丹波川辺四社神幸祭



月読神社鳥居(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 川辺四社神幸祭は南丹市園部町川辺地区にて行われる祭礼行事です。

 川辺四社とは、高屋の春日神社、船岡の月読神社、大戸の武尾神社、越方の若宮神社のことで、川辺四社神幸祭は川辺四社の神輿が、大堰川の堤防上を御旅所とし、ここで一同に会して行われる祭礼です。

 川辺四社の地区は、旧園部町域の中でも独自の歴史を歩んできた地域で、中世には旧園部町域の大半が船井荘(北野社領他)に属した一方で、川辺地区は室町幕府御料所であった桐野河内荘に属していました。近世期には旧園部町域の大半が園部藩領(一部亀岡藩領)となったのに対し、川辺地区は仙洞御所領となっていました。


月読神社の絵馬舍。神輿が鎮座する(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 まずは月読神社に行ってみました。月読神社は船岡午房畦の産土神で、旧名を「上河内」といいました。近世期に仙洞御所領であった川辺地区の内、上河内のみは園部藩領でしたが、近世期を通じて川辺四社祭が実施されていたことは、中世の結びつきが近世を通じて現在まで残っていることを示すとされています。

 園部藩が元文5年(1740)に編纂した寺社記録である『寺社類集』には、「産神月読大明神」と表記されています。同書によると、勧請年は未詳ですが、神主・宮持は里の氏が年々順番に勤めていたといいます(『寺社類集』巻之2、船井郡、上河内村、産神月読大明神)。なお明治16年(1883)の「神社明細帳」では貞観17年(875)勧請とし、境内二十五間の地に本社・末社若宮社・末社稲荷宮社・末社多賀宮社・末社住吉宮社・末社春日宮社・末社太神宮社・神輿蔵・拝殿・庁桟が立ち並んでいました(『丹波国船井郡神社明細帳』39、月読神社)

 本殿は由緒によると文化12年(1815)に建て替えられたといいます。正面灯篭に享保19年(1734)の銘があり、摂社にも付近にも灯篭があります。


月読神社本殿(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 まず四社それぞれ神事が行われ、正午になると春日神社から「七道半の使」という紋付裃袴の正・副使が御幣持とともに月読神社に参拝し、祭始めの礼を述べて、神輿のお迎えを告げます。その後、使者が帰ると月読神社では御旅所への渡御へと向かいます(井尻2005)


月読神社を出発する神輿(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 次に高尾の春日神社に向かいました。

 春日神社の創建は「神社明細帳」に大同2年(807)とし、仁平2年(1152)に再建したとあります(『丹波国船井郡神社明細帳』36、春日神社)

 現在の本殿は、室町時代前期の建立で、春日神社の創建年について、『船井郡誌』によると、「大字高屋及佐切の春日神社は元一社にして在りしを、天正七年《一五七九》明智の兵火に灰燼に委してより、両村各分霊して之を奉祀したるものなり。」(同書214頁)としていますが、本殿が室町時代前期のものである以上は、この伝承については疑問符を付けざるを得ません。内陣扉内面には束帯随神像が描かれています。

 大正10年(1921)4月30日に重要文化財に指定され、昭和26年(1951)には解体修理が行われています。解体修理以前には覆屋が本殿を保護していましたが、この修理の際に解体・撤去されました。


春日神社本殿(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 春日神社には武尾神社の神輿が到着しており、二神輿が出会うと揺らします。二神輿はそろって御旅所へと向かいます。

 春日神社の神輿の屋根飾りには金箔が貼られており、他の三社の神輿が漆塗となっているのと相対しています。またすべての神輿は概ね同じ大きさですが、春日神社の神輿のみが重いとされています。なお春日神社の神輿の屋根飾りの内部には安政3年(1856)の銘文があります。


春日神社における春日神社の神輿(手前)と武尾神社の神輿(奥)(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 高屋大戸にて春日神社・武尾神社・月読神社の神輿が出会い、そこで勢いよく揺らされます。そこから武尾神社・春日神社・月読神社の順番で御旅所に渡御します。


高屋大戸にて三社の神輿が出会う(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 三社の神輿が御旅所に到着する前に、若宮神社の神輿が、三社の御旅所の対岸に位置する若宮神社の御旅所に到着しています。

 かつて川辺四社祭は別の地を御旅所として実施されていました。かつては森で覆われた場所でしたが、現在では無くなってしまっています(高屋の古老談)

 かつての祭礼は月読神社から大堰川を舟で下り、神輿が四社ならぶもので、昭和24・25年(1949・1950)までは川の中まで渡御が行われるなど、壮麗な祭礼でした。しかし相継ぐ水害によって、河川改修が行われて大堰川が深くなってしまい、地勢上、川をはさんで両眼の堤防上で行われるようになりました(井尻2005)


先に到着した若宮神社の神輿(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



祭礼が行われる御旅所(ハマ)に到着した三社の神輿。手前より月読神社・春日神社・武尾神社(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



御旅所(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



神饌の準備(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 御旅所に到着すると、各神輿で神饌のしつらえが行われます。

 神饌は魚・米・果物と松茸などの山の物となっており、当番が用意します。


武尾神社の神饌のしつらえ(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



武尾神社の神輿の神饌のしつらえ(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



春日神社の神輿の前で祝詞を読み上げる宮司(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 午後2時30分に宮司は春日神社の神輿前で祝詞を読み上げます。その後月読神社・武尾神社の順番で祝詞が読み上げられます。

 その後「直会(なおらい)」が行われます。これは祭礼の参加者が供物を食べるもので、各神輿にて行われます。

 供物はお神酒・甘酒・おしろい餅・枝豆で、月読神社より正・副使が下座より口上を述べることによって、直会は終了します。


直会(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 直会が終わると、角力・射礼が行われます。

 角力は月読神社と春日神社から一名づつが莚にあがり、双方が向かい合って手を握り、手を繋いだまま四歩廻って屈伸し、これを七廻り半行います。

 その次に射礼が行われます。

 弓を七本射ることになっており、これは「天地東西南北人」をあらわし、月読神社・春日神社が一年交替で奉納するものです。かつては射礼が最初に行われ、場を浄めていましたが(高屋の古老談)、現在は祭礼の後半に行われるものとなっています。


射礼(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 御旅所での神事が終わると、神輿は御旅所を出発し、それぞれの神社への還御へと向かいます。


御旅所をあとにする三社の神輿(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

 三社の神輿が出会った場にて、三輿が鬨の声を上げつつ、振上げます。それが終わると還御となりますが、還御は春日神社・月読神社・武尾神社の順番で行われます。

 かつては高屋の町内を神輿が回っていましたが、現在では行われていません。


神輿の別れ(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)

[参考文献]
・『船井郡誌』(船井郡教育会、1915年11月)
・井尻智道「川辺四社の例祭と神幸祭」(吉田清監修『園部町史通史編 図説園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年12月)


春日神社の神輿の還御(平成20年(2008)10月12日、管理人撮影)



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