発掘調査概報1970』(京都府教育委員会、1970年)
・井上正「法金剛院阿弥陀如来像について」(『国華』941、1971年12月)
・山本興二「十一面観音像厨子絵」(『国華』941、1971年12月)
・井上正「地蔵菩薩像」(『国華』941、1971年12月)
・長谷川誠「十一面観音像」(『国華』941、1971年12月)
・川勝政太郎『京都の石造美術』(木耳社、1972年)
・林屋辰三郎編『日本思想大系23 古代中世芸術論』(岩波書店、1973年10月)
・『日本庭園史大系』2(岩波書店、1974年6月)
・『観音菩薩』(奈良国立博物館、1977年4月)
・正木喜三郎「筑前国怡土荘について-古代末期における-」(竹内理三博士古稀記念会編『続荘園制と武家社会』吉川弘文館、1978年1月)
・『日本美術全集』7(学習研究社、1978年8月)
・難波田徹「法金剛院付近出土の瓦経 京の経塚考U」(『史迹と美術』50(6)、1980年7月)
・大覚寺史資料編纂室編『大覚寺文書』上・下巻(大覚寺、いずれも1980年)
・赤松俊秀編『泉涌寺史 本文編』(法蔵館、1984年)
・『京都府の近世社寺建築-近世社寺建築緊急調査報告書-』(京都府教育委員会、1983年3月)
・角田文衛『待賢門院璋子の生涯-椒庭秘抄』(朝日新聞出版、1985年6月)
・杉山洋「京都の瓦経-法金剛院「古瓦譜」所載の瓦経-」(『仏教芸術』162、1985年9月)
・細川涼一『中世の律宗寺院と民衆』(吉川弘文館、1987年11月)
・『昭和59年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(京都市埋蔵文化財研究所、1987年)
・『創建1000年記念 壬生寺展ー大念仏狂言と地蔵信仰の寺』(京都文化博物館、1992年11月)
・『平成7年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(京都市埋蔵文化財研究所、1997年)
・『平成8年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(京都市埋蔵文化財研究所、1998年)
・『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』(吉川弘文館、1999年3月)
・『平成9年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(京都市埋蔵文化財研究所、1999年)
・伊藤唯真監修・融通念仏宗教学研究所編『融通念仏信仰の歴史と美術ー資料編』(東京美術、2000年9月)
・『平成12年度 京都市内遺跡立会調査概報』(京都市文化市民局、2001年)
・秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年11月)
・古藤真平「仁和寺の伽藍と諸院家(下)」(『仁和寺研究』3、2002年)
・上村和直「御室地域の成立と展開」(『仁和寺研究』4、2004年)
・『講座日本荘園史10 四国・九州地方の荘園 付総索引』(吉川弘文館、2005年2月)
・五来重『五来重著作集 第7巻 民間芸能史』(法蔵館、2008年11月)


法金剛院庭園池の蓮(平成23年(2011)10月4日、管理人撮影)



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