摩気神社神幸祭



摩気神社(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 摩気神社神幸祭は南丹市園部町中西部で行われる祭礼行事で、毎年10月14日・15日の二日間にかけて行われます。

 この地域は「摩気地区」と呼ばれ、京都府のほぼ中央に位置しており、山々に囲まれた集落を形成しています。集落は山と山の間、川沿いのわずかな平地に位置しており、すぐ北の園部地区には弥生時代・古墳時代に黒田古墳・垣内古墳があり、古代より丹波南部を治めた有力な王の勢力下にありました。

 律令制下には船井郡に属しましたが、何郷に属したかは判然としていません。ただし『和名類聚抄』にみえる船井郡の郷には刑部・志麻・船井・出鹿・田原・野口・須知・鼓打・木前があり(天理大学附属図書館本『和名類聚抄』巻第8、郷里3、丹波郷第103)、『平安遺文』の第215号文書として掲載される延喜17年(917)4月27日の「丹波国某郷長解」(益田男爵家所蔵文書)には、田地売買契約の現地保証人の一人として「摩気神祝部大宅」の名がみえます。この文書には売買する畠地の一つが「木前郷私部村にあり」とあることから、摩気神社の地は木前郷に位置したと考えるのが自然であり、また別の畠地には「南限大村」とあり、後の船井荘十一村の一つ大村がみえていることから、後の船井荘は惣郷単位で掌握されていたと考えてもよさそうです(『平安遺文』第215号文書は現在東京大学附属図書館蔵であり、とすると「丹波国某郷長解」(益田男爵家所蔵文書)は「丹波国木前郷長解」(東京大学附属図書館蔵)と表記すべきなのでしょう)

 建長2年(1250)3月に勝尾寺が船井荘のうち1町(1ha)を般若会料田としており(「摂津勝尾寺衆徒等訴状案」勝尾寺文書〈鎌倉遺文8614〉)、摩気の地に船井荘が形成されました。この船井荘は元弘三年(1333)に鎌倉幕府によって楠木正成誅戮の懸賞とされていますが(『楠木合戦注文』)、建武3年(1336)5月25日に足利尊氏によって船井荘は北野宮寺領に寄進され(「足利尊氏寄進状写」筑波大学所蔵北野天満宮寄進状御朱印写壱巻)、以後室町時代を通じて北野社領となりました。

 この船井荘は十一村にも及ぶ大規模な荘園で、これらは「北野社領船井十一村」と称されていました(「社家条々引付」〈『北野社家日記』7〉)。これら十一村は、新江・三戸・八田・岐幡・熊崎・大・横田・黒田・舟坂・興田・宍人であり、とくに摩気神社が位置する竹井は、「新江(にえ)」と称されており、応永5年(1398)の段階ですでに船井荘内の村落として認識されていました(「足利義満御判御教書案」目安申状〈北野社家日記7〉)。また新江村は年貢113石9斗3升6合を算出しており(「船井荘算用状」北野天満宮文書)、確認し得る船井荘の算出高としては最も高いものでした。

 近世の幕藩体制下、丹波国は小藩が乱立する状態であり、摩気神社が属する新江は園部藩領となりました。船井荘十一村の中には亀山藩領となり、異なる藩体制下に置かれることがありましたが、かつての船井荘十一村のまとまりは摩気神社の祭礼行事の中にそのまま残り、この摩気神社神幸祭は近世期には村々や藩境を越えた祭礼行事として存在し続けました。


竹井の宮衆によって摩気神社本殿に供えられる重箱の米(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

摩気神社史

 摩気神社は前述の通り、竹井の地に鎮座する神社です。摩気神社は「麻気神社」とも表記され、江戸時代には建立年代が不明となってしまっていたらしく、『吉祥山縁起』には弘法大師が建立し、承暦3年(1079)白河天皇が当社に対して「船井第一麻気神社」の額を賜ったという仮託説話が記されますが(『吉祥山縁起』)、実際には建立年はさらに溯るようです。

 『新抄格勅符抄』には「麻気神 一戸 丹波国」とあり、神護景雲4年(770)に摩気神社に神戸一戸が充当されたことが知られます(『新抄格勅符抄』巻10抄、神封部)。仁寿2年(852)11月12日には麻気神社に奉幣があり(『日本文徳天皇実録』巻4、仁寿2年11月甲辰条)、貞観元年(859)正月27日に麻気神が従五位下に叙されています(『日本三代実録』巻2、貞観元年正月27日甲申条)

 前述の通り、延喜17年(917)4月27日の「丹波国木前郷長解」(東京大学附属図書館蔵)には、田地売買契約の現地保証人の一人として「摩気神祝部大宅」の名がみえます。これによって木前郷内において摩気神社の祝が有力者の一人とみなされていたことが知られます。

 応永31年(1424)の「丹波国篠村八幡宮造営段銭京済分注文」(醍醐寺文書)に「摩気社七町 分銭五貫六百文」とあるように、篠村八幡宮の造営にあたり課せられた段銭京済分の注文に摩気社がみえます。長享2年(1488)5月17日に翌年の摩気神社の僧坊の頭番次第が定められており(「摩気神社明年僧坊頭番次第」九品寺文書)、船阪の九品寺との関係が知られます。摩気神社の神宮寺の胎金寺は九品寺の末寺でした。

 摩気神社は宝暦11年(1761)12月18日の火災によって焼失し、建造物・記録類は灰燼に帰したものの、園部藩の支援のもと本殿・摂社が明和4年(1764)に、表門は文化5年(1808)に再建されました。明治の廃仏毀釈によって胎金寺が廃寺となった。


お浄め(斎戒)する竹井の役(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)



 口丹波地方には同族集団として認識される「株」という集団があり、概ね共通の先祖を有するとされる擬制的血縁関係の集団です。この株は戸間の本末関係が曖昧な上、非血縁の家も多く含まれ、入株・寄せ株などによって非血縁者が株内に組み込まれていきます(大野2000)

 株はかつて冠婚葬祭において重要な役割を果たしましたが、現在ではそれに関わることもありませんが、株の成員間は、株内であることが常に意識されているといいます。

 摩気神社神幸祭は、まず摩気神社の本殿にて開始されます。9時20分頃に摩気神社が所在する竹井の宮衆3人が上にあがって重箱より米を饌(17個)として本殿に供えます。重箱はふろしきにつつんでもってきますが、供えた後、本殿の上にいる宮衆の二人が空になった重箱をふろしきにつつみます。

 竹井の宮衆は小寺3株・山村株・小越株・神田株の計6株があり、任期は6年となっています。宮衆はそれぞれの株の本家の者が選任されます。宮衆を勤めた者から総代4人が選ばれており、13日午前の祭礼にて「役」と記されるのは総代です。総代・宮衆は当日に紋付きを着用して祭礼に参加するそうです(竹井の総代談)

 現在でこそ、摩気神社には宮司がいて、祭礼の際には竹井の宮衆が関与する形式となっていますが、明治の廃仏毀釈までは宮司をおらず、胎金寺の社僧が摩気神社全体を統轄していました。さらに江戸時代中期頃までは摩気神社には祢宜がいて、祭礼などに関わっていました。とくに明和4年(1767)の摩気神社再建に際しては祢宜を務めていた清八が尽力しましたが、彼の没後、子孫がいなかったため、名跡廃絶が惜しまれて、清八の別家の十軒ほどの家から輪番で宮衆が選出されるようになりました(『丹波船井郡摩気村摩気大明神并末社勤方記録』)


禁足地への拝礼(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

摩気神社での祭礼

 摩気神社の神幸祭は朝からはじまります。まず9時20分頃に本殿に米が供えられます。竹井の宮衆3人が上にあがって重箱より米を饌(17個)に供えます。10時頃に役3人が神衣を着て、禁足地にて手口を「お浄め(斎戒)」し、その後参列者がお清めします。

 10時15分頃、拝殿前に役が横に整列し、祝詞が読み上げられます。


典饌の儀(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 10時20頃、宮司のがみ本殿にて礼拝し、他の役・参列者は拝殿にて礼拝します。宮司は一旦拝殿に戻りますが、再度本殿に上って内陣に入り神体開扉します。その後「典饌の儀」が行われます。役4人が本殿に行き一礼し、1人は神宮遥拝所、1人は神宮遥拝所と摂社の間、1人は本殿と摂社の間、1人は本殿軒の円座に移動します。役4人はバケツリレー式に神饌を神宮遥拝所から本殿に送ります。その後祝詞奏上が行われ、「典饌の儀」と同様の「撤饌の儀」が行われます。 饌は直会の時に社務所で食べますが、鯛は悪くなるため昼食時に社務所で食べるといいます(宮司談)

11時10分頃、「御扉閉鑰の儀」が行われます。宮司は「撤饌の儀」が終わった後は本殿軒に着座していますが、この時本殿に上り、役・参列者全員が起立して御扉閉鑰につき頭を垂れます。その後宮司一拝し、「御神酒の配」が行われます。役2人、神宮遥拝所から「典饌の儀」で捧げた御神酒を出し、1人が神米を出して、机の上に並べます。1人づつ役から御神酒・神米をいただきます。


御神酒の配(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

お旅所への神幸

 13時30分頃に神輿を牽く子ども達が本殿石段前に集まります。宮司が出発前の祓いを行い、本殿を開扉し、祝詞を読み上げ、お祓いします。本殿内に入ってミタマ(御魂)を持って出て、絵馬舎の神輿を開扉してミタマを神輿内に安置します。終わって神輿を閉扉し、神輿を飾り直します。なお近世期には、ミタマを本殿より取り出すのは摩気神社の宮寺の胎金寺の社僧が行ない、これを祢宜に渡し、祢宜が神輿に安置していました(『丹波船井郡摩気村摩気大明神并末社勤方記録』)

 13時50分頃、神輿を絵馬舎より出す準備をします。神輿を絵馬舎より出して人が担いで10m移動して台車に載せ、載せた後神輿を上下に揺らします。神輿一行は摩気神社を出て今井に向け出発します。


ミタマを神輿内に安置する宮司(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)



絵馬舎を出発する神輿(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)



摩気神社を出発した神輿(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

14:37
今井に到着して方向転換。14:40に今井の地蔵橋付近にて休憩。14:46出発。15:00竹井公民館前にて休憩。


今井に向けて進む神輿(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)



竹井の妙楽寺(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

15時30分頃、神輿は下新江の蛭子神社に到着します。神輿を境内の絵馬舎に安置すると、宮司がミタマを神輿より取り出し、蛭子神社本殿の戸を開け、安置して本殿から降り、本殿前に立って祝詞をあげます。終わって再度本殿の上ってミタマを取り出して神輿に安置します。15時43分頃、絵馬舎より神輿を台車に運んで、船阪のお旅所にむかって巡行を再開します。

 「仁江のお宮さん(蛭子神社)は摩気社の分社神を遷す。ミタマは摩気(神社)から出した時は摩気のミタマが、蛭子(神社)に入った時には二神が(ミタマ)に入る。」(宮司談)


蛭子神社(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 蛭子神社は下新江の産土神で「恵比須株」と通称されます。摩気神社の直氏子です。勧請年未詳ですが(『寺社類集』巻之4、丹波国船井郡、下新江村、産神蛭子大明神)、明治16年(1883)の神社明細帳によると、「旧来、摩気神社直氏子ニ候処、年月不分明ニ候得共、信徒ノ望ニヨツテ、当所ヘ新ニ建立仕候由、古老ノ申伝フル所也。」とあります。昭和12年(1937)に神殿・拝殿・上屋を改築し、鳥居を新築しています(『丹波国船井郡神社明細帳』)。なお近世期には宮寺として神崎寺があり、真言宗九品寺末でした。普段の神事は社僧(神崎寺の僧)が務めていました、遷宮(神幸祭)の神事は九品寺の僧が務めていたようです(『丹波船井郡摩気村摩気大明神并末社勤方記録』)。明治の神仏分離の際に廃寺となっています。


蛭子神社絵馬舎に安置した神輿に再度ミタマを安置する宮司(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 蛭子神社を出発した神輿の後ろから船阪氏子が行列に合流します。

 船阪では五組(西段・東段・中嶋段・大門段・上ノ段)の組に分かれており、交代で役につきます。どの組も12〜13人で構成され、13日は一日かけて準備がなされます。お旅所は船阪の担当となっています(かつて船阪宮衆の一人。40歳談)


 神輿一行がお旅所が正面にみえる道路に到ると、神輿を左右に揺らします。お旅所前の道路の向こう側にて神輿を台車から担いで降ろし、道路を横断してお旅所の神輿舎に担いで運びます。それが終わると竹井の総代が担ぎ手に慰労の酒を振る舞います。ここで竹井は解散。

 「ギャラリーがいるところで揺らす。昔は飾りが傷むから揺らしてはいけないといわれた。担いでいた時は声を出していた。」

 「もう農作業では常に担いで仕事することはないから、いくら(担ぐ)人がいたとしても危ない」(昭和18年生、男性談)


お旅所へ向かう神輿(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 「お旅所」は船阪に位置する摩気神社の旅所です。その創始起源は明確ではありませんが、長享2年(1488)5月17日付の「摩気神社明年僧坊頭番次第」(九品寺文書)には「御旅所 中之坊」として、翌年の御旅所の頭番として九品寺の中之坊が定められていることから、少なくとも旅所が中世には存在していたことが確認されます。『寺社類集』(1740)には舟坂村の「摩気大明神御旅所」として示され、覆屋の規模は2間×3間、内3尺の四方の鎮守社があったといいます。境内は8間×12間ですが、ほかに6間×85間の馬場があり、この内畑は1畝15歩(高1斗5合)でした(『寺社類集』巻之4、丹波国船井郡、舟坂村、摩気大明神御旅所)


 祭礼の際には摩気神社と若宮神社の2社の神輿がとも一所に入ってましたが、昭和初期より若宮神社が参加しなくなっており、現在に至っています。


お旅所の神輿舎に神輿を入れる(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

 16時20分頃、仁江の宮衆と仁江の稚児(男役。トラックの荷台に乗ったまま)がお旅所の神輿舎に安置される神輿に拝礼します。神輿舎内の神輿前の宮司にオハケを渡し、宮司は神輿に挿します。船阪の宮衆と稚児が同じく神輿舎に拝礼し、ついで御幣を宮司に渡して下がります。

 仁江の当番は各家の輪番にて選定されます。組は一〜九からなり、隣組のような組織となっています。毎年全体の組が動き、祭礼にはすべての組が何らかの形で関わることになっています(蛭子神社の準備などで)。祭礼は全戸参加が原則となっています(仁江の当番。昭和10年生談)


船阪の宮衆の神輿への拝礼(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)



(参考)若宮神社(平成19年(2007)10月13日、管理人撮影)

深夜の神事 〜献饌と角力〜

 摩気神社神幸祭は二日間かけて行われますが、深夜にも祭礼行事が行われています。日が変わって14日の深夜0時13分、竹井の宮衆が神饌をつくる準備を開始し、宮衆は社務所と手水所で奉仕します。彼ら竹井の宮衆は1時30分頃より社務所にて神饌をつくりますが、つくるようすは他人にはみせないため、詳細は不明です。

 神饌は15膳(13膳説もある)で、手水舎付近の神饌棚にならべます。神饌棚はわら縄と竹でつくる机で、船阪の宮衆によって毎年つくられ、神幸祭が終わると解体されます。神饌は竹井の宮衆がアマツヤエの水で、船阪のお旅所の水でつくったもので、公民館でつくったものを夜の神事の時にもってきます。神饌の米は普通の米ですが、宵宮の時にもってきて当日炊きます。


神饌(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 1時52分、船阪の宮衆10人が神輿に拝礼のち船阪庁に入ります。船阪の宮衆が神饌を、沙汰人が榊をもって神輿の前に立ちます。

 船阪庁はお旅所境内の南西に位置する建物で、北側と東側が解放となっています。ここは船阪の宮衆の拠点であり、その北側には角力の土俵、さらに北側には神輿舎があり、とくに献饌において中核的な役割を果たす機能があります。

 沙汰人は大西1年、宍人2年の交代で選定されており、この年は宍人でした。沙汰人は前日などの準備は一切行わず、祭礼の場にて宮司より口頭にて申し述べる口上・所作を聞き、船阪の宮衆に伝達します。宍人の場合、沙汰人は宮の当番(6人)の中から選ばれ、6軒づつ順番で沙汰人が選ばれます(この年の沙汰人談。昭和25年生男性)

 2時頃、沙汰人が篝火の前の人達に挨拶します。宮司が榊でお祓いをし、船阪庁、ついで篝火の人達もお祓いします。この後、献饌が行われます。

 献饌は船阪2人が典供者となり、榊を口にくわえながら御神酒を宮司に渡します。榊は献饌する時に息をかけないために口にくわえるものとされています(竹井の総代談。神幸祭は50年間携わる。昭和7年生男性)。次に船阪2人が神饌を2つづつ、順番に宮司に渡します。神饌を宮司から受け取り下げ、下げた神饌は船阪庁に安置します。船阪の宮衆2人が神輿前に手ぶらで再度進み出て、神饌を宮司より受け取り、船阪庁に安置します。

 宮司が神饌所から出て、沙汰人とともに船阪庁前に行き、船阪の宮衆から順に御神酒を貰い、柿を食べます。終わって宮司と沙汰人はもとの位置に戻ります。

 次に船阪の宮衆は船阪庁に2人残して、8人が草履を履かず足袋のみで鳥居に向かって1m間隔で縦2列に整列し、神饌をバケツリレー式に神輿所方向に渡し、先頭になった2人が神輿前に進み出て宮司に渡し、整列位置に戻ります。別の神饌も同様の手順で2つづつ運びます。神饌棚には竹井の宮衆が4人います。終わって船阪の宮衆8人が船阪庁に戻ります。


船阪庁に入る船阪の宮衆(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)



神輿に献饌する船阪の宮衆(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 2時30分に宮司が祝詞を奏上します。その後、沙汰人が「ではおろし。これより角力(すもう)を執り行います」といい、腰に篭をつけ、ざると刀をもって土俵内を川にみたてて反時計回りにまわり、「おったー」といって泥鰌をとったふりをします。この最中、周囲が「そこに大きいのがいる」と囃しています。最後に神輿の前で一礼します。


角力を行う沙汰人(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 次に竹井の宮衆による「竹井練り」が行われます。裸褌姿で篭を腰につけるというように、格好こそ違いますが、沙汰人と同様の所作をします。


竹井練り(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 次に「半田練り」が行われます。沙汰人が「半田待ち角力、竹井出角力」といい、刀をもった船阪の宮衆1人が行司となります。半田の宮衆と竹井の宮衆の2人が土俵内に入り、「待ち角力」側がわざと負けます。以上の要領にて、「仁江待ち角力、竹井出角力」(2度行う)、「竹井待ち角力、仁江出角力」(1度)、「宍人待ち角力、竹井出角力」を行います。


半田練り(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 次に「船阪半角力」が行われます。船阪の宮衆が一人で相手がいるとみなして行い、わざと大袈裟に負けます。これは神と角力をとっているとみなされるためです。その後「大西待角力、船阪出角力」を行います。

 次に「竹井練り」が行われます。これは沙汰人の所作と同じもので、裸褌姿で泥鰌をとる演技を行います。その後に行われる「半田練り」も同様です。

 3時頃、船阪の宮衆が神輿の前に出て二拍二礼して角力が終了します。


船阪半角力(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

14日の祭礼 〜献饌・お千度・還幸〜

 日が昇ってから神幸祭は、お旅所での献饌・お千度が行われます。14時45分、仁江の宮衆がお旅所の神輿舎にて二礼二拍一拝し、ついで船阪の宮衆と稚児が二礼二拍一拝し、オハケと俵2個を両手に捧げ持って宮司に渡します。船阪の宮衆は船阪庁に入ります。

 15時頃、沙汰人が榊で神輿を祓い、のち船阪庁、参詣者を祓います。船阪の宮衆が神饌を宮司に渡します。宮司は神輿前にて神饌をそそぐ真似を行います。おわって宮司・沙汰人は船阪庁に出向き、御神酒・肴(柿)をもらいます。この時、沙汰人は榊を船阪庁に一旦置きます。船阪庁の船阪の宮衆1人は座っている位置より一歩下がって榊の置き場をつくり、沙汰人が榊を持ち、御神酒・肴(柿)を受け取り終わると、船阪は座っていた位置に戻ります。

 船阪の宮衆が石畳上に夜と同じ要領で整列して献饌します。神饌は神輿に供した後、宮司は次の神饌が船阪の宮衆2人よりもたらされるまでに神饌所に待機する竹井の宮衆1人に神饌を渡し、宮衆は神饌を受け取って神饌所に安置します。終わって船阪の宮衆は船阪庁に戻ります。沙汰人は「祝詞奏上」といい、宮司は祝詞を行い、終わって宮司は二拍二礼します。


神饌(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)



神輿に献饌する船阪の宮衆(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 15時30分、沙汰人が「これよりお千度参りを致します。」といい、沙汰人を先頭に仁江が続き、神饌所の周囲を廻ります。牛2頭(1頭につき2人が演じる)が加わり、牛の中に入っている人は構造上前をみることができないため、牽人が誘導します。

 牛が祭礼で牽かれることについて、『吉祥山縁起回録書記再建之記録』(1768)に「大師(弘法大師)、九品寺より奥の院え詣て鎮守勧請まします事、村民伝聞通すから、追々供奉し奉る、頃しも五月、田植の最中にて、農人鋤鍬を持、牛を引なから御供申奉るよしに、今至留まて、御旅所にて鋤鍬をもち牛を引、高祭儀とせり。」という由緒を伝えています。


お千度参り(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)



お千度参り(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 お千度の次は稚児による的ぐり(流鏑馬)が行われます。15時40分、御幣と的ぐりを仁江・船阪の順で行います。稚児が軽トラックの荷台(馬の代わりか)に乗って登場、降りて三脚椅子に座ります。宮司がオハケを仁江の宮衆1人に渡します。仁江はオハケを両手で捧げ持ったまま稚児の後ろに頭からくぐり回し、戻して稚児に捧げます。稚児はお祓いをして、オハケの尾部を叩きつけるように勢いよく地面に置きます。そのオハケを稚児は仁江の宮衆に渡し、そのまま宮司に戻されます。この所作は二度繰り返されます。


船阪の御幣(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 木馬を石畳道に設置し、稚児は上に跨がります。稚児は馬上にて弓を受け取り、的に矢を2度射ます。射た矢は拾って弓箭に戻します。終わると稚児は軽トラックに乗って退出します。ついで船阪も同様に行います。ただし烏帽子をかぶらず(背が高かったため)、馬に乗る時に烏帽子をかぶりました。終わって沙汰人は「それでは出発前の祝詞奏上」といい、宮司が祝詞を奏上します。

 16時20分、沙汰人は「これをもちまして神事を終わります」とのべて、お旅所での神事を宣言します。神輿が摩気神社に還御するため、神輿が神輿舎より出されて担がれて台車に運ばれます。


仁江の的ぐり(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)



お旅所を出発する神輿(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 16時45分、神輿は蛭子神社前を通過します。14日に蛭子神社より神輿に入れられたオタマは、「蛭子神社のオタマは戻さず、摩気神社の本殿に一緒に入れる」(宮司談)と解されています。道で停止して上下に揺らし、そのまま通り過ぎてしまいます。

 神崎橋で仁江と神輿一行は別れますが、一礼程度であっさりと別れます。


神輿と別れる仁江の宮衆(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)

 17時18分、神輿が摩気神社に到着します。拝殿の周囲を担いで反時計回りに一周して、拝殿前で上下に揺らします。その後、神輿を拝殿前に安置し、宮司はミタマを取り出して拝殿中央を通過して本殿に行き、本殿内に入りミタマを安置します。おわって神輿を神輿舎に納めて、すべての神事が終了します。


[参考文献]
・『船井郡誌』(船井郡教育会、1915年11月)
・『丹波地区民俗資料調査報告書』(京都府教育委員会、1965年3月)
・吉田清「摩気神社関係資料」(『丹波(国史と民俗)』5、1973年)
・『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』(京都府文化財保護基金、1980年)
・式内社研究会編纂『式内社調査報告18 山陰道』(皇學館大學出版部、1984年)
・大野啓「同族集団の構造と社会的機能-口丹波の株を事例に-」(『日本民俗学』221、2000年2月)
・大野啓「口丹波における同族集団の構造と結合の論理-京都府船井郡園部町竹井の場合」(『仏教大学大学院紀要』29、2001年3月)
・吉田清監修『園部町史通史編 図説園部の歴史』(園部町・園部町教育委員会、2005年12月)


摩気神社拝殿前で拝殿前で上下に揺らされる神輿(平成19年(2007)10月14日、管理人撮影)



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